finalventの日記

2009-11-08

ちょこっと

 ⇒世の中怪しい言語学を唱えた者勝ちらしい - killhiguchiのお友達を作ろう

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torin 揉め事 これだけ「信夫の誤りを批判すべき」という内容を重量級の長文で書いてあるのに肝心の「信夫の何が間違ってるのか」は一語たりとも書いてない。ある意味凄い/まず自分で啓蒙すべきじゃね? 2009/11/08

 私も元エントリを見たいけど、批判点がわからんかった。

karpa 池田信夫先生のすばらしさについて / id:torin 池田氏の内容は疲れさうなので読んでませんが,そのエントリの冒頭にあった書影のある本への批判は,わたしぢゃないですが,ひとまづ d:id:dlit:20090731:1249009614 をご覧ください 2009/11/08

 批判するなら、読んだほうがいいと思うが。

 ほいで⇒ん?(レビューじゃないです) - 思索の海

ざっと見る限り生成文法との対決は別にこの本の主張とは関係無さそうなので、書かなきゃいいのに。(専門ではなくても、懐疑主義擬似科学(批判)に馴染みがある方は、この言い切りっぷりに怪しさを感じると思います。)

 生成文法を理解するにはかなりの素養を必要とするので、一般の人に言っても無理ですよ。

 こんなの売っているレベルなんだもの⇒「 チョムスキー (岩波現代文庫): 田中 克彦: 本」

 ちなみに⇒極東ブログ: 山形浩生の書評から雑感

 話戻って。「怪しい言語学」というけど、生成文法のUG仮説なども、他の学派からは相当に怪しい仮説と見なされているし、そもそも生成文法は、他の科学分野と方法論を別にしていて、そのあたりから難しい議論がある。

 方法論についてはこのあたり⇒「 デカルト派言語学―合理主義思想の歴史の一章: ノーム チョムスキー, Noam Chomsky, 川本 茂雄: 本」

 生成文法における科学の議論については、一般にはこのあたりを踏まえてないと。

cover
自然科学としての言語学―生成文法とは何か: 福井 直樹

 で、読まれるとわかるけど、大学教育のあり方についても福井先生は言及していて、それはちょっと日本の知的状況では無理かなという感じ。

 「怪しい言語学」は、生成文法の規定となったハリスあたりの構造主義くらいまでの射程では議論できるけど、生成文法の時代からの射程だとチョムスキー学自体が非常に難解なので一般の人に理解を求めるのは無理。

 ⇒「 ドゥルーズの思想: ジル・ドゥルーズ, クレール・パルネ, 田村 毅: 本」

 ドゥルーズなんかもまるでチョムスキーが理解できてない。そのことが日本のドゥルーズ研究者にもわかっていない。これはもうちょっと、どうしようもないレベル。

 あと専門的になるけど⇒「 ことばの理論 学習の理論〈上〉ジャン・ピアジェとノーム・チョムスキーの論争: ロワイヨーモン人間科学研究センター, 藤野 邦夫: 本」

 ⇒「 ことばの理論 学習の理論〈下〉―ジャン・ピアジェとノーム・チョムスキーの論争: ロワイヨーモン人間科学研究センター, 藤野 邦夫: 本」

 チョムスキーとピアジェの議論を読むと、先のクーテジアンの問題なども出てきて、その根の深さがわかる。

 UGに戻ると、UGはある意味では、モンタギューもUGが前提になっているともいえないのだけど、これについてチョムスキーはちょっと特有な議論をしている。チョムスキーの言う意味論というのは、モンタギュー文法みたいなものではない。

 で、なぜここでチョムスキーがひっかかっているかというと、ドナルド・デイヴィッドソンの命題とちょっと関係する。

 日本語だとこのあたり⇒「 デイヴィドソン 〜「言語」なんて存在するのだろうか シリーズ・哲学のエッセンス: 森本 浩一: 本」

 で、ちょっと飛躍してしまうのだけど、デイヴィドソンの命題は暗黙にモンタギュー的なUGを含んでいるというか、あるいは、ヴィトゲンシュタイン的に、なぜか人は他人を理解する言語ゲームをする、という問題に帰着しがちで、分析哲学的にはそうなんだけど、チョムスキーはどうも、こういう手法全体をアホーと見ているっぽい。

 UGが脳に依存していることが決定的で、意味の普遍性がUGを要請しているわけではないと考えているのだろうと思う。

 で、脳にビルトインされたUGが……

 この問題⇒極東ブログ: [書評]反哲学入門 (木田元)

 で、また飛躍するのだけど、日本で「怪しい科学」というとき、科学の判定になぜかポパーとか出てくるけど、ポパーなんかも一種の形而上学なんですよ。

 ⇒「 実在論と科学の目的 上: K・ポパー, 小河原 誠, 蔭山 泰之: 本」

 ⇒「 実在論と科学の目的 下: K. ポパー, 小河原 誠, 蔭山 泰之: 本」

 もうちょっとその面のポパーをわかりやすくしているのが⇒「 自我と脳: カール・R. ポパー, ジョン・C. エクルズ, Karl R. Popper, John C. Eccles, 大村 裕, 沢田 允茂, 西脇 与作: 本」

 で、エクルズになるともう、チョムスキー、ポパー、デカルトが想定した、一種形而上学的なマシンとしての脳を露骨に志向していく。

 このくらい⇒「 自己はどのように脳をコントロールするか: ジョン・C. エックルス, John C. Eccles, 大野 忠雄, 斎藤 基一郎: 本」

 一応日本ではエックルズも「怪しい科学」としてごみ箱に入れられてしまうのだけど、根は深いし、チョムスキーは控え目だけど、類似の圏内にある。これは進化論においてもそうなんで、そう簡単にはわからないですよ。

name0name0 2009/11/09 00:16 チョムスキーはわかりませんが、UG(1970)はモンタギューが構築したものなのでモンタギューが前提にしていないということはないと思っていたのですがそういうわけでもないのですか。

finalventfinalvent 2009/11/09 08:41 name0さんへ。ええ、その理解でいいと思います。なので、ちょっと書き方が拙かったのですが、ようするにモンタギューのUGが、UGたる哲学的な根拠性みたいなものです。というのは、屁理屈のようですがUGがなったくのモンタギューの創作なら、公理的であって、様相と自然言語への対応などといった問題は問われない・問わなくてもよいはずですが、実際には問われるというのは、自然言語のUG性を隠し持っているわけで、まただからこそチョムスキーが問い直していたのだろうと。

name0name0 2009/11/09 19:24 ジョークなのかどうなのか判別できないですが、読み取った限りだと、おっしゃられるUGの哲学と言うと、およそ言語と名のつくものはUGの枠組みで語ることができるというところですかね。
単純に、UGの枠組みが大雑把すぎるので、どうとでも考えられるというのが健全な考え方なのではないかと思います。たくましい想像力を発揮してしまう分野みたいですし。

finalventfinalvent 2009/11/09 19:34 name0さんへ。「およそ言語と名のつくものはUGの枠組みで語ることができる」というのは、確かにジョークなのかもしれません。チョムスキーのUGも、もしかすると、デイヴィッドソン的なコミュニケーションの可能性を逆に遡及して措定しただけなのかもしれません。そもそも、デイヴィッドソンの議論自体が自己撞着なのかも(たぶん、それはないのでしょうが)。ちなみに、大森荘蔵はUGではなく「論理」と限定するのですが、論理は日常言語からできたのであって、日常言語を論理が支えているのではないと見ているようでした。十分な議論はありませんでしたが、おそらく、デイヴィッドソンと似たようなものではないかと思います。モンタギュー的なUGは、実際には「論理」で、チョムスキーのSyntaxもそれに近いものですが、いわゆる論理的な整合ないし真偽値みたいなものは問われていない(様相はあるとして)、演算の可能性、つまり、論理を構成する公理的なものなんだろうと思います。ただ、このあたりは、もう自分はフォローしてないのでわからないところです。

name0name0 2009/11/10 16:11 finalventさんの思い描かれておられるUG像がよくわからないです。チョムスキーのUGも・・・以下でおっしゃられることの意味がわかりません。デイヴィッドソンのプログラムについても飯田隆の言語哲学大全4に挫折してしまったこともあり、わかりません。

とはいえ、私もUG、PTQについては http://www.amazon.co.jp/dp/4782800037 という本で大まかに勉強したぐらいで、演習問題とかは解いていないのでなんともいえないです。
なんというか、UGを元とする非公式的な哲学を語っておられるような気が私はします。

finalventfinalvent 2009/11/10 16:35 name0さんへ。「UGを元とする非公式的な哲学を語っておられる」は、現在アカデミックなポジションにいない自分の放言としては、受け入れざるをえないところです。実際のところ、チョムスキーのUGと、モンタギューのそれは、それぞれ学問的に別の文脈で扱えばよいということはあります。が、にも関わらず、チョムスキーがモンタギュー文法を批判し、チョムスキー流のUGを根幹に据えた議論があるところからは、そう「非公式的な哲学」でもないだろうとも思います。モンタギュー的なUG(という言い方は正確ではないですが)すべての自然言語の共通の意味体系を指さざるをえないでしょう。そしてそれが暗黙に存在していることがデイヴィッドソンの言語不在説につながらざるをえないはずです。問題は、チョムスキーのいうUGは、当然の帰結としてすべての自然言語の根拠性を与えながら、意味論を回避している点にあります。チョムスキーのUGは、Semanticsから分離されたSyntaxなのですが、しかし格(θ)などを持っていることから実際にはモンタギュー的なUGを含み込んでいると見てよいと思います。というか、チョムスキーがどのようにSemanticsを意図しているかは、Linguistic Performanceによるとしているのが恐らく教科書的でしょうが、実際には、モンタギュー文法のような対応の仕組みを持たざるをえないと思います。という点で、モンタギュー的なUGを含み込まざるをえないのだろうと思うのです。

name0name0 2009/11/10 16:36 少し感情的になってしまいました。申し訳ないです。
単にモンタギューがUGを前提にしていないということに興味があっただけなのです。以後やめます。

finalventfinalvent 2009/11/10 16:50 name0さんへ。いえ、自分がまた例のごとく無知をさらけ出しているだけなんだろうな、であれば正しい知識がある人がきちんと批判されればよいだろうとは思っています。余談ですが、モンタギュー文法の場合、実際のformal semanticsになるまえに、自然言語からの翻訳過程が存在するのですが、ここで、formal semanticsをモンタギュー的なUGだとすると、翻訳過程における、すべての言語に共通なルールがチョムスキー的なUGになるはずです。しかし、おそらくそいうアプローチではなんにも出てこないというか、そもそも初期チョムスキーから中期チョムスキーへでMove αのルールになったのは、そのあたりの四苦八苦だったのではないかな。つまり、当初はD構造は実質formal semanticsになるはずだったのでしょう。いずれにしても、現在のチョムスキー理論ではもうどうでもよいことになっているはずですが、それでも、どうやって意味を決定しているのかについては、不要、で済んでいるのか、不思議ではありますね。

hambalancehambalance 2009/11/12 19:02 言葉から心の中で何を考えてるか知ることが出来るかという問題は、私はわかるというのが答えだと思うが、教科書には書けないと思う。それは残念な事だと思う。テクニカルにどんどん理論が精密に更新されていくのは、それほど悪い事ではないと思う。

finalventfinalvent 2009/11/12 19:27 hambalanceさんへ。「テクニカルにどんどん理論が精密に更新されていくのは、それほど悪い事ではないと思う」はそうですね。ただ、ついていける人は少なくなりますが。

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