大人は汚いと思っていたし今も思っている

 まあ、そんだけなんだけど。
 少年・青年期に大人は汚いものだなと思った。今にして思うと、誰も自分を愛してくれないじゃないか、という思いと、自分の中の矛盾で懊悩していただけ。
 大人になると、誰も自分を愛してくれないのは前提というか、で、何か? になるし、自分の矛盾は自分で引き受けるようになるから、その分汚くなる。懊悩は、やってしまった後の、罪のような感覚になる。大人の顔というのは、どっかに松ヤニのように罪がべっとりついているもので、その下に顔が見えるか見えないかくらいなもの。大人の顔になっていない大人もいるけど、まあ、率直に言えば狡いな、お前らのために大人は泥を被っているんだぜと思う。お子ちゃまについてもそう思うけど、そう言っても通じないし、そこまで自分の心の中の子供を虐待するものでもないと思う。
 大人は汚い、嘘だと、みたいな、糾弾をする日本人の類型というのがあって、類型だからごろごろいるわけで、それが何をもたらすか、結果はわかっている。酸鼻なものになるよ。ネットでもそうだけど正義でどんぱちやる光景を薄目でみたら、おまえら個室でオナヌーをするほうがええよとか思うというか普通そう思う。
 とはいえ、汚い大人になってどうとなるものでもないし、罪は罪の懊悩があるし、漱石先生の「こころ」のKは、そういうきれい事だけという問題でもないし、まあ、意外とどうしようもない問題がある。
 それに「性」がからむ。
 あまり言うのもなんだけど、「オレ、非モテ」とかいう男は、どっかに「でも汚くなりたくないよ」な感があるのではないか。いや非モテの現実ってそんな理念的なもんじゃないというのもあるだろうが。が、それでも、ええい汚れてしまえみたいに人は生きているというか、どっかで、ぼろぼろになる時期というのはある。
 先日、人と話していて、カトリックエバンジェリックな人は除くとクリスチャンというのは独自の暗さがあるよねと。まあ、そうかな。そのあたりもけっこうめんどくさいもんだいだ。
 そういえば、山本七平バッシング華やかなりしころ、彼を街中に見かけた人が、その顔に浮かぶ焦燥感を見てあれは心にやましいものがある人間だとか言っているのを読んで、この人、救いようがないなというか救われている人間の残酷さというか、七平さんの人生を見れば、そんなのはわかるはずだよ。人をイデオロギーで見るんじゃなくて、生き様で見るといいと思う。受け入れる受け入れないじゃなくて。というか、人間どっかで、かならず松ヤニべっとりになるわけだから、それは大人を見て学ぶしかない。
 でもなあ、尊敬する人は、お父さんお母さんとかいう時代なのかもな。ぐふぇえ。