finalventの日記

2007-03-05

でも、ごく僅かに

 ⇒鏡に映らない女たち、リサ・ノワクと三橋歌織 (セックスなんてくそくらえ)

 noon75さんはブログを止めたのかと思っていたので、へぇと思った。

女でありながらこの欠損を理解することは困難であるということを、けして頭も悪くはなかっただろうと思われるこの二人の女たちは、示唆しているように思える。女はよく鏡を見る。だがそこには何も映ってはいない。

 私はそれは欠損でもないし、鏡に何も映ってないとも思わない。

 同じ話題は⇒極東ブログ: ゴシップ的な米国発の女性ニュース二つ

 というわけで、私の扱いは限りなく薄い。

 薄いけど、まあ、言いたいことは言ってあるので、おしまい。

 露骨に書いてもいいのかもしれないけど、なんかしない。増田にも書かない。

 でも、ごく僅かに。

cover
樹下の家族: 干刈 あがた

 美智子さん、その朝<今が大事なとき。今日は行かなければならない>と言って出かけて言ったという美智子さん。私はどこに行けばいいのでしょうか。

 いいえ、私はわかっているのです。女は、私は、全身女になって、<おねがい、あなた、私を見て。私が欲しいのは、あなたなの>と叫べばいいのです。美智子さん、私の前にもう一度、そう叫ぶ知恵と勇気のブルー・フラッグをはためかせてください。

 私は心情的には団塊世代にあると言えるので、なんど読んでも、ここで泣く。

 ⇒樺美智子 - Wikipedia

樺 美智子(かんば みちこ、1937年11月8日 - 1960年6月15日)は、1960年の安保当時、東京大学文学部学生であり、安保闘争で死亡した最初の大学生。

 ⇒干刈あがた - Wikipedia

干刈あがた(ひかりあがた, 1943年1月25日-1992年9月6日)は、日本の小説家東京都出身。全共闘世代の女性の青春と、結婚、離婚、子育てなど、社会や家族との関わりについて、鋭い同時代性を持って描き、読者の大きな共感を得た。また、両親の出身地である奄美諸島の郷土史研究家でもあった。約10年ほどの作家生活の後、49歳で夭逝。

牛過窓櫺

 無門関 第三十八則 牛過窓櫺というのがある。

五祖云く、譬えば水こ牛の窓櫺を過ぐるが如き、頭角四蹄都べて過ぎ了るに、甚麼としてか尾巴過ぐることを得ざる。

 漢文的には二つの分かれる解釈があったかと思うが、通常は、「水牛が格子窓を通り過ぎるようなものだ。頭も角も足も4本全て通り過ぎたのに、なぜ尻尾だけが通り過ぎることが出来ないのか」 ということ。二解は格子戸の隙間ではなく格子戸の向こうとするのだったのか。

 ただ、禅味としては、格子戸の細い格子を水牛がすり抜けたのに、尻尾が抜けない、としてよいのだろう。

 なぜか?

 ということで公案の難問中の難問。

 私はこれは、昨日だったか書いた、人は己を知ることができない、というアポリアとして受け取った。己の尻尾、欠点、隠された欲望、そうしたものは、他人からは水牛の尻尾のように丸見えで、しかもそこだけが人生のひっかかりになって、生きがたくもがかせている。

 人は頭でなんとかなる難関は水牛が格子を抜けるようにやりおおせることができるが、その欠点だけを抜けることはできない。

 私はこの問いは、そこを、尻尾を抜けようとしている、人の愚かさを知ることがまず前提なのだろうと思う。

 尻尾は、思索しても、抜けない。

 もっとも、では抜ける方策はと当然なる。

 で、この答えは、いわゆる書かれた言葉してはないだろうし、およそ、抜け出ることもないだろう。

 にも関わらず、この尻尾にある程度踏ん切りというかを付けなくてならない、そのあたりが、禅に問われていることだろ。

 あえて踏み込むと、それは運命というか天命というかそういうものがその人に与えた苦しみや悲しみといったものではないかと思う。人の心はそれに抵抗して自我を形成するから、尻尾ができる。

 でも、その尻尾こそがその人がそのポジションに存在する意味でもあるのだろうし、魚は池にいてその尽きるところを知らずとなるのだろう。

34歳の踏ん切り

 まいどこんなことばかり書いているのでなんだが、ちとあるエントリを1つ2つ、それといただいたコメントを読みつつ、思った。34歳の踏ん切り。

 34歳というのは自分の思い入れなんで特に説得力はないだろう。ついでにいうと、人がかろうじて自立というか自分たりえるのは27歳。もちろん、男女差や人によって違うのは当然として。

 いわゆる「失われた世代」については、率直に言ってよくわからない面がある。この15年くらい日本の景気が普通に順調ならきちんと雇用され家庭ももてただろう人は、数として推定すれば少なからずだろう。そして、日本の経済の舵取りは間違っていたと言っていいのだろう。まあ、それはそうだろう。

 ただ、済んだことは済んだことだ、ということと、人は自身の立場に立つと数として生きるわけではなく自分で生きるしかない。運命というか不運というものはある。他人の幸運がうらやましくも思うし、なぜ私が不運と社会に怨嗟の声を上げたくなる。それもそうだろう。

 ただ、人は自分一人で死んでいくものだ、とまで割り切れるものでもないが、どこかで他人の生き方を了解しつつも、踏ん切っていかなくてはならないときがある。ま、それが34歳ではないかな、と。

 一流企業に勤めていてもやっていけない、あるいは不運が本質を暴露してしまう。あるいは離婚して途方に暮れる。そうしたものは、私の人生経験では、あらかた34歳で一応在庫整理になるみたいだと思う。

 他人の生き方は他人の生き方である。もちろん、それを理解し、評価してないと社会には生きられないのだが、そういう人生から内面は降りてしまってもいいのだろうというか、いったん降りてみるしかないことはある。

 そうしたとき、誰かあるいは運命みたいのに、背中をドンと押されるとわかることもあるし、大病しちゃうこともある。

 個人的には世界の果てに立ってみるといいかなとは思う。もちろん、自分でそこが世界の果てだと思うところでいい。少なくとも、そこでこっそり死んでも一ヶ月くらい誰も知らないあるいは永遠に知られないようなところなら。私の場合は、それはたいていは海だった。断崖絶壁。ああ、死んでもいいんだな、そして人という存在はけっこう気の迷いで死んでしまうものだな、そして今死なないのはそれでも死が怖いことやいろいろな思いがかろうじてあるからだろうな。夕飯にはまたあのカルボナーラを食いたいなとか。

 断崖からとぼとぼと長い田舎道を引き返し、石造りの街に入るとき、灰色のシスターが前を歩いていた。なんとなくシスターの歩きぶりに関心を向けていたのだが、ふと路地を曲がった。あのシスターはどこへ行くのだろうと思った。人がこの世界に生きているのだなと妙に思った。奇妙な映像のような光景だった。

 ま。

 とはいえ、人によっては踏ん切りなんてものもなく、すいすいと生きていくこともある。人の生き様はいろいろなので、あまりこうしたことは言えたもんじゃないのだけど。

ネットをやっていると理解しづらい憎悪を向けられることがある

 わかるようでもありなぜだろうと思うこともある。

 お前だってそうだろとか言われそうでもある。たとえば、私がきっこを憎悪していると思っている人だっているだろう。誤解だよといっても通じないのでその件は突っ込まない。また、お前は旧左翼労組を憎悪しているだろうと言われるなら、そうかもしれない。なので、そのあたりのイデオロギー信奉者から憎悪されるのは宇宙の均衡というものかもしれない。ただ、なんかずれているんだけどな。

 ただ、総じて見ると、憎悪の理由がわかり憎いことはあまりない。少し考えるとだいたいわかる。というか、いくつかの理路で考えると単純な結論がでるけど、そんな単純なことで憎悪されているのかと不審に思うことは多い。たとえば、私はブログアフィリエイトを使っているがそんなことで憎悪感を向けられることがある。まさかぁと思うけどどうもそうみたいかなと思うとき、ちょっと唖然とする。また、私が南京虐殺否定論者だあるいは本心ではそうに違いなとして右翼だと憎悪されるされることがある。まあ、そのかたのほうが私の本心を知っていらっしゃるのは20世紀の左翼の残虐史を考えれば当たり前なんだけど。また、お前なんか馬鹿馬鹿とか言ってくれる人がいるが、私は馬鹿なのになにを勘違いされているのだろう。というか、どっかで私が頭よいと思っていらっしゃるのか。

 しかし、そうはいっても、憎悪は愛情と類型のものである。

 とすれば、お前の左翼嫌いは旧左翼が好きなのかと言えば、そうだよ。私は、戦後民主主義のなかできちんと生きてきた。ただ頭が悪いので検証しつつそうなっただけのことだ、というのはある。

朝日社説 株主パワー 対話なき経営は失格だ

 外資の攻勢に神経をとがらせ、買収防衛策や経営統合などに走る経営者は増えている。だが、株主への気配りを怠れば手痛いしっぺ返しが待っている。そのことを忘れてはならない。

 と言いつつ、三角合併、というタームは出さない、と。

synonymoussynonymous 2007/03/05 13:41 『憎悪の理由がわかり憎い』憎という字が溢れた文章なので、思わずスルーしかけてしまいました。

Marco11Marco11 2007/03/05 14:09 素敵ですねえ、やっぱ誤解はもったいなさ過ぎですしね。個人の心情や経験といった情報を知って貰えば理解が得られる問題は、ある意味完全に無駄ですからね。誤解に基づいた感情や行動に意義を見いだせるのはまさにいと高きところのアレしかないはずですよねw。
で、端で見てるとおぞましいほど嫉妬されてますしねfinalventさんてw。頭良いのは頭悪いのと同様に宿命なのに、かわいそうですよ><。あとまあ幸せなオンライン人格でいたければ、アルファブロガーとかああいう賞とか格付けは辞退がいいのかもしれませんねw。なんというか完全に清潔な人格というのはオンラインにおいても強そうですよね、社会人には不可能ですが、社会の外の人ならできるだろうが、とか思いますけどね。社会の中にいますもんね我々。いますよね?w。
だってここでなんか書くことを売名何とかだとかいう人がいる掲示板があって、それがお約束として定着して、恐がりがネタとしてはてなにフィードバックしてくるくらいですからね。まあなんというかでもそれもひとつのある価値基準に従えば必然といえなくもないからなあとも。でもファンの数とか競いたかったらミクシ行けよって、つい最近後から来た分際で思うw。
変な話、アフィリエイト収入をなんだか知らないけど公開義務ってことにして、アクセスカウンターは任意だがアフィリエイトカウンターは国税局が直接管理し公開させるってことになったら、解決する無駄な感情ってのもありそう。増大する憎悪ってのもあるだろうけど。すごく取り留めなくてすいません。スキがないと駄目なんですよ。わりとスキあるんですけどねw。スキの出し方が下手過ぎw。でも天然なんでしょうしねきっとw。でも絶対良くなりますよ、最近きちんといろいろ見せてますよね。故に衝突とかいろいろキツい局面はでてきますよね。でももう春ですよ、なんかすごい嵐ですけど東京はw。

fullburnianfullburnian 2007/03/05 15:42 >頭良いのは頭悪いのと同様に宿命
たしかにfinalventさんは天才ですね。
思考の射程距離が我々凡人とは差がありすぎます。
先天的なものを感じます。
このことがfinalventさんご本人にとって幸福なのか不幸なのか。
宿命としか言いようがないですね。

finalventfinalvent 2007/03/05 17:45 synonymousさん、ども。ええ、こんな話題はスルーすべきかもでした。

finalventfinalvent 2007/03/05 17:47
Marco11さん、ども。坑内カナリアではないけど、ブロガーとしてはどう生存するかという実験台でもいいのかな、自分はと思うところがあります。先日あのタフそうな闇黒さんもネットシーンから消えてしまい。さすがに思うことはありました。最終的にはブログでなくてもいいけど、うまくいろんな人の声が反映できそれなりの経済が回る仕組みができればいいと思うのですよね。誰かがやんなきゃいけないと思う誰かの一人として、ま、どこまで続くやらです。

finalventfinalvent 2007/03/05 17:49 fullburnianさん、ども。天才云々ですが、天才と言われた人の内面を想定して思ったことがあるのですが、どうも自分の外部からのメッセージやインスピレーションをどう受け取るかというのが大きな要因のように思います。それが非社会的ならただの”電波”なのでしょうね。私の場合は、抑制しているけど、ただの電波の部類だろうと思います。

sk-44sk-44 2007/03/05 17:53 世界の果ては、大都市東京の片隅の窮屈な六畳間にも常に存在します。そこらじゅうの六畳間に三畳間にワンルームに、あるいはネットカフェに、在る。私もまた、かつて物理的なる世界の果てに立たんとして、海を含めて幾度もひとり彷徨し旅しました。経済的にも国内でしたが。いま思うに、私にとっては世界の果てなど物質的な条件とは関係なく、自らの内に居座る空――ムナシイというリアリティとその作用反作用でしかなかった。豊饒なる海としての空虚。孤独と言ってしまえばオシマイの。

世界の果てを抱えて、擬似的な社会と折り合いをつけて日々をやり過ごしている。内面というか内心は、降りっ放しです、最初から。内心に真実があるとは、私は考えませんし、内心に対して実在感すら覚えることはありませんが、実在感なきという、ある種のリアリティは明確に所在している。実在として決して届き得ない原風景としての記憶に在る、世界の果ての風景を反芻することによって形成されるリアリティ。あくまで私自身の話ですが――万事に亘る意識家の常といえ、自家中毒という気もします、大いに。内なる世界の果ての風景を意識し確認し続ける人間は、世界の果ての風景を愛しそれに執着している人間でもある。

私に限ったことではなく、同世代の友人知人連中は、多くそのように社会的に偽装して凡凡に生きている。卑賤とされた趣味に生きる人が抱える孤独が共鳴し合ったとき、オタクという同胞感情的なコミュニティは形成されました。原初の孤独など、いわゆる特別な人間に限ったことではなく、解消されることはないし、内心に存する孤独というのは、孤独という紋切型によって言挙げたなら一種の疎外論にしかならない。孤独が解消される状態を想定すること自体が、錯誤であり陥穽であると、どうしても私は考えてしまう、あくまで、自らについて、です。孤独という言葉を発明して、人は孤独になった、中島らも氏が『永遠も半ばを過ぎて』にて記していました。

宇多田氏の件、長らく歌詞に目を通していれば一目瞭然の結果であり、それはまた、察し得る「結婚」という型を選択した理由でもありました。人間はひとりで生きてひとりで死ぬんです、とハタチそこそこの頃から口癖のように繰り返していた長年の親友がおりまして、聞かされていた同年代の私は、何を言って栓なきアタリマエのことを改めて口にしておるのかこの男は、と思っていたものです。その理由も、今ならわかります。私のマザコン話と色キチ話と悪い女に惚れちまったぜ話を始終聞かされてうんざりしていたせいもあることでしょうが。そいつはというと、現在恋人と仲良く暮らしています。世界の果ての風景を、相も変わらず見据えて。

一方的な自分語りポエムを長文にて記してしまい、申し訳ありません。失礼しました。一種の誤読であることは承知です。20代後半が反射的にかつ連想的に綴ってしまいました。

――私は、死ぬ理由も甲斐性もいまのところはないので、とりあえず生きています。比喩的な意味で、他人に借金を返しつつ、時には金を貸したりもしつつ。決算期において、帳尻が合ったなら稀なる僥倖。私という因果な男にとっては、多く実際の女によって喚起され象徴される、万人が抱える、生と生ゆえの病にたまさかときめいたりもしている限りは、どうにか。

finalventfinalvent 2007/03/05 18:16 sk-44さん、ども。以前この日記に書いたのですが、自分がもしかすると他の人と変わっているのかもしれないけど、心は25歳くらいで意外とそれ以上は老いないのだと思います。ただ、身体は老いていくし、25歳だった時の世界はもう二度と再現されないのに取り残されている……その残された感覚が老いと近似だといってもいいし、あと、なんというのか死者を背負いだしていることはかなり老いに近いです。ああ、性欲のありかたは変わるのでそれはかなりべたに老いですね。変なもの言いなんですが、おそらく若い人が思っている老いと実際に老い始める実感には奇妙なずれがあります。はてなで言うと失笑を買うのでしょうが、私など今年でようやく50歳という、ようやく感もまたあります。ある意味でなにも解決しないのですが、それはそれなりに解決しようという踏ん切りみたいな何かがあるしとま、そんなことを思いました。(性の問題は老いと関係したとき、またなんとも奇っ怪な局面はありそうですが。)

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