Flavor Of Life 3

 どうでもいいことかもだけど。"Flavor Of Life"という変な英語がネイティブにどう響くのか。ヒッキーの場合、ネイティブの語感があってわざとやっているのだろうけど。
 Matter of Lifeではないけど、命に関わる、とか、余命とか、生存、とかいう感じ、なので、生きているっていう味わい、というのが近いか。
 ほいで、当然、このテーマが詩で日本語に展開されるのだが、該当するのは、たぶん、

忘れかけてた人の香りを
突然思い出す頃
降り積もる雪の白さをもっと
素直に喜びたいよ

 つうわけで、"Flavor Of Life"というのは、かなりたぶん、「人の香り」なんだろう。
 で、「人の香り」ってなにか? まあ、こりゃ野暮の領域になってくるわけだが。
 ここで、それがなぜ雪の白さと結びつくのか?
 またも野暮なんだが、「降り積もる雪の白さ」を喜べない「私」というのがある。そしてそうした「私」を告知するのが、「人の香り」。
 で、また、その「私」位置というのは、

友達でも恋人でもない中間地点で
収穫の時を夢見てる青いフルーツ
 
あと一歩が踏み出せないせいで
じれったいの何のってBaby

 中間地点であり、じれったさでもある。
 ただ、この詩の奇妙さというか、は、友達から恋人へというベクターではなさげ。つまり、恋人でフルーツが熟れるというふうな簡単な構図でもない。たぶん、そのじれったさ、切なさ、そういうものが、「人の香り」なのだろうし、「淡くほろ苦い」ものだし、その切なさの響きのようなものが曲と深淵を覆っている。
 いわゆる文学論的にいうと、「降り積もる雪の白さをもっと素直に喜びたいよ」は彼女の母であり祖母を暗喩しているし、そこに繋がる人の香りを暗喩しているとは言える。ただ、そう詩を見ていくのは、ちょっと方法論的に違う。
 切なさに戻ると、この切なさの存在の感覚から「人の香り」なのだが、どうも、それもそういう洗練ではなく、もっと、おむすび的なものに関係しているのだろう。
 それらがすべて歌になるとき、彼女としては、それが人に分け与えたいおむすびなんだろうと思う。
 ちょっと出過ぎた言い方をすると、すでに救いや救済の情感が切迫しているなかにそれが恋のように出現してくる何かだ。