読売社説 農地制度改革 規模拡大の足かせを取り除け

 これは理念として考えるとそうなる。
 でも実際はうまくいかない。
 農産物という視点で見ると、何を作ってどう市場に送るかというマーケティングが実は一番欠落するからなとも思う。という先にいろいろ思うが、現実的には手が付けられない。

朝日社説 残留孤児支援―拉致被害者と同じように

 こういう問題にコメントしづらくなったな。

 残留孤児らは、いま受け取っている約2万2000円の年金を除いて、1人あたり月17万円の支給を求めている。配偶者がいる場合は7万円を加算してもらいたいという。
 これは同じ世代の日本人の平均消費支出のほか、北朝鮮による拉致被害者への給付金をもとにしたものだ。

晴れ、見上げると薄曇り

 日曜日の朝か。ぼんやりと昨晩仕込んだタネでワッフルを焼いて朝食。
 頭がぼーっとするというほどでもないけが、ややぼーっとするかな。昨晩のビールは小瓶一本(エール)。酒が残る感じはないが。ヒッキーの曲をがんがんと耳にならして、起きる。水泳の疲れは全身にあるようだが、それほどでもない。
 若いときは目が覚めるとすべて一瞬忘れるくらい寝ていることがあった。あんなふうにはもうならないのだろうと思うし、若さの身体を再獲得することもないだろうが、僅かに身体の若さというかそんな感じの身体らしさをふと感じた。
 そういえば、昨晩ビールを飲みながら(ある種のいらだちがあったが)、ひとりぼっちで枯れ野を歩いていく自分の背を思った。実際、長いことそうして歩いていた時期があった。今ではちょっとそこまでではないし、この奇妙な孤独感に何かしら欺瞞があるようには思う。
 このところ、なんとなく見知らぬ年寄りと街中でなにげなく話すことがある。年寄りといっても私より10歳上くらいだから年寄りというほどではないが。それでも庶民の人生というのをかいま見ることは多いな。というか、人の人生っていうのはいろいろあるものだ。

はてなQより ホームベーカリーを買うと生地をこねたりするのが楽かなあ

 ⇒変わった料理(似非創作料理)を作るのが好きなのですが、 自作パン作りも時々するのですが、 ホームベーカリーを買うと生地をこねたりするのが楽かなあと思ってます。 そ.. - 人力検索はてな
 回答。楽です。具材入りもOK。
 このベーカリーマシンはシンプルでよい⇒極東ブログ: ナンのいい加減な作り方
 おまけ⇒極東ブログ: バタールでござる
 あれからフランスパン作りは少し腕を上げた。

書くというか生きるというか痛いというか

 新潮45に掲載されている中村うさぎの話を読んでいて、本人も痛いなばばあだ自分、と思っているのはわかるが、ちょっとそういう痛さとは違った痛さを感じた。彼女は私と同学年である。同じ時代をきちんと生きてきたし、彼女の、ちょっと軽く書かれたものや息づかいにも実は時代性を私は感じることができる。そして、30歳以降の空虚感もよくわかる。いや自分なりにわかるというべきか。
 ちょっとアレな言い方だが、私は、ふっと夢のなかであるいは無意識に、岸本葉子のような奥さんがいるように感じることがある。彼女のファンだからという妄想みたいなものかもしれないが別に彼女でなくてもいい。3、4歳下の知的で痩せた奥さんみたいな女性。私が若い頃人生にこけず、そのまま商社とかメーカーとかに就職していたら、そうであったようなご夫婦。もっとも、私にはそういう人生はなかったのだが、その岐路みたいのを満帆で歩む別の世界のもう一人の自分がいるような気が少しする。その幻想には彼女ような和風で痩せた奥さんみたいな妻がいて大学生の息子でもいそうな。もちろん、そんなことはない。岸本葉子にしてもそうした人生は歩まなかった。先日日経Womanで彼女の学生時代の恋愛の話を読んだ。まあ、いろいろあったのだろう。
 中村うさぎのように同年代の女性が妻にいるという幻想みたいのは、私にはない。私は同年に近い女性がはっきり言って恐い。いろいろ理由はある。省略。それでも同年の女たちに関心がないわけではない。彼女たちがどう生きてきたのか気になる。プールなどで少し老けた女がいるとついちろちろと見て50歳くらいだろうかと思う。もし、私に同年の妻がいたら、それなりに若造からは婆と呼ばれる肉体にはなっているころだ。
 中村うさぎは、整形もしたし、胸になんか入れたりもした。そうしなくても、それほどブスというほどの女性ではない。ある種のナチュラリティを体得したら、ござっぱりとした老いの姿ができたのかもしれないとも思う。オイリュトミー関係の人々が持っているさらっとした老いの姿のようなものを獲得できないわけでもなかったのだろう……と言いながら、やはり無理だろうか。
 新潮45の彼女エッセイのなかで、27の男がおセックスしてくれて、というくだりで、中折れせず射精までしてくれていとおしいみたいな話があり、ああ、女というものはそういうものかとも思った。ネットの文章でいえば釣られているといったものだろうが、同い歳の男としてかわいそうというのでもないが痛いような感じはした。もうちょっと下品に言えば、まあ、彼女からして私など好みの男でもないだろうが、50歳の男が50歳の女に中折れせず射精までできるだろうか。もうちょっと言うと、俺はやるよと言いたい思いがふとわいた。そのくらい愛してやるよとも。ただ、実際にそうできるかはわからない。逆に27の女に対して中折れせず射精までというとそれもどうだかわからない。ちょっとお下品な話になってしまったし、そういう性関係を持ちたいという願望でもない。はてなみたいに若い人の多いコミュニティ化した言論の空間だと、おセックスなどもまだそういう中折れしないか射精までできたかみたいなのはただの老いのようにしか見えないだろう。だが、そこに案外男の生き様というか男の生き方があると思う。
 男の生き方というは、もちろん、私なんぞが言わなくても私くらいの年齢のゴロ男とかがぶいぶい吹いてくれるだろうが、30、40の女を抱くとかそうした女の幻影をもった女を語ることではない。中村うさぎのような50の女を抱けるかという、彼女に失礼な言い方になってはいけないが、そのあたりが問われる。もっとも女にしてもそういう側面はあるだろう。
 ⇒極東ブログ: [書評]「快楽 ― 更年期からの性を生きる」(工藤美代子)
 ⇒finalventの日記 - カラスが賢いと言えば
 団塊の世代はある意味では、言い方はわるいが、全員一種の新興宗教青春恋愛教団みたいなところがあるし、そうした青春恋愛の一種の新興宗教的な情熱が実は西洋近代的な個人の意識と同型であるのだろう。
 私の世代、つまり、今年50歳になる世代からは、もうそういう個人はいない。私たちが個でありうる幻影などはなかったし、青春恋愛というものより、もっと原点からさみしいものがあった。その後、青春恋愛は商品となったし、個はコンシューマーになった。まあ、世代論はどうでもいい。
 愛が問われているのだと、と、そう書くことにしばしためらった。そしてその先を書くことができそうにもない。
 ま、こんなことを書くと若い人とか上の世代からは「暗い」とされますかね。暗いのかもしれない。が、そういうなんというか、自分側からの主体的な意識というのはある意味私は放棄している。この問題はそういう問題よりもっと暗くてどうしようもないものがあるのだろうと、目の前のボールペンをボールペンだと見るように見るしかないのだし、と思う。

グループbewaadによっても答えられない難問

 堪えられない。
 元ネタ⇒なぜπは3.14…であって6.28…でないのでしょう? | bewaad institute@kasumigaseki
 同じようなことを考える人はいつもいるもの。
 例えば⇒おしえてBP! π=6.28・・・のほうが美しいと思うんですが
 さて、真相は。
 ちなみに私もわからん。
 πの記号自体はオイラーが導入したもの。
 しかし、オイラー以前から、その定数だったっぽい。
 その理由というか経緯がやはりわからん。
 もちろん、なんとなく思うことはいろいろあり、話題に事欠かないのだけど、話題がいくらあっても真相にほど遠い。
 

        _  ∩ 
      ( ゚∀゚)彡 身の上にオッパイgirlの参上
       ⊂彡 

私は「公園のゴミ」を拾えるか?

 ⇒■[哲学・現代思想] 個人主義者は「公園のゴミ」を拾えるか?  しあわせのかたち
 こういう中学生でも考えられる問題というのはけっこう難しい。
 で、私は「公園のゴミ」を拾えるか?
 拾わないと思う。
 自分が座ろうとしているベンチにゴミがあれば除ける(できればゴミとして扱う)。
 なぜ私は公園のゴミを拾わないのか?
 と聞かれても答えられないのが第一。
 私の管理外だからということだろうか。
 ところが。
 私は、子供や老人などが怪我をしそうなものは、けっこう労して取り除くなり、その場でできるだけの対処はしている。善人ぶるのではなく、昔からそうしている。理由は簡単で不要な事故を社会から減らしたいからである。
 そういえば。
 最近はあまり二人乗り自転車、無灯火自転車、無許可歩道走行自転車を叱らなくなった。だめだなこういう人間はと諦めた。
 雨上がり傘を分回す人には、振り返るときできるだけ注意している。これは、危険性を減らしたいと思うから。
 ま、そんなところでしょうかね。
 答えになってないのかもですがね。別に、答えろというわけでもないでしょうが。

倫理的に劣っていそうな一群の人々について

 さっきのエントリの続きというか。ゴミやタバコをポイ捨てしたり、二人乗り自転車とか、あるいは電車の中のだらけた学生とか、酔漢とか、私はけっこうなんとも思わなくなってきた。
 話が少しずれるが、以前、インドの人と話していて、ちょっと文脈を忘れていたが、彼は私をある種のカーストに嵌めて込んでいた。通常は、外国人は一律のカースト扱いになるのかと思うが、なんか微妙に私は上位カーストに認識されているっぽかたった。理屈はなんかありそうだが理解できなかった。
 で、カーストについてちょっと話をした。これがまた要領を得ないので記憶もたいした像を結ばないのだが、ようするにカーストごとに生活様式があり、それはそれでいいのだ、みたいなものだ。うまく言えないのだが、倫理的に劣る人々がいてもそれはそのように宇宙がそうなっているのだみたいだった。
 まあ、べたに言うと、倫理が劣る人というのは、身分が低いということのメリットなんじゃないかなと、ときたまちらっと思うというか、なんとなくそうして理解している分がある。それにはメリットがあるし、彼らの気がつかないデメリットもある。そして、身分の高い人にもメリットとデメリットがある。もちろん、現代日本の社会に身分なんてものはないので、それはなんというか比喩なので誤解なきよう。
 よくネットなぞで、高貴であれ、みたいなことを書く人がいるけど、まるでわからん。高貴さとブログなんかが結びつくものか、結びつくとしても、なんというか、スルー力と結びついていると思う。ある種の話題を見て見ぬふりをするというか、先の倫理的に劣る人への視線のように、しかたないなと見て黙っているというか。
 まあ、こんな話をしていると気取りやがって、お前なんかが最低、下品だよとか言われそうだな。まあ、そういう問題じゃないんだけど。
 まあ、倫理的であることのメリットというのは、一般に言われているものと実は違うというかいわく言い難いことがある。
 ただ、なんというか、少年期に人は、できるだけ、高貴に生きようと思うべきだし、そう思わせるべき大人がいるべきだとは思う。
 ま、そのくらいかな。

おまけというか倫理性というか身分の名残というか

 人はけっこう立ち居振る舞いでそういうのがわかってしまう。いいことか悪いことか、まるでわからないけど。
 食べ方とか、何を美味しいと思うかとか。
 ちょっとした他者への個々配りとか、正義への愛とか。そう、私が帰国子女の娘さんとか若い頃嫌いじゃなかったのは、ストレートに正義を持っている人が多かった。まあ、今の歳になるといいことか悪いことかわからない。
 読む本とか音楽とか。
 一見するとただの趣味でしょ、個性でしょみたいだけど。でも、ちょっと違う。
 で、そういうのは、もうなんか存在の根幹から滲むようなもので、どうしようもないと思うし、なんというか、身分というのは生まれながら決まっているんじゃないかという感じもする。
 曖昧な言い方だけど、成り上がった人間は、やはり成り上がりでしかないし、歳を取るとそういう部分は、地が出てくると言いたいところだけど出てこないで、なんか奇妙なアンバランスになる。苦労人というのが得てして人格歪んでいるみたいな。
 あと、これを言うと誤解されるのでなんだが、この年まで生きてみると、この人の先祖は農民かな武士かな、商人かな職人かなというのがなんとなくわかる。わかって偉いとかじゃなくて、ああそういうものかなというか。そしてそれは頭の良さというのでもない。ただ、行動様式の根の深いものなのだろう。
 不思議なもんだなとは思う。