まあ、ちょっと

 のっけからまた変なことを言うと、いわゆる仏教というのは、アフガニスタンあたりでできたゾロアスター教かなんかの変種だろうと思いますよ。でも、そんなことを書くとうじゃっと批判されるけど、っていうか、そんな批判はお見通しでトンデモな考えを持つに至ったのだけど。
 というか、なぜか仏教とかにうるさいみなさん、仏陀が実在だと思っているし、実在にしたにせよその仏陀の悟りとか覚醒みたいのが仏教の本質に継承されているみたいに思っているし、そしてそのために、原始仏教みたいな理論仮説を作ったり、教義を再構築してみたり。でも、それは近代の知によって可能となった、宗教学の仮説であって、そうしてできた教義はただの新興宗教なのに。というか、根本仏教だの近代擬古でできたのはそんなもの。で、そのかなりが実は神智学からできていたりする。まあ、勝手にしろというか、そこまでして「真の仏教が欲しいですか、そうですか」の領域なのだが(つうか、仏教なんかどうでもよろし、仏道あるのみ)。
 で、それはさておき。
 アフガンあたりで発生した本当の仏教の特徴に、捨身というのがある。あれがなんだろねと思っていた。今でも思っているが、最近、ふと、ブログというか日記との関わりで、思うことがあって。
 というか、最近泳ぎながら、ああ、自分は魚だ、鳥だ、みたいな感覚が身体に、蘇るみたいに覚醒されると、その原初的な知覚が何かを志向しているぽくも思える。
 で、ブログとか日記とかで、自分は無だ、無意味だと語るわけだけど、それって一種の普通のプロセスというか、捨身のプロセスのようなものかもしれない、というかそれと、自分は魚だ、鳥だ、みたいな感覚と奇妙に通底しているっぽい。