finalventの日記

2013-03-31

日曜日

 あまり日曜日な感じはしない。

 喉の腫れがつらいので、用事もあったがじっとしていた。

 今日で三月も終わり。早いものだなという感じもする。

288 : Lesson

Let me forget my brother's past today.

2013-03-30

土曜日

 喉が腫れてつらい。夕方になり少し腫れが引いたようにも思う。

 坂口良子の死が微妙にじんとくる。彼女については、池中玄大の初期くらいでしか知らないので、25歳くらいの面影で、それ以降はほとんど知らない。結婚後借金負っていたいたことや、娘さんも芸能活動されているのを知らなかった。坂口杏里というらしい。画像検索すると、お母さんのほうがチャーミングだったかなとか思った。ただ、時代の問題だろうけど。

 

 昨日の「禅と悟りと修行 : 禅と悟りと修行 - finalventの日記」で、ちょこっとブコメなどが付いているのを見る。まあ、各人各様に理解すればいいし、僕の理解が、俺様理解だと思うならそれもいい。ただ、気になるなら、正法眼蔵を紐解いてみるといいだろうし、その上で違うというなら、その考えは伺ってみたい。

 追記にも書いたが、昨日引用部で、「自己を忘るるといふは、万法に証せらるるなり」などをはしょった。理由は、書くことが可能なのは、「自己を忘るる」までだからであり、「万法に証せらるる」は各人のまさに生き方の「修」だからだ。別の言い方をすれば、人ができるのは、忘れることだけで、その先は、仏の道に任せることだからだ。

 神秘体験が救いであるわけもないし、死者を蘇らせることが救いでもない。

 ある体験を記憶で保持するなら、それ自体が迷いそのものだし、超自然的な期待は、現在の否定でしかない。

 そんなものに、苦の救済はないという知るというのが、仏教の優れたところでもある。

 

 そういえば、「純と愛」の最終回を見た。あれはあれでよかったと思う。

287 : Lesson

You are my goal, my Father. Only You.

2013-03-29

金曜日

 ブログサバトと言いたいところだが、この状態がまだ続いている。

 cakes書評向けの資料探し、メモ作成、思考、執筆などに時間がかかり、ブログを書く気力がなく、しかもそんなときには、「にゃんこ大戦争」というゲームをしている。

 いつからか、昔からそうだったのかもしれないが、けっこう長い時間、じっと静かに考え続けている。

 喉が腫れてきて体調もいまいち。

 明日は、「純と愛」の最終回。さて、どうなるか。

禅と悟りと修行

 先日、といって、もう一週間前になってしまったが、「仏性」について書いた。はてなに書くとブコメが付くことを失念していたので、最近にしては比較的多くブコメがついて驚いたというか、懐かしかった。同時に、しかたないだろうなとは思った。これはひどい系のブコメを残されたかたの「仏性」理解は、愚かさを表しているのでなければ、天台系のものだろうし、日本の仏教の大半がそれだし、曹洞宗ですら、正法眼蔵のテキストをきちんと読んでいるようにも思えない。かくなるうえは、罵倒されてもしかたがないだろう。

 禅は、禅宗から問われるようになった。いや、以前からそうかもしれない。大きな区切りで見ると、臨済宗と曹洞宗がある。どちらも禅を標榜する。が、率直に言って、臨済宗の「禅」は私には、基本どうでもいい。公案もいろいろ学んだ。文学として面白いし、正法眼蔵を読めばわかるが、禅の主題も関わっている。が、いわゆる禅で公案を考えるようなものは、私にはまったく無縁であるし、どうでもいいと思っている。半面、曹洞宗も「只管打坐」自体が方法化しているように見える。それも、どうでもいいことに思える。

 道元も「悟り」ということを言うし、「修」するということを言う。これを、坐禅という修行を実践することで「悟り」に至ると考える人が後を絶たない。もちろん、そう考えてもいいし、一生そうやって修行したり、悟りなるものを得たりしてもよいのだろう。

 道元を学んだ私にしてみれば、そのような修行にも悟りにも、なんの関心もない。

 悟りというのは、私たちがこの瞬間に生きる実相それ以外のものではない。人が過去も未来も切り離して(前後際断して)、今に向き合う、その完全なありかたである。これは、大宇宙の実相だの、神秘などとはまったく関係がない。ただ、今、ここに存在しているだけのことである。

 そして過去と未来を切り離して今ここにいる仏の姿を現しているのが禅であり坐禅である。それ自体が仏であって、そのあり方を生きている状態が「修」ということである。万巻の書籍を読むのではなく、今過去も未来も切り離して生きていることが「修」である。いつの日か悟りなるものを得るために修行しているということではない。

 それでも、苦のなかでどうするかという思いはわきおこる。道元は言う。「仏道をならふといふは、自己をならふなり。自己をならふといふは、自己を忘れるるなり」。これは自分を忘れて、今現在に集中・没我であるというふうに読まれてもよい。が、もっと単純に、己の思いというのを、忘却の雲のなかに投げ入れることだとしてもよいだろう。

 不可知の雲は忘却の雲との対応にある。不可知の雲に入るには、人は忘却の雲に覆われなくてはならない。過去の思いを忘却の雲のなかに投げ入れるのである。

 禅といい、只管打坐というのは、ただ、座り、諸念を追わず、そのまま忘却の雲のなかに投げ捨てることである。

 悟りを得たい。お金を得たい。あの恋を実現したい。それらの思いが坐に起きるなら、そのまま追わず、忘却の雲に流すだけである。そして、自己を忘れるのである。それだけのことだ。

 道元はその先も語っているが、日常生きる上で修することはそれ以上のことはほとんどない。

 坐禅は瞑想ではない。自分にわき上がる諸念をただ、静かに忘れていくだけのことである。

 「身心を乱想して万法を弁肯するには、自心自性は常住なるかとあやまる」とは、瞑想でも思考でもなんであれ、何かを追求してけば、その追求者の自分がより強固な実体のように思われるだけということだ。しかし、この自分の思念もまた、無常なのである。今を離れては我もまたない。諸行無常・諸法無我、つまり、仏性なのである。

 

追記

 ⇒https://twitter.com/finalvent/status/317780424019554304

286 : Lesson

The hush of Heaven holds my heart today.

2013-03-28

木曜日

 昨日とは変わって、暖かな一日。桜満開。すでに花吹雪となっている小道もあり。

 今年も桜をよく見た。

 あと人生で、何回、桜を見ることがあるだろうかと思う。寂しいような悲しいような気持ちも、以前はしたが、あと数回で僕の人生は終わるのだろうなというのを、以前よりは受け入れている。

285 : Lesson

My holiness shines bright and clear today.

2013-03-27

水曜日

 小雨があり肌寒い一日だった。長く、必死というのでもないけど、考え続けた一日だった。

 考える息抜きに少しツイッターを除き、ゲームとかしていた。

284 : Lesson

I can elect to change all thoughts that hurt.

2013-03-26

火曜日

 晴れていた。散歩でよく花を見た。

283 : Lesson

My true Identity abides in You.

2013-03-25

月曜日

 小雨降り、小寒い感じ。

 cakesの向田邦子編がしばらく無料公開とのこと。

282 : Lesson

I will not be afraid of love today.

2013-03-24

この日、日記欠

2013-03-23

土曜日

 昨日「仏性」についてちょっと雑文を書いたら、ブコメが付いていた。ブコメのことをすっかり忘れていたので、ざっと読んでみた。

 なんか、なつかしい。

 はてな村ってこんな感じだったなあ。

 まあ、誤解されるなら、やはり書かなければよかったか、あるいは、書籍のような形で、正法眼蔵との対比できちんと書くべきだったのかもしれない。

 道元の仏教というのは、巷で言われる「只管打坐」とは違って、かなり激烈なもので、あれだけ温厚な人にどうしてここまで過激ともいえる信仰があったのか不思議にすら思えるが、それが仏教ということでもあるのだろう。

 私は道元ではない。道元を模していくことも無理。というのを良寛から学んだ。良寛は本当に道元をよく理解していた。それであの生涯を送った。

 ネルケ師も、妻帯されていた。それもわかる気がした。

 まあ、こういう時代、「仏教」を人が求めるのもわかる。

 道元がそういう意味で「仏教」なのかは、僕としてはけっこうどうでもいいことになった。

 

 

2013-03-22

仏性

 昨日、ツイッターで、「仏性」について少しつぶやいた。つぶやきながら、これは伝わらないだろうなという諦め感があった。

 ごく簡単にいうと、仏教についてネットで語る人は、自分が仏教に詳しくて、人に説教なり指導したいという人が多い。こういうタイプの人にはほとんど何も通じない。

 さらに、「仏性」というのが、こういうと誤解されやすいのだけど、ほとんどの仏教徒が誤解している。そこまで言う理由は、道元に拠っていて、まず道元の系統以外ではほとんど「仏性」は理解されていない。厳密にいうと、チベット仏教では理解されているので、その系統なら通じる面はある。

 このように説明すると、道元という特定派の仏性理解にすぎず、各派にそれぞれ仏性の理解があってもよいという意見が出てくる。それも理解できる。これについても、道元は縷説しているので、それ以上に、ネットのような場では語りづらい。基本、各人が仏教だと信じるものを信じればいいじゃないかというのは、それはそれで市民社会の規則からしても正しい。

 道元の系統からするとしかし、ただ衆生の苦を見過ごしているに過ぎないとも言えるし、それゆえに道元があれほどに、心血を注いで「仏性」を説いたというのはある。

 ややこしく、これも大げさに思われてもしかたないのだけど、道元の系統、といいつつ、曹洞宗はすでに道元の思想からは離れている。なぜそう言えるかというのは、「修証義」にある。これは、道元の語句集のようでありながら、道元の思想とは異なるものだからだ。と、いうあたりもかなり説明が難しい。

 で、「仏性」とは何かなのだが、それこそ、道元が、正法眼蔵で縷説しているとおりなので、それをさらにパラフレーズしてもナンセンスになってしまう。

 ただあえて言うなら、仏性とは三法印との関連で見るとよい。ただ、三宝印もなかなか定まらない点もあるので、ややこしい。それでも、核は諸行無常・諸法無我であり、つまり、仏性というのは諸行無常・諸法無我のことである。

 道元も縷説しているが、「仏性」というのは、「仏の性」ではなく、「仏」そのものだということだ。

 この先も迷路になるのだけど、諸行無常・諸法無我というのは、たいていの仏教徒はすでに知っていると思っている。諸行無常というのは、常なる者はない、であり、諸法無我というのは、永遠的な実体はないということである。そして、すべては、空しく過ぎていくといった理解に陥る。

 ここが道元とまったく異なるので、道元は過ぎていかない、としている。今、この刹那に有、つまり、有時、が、仏性で、時間という迷いを前後際断している。このありかたが諸行無常・諸法無我であり、仏性である。

 では、なぜそれが坐禅に関連するのか?

 ここがまた難しい。禅というのは、メディテーションでもなければ、悟りに至る道でもない。これも道元が縷説しているとおり。

 坐禅はそのままに仏であるというのは、時間という迷いを前後際断いる有時を示しているから。

 これらの根幹には、四法印になるが、一切皆苦がある。仏の教えというのは、一切皆苦に向き合う生き方だし、禅とはその苦を逃れる最後の真理だからだ。とかいうと大仰だが、道元も実際はそう言っている。

 では、どうして一切皆苦という苦から逃れるのか? これは、悉有仏性を自分で知ることであり、この知るというのが修ということ。別のいいかたをすると、苦は時間という迷いを前後際断されないところから、我の妄念が生み出したということを知ること。

 これも難しいと言ってよいのだけど、これによって苦から逃れるというのは、普通人が思っているような「救済」「救われる」「悟る」というのは、けっこう違う。

 自らが作り出した苦をまさに自らが作り出したとして、自身を支えてきた思考という時間を手放すことにある。

 と、まあ、語るほど、まさに宗教めくし、うまく表現しづらい。

  

 

追記

 ブコメが付く可能性をすっかり失念していた。

 以下、簡単に個別の補足を。

 

surunpashi

全然分からんが、苦から逃れた先の在り方か、分からん2013/03/23

 苦から逃れたとき、今現前だけがあります。ごく簡単にいうと、理不尽な怨みをすべて忘れて許すということです。

kumatarou3rd

葛藤

2013/03/23

 葛藤が終わり得る根拠性が仏性。

okra2

伝わらないのは仏性そのものの話じゃなくてって事のような2013/03/23

 「おまえが理解してないから」ですよかね。

hatekun_11

仏教内の専門用語で言い換えてるだけのような。本当に分かってんのかなこの人 /「何を言ったか」でなく「誰が言ったか」ベースで語ってる限り内輪以外に伝わるは

 「本当はわかってない」でもいいですよ。ただ、「誰が言ったか」はここで道元なんです。その道元とは、道の元という意味なのですよ。

ずがない2013/03/23

ハイデガーに似てる。2013/03/23

 ええ、ハイデガーによく似ています。

uk_maniax

そもそもの話として、仏教は相対的にではなく「絶対的」に捉えないと解釈できないものではあり。2013/03/23

 残念ながらそのコメントは理解できず。まあ、ご自身で理解されていたらそれでいいでしょう。

yzxnaga

「自らが作り出した苦をまさに自らが作り出したとして、自身を支えてきた思考という時間を手放すことにある」2013/03/23

 そこがポイントです。自分は自分の内面の苦というものを見つめている・感じている・対象化している、というのが迷いであり、対象化する限り、苦が続くということです。見つめている・感じているという主体に見えるものが、苦を支える原動力なのだということです。これが仏性ということでもっとも重要なことです。

posmoda

「仏性」の実体を言葉で説明することには実はあまり意味がない(と仏説も言う)。悉皆成仏思想とはあえて言うならば実存への敬意。西洋で例えるなら人権思想にあたる。「人権の実在」について議論する人はいない。2013/03/23

 まず、仏性は実体ではありません。諸存在に実体がないというのが仏説であり仏性ということです。「実存への敬意」というと、そしてそれを人権思想に対比させているところを見ると、主体(実存)に対象化された諸存在が尊いというふうに理解されているのではないでしょうか。ところが、道元のいう仏性はそうではありません。

shigeno57

過去のエントリーに目を通したらこれまた回りくどいので、伝わらないのは「仏性」の難解さに加えてご自身の説明に難があるからではと邪推してしまった。2013/03/23

 「邪推」ではなく、それでいいと思いますよ。ご参考にならなければそれまでです。そもそも正法眼蔵を読んでいただければそれで終わりということです。

hihi01

ありがとうございます。2013/03/23

 こちらこそ。

yojik

なぜこんなに回りくどくなるのか。。道元の言葉をWeb向けに要約すると「修行で何か(仏性とか)を見つかるわけじゃなく重要なのは修行のプロセスじゃ!」ぐらいでいいのでは。。修行しないから結局は理解できないんだけど2013/03/23

 いえ、修行のプロセスは重要ではないのですよ。そもそも「修行」というのはないのです。「修行」ではなく、「修」するという今、この時の一度きりのあり方なのです。

komochishisyamo 仏教

ホッテントリに上がってたのでブクマ。総論だけど仏教ってホント意味ないよね、空っぽ、中身ないもんね。一切皆空なことを一番知らないのがこういう人。2013/03/23

advblog

 「総論だけど仏教ってホント意味ないよね、空っぽ、中身ないもんね。」ということの意味が仏教なのです。というと、ますます、「一切皆空なことを一番知らないのがこういう人」と評されるのでしょう。まあ、それはそれでご自由に。

narwhal

「諸行無常・諸法無我というのは…道元は過ぎていかない、としている。今、この刹那に有、つまり、有時、が、仏性で、時間という迷いを前後際断している。このありかたが諸行無常・諸法無我であり、仏性である」2013/03/23

 そこが道元的には重要な部分です。

okachan_man

これが禅問答というものか。2013/03/23

 いえ、それはシンプルに誤解です。道元は禅問答を実際には排除しています。そしてそれにならって私も無理なことを説明しようとしてドツボっているわけですよ。

arajin 人生

「自らが作り出した苦をまさに自らが作り出したとして、自身を支えてきた思考という時間を手放すことにある。」2013/03/22

 だから、それは「許す」ということでもあるわけです。

goo

「自らが作り出した苦をまさに自らが作り出したとして、自身を支えてきた思考という時間を手放す」

 思考とは計量・比較でこれが自動的に時間として作用する。過去を未来の思いを失う意識が苦しみを除くと。

 

追記

さらに。

locust0138

自称「仏教に詳しい」奴って、穴だらけで主観丸出しで何の説明にもなっていない酷い解釈を述べて、突っ込まれると「仏教とはそういうものだ」「解釈は人それぞれ」とか誤魔化して逃げることが多いような気がする。2013/03/23

 それはとても残念なことになりましたね。

rcade00fire01

この人がよくわかっていない。こんなひどい説明は初めて見た・・・2013/03/23

 そこまで独創的な説明でしたか。道元を読まれたら納得していただけるかな。

jt_noSke ダジャレ

仏のことはほっとけ2013/03/23

 あらあら。 

kei_1010

障害を負ったチンパンジーが凹まない。というのに通じてそう。2013/03/23

 「愚」に通じるところはありますね。

houyhnhm

「お前が思うならそうなんだろう。お前の中ではな」の、お前の中の所が相当広い感覚で、というお話でOK?/元本読んでない。この辺りは中国読みなのかしらん。2013/03/23

 ええ、それでもOK。ただ、苦から道元を思い出すなら、正法眼蔵の「仏性」巻を読まれたらいいでしょうくらい。

ryozo18

どうしたって言葉は座禅になり得ないからなあ2013/03/23

 ええ。

 

追記

 いろいろご不満なかた多いようで、であれば、私とはまったく異なる、こういう理解をご参考になったらいいじゃないですか。

 こういう理解とか⇒坐禅と暮らし |正法眼蔵 仏性 42

 こんなのもありますよ、曹洞宗らしいなあ⇒曹洞宗東海管区教化センター


追記

 ちなみに、正法眼蔵の仏性巻の冒頭、

釈迦牟尼仏言、一切衆生、悉有仏性。如来常住、無有変易。

 というのを

釈尊が言われている。「一切衆生には、悉く仏性がある。仏の本質は常住で、変わることがない」

 と訳したとたんに誤訳。

 水野先生の訳は丁寧につぎのように訳されている。

釈迦牟尼仏が仰せられた、「一切は衆生であり、悉有は仏性である。如来は常住であり、無であり、有であり、変易である」。

 この訳の差がわかるかが、正法眼蔵の仏性巻のポイント。

 つまり、「一切衆生には、悉く仏性がある」と理解してはいけないというのが、道元が一番伝えたかったこと。

 この誤解を誤解だというのを明らかにするのが、「狗子仏性」という禅問答というか、理解度チェックテストがある。

 「一切衆生には、悉く仏性がある」なら、「犬にも仏性がある」となる。で、そう理解したら、バツという話。ただ、この公案、いわゆる禅問答のように「無」、無が大切とかヘンテコな理解も多く、またまた迷路。

 迷路の例⇒狗子仏性 とは - コトバンク

 

金曜日

 暖かな日だった。

 いろいろなものが4月に向かっているようにも思うし、その前にすることがいくつかあるにはあるが、なんとなくうまく進めない。

 ツイッターのほうでは昨日も平日同。

 その意味では、この日記はツイッターのほうに解消しつつあるともいえるが、ブログとツイッターの合間でなんとなく、残しておきたい気がしている。

281 : Lesson

I can be hurt by nothing but my thoughts.

2013-03-21

この日、日記欠

 気がついてはいたのですが。

2013-03-20

水曜日

祝日だった。

お気に入りの店が閉店。

2013-03-19

火曜日

 暖かな日だった。桜がけっこう咲いていた。

 いらだちというのでもないが、奇妙ないらだちような感覚はある。あるいは単に、春ということかもしれない。

 喉が少し腫れてきていて、風邪になってしまうかなとも思った。

 いくつか読みかけの本でなかなか進まないのがある。いくつかはちょっと読書を打ち切った。たまにこういうことがある。

 それとは別に、草間彌生の作品を今日はなんとなく見ていた。リアルではなく、書籍だが。

 ブログがお留守になっていて、ネタはあるのだが、さてとためらっていたが、キプロスについてはやはり書いておくべきかと思い、書いてみた。もう少し詳細に書くことはできるし、キプロスの政治状況なども書けるのだが、ユーロ危機の観点でベイルインの問題が主題なんだろうなというのは、資料をみながら痛感した。

280 : Lesson

What limits can I lay upon God's Son?

2013-03-18

月曜日

 小さな区切りや大きな区切りが重なり、またなんとなく見ていたテレビ番組なども終わり、なんとも、なんにもする気がしてこない。

 ので、「にゃんこ大戦争」とかいうゲームをしている。くだらないゲームだなあとか思っていたが面白い。そういえば、Angry Birdsもやりなおし、そして一通り終えてしまった。

 するべきことがないわけでもなく、また着手すればそれなりに始まる。とはいえ、気力がわいてこない。

 風の強い日だった。今、夜、雨が降っている。

 そういえば、桜がぽつぽつ咲いていた。また桜の季節か。

2013-03-17

日曜日

 今日もあと5分。

 ツイッターでちょっと性愛文学論みたいな話をした。

 年度末関連の作業に一段落。落胆もした。

278 : Lesson

If I am bound, my Father is not free.

2013-03-16

土曜日

 あまり見かけない露地で桃のような花がさいていて、見ると、どうも緋寒桜のようだった。本土で見かけるのはめずらしいものだなと思ったが、別の種類だっただろうか。

 「信長のシェフ」というドラマを見えた。見たのは偶然だったが、なかなか面白かった。時代劇というのはばかばかしくてよいと思う。この時代劇はばかばかしいなかにいろいろ見せ場があってよかった。役者もよかったように思う。

277 : Lesson

Let me not bind Your Son with laws I made.

2013-03-15

金曜日

 また肌寒い日に戻る。まだ桜は早いだろうと思ったが、そういえばと、早咲きの木があるのを思い出し見に行くと、もう咲いていた。ああ、季節はきちんと巡ってくるのだと奇妙な感慨に打たれた。

 いろいろ思うことがあり、まとめたようにも思うのだけど、なかなかうまくいかない。いや、本を書くというような話ではないけど。

 本については、ちょっと普通に、知的な実用書みたいなのを書きたいかなと思ってはいるけど、……とかいうと、なんか執筆に色気でもあるような感じがするけど、ただ、ぼんやり思っているだけ。

276 : Lesson

The Word of God is given me to speak.

Father, Your Word is mine. And it is this that I would speak to all my brothers, who are given me to cherish as my own, as I am loved and blessed and saved by You.

父よ。あなたの言葉は私の言葉です。それは兄弟すべてに語れたらと私が思う言葉でもあります。兄弟たちはあなたが私を愛し、祝福してくださるように、私が自分自身のように愛するよう授かっている人たちです。

2013-03-14

木曜日

 存外に寒い一日だった。

 桜は17日頃に咲くという。木立を見るに、そうなのかなと思う。

 また土筆を見かけた。もう三月も半ばかあ。

 cakesの書評を書いたものの、やはり大幅にリライトしないとなとかいろいろ思う。

 まあ、いろいろ思うがなかなか焦点化してこない。

 そういえば、紀伊国屋にいったあ、自著がまだ平積みだった。売れてくれるというより、読まれてくれるといいなと思った。

275 : Lesson

God's healing Voice protects all things today.

2013-03-13

水曜日

 風がやたらと強かった。砂埃で目が痛い。

 昨日ブログでもふれた『無酔独言』をひっぱり出してきてしばし読みふけった。エントリーを書こうかと思ったが、書評的に書くのは意外に難しそう。それにしても、面白い本だ。

 

 街中で見かける老人、男性の老人だが、薄汚れた印象が強い人が多い。貧しい人に目が向いてしまうというだけのことかもしれないが、もう少しきちんと着こなしとかできそうに思えるのだが、なぜなのだろうか。

 あと、待合などで近くに寄る機会があると思うのだが、なぜか多様に音をたてる。静かにじっとできないのだろうか。

 年を取るというのはこういうことなんだろうか。

 自然に醜くなるのは自分もしかないなとは思うけど、ファッションとかどうでもいいとして、可能なかぎり、こぎれいにいることくらいはできそうだし、できるだけ公共の場で静かにしていることはできそうに思うのだが。

274 : Lesson

Today belongs to love. Let me not fear.

2013-03-12

火曜日

 もの忘れがひどくなったということはないが、記憶のなかでなにか変成みたいなことが起こっているのか、想起と感性が変わっているような感じがする。

 正確にいうと、変わっているという現在の進行相というより、変わってしまったという完了相に近い。奇妙な感じだ。

 別の面からいうと、物事への関心の持ち方が変わっている。

 いいことか悪いことかわからないが、ネット的な話題に、あまりピンとこなくなりつつある。例えば、というと、なんなので、一般的な言い方になるが、「この人、変なこと言っているな」と思っても、その辺で終わってしまう。たまに、プログラムデバッグのように、かつ、さしさわりないように、つぶやくことはあるが、その人の考えや、あるいは公開された意見に異を唱えるつもりはない。さらさない。

 もう少し延長していうと、自分が知りたいということとの関連がないと、あまり関心が向かない。

 何が自分に起きているのか、いま一つわからない。精神の病理的なことでもないだろうとは思う。

 本を相も変わらず読んでいる。このところあまりエントリーを書いていないが、世界情勢や経済についてもそれなりに目配せはしている。そろそろ、ケニヤについてエントリーを書かないといけないとか思っている。

 と、書きながら、そういえば、昨日のNHKのニュースが典型だったなと思い出す。

 私は、いつからだろう、NHKの7時のニュースは見ていることにしている。ニュースが知りたいというより、NHKはお茶の間にどんなニュースを流しているのか気になるからだ。

 が、それが、けっこう前から、少し苦痛になってきている。それニュースじゃないだろうというコンテンツが多すぎるのである。そこでどうするかというと、7時のニュースを録画して、あとで見る。それニュースじゃないだろ、というは、すかすかと飛ばすわけである。

 最近だと、そうして見るニュースはせいぜい10分くらいだろうか。あと、BSの国際ニュースも見る。こちらは、ニュースじゃないだろは少ないのだが、それほどニュースのヴァリューはないなというものは飛ばす。これは15分くらいだろうか。

 この、すかすかと録画したニュースを飛ばす感覚に近い、つまり、そのさっき述べた「関心ないなあ」状態はである。

 老化? というのはさして否定もしない。

 話は違うが、それとは別に、ネットの海外報道などは目を通すというか聞く。

 それに関連して、Amazonアカウントを日米統合してしまって、米国のジャーナルがKindleで購読できなくなり、やっぱりまずったかなあ感はある。というか、別途USのAmazonアカウントを取ったほうがいいだろうか。ただ、取っても、もう日本からアクセスしているということになると、やはり同じ制限はくらいそうだ。

 まあ、よくわからない。

 漂っている感じもある。

273 : Lesson

The stillness of the peace of God is mine.

 

2013-03-11

月曜日

 年度末の作業など。

 昨日に打って変わって、この季節らしい寒さだった。

 3月11日になった。震災から2年である。振り返るとあっという間でもあるが、昨年感じた困惑は、この一年でもそれほど整理が付かない。

 メディアでは今日はその特集が多いだろうと思うし、黙祷などそこに寄せる人の気持ちもわからないでもない。私も追悼という思いはある。ただ、微妙な違和感の部分もあって、なんとも言葉にしづらい。「違和感」という「違和」の感覚とすら違う。

 いろいろに思う。ひとつなんとなく思うのは、震災というより、津波ということなんだろうと思う。また、原発の問題は、それはそれで問題であるし、震災と津波によって引き起こされたのもだが、津波の、莫大な死者の問題とは、自分の心のなかでは切り離して考えたい。

 「違和感」というのでもないのだが、と、語るとそれが違和感のような形を取り出す、心のありかたにも、ある種の困惑を覚える。

 追悼したい人々の気持ちはわかる。それを歴史のメモリアルとしたいという気持ちもわかる。ただ他方、悲惨は悲惨の形で、すこしづつ離れ、ある種、忘れていくこともあるように思う。

 このあたり、うまく言えない部分でもある。

 今朝方、追悼の番組を少し見たが、残された人の自責が、ある部分、剥き出しで放映されてくるのに、ぞっというのとも違うのだが、ある恐怖のようなものも感じた。放映された人、放映した人を、嫌悪したというのでは全然ない。

 悲惨に対して、あなたのせいではないのだから、自分を責めるをやめてください、と、言えないものだろうか。結論から言えば、言えない、私は。私との関係が問われるからだ。

 私は、この震災と津波の影響は受けたが、その災害の、強い影響をうけたわけではない。時代の傍観者に分類されて不思議でもない。そうした人が、悲嘆のなかにある人に向けて、何かを言うことはできない。

 いや、市民として捨象された部分で、わずかな発言はできるかもしれないが、そのことと、自責をやめましょうという思いとがうまく結びつかない。

 この問題は、昨日の東京大空襲の慰霊でも思ったのだが、戦禍について、どうと言うことができない。ロメイは鬼畜であるということはたやすいし、その議論は典型的にあふれている。そしてそのレベルの愛国心は他愛ないものだと言える。また、他方、あの戦争はアジアへの侵略戦争であり、私たちは加害者なのだとも言える。これもまた典型的なものだ。そうではないと否定していわけではなく、そうした諸議論の根底にある、私を日本国民に縛り付ける心情との距離の問題である。

 市民原理だけでいうなら、戦争の是非は、国家を介したものなので、市民としての概念化された責務であって、この私の罪責感とはなりえない。

 そのあたり、昨日、五木について書いた文章を日記に写したが、関連した思いはある。

 ブログのほうに載せるべきか悩んで結論がでなかった。ブログならという特別な意味があるわけではないが、あの形では、うまく伝わらないだろう。

 ではどうしたら伝わるのかもわからなかった。

 まあ、難しい。

 思想というのが問われるなら、そのあたりなのだろうが、どう考えてよいのかすらわからない。

 ひとつには、「追悼」という心情の連帯は、概念的には市民に抽象されているので、個々人の「私」には無縁であるとは言える。震災の被害になにも感情を動かされない日本人がいてもよいし、それこそが自由だ。倫理はそこで束縛的であってはならない。が、その市民的な自由の上で、連帯から追悼の感情が生まれる。そして、そのなかで、悲惨にあった人々に、もうそれ以上、自分を苦しめる自責はやめましょうと、どう語ることができるのか。

273 : Lesson

The stillness of the peace of God is mine.

2013-03-10

粘り強くあいまいさに固執すること

 cakesに連載している書評の、五木寛之『風に吹かれて』の回(参照後編)で、テーマに近いながらも、あえて扱わなかった話があり、書かなくてもよいのだけど、なんとなく気になるので書いておきたい。

 扱わなかったのには理由があった。一つは、版によっては関連の章が掲載されていないことだ。もう一つはメッセージの受け取りが難しいことだ。

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風に吹かれて
(角川文庫)
五木寛之自選文庫
エッセイシリーズ
 cakesの連載書評には、「新しい古典」と通しタイトルがあるように、これからの時代で新しい古典として読まれそうな書籍を扱っているが、古典であることの条件の一つは、読み継がれることだ。そして「読み継がれる」というのは多くの場合、いくつか異なる版の存在を意味する。

 そこでまず、初版・初出と現在流布している版の比較が重要になる。『風に吹かれて』についても、いくつかの版を検討したところ、ごく基本的なレベルで、掲載されている章の異同があることに気がついた。異同というか、削除があった。

 現在比較的容易に入手できる1995年に刊行された角川文庫の、五木寛之自選文庫エッセイシリーズの『風に吹かれて』(参照)を1968年の初版と比較すると、4編のエッセイが削除されていることがわかる。理由は、角川文庫版に追加された「文庫新版へのあとがき」(「風に吹かれて」の三十年)に簡単に言及されている。

 こんど角川文庫版を新しいエッセイ・シリーズとして編むに当たって、作者自身でわずかな字句の訂正と改訂を試みた。本はテキストではない、というのが私のかねてからの持論だからである。ふり仮名をふったり、漢字を仮名に改めたりした部分もある。改行もふやし、いくつかの章はスペースの都合で外すことにした。すべて現在の読者に読んでほしいという気持ちからだ。

 削除された理由は、「スペースの都合」とされている。それを疑う必要はないが、問題は当然、その都合で、どの章を削除するか、ということになる。

 それほど難しい問題ではない。実際に削除された項目を読めば、推測はたやすい。たいていの場合は、時代に合わないか、その時代に沿いすぎて時代証言になるというより、古びた話に読まれることを懸念したものだ。あるいは、笑いを取るにしても些末な話であったり、単純に論旨が歪んでいたり間違っていることもありそうだ。

 が、そうした理由の背後に、作者の、当時の思いを隠そうとする深い意図が潜んでいることもある。そこをどう読むかは、冒頭示したように、メッセージの受け取りかたに関係する。

 1995年の角川文庫版の削除章で、cakes書評のテーマに近い章は、「明治百年の若者たち」だった。「一九六八年である。明治百年の春がきた。」という冒頭で始まる。確かに、そう書き出されると、現代の若い読者は、ほとんどピンとこないだろう。

 1968年を明治百年として想起できる年代の下限が私の世代になってしまった。もの心付いて世界を眺めることができるのが、10歳くらいの年齢なら、1968年の日本を経験のなかで留めているのは、1958年生まれが最後である。私は1957年生まれなので、当時の、明治百年騒ぎは明確に記憶にある。当時10歳の男の子には忘れがたい、明治百年記念切手の記憶がある。

 その1968年から今年のこの春には、45年が経った。50年の節目には5年足りないが、百年の半分は過ぎた。当時、明治百年と言われると遙かに遠い昔に思えたものだったが、その半分の50年という年月は、意外に早くすぎたという実感が私にはある。まあ、この話も自著『考える生き方』(参照)で書いたので、そこは割愛して、該当の削除章を見てみよう。

 冒頭にこう続く。

 新しい年を迎えると、奇妙に昨日までの一年間がはっきりした遠近法で見えてくる。

 昨年、最も多く質問されたことは何だっただろう。私の場合、それは小説についてでも、政治に関してでもなかった。もちろん、女や酒についてでもない。

 〈現代の若者たちをどう思うか?〉

 おそらく最も多く浴びせられたのは、そんな質問だったように思う。

 五木はその問いかけの背後にあるものをすぐに嗅ぎ取った。なお、昨年とは1967年である。五木はこの年を「若者総批判の年」とも呼んでいる。

私が求められているのは、警棒だった。その棒で私が若者たちの背骨を痛撃するのを、彼らは期待していたのである。

 当時のマスメディアは、流行作家の五木の口を借りて、若者批判をしたかったのだった。その時代、世間の大人たちは、若者の生き方や活動を批判していたというのが背景にある。

 さて、この年、五木は何歳で、その若者は今何歳になるだろうか?

 五木は当時35歳である。35歳は、当時は、若者を批判する大人の年齢に組み入れられていた。現代なら、35歳はまだまだ若者気取りだというのに。

 その時の若者を18歳くらいとしてみよう。すると、1950年生まれである。現在は、63歳である。

 つまり、こういうことだ。現在63歳の、あたかも老人に見える人たちは、現在80歳の老人から、「なんだあの若者たちは」と、当時、痛罵を浴びていたのだった。

 どうです?

 あなたには、現在、63歳の老人と80歳の老人に、その大きな違いが見えますか。

 それどころではない。現在80歳の老人、つまり、五木寛之は、同じ生年月日の石原慎太郎と同様、戦後の初の若者世代だったのだった。特に石原は、戦後の日本の道徳を打ち破る若者の最先端にいた。それが今や、80歳なのである。

 みんなかつては若者で、そして、みんな、その下の世代の若者をこづき回していたのだった。

 そんなことは、もちろん、少しでも歴史の感覚のある人間なら誰でもわかることだ。当時の五木寛之も、その時代の若者を痛罵することの愚かさは自覚していた。

 が、それだけではなかった。

 五木寛之は、1968年に、若者批判の背景にある「二者択一の問いかけ」というものを忌避していた。そこで、当時の話題だった明治百年という、日本の近代史の自覚が反映してくる。

 たとえば、明治百年の日本の歩みをどのように評価するか。革命五十年のソ連におけるスターリンの役割を否定するか。それも必要とみとめるか。学生運動の暴力は、是か非か。アラブ連合とイスラエルは、どちらが正しいか。

 それから45年も経った現在では、自明か愚問に聞こえる部分もある。だが、当時はこれが、厳しい「二者択一」の問いかけでもあった。

 こうした二者択一の問いかけをどう捉えるか。現代でも、現代版の二者択一の問いかけがあふれていることは、あえて例に引くまでもないだろう。

 五木は、この章でこう述べていた。

 二者択一の答えを求められ、口ごもらず即決できる自信と決断を、私は正直うらやましいと思う。私はいつもそのたびに絶句するか、錯乱とも思える多弁におちいるのである。

 この段落の一つ先に、やや唐突に次の段落が現れる。そして、この段落は、そのままこの章のなかで奇妙な孤立を示す。この部分の本文の違和感は、『風に吹かれて』のオリジナルの独自な味わいでもある。

 私の母は敗戦後の外地の混乱の中で、死ななくてもよい死に方をしたが、その事件さえも私には二つの層をおびて見える。

 cakesの書評で私は、ここに五木寛之という作家の本質を見たがゆえに、その部分にやや乱暴だが切り込んだ。こう言っていいのかわからないが、cakesの書評で採った俯瞰がなければ、この段落は解釈ができないだろう。さらに五木寛之本人もそのことに気がついていただろうし、この章が削除された理由とも関連しているのだろうと私は推測した。

 この段落に次の段落が、ぎこちなく続く。ここで「このような人間」として自身を指す五木は、実は、この時点ではその核心の秘密を語り得ない状態にあるにもかかわらず。

 このような人間が、傍観者としてでなく生きていくためには、どうすればよいか。私は思うのだが、それには一つしか道はあるまい。つまり、その口ごもり、立ちすくむ姿勢を堅持すること。現実が大きなターニング・ポイントにさしかかっている時には、粘り強くあいまいさに固執することさえも力の要る仕事だろう。なぜならば、強風の中で立ち続けていることは、風の方向に逆らうことなしに不可能だからである。

 彼の口ごもった基点を知った現在からすれば、ここに「これが人間が生きるということなのか」と思わせるほど恐ろしいことが書かれている。

 「風に吹かれて」と五木寛之は言うが、実は、彼は「風に吹かれて」いながら、それに抗って、口ごもっていた。

 五木がこの削除章で示したかったことは、彼自身という人間を存在せしめた凄惨な歴史の受容の姿であり、そこから、口ごもること、曖昧に固執すること、強風の中に立ちづけていることを彼は語った。二者択一に安易な解答を求めるのではなく、また「若者」を痛罵するのではなく、若者にその忍耐の意味を語りたかったのだった。

 「粘り強くあいまいさに固執すること」が重要なのは、人間は歴史の悲劇を背負いうる存在だからだし、人は歴史的な存在となるからだ。

日曜日

 温かいというか暑くもなった一日だった。砂塵が舞い、黄砂のように思う人もいた。

272 : Lesson

How can illusions satisfy God's Son?

2013-03-09

土曜日

 あやうく今日も日記欠となりかねない。

 ブログのほうを少しいじって、書評だけ独立したブログにできないかと少し試したが、うまくいかない。そのうち、ブログにもパソコンにも疲れてきた。そのわりに、アングリーバードのオリジナルをまた夢中でやっていた。なんのことやら。

 並行している読書がいまいち散漫。cakesのほうをまとめにかかろうと思うのだが、それだけのテンションが維持できない。明日はあすで、山のような野暮用。

 ニュースではPM2.5の話題。また花粉症の人もよく見かける。遠く霞んでいるのか富士山も見えない。まあ、でも、春の空気を吸い込む。

 年を取ったなというのは50歳過ぎたあたりか。病と死の恐怖が嵐のように襲ってきて、ひとまずそれが過ぎてみると、かなり老人になった感じはした。脳もある部分明確に衰えた。反面、それを補う部分もあるにはある。

 ある種の関心はかなり自然に失せてきた。

 日記でずっと続けていた社説読みも、また再開するかもしれないが、さらっと目を通して、なんの関心も呼ばない。

 社会制度的な問題は、技術の問題に還元できそうだし、経済の問題はとりあえず、適度な金融緩和は前提になる。それ以上のことは、政治に求めることはできない。

271 : Lesson

Christ's is the vision I will use today.

2013-03-08

この日、日記欠。

 忘れたわけではないが、マシンに向かう時間がなんとなく取れなかった。iPadで書いてもよいのだけど、まだ、日記などをモバイルで扱うには慣れていない。

 温かい日だった。

2013-03-07

木曜日

 だいぶ温かくなった。あっというまに三月も中旬に。

 いろいろ散漫に本を読んでいる。いろいろ思うことはある。

 ひとつには、震災の日が近づいていることだ。あれからもう2年経ってしまったのかという思いに、ちょっと愕然としている。昨年もそうだった。一つのメルクマールにACIMのレッスンを始めた。きちんとこなせば、1年ということだが、現在270。終わるのは3か月くらい先になりそうだ。もっとかもしれない。

 この一年で55歳にもなった。そうした思いからの、本も書いた。どこまで届くか、見えない。かなり届いた実感はあり、多くの人に感謝したい。まあ、みんな普通に生きて行きましょうのメッセージでもある。

 蔵書の整理をしないとと思いつつ、なかなか3月には手がつけられない。資料の整理もしないといけない。整理っていうのは、簡単に言えば、捨てることだ。

 本を捨てるはつらいものだなと思うが、捨てて捨ててきた。これまでどれだけ捨ててきただろうかと思うが、しかたない。

 というか、いずれ目は見えなくなり、本は読めなくなるだろう。耳も聞こえなくなる可能性がある。そうなると、本とはお別れである。

 生きているうちに、いろんな執着から、引きはがされる。つらいないなと思うが、ある程度、離れると、それが普通に執着でしかないとわかることもある。

 こういうとなんだが、自分が、脳みそに積み上げてきた知識ともお別れしなければならない時はくる。そしてその前に、そうした知識をすべていったん忘却してもよいのだろうと思う。

 なんか宗教めいたことを言っているみたいだが、不可知の雲というのは、忘却の雲でもある。同じではない。不可知の雲に入るには、忘却の雲のなかに、自分の知識のすべてを覆う必要がある。

 なぜという思いもあるが、それはそれでいいんじゃないかという思いもある。

 街中のウィンドウなどにふと自分の相貌を見て、立ち姿や歩く姿は遠目には若いようにも見えるが、ふと顔などのぞけば、もうこれは老人である。

 声は、なぜか、あまり老けない。というか、しゃべり方と声のはりはどうも30代くらいのまままだ変わらないように思う(自慢とかではなく)。

 春らしい街を歩いていると、自分がまだ若いような気にもなる。若さの情熱や焦がれるような不安や性欲みたいなものは、あまりない。ただ、それでもどこかしら若いような気分がふっとすることがある。

270 : Lesson

I will not use the body's eyes today.

2013-03-06

水曜日

 春らしい一日だった。そういえば今年は、土筆を見るのを失念していたので、例年見かけるところまで足を伸ばす。あった。

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ライスの自伝

 ライスの自伝だが、どうも勘違いしていた。二冊あり、政治のほうが重要だった。さて、どうするかな。

269 : Lesson

My sight goes forth to look upon Christ's face.

2013-03-05

火曜日

 こまごまとしたことをして過ごす。今年も、土筆を見損ねたと思う。

 手間のかかる読書を、ちまちまと進める。以前より、読みが深くなり、またそれなりに表現も深化はしているのだろうが、反面、集中力や根気のようなものは減速していて、老いというのは感じざるをえない。

 先日、スーパーに老眼が置いてあったので、ちょっと試したら、一番軽度なものでも、くらっとするほど合わなかった。近視・乱視はあるが、どうも老眼はなさそう。

268 : Lesson

Let all things be exactly as they are.

2013-03-04

月曜日

 今日も「不可知の雲」を読んでいた。基本、 William JohnstonをベースにCarmen Acevedo ButcherとEvelyn Underhillを参照。Johnstonの訳だと、他2つと比べてちょっと解説が多すぎるのではないかというのと、語感の差は思った。"Privy Counsel"のはかなり、JohnstonとButcherに差があった。

 それはそれとして、やはり以前よりよくわかる。というか、黙想について、叱られているような思いもあった。

 構図として、active life と contemplative lifeがある。

 ところでそれとは別に、cakesの関連で、intellectual lifeを調べていた。 contemplative lifeからの変遷があるのだろうか。

不可知の雲と黙想

 最初、不可知の雲を読んだときは、その深淵さもだが、黙想の技法への関心もあった。端的に言えば、マントラと思念の技法である。が、そのあたり、今回はあまり関心は向かなかった。不可知の雲の著者は、むしろ、メカニカルな技法をできるだけ避けようとしている、というか、あくまで精神性の付随として黙想を見ていることがわかったし、考えてみれば、黙想の秘密はそこにあるのだろう。つい、グノーシス的なものも連想したが、そこはむしろ、「愛」の思いの思い方といったいった点にあった。

 Acimと似ている面とそうでない面もあるが、それはそれでかまわないようにも思えた。

 というか、かなりシンプルに読めてきた感じはするが、それでも、中世哲学の根幹みたいな部分は、率直に言って歯が立たない感じがした。

 章タイトルがオリジナルにあるのかわからないが、今回は、章タイトルがかなり内容を簡素に表現していることに気がついた。

 Evelyn Underhillは著作権が切れているので、これをベースに翻訳したい気持ちするが、それだけの力量が自分にはない。では、抄訳のようなものをとも思ったが、まさにそれこそが、著者が禁じるものだった。

 英米では、ここからCentering Prayerとして再評価されていくし、それはそれで簡素に本質をついているのだが、Thomas Keatingなどのようなありかたより、なお、素朴に、黙想はありうるようにも思えた。

 まあ、なによりも、黙想を意識のもちかたのように理解していたのは、間違っていたなあという感じがした。よくわからない点でもあるのだが、重要なのは、不可知の雲というより、忘却の雲と言ってもよいのだろう。まさに、そのあたりで、Centering PrayerのCenter感覚とは違うようにも思えた。

 

 各種の訳について⇒Voice in the Wilderness: Different Versions of the Cloud of Unknowing

 オリジナル⇒The Cloud of Unknowing

267 : Lesson

My heart is beating in the peace of God.

2013-03-03

日曜日

 地域のことで時間を取られる。しかたない。

 何もする気が起きない、というほどでもないが、空白な感じがある。さて、自分はこれから何して、生きていこうかなと。理性的に考えれば、これまでと大きく変わるものではない。

 「不可知の雲」を再読中。以前よりも、ぎりぎりとわかってくる。これはすごい本だなと思うが、万人向けの古典とは言えないだろう。それでも、中世の精神の、もっとも美しいところがぎりぎりと伝わってくる。

266 : Lesson

My holy Self abides in you, God's Son.

2013-03-02

土曜日

 久しぶりに、海カタンをする。出先は良かったが、後半、やられた。

 夕食に、これも、ひさしぶりに、カレーパウダーでカレーを作る。けっこう本格的にインドカレー

2013-03-01

金曜日

 ひさしぶりにケイジャン料理を食べる。といってもチキン。

 「不可知の雲」をぱらぱらと再読。もうちょっときちんと読みたいなと思うが、むずかしい。

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