好きなことをするということ

 inspired by ⇒「好きを貫く」よりも、もっとずっと気分よく生きる方法 - 分裂勘違い君劇場
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 元エントリについて異論があるわけではない。まあ、人によっていろいろな思いをもって生きているんじゃないか。
 自分については、自分が実践しているというわけでもなく、どっちかというと流されて生きているのだけど、この件について、ひとつだけいつも最初に思うことがある。英語で読んだ本で、子供に向けた本だが、将来、なにをしたらいいかというのに、"love to do"という答えがあった、それをいつも思い出す。
 "love to do"は、単純に好きなことをする、でいいのだが、話のなかでは、"love"の語感を子どもたちに問うていた。簡単にいえば、好きなことをしてそれがあなたの愛の表れになっていること、ということだ。
 あなたの愛の表れとなっていることをしなさい、と。
 でもそれじゃ生きていけないかもしれません、と子供が問い返すと。大丈夫といったふうに答えていた。きっとあなたを大切に思う人が現れます、とも。
 宗教めいた話でもあるんだが、人がこの世界の人やものに自然に注げる愛情として、自分の性向にあったことをし続けなさいということだった。
 まあ、そんだけのこと。
 でも、大人になると、愛の表れとして何かをするというのがとても難しくなる。愛が性欲であったり親族的なあるいは知人とかの利害であったりする。あるいはステーキ毎日食べたいという欲望だったりする。
 愛ってなんなのっていうことになる。が、それについては、「傷つけないようにしないさい」と続けてあった。でも菜食主義者だって植物を殺していると子供が問うと、"least form of killing"と答えていた。他の文脈だったが、害虫や病原菌とかはと子供が聞くと、殺すことがあると答えていた。全体を考えなさい、全体と自分の関わりをその場でいつも考えなさい、教条的に考えるのはやめなさい。と彼は答えた。彼は菜食主義者だったが、ほら、私の靴は革靴ですとも答えていた。