毎日社説 社説:侍ジャパン この感動をぜひ五輪でも - 毎日jp(毎日新聞)

 ただの、べたな、放言。
 「侍ジャパン」、この言葉を聞く度に胸糞悪くなりますよ、俺。
 「侍ジャパン」という含みの侍、なんてものは、日本になかった。あったのは、郎党の武力集団でありその掟、あるいは宮本武蔵のような大道芸人。あるいは、江戸時代の官僚、つまりサラリーマン。
 そもそも士農工商の士とは侍の意味ではない。

毎日社説 社説:北朝鮮「衛星」 MD対応含め万全の態勢を - 毎日jp(毎日新聞)

 ありゃ、毎日新聞まで。

しかし、当たるわけがないなら、多額の費用で開発・配備されたMDそのものを再検討すべき事態だろう。政府内の無責任な迷走発言にはあきれるばかりだ。

 毎日新聞さん、ブーメラン、当たってます。

朝日社説 WBC―アジア野球の新しい風 : asahi.com(朝日新聞社)

 一読、放言が浮かぶ、野球にアジア流なんてねーよ。
 アメリカ人のこれはいいところだなと思うのは、野球好きはどんなやつでもすばらしいプレーヤーをきちんと褒める。もう一ついいのは、それが地域コミュニティーに根付いていることだが。
 こんな感じ⇒極東ブログ: 日本の野球を変えてくれ
 朝日社説に戻って。

 機動力を生かしたきめ細かい野球の日本。スピードと積極性で相手を狂わせていった韓国。5度の勝負を競い合った両国のプレーには、応援していた国民の性格と通じるものがある。

 「国民の性格」ですか。朝日新聞もそんなことを言う時代か。

晴れ

 体調がやや不調。夢は見たがもう覚えていない。雑学的にいろいろ基礎的なことを勉強し直すと、ヌケが多くていやになる。50歳にもなってこの程度の基礎知識かと愕然とするが、まあ、まだ老ならざれば、壮にして学べば則ち老いて衰えず、とありがちが、壮とは一斎の時代では30歳くらいだろうか、と、一斎先生の享年を見るに満で88歳か。おおっ、じゃあ、50歳をもって壮としてだらだら老後を迎えたいものか…違う違う。

ちょっと先回り的

 おおや先生を借りると(借りるだけです、はい)⇒雑感 - おおやにき

ここから、受領側が可罰的になるのは故意がある場合、すなわち合法的な枠組が偽装であって実態は違法な献金であるということを認識し、かつそのことを最低限消極的に認容していた場合ということになる。問題はこの「認識」ないし「認容」であるが、これを正面から「ありましたか?」などと聞いてもおそらく単に否定されるだけであって、それは全身をナイフでめった刺しにしておいても「殺すつもりはありませんでした」とかのたまう被疑者がいることと同じである。いやもちろんそれは彼の主観においては真実かもしれないが、要するに我々はそんなものを刑事責任を問う裁判の基礎とすることはできないのであって、この部分に関する認定基準は客観化されている。つまり、言葉の上では「認識」とか「認容」とか、あるいは「過失」や「故意」のように当事者の主観の問題であるように読めるのだが、実際はその有無について「我々」が認定するための客観的根拠の有無が問われているのである。

 まあ、だから、自白したしないかの問題じゃないんですというのが、法のロジック。
 まあ、それはそう。
 でも、ぶっちゃけ、日本検察権力は空気の上に成り立っているから、対外的には自白のロジックはそれなりに広報的に有効というか、その方向でリークが出る。

さて、そこでいう「客観的根拠」としては当人の行動・言動の整合性(当事者はある程度の理性と首尾一貫性を持って行動していると想定する......前に触れたprinciple of charityでもある)、他の当事者の証言等との整合性などもあるわけだが、何といっても強いのは物証であろう。

 なので、今回のどたばたも、まあ、ぶっちゃけ、長野の件で、ブツが出ていたでしょと考えるのが妥当、まあ、それはそうなんですよね。後出しじゃんけんとか言われそうだ、が。
 が、というのは。
 今回は、ちょっと違ってるんじゃないのかなとは思った。
 これもぶっちゃけでいうと、検察が動揺してんのな、詰めの甘さはあったんじゃないか、つまり、検察内部と、空気広報の両面で。
 で、なぜそうなったかなのだけど、さすが、オールド左翼のコネは強いわ、っていう地味な底力もなんだけど、これまでの検察のリークのスジがうまく行きすぎて、リークじゃなくて、マスコミ側にそれが一種の既得権というか報道側の強みみたいな、おっとぉおめーらにその飴玉は渡してねーのに状態になって、マスコミ側が錯乱してしまったのではないかな。
 なので、マスコミが自分で多少なりとも考えだしてしまった。検察様的には、お、おい、そこでお前らの頭でお話考えるんじゃねー、だったのでしょう。でも、それってブーメラン効果にすぎないと思うし、マスコミも話題がないとやっていけないし。
 そんなところだったんじゃないかな。
 私としては、まあ、空気側のオチも面白かったけど、検察側のブツの説得力ねーんじゃねーのというか、高校では三次方程式は解けません的だったのではないかな。
 政局的には。
 小沢さんとはなんとなく長い昭和なお付き合いなので、どうしても心情的に傾くけど、だから、逆にシンパの方とずれてしまうのだけど、あのナベツネ大連立がほんと失敗だったなと、小沢的至誠がほんとこけてしまったし、あそこでぶっち切れてしまった。あのあとの田原坂は見ていて泣けそうな感じというか、こういう顛末になったわけだ。というか、これはもう、国民は武蔵を待望しているのであります、是非もない、的な、世界でしょう。
 で、政局的には。
 麻生さんの次の弾は実質ないし、自民党はガラポンをやる気はないし、地味に匍匐前進、マドルスルーして、ガイトナーの大博打が当たるといいな状況でしょう(あたるのかアレ?)。で、またぞろ中国雑伎団も始まってしまったし、露西亜はへろへろになっているし(なのでEUに意外とよいエフェクト)、この状態でなんとか保つといいのだけど。ロングリヴィフォー、アブドラ国王!的な世界も。
 短期的には、民主党は、小沢から岡田に禅定するというか、もともとそういうストーリーだったわけで、検察さんってば意地悪というより、まあ、民主党内のお家のご事情は大きいのしょう。
 両党ガラポンとなるかだけど、それって面白いとはいえるけど、もっとめちゃくちゃな世界になると思う。
 ああ、結論? 麻生さんがんばれ。私は神様ではないので、カオスから世界が創造されるとは思わない。現状維持が大切。別段、福田さんで継続でもよかったけど、あれね、男の真価は知性じゃなくて、キンタマ
 あと、俺は、ヒールが大好きだな。
 政治っていうものがどうしてもヒールを生み出してしまう悲喜劇はなんて面白いのだう。

あ、なるほどね

 ⇒カップヌードルの“肉”変更に賛否、ファンからは「改悪」の声も。 | Narinari.com
 ちょっと忘れたけど、日清がなんでこう際物を連発するのかと思ったら、そういうことか。というか、「コロ・チャー」をどれか忘れたけど際物で食ったよ。へぇ、肉のフリーズドライも進化したわと思った。
 なので、あの際物群、市場調査を兼ねているのか。
 なるほどね。

アメリカ人ってすごいな的な話になるのかまあちょっと書いてみるの巻

 日本人にもいろいろあるように、なんてどころじゃないくらいアメリカ人というのはいろいろあって、みんながそれぞれ見えるところで象を撫でるの感だけど、逆にいえばそうして撫でた部分だけは経験の真実なんだろうと思う。まあ、だれもがそんなもの。でも、そのなかで、どこかしらアメリカってそういうことかみたいなものはある。抽象的に言えば、アメリカというのはNew Worldということなんだろうとおもうし、ドボルザーク的な響き。
 話がわかりにくくなるけど、アメリカ人というのは世界の田舎者なんだ、そして、そのことを実に痛感している人々なんだという感じが、20代後半になってなんとくなくわかってきた。以前は日本人は海外団体ツアーで旗のもとにぞろぞろ歩いていたものでそれを揶揄されたものだけど、トルコとから観光旅行してみたら、それやっているのは米人だった。ああ、同じじゃん、と。
 そのあと、一人でギリシアとか周って、観光オフィスで車頼んだりとしていると、米人のそういう人にもあって見ていると、お婆ちゃんがギリシア人、父親がアルメニア人とか、まあ、そんな感じ。あれだな。私が文化的なルーツを信州人と見ているのが、世界にぶん、と広がったくらいなんだろう。そのあたり、ユダヤ人とイスラエルの思いのようなものはあるのだろう。
 で、アメリカ人はようするにド田舎人だからこそ、欧州コンプレックスがひどくて、上流階級は極端に逆ブレするし、なんといっても上級階級が存在する。というか、アメリカのそういう威厳みたいなものは、欧州が歴史のなかで結果的に打ち崩したはずの、ローマ帝国幻想なんだろうと思った。
 日本というのも明治時代にひでー擬古をやってのけたけど、アメリカはその比ではないな、と。そこまで欧州の歴史というか、白人的な歴史というものにコンプレックスを持っているのか、と。まあ、この話は長くなりそうだ。
 話はがらっと変わるというか、欧州人というのは、どうも米国人とは、まったくでもないが、違う。なんというのか、簡単にいえば、これってインドのカーストとなにが違うねんというくらい、階級が染み込んでいる。だから、なるほどこういうところからマルクス思想みたいなものは出来てくるのだろうと思ったし、それらの根もざっぱくに言えば、普通の意味でフリーメーソン的な兄弟愛の、共和国思想なんだろう。ただ、この根にあるのは、もっと土俗的な地域共同体というか、社団国家的なものなだろう。
 で、日本にごろっと来ている外人は、今はどうかわからないけど、欧州的な階級世界から解放されたし、やさしいちっこいおねーちゃんはいるし、という天国に見えたのではないかな。小泉八雲というのはある原形なんだろう。そういうところに、ああ、欧州というものの、どうしようもない悲しみというのは思ったというか、がんこすぎというか、そういえば、セリグマンのエッセー読んだとき、面もよくてカネもあるのに非モテ君の話があって、セリグマンは、あのさ、アメリカ娘あきらめたら、と示唆。で、欧州人と結婚したうまく言ったと。まあ、それがじんとくるあたりのどうしようもないものがある。
 話があちこちだが、マカオの先の島とか、バリ島とか、ふらりと旅したとき気がついたのだけど、けっこうごろつき欧州人がいる。もちろん米人もいるのだけど、欧州人のほうが、月と六ペンス的なごろっとしている。あれは、本当の意味で帝国主義の精神というものかなと思った。なんか、帝国主義というのはビスマルク的なものじゃなくて、ごろっとアジアでだらっと酒飲んで、そこらの女をはらませるみたいな。ああ、なんなんだろあれみたいな。そいつらのキンタマはすごいと思った。知性は阿呆に等しいが、いやそうとは思わせないぎらりとしたものがあった。米国人だとどっかカンイドリーでそういうのはないか、おまえどこの新興宗教みたいになる。
 なんかいつまでたっても当初の話にならないが、くたびれたのでおしまい。