産経社説 【主張】アフガン問題 リスク担う国際協力を 払拭したい軍事アレルギー - MSN産経ニュース

 アレルギーの問題じゃなくて国家の仕組みの問題なんだが。

 だが、憲法で禁じられているのは、日本が第三国との紛争を武力で解決することであり、国連の枠組みは問題ない。
 ■内向きと政争で国滅ぶ
 こうした問題をいかに克服していくか。民主党が先にまとめたアフガン支援法案は廃案になったが、武器使用を国際基準にすることが盛り込まれていた。小沢一郎民主党代表はISAF参加への意欲を表明したことがある。
 首相と小沢代表とがいがみあっている状況ではない。衆院議員の任期は9月までだ。

 政党の話会いの問題じゃないんだが。

毎日社説 社説:人に優しい社会を=主筆・菊池哲郎 - 毎日jp(毎日新聞)

 2兆円ばらまくなど政策といえません。たとえば全額投入してがん治療特効薬を開発する、次の産業である航空機開発や介護用ロボットを完成する、アジアの学術の中心都市を作るなど有効なお金の使い方はいくらでもあります。それによって生きがいを保証する雇用を創出し社会の安定をもたらすことが、政治の基本中の基本なのです。

 食料自給率や食の安全への不安は、アメリカ不信と無縁ではありませんし、農業復帰を通した地方再生や人々の生きがい回復にもつながっています。同じようなことはエネルギー供給への懸念や裏腹の環境問題への関心の高まりでもいえます。

 政治の最終目標は人に優しい経済社会を作ることです。それが今回アメリカ的価値観の崩壊からわれわれが学んだ教訓です。久々にみんなで新しい挑戦を始めようではありませんか。

 隔絶したものを感じるな。

ログイン・快晴

 今日までが三が日。東京の人口が少ないと感じるが、TVでは福袋で賑わうデパートを移していた。福袋というものを買う心理は自分にはわからないなといつも思う。欲しいものではないのになぜ買うのだろうか。お得?
 夢は見たが忘れた。こってり見た感じはする。解剖学かなんかだったようにも思うがグロなシーンはなかったはずだ。

これね

 ⇒吉本隆明とフーコー
 で⇒はてなブックマーク - 吉本隆明とフーコー

narima001 増田, 批評 ばななのパパ涙目。 2009/01/03

 ある意味ではそうなんだけど。つまり、「吉本さんはヘーゲルをドイツ語できちんと読んでいるのか?」なのだけどね。ただ、吉本のマルクス関連をフランス語にきちんと訳せたらそれはそれで違ったものになったかもしれない。
 橋爪大三郎レビ=ストロースを個人訳して吉本に送りそれから橋爪は構造主義と吉本を追っているし、それからその関連だったか、共同幻想論には仏訳があるのだが、読まれていない。吉本があの時代のフランス思想をどう受け止めたかは「情況」の側を見るほうがよいのだけど、それなりに普通のおフランス哲学解説者くらいには理解している。
 まあ、吉本の頭の悪さを弁護するわけではないんだけど、なにかもどかしい問題というのがあって、橋爪は気が付いているし、蓮実も気が付いていた。というか、あの頃蓮実はそれを買って出て、蓮実としての惨敗をしたのだろうと思う。たぶんこんな感じかと思う、吉本さんは、いざとなると八百屋のオッサンの横で釣り銭受け取りの仕事しても完璧にこなす、オレにはかわない、というような。(吉本はそういう層から革命を起こすことを考えていて、そしてその生涯をもって歴史に敗北した。)
 そういえば
 もとの。

口先だけで国際化を論じるのは簡単だが、こうした一例を取っても、道はまだまだ遠いのだ。

 これだけど。吉本はサルトルに対して、自分の思想は負けているしかなわないと言っていた。理由は、あいつらは西洋史というゲタを履いているからな、と。そこは西欧の文化というものに体当たりした日本人なら、うあ、かなわない、と思うと思う。かなうのは桜沢如一くらいなものかも(これは洒落です。)
 ではどうかというと、吉本は、国際化というより、これを読むために世界の知が日本語から訳してでも読みたいという著作を書くことだねと言っている。まあ、そうかもしれない。たぶん、それに匹敵するのは、道元くらいかな。

微妙に釣りかな増田

 ⇒健康な人を選べばよかった、

まだ自分のうつ病への理解が足りないのかな。
もっとおおらかに見守り続けるべきなのかな。
相方がネットでポエミーな言葉を書いていると反吐が出そうになる。
健康な相手を選べばよかった、と思うようになってきている自分が嫌だ。

 このあたりは釣りっぽいけど。
 「三十路でしょ?一番大事な時期に何をしているの?」は女が言いそうなリアリティはあるか。
 ⇒はてなブックマーク - 健康な人を選べばよかった、

REV 理解≠受容。共倒れは双方にとって不幸(だと思う)。 2009/01/03

 REVさんの微妙な立ち位置。まあ、他人が言うなら「(だと思う)」で終わりだろうけど。

そういえば大島渚のかみさんが

 彼はベッドの上でもいさましいわよ、うふふ、とか言っていたのを記憶している。
 ⇒大島渚 - Wikipedia

 激情型の性格で、韓国の文化人との対談において相手方に対し暴言(「ばかやろう」発言)を吐き問題を起こしたことがある。
 大島が結婚30周年パーティーを開いた際、壇上で祝辞を述べる予定だった作家の野坂昭如の名前を読み上げるのを忘れ、酩酊していた野坂に殴られた。このときは、持っていたマイクで殴り返す奮迅ぶりを示した[1](のちに互いに反省文を書き送り合った)。

 元気な爺さんでいてほしいなと思う。

ブロガーを特徴付けるのはたぶん情報の「速度」なんじゃないかな

 ブロガーと知識人というか、あるいはTVのコメンテーターでもいいけど、それ以外のメディアにおける知の違いというのは、速度なんじゃないかなと思う。
 私が、あ、この人はブロガーだなと感じるのは、情報の受け答えの速度みたいな部分。
 例えば弾さんの⇒404 Blog Not Found:学者も人の子 - 書評 - 科学者たちの奇妙な日常

これは、著者のblogにも感じることだ。
私はアルファブロガー(笑)なので、書評も含め「一般的」な話題も多く書く。
その一方で、プログラマーでもあるので生のコードも遠慮なく書く。
それでも「一般読者」もついてきてくれるし、バリバリのコーダーも読んでくれる。
自分の専門分野のことをとんがって書くことと、一市民としての日常をやわらかく書くことは両立する。別に私だけではなくて、人気blogの多くがそうである。前述の渡辺千賀のblogのタイトルは"On and Off and Beyond"。オンがあるからこそ、オフが生きる。

 このあたりの感性はああ、ブロガーなんだなと思う。速度を感じる。
 「こんなアホなブロガーよりおれっちのほうが頭がええんだ」みたいな人もいるけど、ブログの速度がそれに見合っていないというか、ブログの速度の、なにかのふっきりかたが求める知のありかたがわかってないような感じがすることが多い。
 ただ、速度といっても、つられてぶくまぽちっと脊髄反射することではないんだけど。また、ネタの速度というわけでもないんだけど。
 不完全でも前に出ちゃう、出してしまうほうが、最適解へのヒューリスティックになるだろうというような確信かな。
 スタイルはそれに対して両義的だとは思う。
 ブロガーのそうした速度という知がなんぼのもんじゃいというのはあると思うけど、まあ、このあたりは、先っぽのほうに速度でつい出ちゃうという感覚がないと見えづらいかも。

ハイデガーとか

 ちなみに私のハイデガー観みたいのはこれが多めに書いたかな⇒極東ブログ: ハイデガー「技術論」から考える新しいゲシュテル
 あとこれもかな⇒極東ブログ: [書評]反哲学入門 (木田元)
 これはfinalventってバカなんじゃないのとかデカルト読んでなさげな人たちに言われたけど⇒極東ブログ: 「我思う故に我有り」は微妙に誤訳なんじゃないか
 でと。
 レスではないけど⇒ハイデガーについてもうひとこと言っておくか。 - 呂律 / a mode distinction
 しかも文脈は違うけど。
 自分とハイデガーの出会い♥をちょこっと。
 最初にずばっと言ってしまうと、ハイデガー好きのみなんさんは、ハイデガー好きになる前に、哲学史というか西欧の哲学史の危機みたいな知の雰囲気に惹かれすぎていると思うのですね。そしてだから、コジェーブ、サルトルデリダみたいなふうなものに、ちょっと悪口みたいな言い方だけど、酔っている感じがしますよ。
 このあたりは実はけっこう精緻に読まないといけない部分があって、意外というと悪口みたいだけど、南無さんがフレームワークをしっかりしていた。
 で。
 そういうふうな道を取ると、どうしても「存在と時間」をきっちり理解しなくては、というふうになって、そして日本だと、儒学の伝統みたいに訓詁学になってしまう。でも、このとき、ハイデガーがどんだけ解釈学的思考において、荒くれるかというのは忘れている。
 たしかに、「存在と時間」をきっちり理解しなくてはコジェーブ、サルトルデリダみたいなものについていけない。カミュサルトルに、勉強せーよと軽くいなされてしまう部分はある。そしてそれを理解するには、さらにフッサールをという流れになる。ただ、このフッサールという場合に、いわゆる現象学と後期の生世界の部分と(雑駁に言うとだけどね)があって、後者のほうはハイデガーの転回と繋がるというか、西欧の知と存在の危機という認識がある。この危機ってどういう感触かっていうのは、西欧人みたいな歴史に埋め込まれていると自明なんだけど、日本人にはあれはよくわからん。むしろ、日本人には別の歴史的危機というかあるんだけど、というか、そのあたりの、正直いうと滑稽な表出が近代の超克ってやつですね。このあたりは、柄谷行人がしょろしょろと触れているところ。
 このあたりの迷路というか隘路は、木田先生が解き明かしてくだすった感はある。
 でと。
 私は、なんつうか、そういうハイデガーとの出会いをしてないのですよ。
 ではどういう出会いだったかというと、村野四郎です。
 ⇒村野四郎 - Wikipedia
 村野四郎というと、「体操詩集」(昭和14年)みたいに、まあ、西脇順三郎とみたいに、欧米的なみたいな理解だけど。
 ⇒西脇順三郎 - Wikipedia
 議論されたのみたことないけど、「体操詩集」(昭和14年)はとんでもない詩集ですよ。ぶっちゃけいうとハイデガーのサイテーさがよくわかるような。
 話を端折ると。
 村野はある意味で私のティーンエージの詩のお師匠さんでもあって(ちなみにもう一人は山本太郎)、まあ、影響受けたわけですよ。で、だから、わかった部分が多いし、村野は誰も聞いてないっつうのなのにぼそぼそ後期ハイデガーを語り続けていたボケ爺さんだった。
 でも、そこに意外とハイデガーの本質みたいのがあって。
 これがけっこうすんなりわかってしまったのですよ。当時は角川文庫のだったけど。

cover
「ヒューマニズム」について―パリのジャン・ボーフレに宛てた書簡 (ちくま学芸文庫): マルティン ハイデッガー, Martin Heidegger, 渡邊 二郎

存在と時間』(1927年)において、世界内存在する人間の実存を深く掘り下げ、これを現象学的解釈学的に精緻に分析して、哲学界に深刻な衝撃を与えたハイデッガー。そのハイデッガーが、第二次世界大戦を挟む長い沈黙を破り、書簡体の形式で世に問うたのが、この「『ヒューマニズム』について」(1947年)だった。いわゆる人間中心主義の「ヒューマニズム」を批判しながら「存在の思索」を説くこの小さな本には、後期ハイデッガーの思想が凝縮した形で表明されている。「故郷喪失」の現代の「世界の運命」のなかで、私たちは存在の「開けた明るみ」の場のうちに「住む」ことを学び直さねばならない、と。

 というのをむしろ先に見てしまったから、私にはサルトルは、率直にいうと、知識人がマルクス主義に堕していく典型例の意味合いを覗くと、実存主義とかただのアホちゃうかと団塊世代実存主義に入れ込んでいたのは、ひやっとみていた。
 まあ、そんな感じですか。

よくわからないのだけど

 ⇒asahi.com(朝日新聞社):社民党、党本部の開放を検討 「派遣村」パンクで - 就職・転職

今回は天災ではなく、政治災害であり、避難民だ。

 よくわからないのだけど、日比谷公園の「年越し派遣村」って、年中行事の越冬闘争じゃないの?
 いや、批判とかでは全然ないのだけど、実態がよくわからない。もっとも寝る場所もなく実際に困っている人は救助すべきだと思うのだけど。