匿名とかにも関連するけど

 ⇒身内読者は悩ましいが、気にしたら負けだと思う。 - 雑種路線でいこう
 私の場合はブログを実名では書いてないのだけど、そして若干の人が私の実名に関心があり、そのような人には適度にサティスファイできる程度に実質は公開しているのだけど。けど、というのは、ブログ人格というわけではないけど、ブログの内容と実名とはあまりリンケージしてほしくないなという感じはしていた。それが社会的には匿名ということなんだけど、隠れていたいというより、実名のインタフェースとのつながりがあまりない。ブログはブログで閉じていて、よくほのめかしと言われるけどさすがに5年も書いているから、この閉鎖系が解釈系になっているので、ある程度読まれている人なら(それとある程度知識のある人なら)、特段にほのめかしはないのではないかと思う。それでもいろんな読み方はあるのだろうけど。
 私は孤独な人だったし、パソコン通信はそうした孤独のチャネルであり、しかもそこで自分なりのサティスファイがあったせいか、あまりそれ以外の交友とチャネルがない。30代はそれでもパソコン通信からの実交友がけっこうあったし、今でも細くないわけではないが、なんとなくそこは引きこもって、なんというのか、より孤独になっている。ただ、それとはべつにそれなりにリア充みたいなものでもあるので、対人的ないわゆる孤独というのでもない。
 おちゃらけな性質とかいう点ではブログの自分と社会の自分は同じだし、そういうブログ人格の作り込みはしないのだけど、知的な関心や感性の部分では、社会的な自分とブログの自分はあまりオーバーラップするところがない。ネット的には匿名の本体が実名というスキームなのだろうけど、ある意味で、私の場合は実名のほうが社会的に整合されていて自分らしくない。
 というか、それは私に限らないのではないかな。私は自分を人生の失敗者だと思う。ある意味でどうしようもない残骸・瓦礫の山みたいなもので、そうしたものがブログに出てしまっているのだろう。それはそれで拒絶可能な表出でもある点で、それほどの責はないのかもしれないし、ネットで著名になろうと思うことはない。
 こうしたことは親族関係のなかでもそうなのかもしれない。
 結局、対幻想、共同幻想、個人幻想の相貌はそれぞれ違う。ただ、それがブログと社会と単純に切り分けているわけでもないだろう。