あ、ほんとだ、小阪修平、没

 ⇒小阪修平 - Wikipedia

小阪 修平(こさか しゅうへい、1947年4月18日 - 2007年8月10日)は駿台予備学校論文科講師、評論家。学園闘争の余波を受けて東京大学を中退した後、在野の哲人として哲学・現代思想を中心に幅広く評論活動を展開する。難解に陥りがちな哲学を、水準を落とさずに平易に解説することでは定評があり、哲学ブームのきっかけをつくった。

2007年8月10日、急性心不全のため東京都府中市の病院で死去。享年61(60歳没)。

 急性心不全? しかし、入院中か?
 小阪修平はよく読んだような気がするが、書架には一冊もない、たぶん。
 というか、どれ読んでも、自分にはよくわからない人だった。わかりやすく解説しているのかもしれないが、なんというか、どれもスキーマティックなだけに思えたし、なんというか、日常に露出する哲学的な問題とかに対するインサイトは、別に哲学的でもなければ、あるいは哲学的過ぎるというのか、ぞっとするような深淵を見せる人ではなかった。もっとも、それがいい悪いということではない。
 経歴を見ても、根のなかった人ではないのだろうが、私にはあまり触れるところがない。思想というのはその今回にひりつくような痛みの感覚のようなものがあり、そこの波長が合わないと合わないのかもしれない。くどいけど、それが思想の評価というものでもないが。
 
 ⇒ララビアータ:小阪修平氏を悼む

先達に乏しいところで、つまずかなくてもいいところに必ずつまずき、見通しにくい迷路を進むような学習では、学習効率は実際非常に低い事を、結局後から思い知ることになったものだが、かかる非効率な学習にも利点がないことはない。あらゆる可能的挫折をくまなく経験するので、いったん自分のものとした観念は、そのあらゆる側面に通暁する事になるので、それが以後どのような文脈で現われてきても、決して見間違う事がないのである。ただ、いったん袋小路に入り込んでしまうと、独力でそれを抜け出すのは容易ではない。さらに、ナルシシズムや自己満足の罠は、常に待ち構えているから、独学者の危険は、たいてい本人が気づいている以上に大きいものなのだ。私は、大森荘蔵先生という稀有な教師と出会えたおかげで、このことを身にしみて悟る事が出来た。

 このあたり、西洋人の一流の学者からきちんと学ぶという経験があると、学問への感性が変わる(ある意味で絶望もするが)。