これだが

 これ⇒私は30台半ばの妻子持ちです。
 これもか⇒はてなブックマーク - 私は30台半ばの妻子持ちです。
 ぶくまには「釣れるかな」と書いたが、それほど釣りだとも思っていない。そういう状況にあるんじゃないか。
 二十代の終わり、十歳年上の、今思うとよい先輩だったが反発して傷つけたと思う(ごめんなさい)、先輩と呼んでいいか、40歳で25歳のすごい美人の女性と結婚した。彼はやり手の人なのでそういうのもありだろうと思った。奥さんのほうとはちょっと、ある作業を半日一緒にしたことがある。美人で頭が良いが、不思議な暗さと芯の強さというか堅さを持った人だった。そういえば彼が私に配慮していたのは、私のあるナイーブな感受性への共感を持ったことだろう。そうしたなにかある種のナイーブな暗さみたいなものが、薄く共犯的な信頼のようなものをかもしていたが、幸い彼らとの親交が深まることはななかった。というか、私は彼女のような女性には魅力を感じないというか、また彼とは表向きとても私とは違ったタイプの人だ云々。
 彼らの結婚にはなにか暗いいきさつがあるように思えたが、そのことに関心を持たないようにしていた。彼は離婚経験者だったか、わからない。大人の常識で考えればそうだろうと思うが。で、話は、彼が、私が二十代の終わりの終わりだが、**君、三十代はモテるよ、君はモテると言った。私は、その時、彼は自身を重ねて言っているのだろうと思ったし、聞き流した。内心、へぇ、モテたらいいなという感じはあった。ので、覚えている。
 実際の私の三十代は悲惨な始まりをした。というか、外的な悲惨というのは人間を鍛えるし、なんというか良心の呵責系ではない悲惨などというものは、いろいろなものをばっさり諦めていけばそれほど耐えられないものではない。あはは、オレが生きているのはオレのためじゃないんだ、と笑って夜空を仰げばいい。それは、奇妙な救いだった。
 と、自分語りが長くなりそうだが、いくつかの悲惨を片付け、そしてこっそり普通に安定して世の中から隠れて生きていこうと某大企業に潜り込んだ。そこには若い女性社員などもいてその後同僚の数名は、私がそのころ理想していたような人生を歩んだ。が、これはこれで次なる悲惨で崩れた。まあ、そんなものだろう。
 その頃、私は既婚者に見られていた。考えてみるとなるほどそういう扱いだなとは思う。定時には帰る。若い人と交流しない。当時は30歳を越えてちゃらちゃら遊ぶ人はいない時代だった。なにより、お弁当を作っていたのが決定的で、そのことはちょっとした事件になったくらいだ。独り者でお弁当をきちんとつくってきちんと生活するのは変ですか、というかすごい変らしい。
 と、話の中心に向かわない。
 書いている内にこれは長くなりそうだなというのにうんざりしたので、いきなり結論だが。
 私はこの増田さんとはまったく違ったポジションの人間だが、この問題は、その恋のほうが真実というとんでもない結論はあり得る。もちろん、地獄になる。でもそういう人生がある。
 猫猫先生とか、ああいうポジションなので20代半ばの女性と再婚されても、うらやましい視線くらいだが、猫猫先生のような方は既婚であるほうが一般的。

曇天、今日は初秋らしい日か

 初秋といえば読み返してみるか。といって書架にはなし。
 これ⇒「 初秋 (ハヤカワ・ミステリ文庫―スペンサー・シリーズ): 本: ロバート・B. パーカー,菊池 光,ロバート・B.パーカー」
 体の解きほぐし系のエキササイズを始める。この手のことはかつてもやっていてノウハウがあるのだが、率直に言って自分のやりかたは間違っているだろうなと思う。とくに、達成感のある身体系のメソッドはたいていは間違い。
 しかし、それで頭がボーッとする。

日経社説 住宅ローン問題に取り組む米政権

 さらっとよく書けている社説かな。

今回の措置で新たに救済されるのは年8万件程度。サブプライムで多いのは、当初の数年は支払金利を抑える代わりに、その後一気に金利が上昇する「金利変更型」ローン。その金利改定は今後2年間で約200万件にのぼる見込みとあって、今回の措置だけでは救済効果は限定的とみられる。

 ここでまた炎上してもなんだし。

 サブプライムを基にした金融商品が招いた金融市場の動揺については、FRBが正面から取り組むことになった。FRBは8月17日に金融機関向けの貸付金利である公定歩合を下げたほか、貸し付けの担保を資産担保コマーシャルペーパー(ABCP)などにまで拡大している。
 市場が安定に向かわないようだと、18日に開く米連邦公開市場委員会(FOMC)でフェデラルファンド(FF)金利引き下げも検討事項になろう。

 このあたりはちょっと見物。実体経済は堅調っぽいし、インフレ懸念はあるだろうし。

毎日社説 日中防衛交流 透明性こそが信頼を生む

 内容ゼロの感じ。中国の軍事の内在的な問題を理解したほうがいいと思う。まあ、理解してもどうにもならないか。基本的には軍閥と経済のコングロマリットみたいなものが、一部で中央に向かっているから、全体の薄気味悪い中国の軍事というのはある種の必然。
 中国という国は大雑把に言えば、一種の自国妄想がなければ対外には出ない。たぶん、ロシアもそのくらいはわかっているだろう。ただ、北朝鮮は東北第四省だろうし略。

毎日社説 遠藤農相 この人に農政改革はできぬ

 この問題知らないし、この人知らない。
 一般論で言えば、有能な人を些細な罪でつぶさないほうがいいと思うよくらいか。毎日の社説はちょっとオクターブ外している感があるので。

読売社説 警視庁巡査長 管理の形骸化が招いた女性殺人

 これもそんなものだと思うよ。
 私が子供のころは、お巡りさんも学校の先生も、なんというか当然というか、世間という書物を読まざるを得ない人生を歩むため、こうした問題へのいろいろな対処を知っていた。そういう知恵みたいのがなくなれば、こんなふうにもなるし、昔の時代には戻らないのだから。

朝日社説 地震の速報―うまく使いこなしたい

 でも、家にいるなら倒れそうな家具から身を遠ざけることができる。事務所では、机の下などに潜り込む。バスや電車では、つり革や手すりにしっかりつかまる。そんなふうに使えば、被害をかなり抑えることができそうだ。

 はて? なんかすごく違う気がするが。ではというのが難しいか。
 火を消す、ドアを開ける。なによりパニックしない(といってもパニックになるのだからどうするか。)
 最近の指導では火を消すはなさげ。

朝日社説 厚労省前局長―あきれた倫理感覚だ

こんな倫理観に欠ける国家公務員が、それも幹部にいたとは驚きである。

 いやそうでもないと思うが。
 ⇒厚生省・汚職事件(彩福祉グループ贈収賄事件)(事件史探求)

名前と家柄というか

 家柄があると、名前というのは、自由に付けられないんですよ。
 名前を見ると階級とかわかるんですよ。
 まあ、昔は。
 いつごろまでを昔というか。
 日本人の名前ができたのは、実際には明治時代の後半かな。
 武士階級でないと、名前というのは呼称に過ぎないし。女には事実上名前はないです。
 というか、出世すると名が付く。
 渋沢栄一とかもそうじゃなかったか。
 そうだ⇒渋沢栄一 - Wikipedia

幼名は市三郎。後に栄一郎、篤太夫、篤太郎などを名乗る。

一方で5歳の頃より父から読書を授けられ、7歳の時には従兄の尾高惇忠のもとに通い四書五経や『日本外史』を学ぶ。18歳の時(1858年)には惇忠の妹千代と結婚、名を栄一郎と改めるが、1861年に江戸に出て海保漁村の門下生となる。

 まあ、そんなもの。
 立志なければ、渋沢市三郎のまま。
 岸信介あたりはもうそうでもない。
 ⇒岸信介 - Wikipedia
 が。

信介が生まれた時、曽祖父の信寛もちょうど山口に来ており、早速“名付親になる”といって自分の名前の一字をとって「信介」という名が付けられた[2]。

 まあ、そんなもの。
 安倍晋三もそうか。
 ちなみに⇒安倍晋太郎 : 安倍晋太郎 - Wikipedia

政治家・安倍寛、静子夫妻の長男として東京に生まれる。生後間もなく郷里の山口に戻り幼少期を過ごす。「晋太郎」の名は、明治維新の志士であった高杉晋作の一字を取って命名された。

 ふとあれ?という感じがした。
 やっぱそうか⇒高杉晋作 - Wikipedia

諱は春風。通称は晋作、東一、和助。字は暢夫。号は東行。 贈正四位

 普通だと、高杉東行のはず。
 そういえば。
 ⇒勝海舟 - Wikipedia

幼名は麟太郎(りんたろう)。本名義邦 (よしくに)、維新後改名して安芳(やすよし)。これは幕末期、安房守に任ぜられたことから勝 安房(かつ あわ)と呼ばれたため、安房(あほう)と同じ音の安芳と変えたもの。海舟は号。佐久間象山よりもらった「海舟書屋」よりとったという。

 号のほうが有名。
 ついでに。
 ⇒西郷隆盛 - Wikipedia

名(諱)は元服時には隆永(たかなが)、のちに武雄・隆盛(たかもり)と改めた。幼名は小吉、通称は吉之介、善兵衛、吉之助と順次変えた。号は南洲(なんしゅう)。父と同名であるが、これは王政復古の章典で位階を授けられる際に親友の吉井友実が誤って父吉兵衛の名を届けたので、それ以後は父の名を名乗ったからである。一時、西郷三助・菊池源吾・大島三右衛門などの変名も名乗った。

 勝のものなどを読むと、南洲と呼ばれていることがわかるが、民間ではずっと西郷隆盛なのはなぜか? 逆賊ゆえ?
 ついでに。読んどいたほうがいいと思うよ、これ。

cover
西郷南洲遺訓―附・手抄言志録及遺文 (岩波文庫): 山田 済斎
 うひゃ、こんなのもある。
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話し言葉で読める「西郷南洲翁遺訓」 無事は有事のごとく、有事は無事のごとく (PHP文庫): 長尾 剛
 ええと、これらは歴史書として読むべきであって、あまり人生座右の書としないほうがよさげです。
 
さらについでに福澤諭吉
 ⇒福澤諭吉 - Wikipedia

1835年1月10日(天保5年12月12日)大坂堂島浜(大阪市福島区)にあった豊前国中津藩(大分県中津市)の蔵屋敷で下級藩士福澤百助・於順の次男として生まれる。諭吉という名の由来は、儒学者でもあった父が『上諭条例』(清の乾隆帝治世下の法令を記録した書)を手に入れた夜に彼が生まれたことによる。

 あれれ? これでええんか? 儒者だとすると……
 これこれ。
 ⇒福沢 諭吉(福澤 諭吉) / 全国名前辞典

◇明治時代の啓蒙思想家・教育家・評論家。幼名は範(ハン)、字
(アザナ)は子囲(シイ)、号は雪池(セッチ)・卅一谷人、一時期は中村
姓。豊前国中津の奥平藩の下級武士として大阪蔵屋敷に生れる。

 姓は中村。
 福澤(ふくさわ)は屋号だったのか?
 ⇒慶應義塾大学出版会|慶應義塾・福澤諭吉 | ウェブでしか読めない | 福沢屋諭吉

谷川俊太郎とか

 ⇒谷川徹三 - Wikipedia
 谷川徹三って結局なんだったのだろうか。やたらと長生きしていたなとか思っていたが、もう思い出す人も少ない? わからんが。

ジンメル、カントの翻訳や、文芸、美術、宗教、思想などの幅広い評論活動を行った。主著は『感傷と反省』『芸術の運命』など。詩人の谷川俊太郎は長男。

 で⇒谷川俊太郎 - Wikipedia

谷川 俊太郎(たにかわ しゅんたろう、男性、1931年12月15日 - )は、詩人、翻訳家、絵本作家、脚本家。哲学者で法政大学学長の谷川徹三を父として東京都に生まれ育つ。

 というわけで75歳か。
 だんだんお父っつあんに似てきたなとか思ったがまだまだまだ先が長い。
 ちなみに⇒五木寛之 - Wikipedia

五木 寛之(いつき ひろゆき、1932年9月30日 - )は、日本の小説家、エッセイスト、評論家である。旧姓松延。

 というわけで、実は、谷川俊太郎と一つ違い。
 このあたりが、戦後のモダーンな青年だった。
 で、谷川俊太郎に戻って。

三度結婚していて、岸田衿子佐野洋子は元妻。音楽家谷川賢作は息子である。

 まあ、そういうこと。さすがに、佐野洋子の時は引いた。
 ⇒岸田衿子 - Wikipedia

 岸田 衿子(きしだ えりこ、1929年1月5日 - )は、詩人、童話作家
 劇作家岸田国士の長女として東京に生まれる。妹は女優の岸田今日子

 おや谷川より年上だったのか。
 ⇒岸田今日子 - Wikipedia

岸田 今日子(きしだ きょうこ、1930年4月29日 - 2006年12月17日)は、日本の女優、声優、童話作家

 おや、今日子も谷川より年上だったか。
 で、谷川俊太郎に戻って。

対談集
谷川俊太郎の33の質問
対談現代詩入門(大岡信との共著)

 これって復刻か?

cover
対談 現代詩入門―ことば・日本語・詩 (詩の森文庫): 大岡 信,谷川 俊太郎
 で、元はこれで85年。
 ⇒「 対談 現代詩入門: 本: 大岡 信,谷川 俊太郎」
 話は、大岡信へ。
 ⇒大岡信 - Wikipedia

大岡 信(おおおか まこと、1931年(昭和6)2月16日 - )は、詩人。東京芸術大学客員教授

 谷川と同年。

静岡県田方郡三島町(現・三島市)生まれ。父も詩人の大岡博。旧制静岡県立沼津中学校を経て第一高等学校 (旧制)、東京大学文学部国文科卒業。学生時代から詩人として注目され、読売新聞社外報部記者を経て明治大学教授となる。1979(昭和54)年より『朝日新聞』で『折々のうた』を連載している(2007年3月31日、6762回目で終了)。

 ちょっと悪口みたいな言い方だが、往時の谷川と大岡を比べると、その才能の差の歴然さに涙が出そうなくらい。ウィキペディアでは「学生時代から詩人として注目され」とあるが、『折々のうた』がなければ、たぶん、消えた人ではなかった。でも、消えなかった。このあたり、まあ、べたにいうと、朝日文化人ネットワークがありそう。でも、その勝ち馬に乗ったのは勝ち。というわけで、その後、大岡は世間的にはべた勝ち。でも、たぶん、ある意味でと限定すべきだろうけど、詩のわかる人なら、苦笑していただろう。
 そしてさらに。
 ⇒大岡玲 - Wikipedia

 大岡 玲(おおおか あきら、1958年10月16日 - )は、日本の作家・イタリア文学者・東京経済大学教授。
 詩人大岡信の息子として東京に生れる。

 芥川賞もとったくらいだから、到底、この人才能がないよとはいいづらい。お父様がお稼ぎになってよかったですねとかいうのも下品過ぎ。
 そういえば⇒荻野アンナ - Wikipedia
 彼女も芥川賞作家から大学の先生。
 まあ、そういう時代だったかな。ちょっと知的でお文学みたいな。

山本鼎とか

 ⇒山本鼎 - Wikipedia

山本 鼎(やまもと かなえ、1882年(明治15年)10月24日 - 1946年(昭和21年)10月8日) は、愛知県岡崎市出身で、長野県上田市に移住し、美術の大衆化、民衆芸術運動のなかに身を投じた版画家、洋画家、教育者である。

山本鼎は1882年(明治15年)10月24日、愛知県岡崎市に父一郎、母タケの長男として生まれた。間もなく、漢方医の父が医師資格取得に必要な西洋医学を学ぶため上京、一家は東京、浅草区山谷町に移住した。小学校を卒業した鼎は、浜松町の木版工房で桜井虎吉の住込み徒弟となり、版画職人として自立する道を歩み始める。鼎16歳のとき、父が長野県小県郡神川村大屋(現上田市)に医院を開業、一家は移住、鼎にとって上田は第二の故郷となった。

 ほぉ。上田に移ったのは16歳だったのか。

モスクワ滞在中、北原白秋と懇意な青年と会い、白秋の妹、家子との縁談を紹介され、帰国した翌年(大正6年)二人は結婚する。

 へぇ。そうだったのか。
 ウィキペディアには書いてないが。
 ⇒秘色の湖の命名者 詩人 山本太郎

詩人
山本太郎の略歴
大正14.11.8〜昭和63.11.5
詩人。美術家山本鼎(かなえ)の長男。母家子は北原白秋の妹。旧制佐賀高校から東大独文科卒。草野心平らが創刊した「歴程」の同人となり、旺盛多産の詩業によって戦後詩壇の旗手といわれた。昭和35年刊の詩集「ゴリラ」で高村光太郎賞。44年刊の「覇王紀」で読売文学賞。50年刊の「ユリシイズ」で歴程賞。52年に「山本太郎詩全集」が出た。

 なるほどね。
 山本鼎山本太郎も60歳少しで死んだ。
 ⇒山本太郎の思いで|がんになったら

詩人山本太郎
わたしの時代、
つまり、
全共闘の時代の
文学をめざしていた若者たちあいだでの
ヒーローだった。
山本は大学で教師をやりながら
歴程でも若者を指導していた。

 私は直接お会いしたことはないが詩をずいぶん見てもらった。お名前くらいは覚えてもらえたのではないかな。
 でも、私は20歳になって詩を捨てた。
 ⇒Ishigame Yasuo./Message Board.

1988年12月13日に「さよならパーティ」をホテル・エドモントで開いています。ところがそのパーティの案内状を書いた詩人の山本太郎さんが11月5日に長野県の講演先で脳溢血のため急死してしまったのです。

 昭和63年。私の父はだいたい山本と同じ時代を生きて同じころに死んだ。
 翌年2月手塚治虫が死んだ。彼もだいたい同じ。でも、彼は戦争を免れた。

らららコッペパン ってなーんなだよ

 ⇒YouTube - ららら コッペパン♪
 なんで現代人がコッペパンなんて知っているんだ?
 バターじゃないよ、マーガリンだよ。
 ⇒コッペパン - Wikipedia
 けっこう今でもあるのか。
 そういえば。
 先日、スーパーで買い物してたら、レジの前でオレより年上のオッサンがカンパンの缶詰を買っていた。あれはなんだ? 防災の日