小林秀雄の読み方
いわゆる近代批評の部分確立した小林秀雄というのは「モーツアルト」で終わりなんですよ。
あるいはその延長というか。「ゴッホの手紙」とかけっこうどうでもいい。
その意味ではこれが必読ですよ。
小林秀雄: 江藤 淳 |
ただ、江藤のこの作品は、作品としてみると、けっこうとほほ。
この問題はこれとも関連。
これ⇒極東ブログ: [書評]中原中也との愛 ゆきてかへらぬ(長谷川泰子・村上護)
で。
と、ちょっとウィキペディアを見たら苦笑⇒小林秀雄 (批評家) - Wikipedia
小林秀雄の真価はむしろ、ドストエフスキイ論から始まる。
これね⇒「 ドストエフスキイの生活: 本: 小林 秀雄」
これがどのくらいすごい問題を秘めていたかというのは、これが必読。
小林秀雄の流儀: 山本 七平 |
で、端的にいうと、小林の課題はキリスト教なんですよ。正宗白鳥に取り憑かれていたといってもいい。ただ、このキリスト教とは何かがとてもやっかい。いわゆる信仰ではない。歴史というか進化というかそういうちょっと気持ち悪い何か。
山本はその後の小林を理解しない。というか、わかっていて、「本居宣長」を避けたかったのがミエミエ。
小林秀雄の仕事はそしてすべて「本居宣長」に結集する。
のだけど、その前に、ベルクソン論があり、これがすげー難物。
ただ、しいて「本居宣長」にバイパスするなら、これがかなりよく書けている。
世界という背理―小林秀雄と吉本隆明: 竹田 青嗣 |
まとめると、ドストエフスキー論とベルクソン論の失敗、失敗と言っていいでしょう、その必然がどう「本居宣長」に繋がったかという部分が見えないと、小林秀雄論にならない。
ああ、ちょっと放言的にいうと、小林は、歴史の必然性・悲劇性が終末論的な構造(つまりキリスト教)的な超越の構造を持つのはなぜか、それを人の生活・言語活動がどのようにそこの必然的に流れ込むのかという問いを持っていた。そして、その問いの最後のぎりぎりのところで、言葉が生み出す歴史の必然性のなかで、最後に個を、その死の隔絶性よって救い出すところにある。つまり、個の死の絶対性という悲劇性のなかで、すべての予定調和的な神学を拒絶しながら倫理を打ち立てようとしたところにある。