finalventの日記

2009-04-23

ありがちな思想の錯誤

 ある年代以上で思想に関わった人間ならほとんど暗唱している吉本隆明「マチウ書試論」だけど。

 人間は、狡猾な秩序をぬってあるきながら、革命思想を信じることもできるし、貧困と不合理な立法をまもることを強いられながら、革命思想を嫌悪することも出来る。自由な意志は選択するからだ。しかし、人間の状況を決定するのは関係の絶対性だけである。

 全共闘世代が残した唯一の遺産たりえるのはそのあたりかもしれないと少し思う。

 finalventに対して、お前は中国に謝罪せよ、イスラエルに加担する卑怯者だ、とか言う日本人さんがいらっしゃるが、「人間の状況を決定するのは関係の絶対性だけである」がわかっていないのだろう。そう言う日本人とfinalventとは、日本国家という関係の絶対性においてまった変わるところがない。対国家の関係における関係の絶対性において、finalventもその批判者も同じ日本人として疎外された存在であり、そこを考察しえなければ、「人間は、狡猾な秩序をぬってあるきながら、革命思想を信じることもできるし、貧困と不合理な立法をまもることを強いられながら、革命思想を嫌悪することも出来る」というだけにすぎない。そしてだからそれが何ももたらさなかったのが戦後の思想の荒廃だ。

 荒廃を深化させているのは、関係の絶対性を隠蔽して批判できうるという幻想の優位を、他国民に依拠したような偽装するからでその偽装が限りなく、個の国家的同値性における自罰の形態を取る。これは倒錯した形の自己尊大化幻想でしかない。というか、それが権力の欲望であることに気がつかないのかこのバカ、といった類だ。

 人は国家の関係では正当に矮小でありうる。というか、それ以上の存在としては疎外されない。

 では思想とはなんであるかというなら、その関係の絶対性、つまり、国家幻想をその内部から止揚するにはどういういう道がありうるのかと問わなければならない。

 吉本はその矮小さを無限に押して共同幻想(国家)をゼロにする未来を描き、その道に、対幻想を置いた。ぶっちゃけいえば、男なら己の生を女すべてに掛けるといっていい。そうした生きた男女はすでにやすやすと国家幻想を超える、かもしれない。だが、人はおそらくそう生きることはできないのではないか。また、男女はその子を国民として生すことになるではないか。

 吉本が見失ったのは、国家幻想に倒立した形になる個人幻想を、まったくの共犯の関係と見なしえなかったことだろう。とはいえ彼は「市民」を拒絶する。市民は国家と同値だからだ。ところが残念ながら、思想の自由とはこの市民=国家に依拠する。

ぼくたちは、この矛盾を断ちきろうとするときだけは、じぶんの発想の底をえぐり出してみる。そのとき、ぼくたちの孤独がある。孤独が自問する。革命とは何か。もし人間における矛盾を断ち切れないならばだ。

 「孤独が自問する」とき、それを「ぼくたち」と呼びうる連帯が薄らと想定されるが、それもまた市民原理であり国家に行き着く。

 吉本は80年代に革命の幻想を捨てた、というか不断革命とした。欺瞞の臭いはするし(本当は捨ててないのではないか)、彼自身、国家権力の直接的な暴力には敏感だった。が、その答えは見えてこない。

 市民が国家を超えるなら、国家を超えた人間を定義するように国家の向こうに声を発していかなくてはならない。国家の内部で偽装された正義が権力を振るうのではなく。

antonianantonian 2009/04/23 13:06 前にもお話ししたかもしれませんが、(いや、自分のブログで書いたのかもしれない)ある広州出身の学者が「僕は日本により親近感を覚える。北京は広州から遠いんだ」と言っていたのを思い出します、彼曰く、広州の人はそう考えるらしい。そしてそれは何故か?と問うたら「中国人は身体的な近さで考えるからだ」と答えました。抽象的に引かれた国境など僕らには無意味だと。

吉本の『共同幻想論』というのは若い頃読んで感銘を受けた記憶があります。なのに脳味噌の容量の性で内容をすっかり忘れていました。しかしその時なんとなくそれを思い出しました。

以前もコメントで書いた高行健の小説はこの身体性から来る感覚と国家との対峙がテーマと言いますか。彼は「中国」の歴史の古層、あるいは、革命下にすべての人民が駆られていった狂気の世界を書くと同時に、女との情交に耽溺しながら「結婚」に恐怖している一人の男を書き出している。

彼の小説『霊山』と今、読んでる最中の『ある男の聖書』は、このところずっとfinalventさんが語られていることに通じる問題を絶えず問いかけてきます。

わたくしには時々「絶対的な孤独に身を置きたくなる衝動」があって、砂漠のようなとこに行きたくなります。植物ですら生きているがゆえに語るんですね。それが煩い。
しかしそこでは生きられない。だから再び帰って来るのですが。

finalventfinalvent 2009/04/23 13:54 antonianさん、ども。単純に言えば、恋愛というのは本人たちを流してやすやすと国境を越えるものではあるとも言えるし、そこにある理想の原型を見たいようには思うのですよね。ただ、それがどうも人の普遍ないし、普遍性に至る原理とは到底思えない。ただ、性と向き合う個、というものに、のうのうとした市民を超えるなにかがあると思うし、それは孤独の原理かもしれないと思います。言うと抽象的になりますが、ある種の、普通の生き方の感覚ではあると思います。

antonianantonian 2009/04/23 14:44 確かに国境とか人為的なものは越えます。モラルすら。聖域の人間が畏れるのは無理もない。

ただ、男女間の性の関係はもっとも孤独な作業だと思う事があります。なにか却ってその人との距離感を感じてしまうような不安感がつきまといます。わたくしの場合はそれが恐くてそこに踏み込めない自分がいたりします。

finalventfinalvent 2009/04/23 15:23 antonianさん、ども。男女間の性の関係の孤独というのは、こういうといけないのかもしれないけど、それこそが社団的なコミュニティーが多い隠そうとする部分でしょう。つまり、男を父に、女を母に仕上げて子を取り持つ形の役割にしたり、あるいは伝統の名を借りた地域の従属としたりといった具合にです。それはそれで賢い逃げ方だろうし、逃げた大人はそれなりに「逃げた」部分を知っているでしょう。そこを露出せずに生きられたらいいというか(あまりそうした孤独に向き合いたいくないというか)。ただ、この問題は究極的には覆い隠せない問題でしょうし、いわゆる生物学的な「性」に解消されない時期に本質的なものになるのでしょうね。ここは本当に難しい問題だろうと思います。

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