finalventの日記

2007-07-10

書籍と文庫化

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 文庫化のメリットは小さくなることかな。

 値段とかいうなら、文庫が出るほどの本なら単行本の古書価格は文庫本より下がる。最近の文庫本はそんなに安くないと思う。新書もそんな感じがする。すかすかした感じのが多い

嫌なニュースは見ない?

 ⇒嫌なニュースはそもそも見ないという選択肢 | Lifehacking.jp

 私の場合、残酷なニュースとか悲惨なニュースとかあると、

  1. まず映像を見ない(見るとしたらほとぼりがさめてから見る)
  2. 事実から連想される井戸端会議を無視する

 というのは普通にする。というかテレビを見ないと、自然にそうなる。

日経社説 財源の裏付け伴う責任ある政策論争を

 マニフェストに盛り込まれた主要政策を実現するには(1)年金基礎部分への消費税全額投入で6.3兆円(2)子ども手当創設で4.8兆円(3)公立高校無償化などで0.3兆円(4)農家の戸別所得補償で1兆円(5)高速道路の無料化で1.5兆円(6)最低賃金引き上げのための中小企業対策等で1.4兆円――で合計約15.3兆円が必要だとしている。

 この財源を民主党は(1)補助金の一括交付化等で6.4兆円(2)談合・天下り根絶による行政経費節減1.3兆円(3)特殊法人・独立行政法人・特別会計の原則廃止で3.8兆円(4)国家公務員人件費の節減1.1兆円(5)扶養控除など税制の見直しで2.7兆円――で確保するという。

 自民党などから「財源の裏付けがあいまい」との批判を受けて、財源論に一歩踏み込んだ形だが、なお不十分な面も少なくない。補助金の削減は大いに進めるべきだが、一括交付化で6.4兆円の財源が本当に出てくるかは疑問だ。補助金削減で地方に税源移譲しなければ地方財政に穴があく。国・地方を通じた行革の具体的な道筋を提示すべきである。

 朝日と違って、日経は少し踏み込んでいるし、そんな疑問は持つ。

朝日社説 マニフェスト―数字なしでは落第だ

 民主党のマニフェストはどうか。項目数を全部で60に絞り込み、とくに年金子育て農業の3点に力点を置く。

 評価したいのは、新規の政策に必要な費用を15兆3000億円と見積もって、その財源を明示したことだ。

 補助金の一括交付金化などムダの排除で6.4兆円、特殊法人などの原則廃止で3.8兆円、談合と天下りの根絶による行政経費の節減で1.3兆円――といった具合だ。

 いかにもおおづかみだし、全体の整合性があるのか疑問に思えるところもある。この数字を標的に、自民党は「実現性があるのか」と議論を吹っかけるだろう。そんな具体的な論戦をこそ、有権者は聞きたいのだ。

 その具体性の議論は知りたいと思う。朝日としての考察はないのだろうか。

朝日社説 残留孤児支援―今度こそ失望させるな

 金銭面だけいえば朝日のいう通りなのだけど、この社説からはその孤児たちの生活を見た・取材したという印象はうけない。実態は庶民的には違っているようにも感じられる。解決可能な部分で解決するのはいい、つまり、それは公においては。ただ、この問題は我々の、もう少し近い連帯の問題なのだろうし、そうしう庶民の空間に新聞の言葉が届いていないように思える。

曇天、降雨確率50%

 とのこと。降らなそうな感じもする。ばたばとしてネットが遠くなるようにも思うし、そう思うときネットもまた私を遠く扱うのかもしれない。あるいは、ネットと思っているもの思われているものはある種の幻想だろうし、もちろん幻想なんて最初からわかっているさという意味ではなく、ある種のリアリティとしての幻想ということだ。

 エリクソン周りの本などを読み、いろいろ思うが、うまく心にまとまってこない。心のまとまり方というか思いの動かし方に私には何か癖のようなものがあり、その癖自体がそれほど自分の現状というか生き方の打開のツールとしては機能してない。あるいは原因的思考というのだろうか。

 そういえば昨日道元の、「万法ともにわれにあらざる時節」というのを木立を見ながら、擬態する蛾などを見ながら考え込んだ。この句の解釈だが、通常は、諸法無我として、万法の側にそれぞれの我(アートマン)を否定すると読まれる。が、私はこれは独我論的に、我=意識主体との関係性として読んでいよいかもしれないと思っていた。が、ふと、木立や木々や虫たちが、愕然と私の意識と関係なく存在するという思いにとらわれた。客観世界があるというのではなく、我意識の根底に、諸法の仏法なる時節、の大きな構造があり、その全体的な、宇宙的な意識構造とかいうとトンデモ臭いが、そういう意識を成立させる根底性(つまりは生命というのは意味関係の依存で成り立っている)があり、諸法の仏法なる時節において、諸法に我が想定されているとしてよいのではないか。だが、その仏法=意味構造の根底性というのは、時間=この今、に限定されており、我とはそれぞれが今というこの時点だけの存在、そして、それゆえに、「万法ともにわれにあらざる時節」というのはその時間構造を失った状態なのではないか。

 諸法無我というとき、通常仏教で解釈されるような原理性における無なりまたは空なりというのではなく、この時間=今という構造において我はあるとしてもいいのではないか。

 私は存在する、木々も木の葉も擬態する蛾も存在する、この今、ということ。そして、その今を過ぎ去る思念なりにおいて全ての存在は我=現時点の構造を失うがゆえに無となる。

 だが、にもかかわらず、万物は運動するし、その今の関係性の中になにか、仏道とでもいえるような行動原理のようなものを生み出す。

namgennamgen 2007/07/10 09:46 >すかすかした感じのが多い
文庫本は値段の割に厚さが薄い、同感です。それと老齢化が始まっているので活字がコマイ。古本という手はいいですね。だけど結局読むものは昔から持っている本ばかり。

MinahoMinaho 2007/07/10 10:22 昨年暮れに母を亡くしました。以来、時間はなぜ一方向にしかないのだろう、どうして、少し前はいた人がなぜ今はいないのだろう、という思いにずっととらわれています。
もしかしたら、死とは、時間軸から解き放たれることなのかもしれない、母は時間を超えた存在になり、私はまだ時間の中に閉じこめられているだけなのかも・・・などとぼんやりとした頭で考えていました。

kingatekingate 2007/07/10 10:38 おはようございます。貫徹です。お久しぶりです。人の尻ぬぐいは、東部戦線の泥濘のようです。戦線に大穴が開く前に到着して良かった。間もなく終戦。
>>嫌なニュース見ない
まったくテレビを見なくなって、実にそんな感じですが、飯を一緒に食うダチが2.を実行してくるのでついつい話を合わせてしまうのが、ちと微妙な感じです。掲示板の流れの中で陰謀論に荷担している可能性を自覚してくれたのは嬉しいのですが、その自覚でさえも疑っている疑心暗鬼自家中毒は直らないのかなーと心配します。
一個の人間としての自覚とそのための警戒レベルの程度問題ではあるのですが……個人に限界はあることが自覚できていないような気がするのは気のせいでしょうかね。

finalventfinalvent 2007/07/10 11:28 namgenさん、ども。感銘を受けることができる本との出会いというのはある程度若さの特権ですね。ただ、最近私は意図的に違う本を読もうと思っています。あまり食わず嫌いなくというか。

finalventfinalvent 2007/07/10 11:32 Minahoさん、ども。まだ日が経ってないからつらいでしょうね。さらに年月が過ぎると自分の歳が親の人生に重なりだして別の感慨も増えると思います。そのあたり、親と自分、また自分は自分というなかなか言葉になりずらいものがありますね。

finalventfinalvent 2007/07/10 11:35 kingateさん、ども。私などブログをやっていてその時折の話題にそれなりにつきあうことにしているのですが、ブログは残る、だけど人々の関心は過ぎていくみたいな、過ぎ去り感が大変に微妙。そういえば耐震偽装のアレもヒューザーとか活かしてできるだけ絞ればよかったのにとかいう選択はもはやなし。無常。

tezytezy 2007/07/11 00:25 初めてコメントします。いつも楽しく読ませて頂いております。
道元解釈、参考になります。実は急に「いまここ」「有時」「われ」「現成」のような問題に興味が湧いて、直感的な理解はあったのですが、言語化に至らずモヤモヤしていました。今回、タイムリーにfinalventさんの文を読んですっきりしました。ありがとうございます。
ただ、運動についてはどう解釈すべきか、理解できていません。恐縮ですが、運動とは何でしょうか? なぜ「今ここ」しかないのに、運動を「感じる」のでしょうか? 誤謬なのでしょうか? それとも現事実だが、言語把握はできないタイプなのでしょうか?
突然書き込んで不躾に質問ばかりで心苦しいですが、よろしければ教えて頂けると有難いです。言わずもがなですが、的外れな質問でしたら捨て置いて頂ければ結構でございます。

finalventfinalvent 2007/07/11 08:09 tezyさん、ども。運動と時間の問題がおそらく道元、あるいは仏教の根幹なのだろうと思います。私が間違っているかもしれませんが、少し書いてみます。現成公案はお読みになっていらっしゃると思いますので、「たきぎはいとなる。さらにかへりてたきぎとなるべきにあらず。しかあるを灰はのち薪はさきと見取すべからず。しるべし薪は薪の法位に住して、さきありのちあり、前後ありといへども、前後際断せり」、薪は灰となるというのは運動の工程であり、全宇宙がこの運動=時間の中にあります。が、薪と灰には、前後の関係はないと道元は言うのです。このあたりが日常の人間の感覚としてはそんな馬鹿なということです。しかし、薪と灰を前後の関係で時間として結んでいる根拠性はありません。このあたりは、マクタガートはご存じでしょうか(こういう言い方が失礼に聞こえるのを恐れますが)。おそらく事象は配列であり、前後の関係は存在しません。(このことは自然数の大小関係の奇っ怪さも連想されます。自然数のみが大小関係を持ちます。)さて、にもかかわらず、私たちは薪と灰を前後の関係として理解します。なぜか、これは以前この日記に書いた阿頼耶識ということだろうと思いますが、この問題は視点は道元の射程から離れます。いずせにせよ、運動はあり、だが、時間の前後関係はない、となります。そして、「花は哀惜に散り、草は棄嫌におふるのみなり」というのは、人間が今この時を現成なくして生きているとき、前後の時間意識(=無明だろうと思います)が迷い、苦しみとなる。では、いかにしてこの阿頼耶識のような前後時間意識を止めるのか? この「いかにして」は正確ではありませんが、ここに禅のすべてがあるはずです。そしておそらくそれは、「一方を証するときは一方は暗し」ということであり、この今の全機現を表しているのでしょう。それゆえに万物はこの今の全機現において「魚水を行くに行けども水のきはなく鳥空を飛ぶに飛ぶといえども空の際なし」ということでしょう。どうもしったかぶりのようですが。ポイントは道元とマクタガートのあたりです。

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