今日の大手紙社説
特になし。
日経春秋 春秋(4/9)
ことしはその蕊ごと、桜の花が萼も柄も一緒にぼとりと落ちている、という話を何回か聞いた。花弁が散り、次に蕊が降り、続いて若葉が光り、果実が熟する。命の型は季に応じて鮮やかに移ろう。連綿と続いてきた自然の型に異変が起きているように、人間社会の型もまた崩れつつある。
ちょっと野暮な話になるけど、染井吉野というのは人間が作り出した一種の畸形であって、実生にならない。クローンなのだ。日本中に咲き乱れる染井吉野の木のようにみえるものは、実は一本の木の枝といってもいい。
非自然というか超自然な産物であり、あれは昭和という時代の不自然生を象徴している。
⇒極東ブログ: 敷島の大和心を人問はば朝日に匂ふ山桜花
朝日社説 白川総裁―難産の子を育てるには : asahi.com:朝日新聞社説
それにしても、なぜこんな混迷が生じたのか。日本の政治が中央銀行という存在をここまで軽く見ていたのか、との思いが募る。
最初からこの問題は制度の問題なのに各種の思惑で紛糾させたから混迷のように見えただけ。そしてその制度が放置されたのは、実はみなさん自民党政権が未来盤石だと思っていたから。
中央銀行が政治や政府から独立して金融政策を行うのは先進国の常識だ。どこの国でも、政治は目先の景気をよくするために利下げを求め、利上げを嫌がるものだ。ただそれに従っていては、やがてインフレを招いて経済を台無しにしてしまう。
「中央銀行の独立」とは、そうした歴史の教訓が生み出した人間の知恵にほかならない。残念なことだが、日本の政界にその意識が薄い
これは間違いと言っていいのではないかな。「中央銀行の独立」は手段のありかたであって金融政策という目標は行政の一部。朝日新聞ですらそこがわからないのも今回の混迷の一端だった。
難産の子はよく育つと言う。政治にはうまく育てるための自制と賢明さを求めたい。
世間では「難産の子はよく育つと言う」と言ってもいいけど、社説で言うものではないと思うよ。聞屋は世間の難産をよく知るべき。
晴れ
桜がわずかに残っている。深緑がきれいだ。新学期が始まったのか道を行く風景が違う。
夢は朝の喧噪で忘れた。
よくわかんないニュース
⇒美女特警转行当交警 司机打望引发车祸(图)_社会图片_新闻_腾讯网
見てわかる部分はあるけど。
そういう感性もある
⇒働くって、辛いね。[その他] : 真性引き篭もり/entry
会社に行きたくない。仕事をしたくない。働きたくない。俺は誰も、殺したくない……。
たいていは、(1)愛、(2)信念、(3)惰性、(4)遊びの延長、で働く。
「殺したくない」は詩的にはありそう。愛があると愛の秩序があり殺すことが楽になる。信念があるともっと楽。
すると惰性がいいのかとなるけど、惰性で殺すというのは、あれ、我々が誰かに動物を殺させてウマーとか言って食っているのと同じ。
50代ネットライフ
⇒livedoor ニュース - 【コラム】 僕らの上司世代ってどんなネットライフを送ってるの?
50代といえば僕らの上司にあたる年代だけど、彼らは一体どんなネットライフを送っているのだろう? シニア世代のネットコミュニケーションを研究するマミオンの森万見子さんにナビしてもらおう。Web上には「おっさんホイホイ」(中高年男性を惹きつけるモノ、こと)なんて言葉もあるようですが…「旅行」「健康」「マネー」あたりが鉄板人気?
「それらはどちらかというと60歳以上の関心分野でしょうか。50代前半はまだまだ現役、心は30代です。ネットには刺激を求めて、面白いFlashを紹介し合って盛り上がったり、意外と2ちゃんねるが好きだったりします。もちろん、恋愛も重大な関心事ですし」
2ちゃんは別に好きでもないな、俺。バカフラとか見ないし、シンバシ、シンバシ。烏龍茶脱出ゲームとかしないし。
「ウェブに限らず、シニア世代向けのメディアは『おとな』と連呼しますけど、ユーザーがピンときているかどうかは疑問。実際、私たちが行ったユーザーテストでも50代前半の方は『おとなというフレーズは自分とは関係ないように感じる』ようです」(同)
概ねそう。
シニアと呼ばれても、心は永遠の30代! 確かに、高度経済成長期を体感し、バブル期を謳歌した世代ですからね…バイタリティ豊富なのは当然か。
そこはちょっと違うんですけどね。そこって「高度経済成長期を体感し、バブル期を謳歌した世代ですからね」のところ。
心は永遠の14歳!
14歳 (1) (小学館文庫): 楳図 かずお |
他人に言及しなければ、自分も言及されるわけという思い込みの人問題
inspired by 他人に言及すれば、自分も言及されるという自覚がない人問題 - ARTIFACT@ハテナ系
表題だけで内容はないよ〜ん。
ちょっと釣られる
大人げないけど、ちょっと、釣られる。
⇒不運と理不尽に襲われたとき、うまく切り抜ける人と、逃げ切れずに酷い目に会う人の違い - 分裂勘違い君劇場
そうでもない。
そして、そのような世界で、不運と理不尽に襲われたとき、マッチョになる道を選ぶか、ウィンプになる道を選ぶか、それはあなたの自由だ。
そうでもない。
これは、一見、数学の決定不能のフレームワークのように見える。いや、決定不能じゃなくて、打ち切りの地点が理論的に決定できそうに見えるということ。
ところが、これは、どうもそうではない。
短期的には、分裂君が正しい。短期のスパンは10年くらいだろうか。
20年のスパンを超えると、「そうでもない」が出てくる。
というか。
ネタにマジレスっぽいけど、比喩の元の「自然淘汰的プロセス」ですらそうではない。
ではどうなのか?
これは現象の共時性をディスクリプティブに見て、それを通時的にアーケオロジカルに整理するといいというか別に気取ったいいわけではなく、たんに20年スパンで全体の変化と生存戦略を見渡せばあらかた結果からわかること。
あと、すでにこの手の問題は、素人床屋談義ではない部分がドラッカーなどにもあるので、そのあたりを参照するともうちょっと、言い方は悪いけど、マシな結論は出る。
明日を支配するもの―21世紀のマネジメント革命: P.F. ドラッカー,Peter F. Drucker,上田 惇生 |
まず、こうした状況で、実際には、選択の自由というのはない。あったら、そもそもこの前提のマッチョ=生産性が必要とする獲物の子羊というか歯車というかが存在しえない。
つまり、これは全体が一つのシステムなので、自由というは、システムが必要とする配分の許容性でしかない。
すると、そのなかでどのように生存戦略があるか、なのだが、同様にこのシステムは子羊や歯車の生存も維持しないとやっていけない。ウイルスが寄生主を殺したら生存できないのと同じ。ただ、全体システムの規模が変わると、摩滅的に殺傷される部分はかなり大きくなる。
で、その生存戦略はむしろ、「自然淘汰的プロセス」のなかにある。
基本的にはというか結果的には、種の多様性がそのプロセスの結果である。