梅田望夫著「ウェブ時代 5つの定理」、読んだよ

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ウェブ時代 5つの定理 この言葉が未来を切り開く!: 梅田望夫
 特設サイト⇒文藝春秋|梅田望夫著「ウェブ時代 5つの定理」
 充実してますな⇒リンク集⇒文藝春秋|梅田望夫著「ウェブ時代 5つの定理」|ビジョナリーたちの名言リンク集
 冒頭のゴードン・ベルが梅っちらしい。というか、その秘密の一つのわかりやすい部分の根幹だろう。

if frustration is greater than reward
and greed is greater than fear of failure
and a new technology/product is possible then
begin
   exit(job);
   get(tools to write business plan);
   write(business plan);
   get(venture capital);
   start(new company);
   …
end;
       ──Gordon Bell

 ゴードン・ベルについて本書ではいろいろ書かれているが。
 ⇒ゴードン・ベル - Wikipedia

DECの創設者ケン・オルセンとハーラン・アンダーソンは1960年にベルを引き抜き、最初にPDP-1の入出力サブシステムを設計した(UARTなど)。その後、PDP-5の開発に従事し、PDP-4とPDP-6の設計を任された。その他のアーキテクチャ上の貢献としては、PDP-5およびPDP-11の Unibus と汎用レジスタアーキテクチャがある。

 そしてコンピューターのすべてが始まったとも言えるのだけど、というのはみんなPDP-11から始まった。(4004プロセッサは別かな)
 で、このケン・オルセンについて日本語のウィキペディアのリンクはない。みなさん知らないのだろうか。
 英語にはある⇒Ken Olsen - Wikipedia, the free encyclopedia
 ご健在でしたか。
 で、このウィキペディアの書きようは、若い人が書いたのだろうけど、ちょっと意地悪すぎる。このむちゃくちゃオヤジがでも実際にはソフトウエアを作り出した、というか、マイクロプロセッサースキームからはOSは想像できなかったんだよ。そして、クラウドコンピューティングの視点から見るとそれほどオルセンがいかれているわけでもない。
 話がそれすぎたけど。
 脱線ついでに⇒ワング・ラボラトリーズ - Wikipedia

ワング・ラボラトリーズ(英: Wang Laboratories)は、アン・ワング(王安)と G. Y. Chu が1951年に創立したコンピュータ企業。1980年代には、3万人の従業員を抱え、年間30億ドルの売り上げを達成していた。アン・ワングは、事業戦略と製品戦略を常に1人で指揮していた。

 王安はすごい人だった。往時の王安は。だが。

 PC業界では、ワングの失敗の原因は、ワープロ専用機に固執して、汎用的なパーソナルコンピュータに移行しなかったせいだと言われていた。しかし、PCが隆盛を迎えたころ、ワングの中心事業は Wang VS というミニコンピュータであった。しかし、ミニコンピュータ市場も間もなくPCやPCサーバ(あるいはUNIXサーバ)に侵食されていった。ワングは、1990年代になったころ、次の戦略を打ち立てられなかった。
 アン・ワングは、息子のフレッド・ワングに会社の苦境を救う仕事を任せた。フレッド・ワングはビジネススクールを卒業していたが、Charles Kenney によれば「彼は父に強要されたポジションに向いていなかった」。当初、研究開発部門の責任者とされ、後に社長となったが、そのために有能な従業員が辞めていった。

 そして。

1986年、フレッド・ワングは36歳の若さでワング・ラボラトリーズの社長に就任した。1989年8月4日、アン・ワングは息子を解雇した。後任として1988年から勤めていた Richard W. Miller が社長に就任した。1989年12月、Miller はソフトウェアの各種業界標準を採用するという方針転換を発表した。アン・ワングが1990年3月に死去すると、大規模なリストラが敢行され、1990年8月には銀行からの借金を返済したが、年度としては赤字を記録した。

 まさか、王安にそんな悲劇が。しかし、王安はその結末は見ずに人生を終えた。
 王安⇒An Wang - Wikipedia, the free encyclopedia

Born in Shanghai, China, Wang graduated from Shanghai Jiaotong University with a degree in electrical engineering in 1940. He emigrated to the United States in June 1945 to attend Harvard University for graduate school, earning a PhD in applied physics in 1948.

 さらっと"He emigrated to the United States"と書いてあるが、少し歴史を想像すればわかるがそれはものすごい人生の試練だった。

He and his second wife Loraine lived in Lincoln, Massachusetts where she still lives. Their three children are Fred, Courtney, who runs a Dallas-area regional ISP, OnLine Today, and Juliet, an EMT.

 大河小説のようだが。
 梅田本にまねて。

成功というものは
天与の才によるものだというより
一貫性のある常識がもたらすものである。
 
Success is more a function of consistent common sense than it is of genius.
       ──王安

 だが、その成功は潰え、歴史は彼を不思議な物語として刻んだ。
 私は皮肉屋だし最初から皮肉屋だったのかもしれないが、梅田本を読みながら、この裏に隠れている黒いもう一冊の本を読みとることができる。そこには同じ定理が書かれているが、結末は異なる。なぜなだろうかということは人生の後半に与えられ、私のような果報な皮肉屋になるかもしれない。
 いやネガティブ指向ということではない。誰かをDISる気持ちなどさらさらない。成功というものがもたらす、ミイラ猿の三本指がどのようにタオをもたらすか、そう思うだけ。
 というか。
 黒いもう一冊の本は、言葉ではなく、その言葉にリンケージされた人の生き方のほうに表れる。言葉だけ見ると、それは人の生き様から離れたように見える。