アフリカ問題の難所

 ここですね⇒Remarks by the President at the Acceptance of the Nobel Peace Prize | The White House

And yet too often, these words are ignored. For some countries, the failure to uphold human rights is excused by the false suggestion that these are somehow Western principles, foreign to local cultures or stages of a nation's development. And within America, there has long been a tension between those who describe themselves as realists or idealists -- a tension that suggests a stark choice between the narrow pursuit of interests or an endless campaign to impose our values around the world.

 あと、マルクス歴史観の根にあるヘーゲルは、アフリカ的なる段階を歴史から外しているんだが、これはつい、西洋中心史観として相対化されるとか、ナショナリティ=国家幻想に至らないからといった誤解があるんだが、マルクスヘーゲルも西洋中心史観だからということではなく、彼らの歴史の普遍議論の枠組みの問題(たぶん、枠組みはこれ以外に取りようがない)。まあ、その普遍が現代からすれば西洋中心史観なのだという理屈なんだろうけど、そこはヘーゲルへの誤解でもある(こっそり普遍を逃げちゃっているからね)。
 というのは、この問題はむしろ吉本的。吉本隆明のこの問題展開は、枠組みとしてはヘーゲルをきちんと継いでいる。

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アフリカ的段階について―史観の拡張: 吉本 隆明
 ただ、この話、吉本の共同幻想論なんかでもそうだけど、学問的にはほとんどトンデモと言えないこともない。
 それでも、この難所を解くには、オバマの言うような実践、実はこの演説を読むとわかるけど、彼はほとんどネオコン、つまり、フクヤマヘーゲルの帰結なんだが、人間の普遍をアフリカ的段階から問い直すという作業、そこから別の道が開ける可能性を探すほうがよい。
 というか、それは知的な営みと同時に、人が、どうアフリカ的段階を生きることによって、生の充溢を再獲得するかということ。
 これは、だから、いわゆる人類愛的なものへのアンガージュの思想よりさらに大きいものになると同時に、近代の生死概念を越える可能性があって、思想というものの本当の怖さに隣接する部分でもある。
 というか、吉本さんの本当に怖いところはこういうところにある。
 別の言い方をすると、フクヤマヘーゲル問題あるいは西洋中心史観ないし、アフリカ的なるものではない、現象のアフリカの重層性に知的に待避していることは、生の充足を否定していることになる。
 思想というのは、頭のいいお坊ちゃんお嬢ちゃんの戯れや揺らぎではなく、その個人の限定された人生の生において、充足を実現させることで世界史の向こう側(アフリカ的なるものの止揚)を推し進めていくこと。その情念というか歓喜にある。
 簡単にいうと、人の生きる喜びが、現在のアフリカ的なるものから反照され、受容され、さらに反照される過程で結果的に克服される。それは、現在のアフリカのなかから、生きる喜びとはなにかを、私たちが感受できるか、彼らが発信できるかにかかっている。その相互性のなかで彼我が止揚される。
 もっと簡単にいうと、リズムと笑いから、人が今生きる歓喜を再獲得できるかということ。どこが思想的課題かよというけど、そのような新しい人類のなかに、思想的課題が融解される。