finalventの日記

2013-03-22

仏性

 昨日、ツイッターで、「仏性」について少しつぶやいた。つぶやきながら、これは伝わらないだろうなという諦め感があった。

 ごく簡単にいうと、仏教についてネットで語る人は、自分が仏教に詳しくて、人に説教なり指導したいという人が多い。こういうタイプの人にはほとんど何も通じない。

 さらに、「仏性」というのが、こういうと誤解されやすいのだけど、ほとんどの仏教徒が誤解している。そこまで言う理由は、道元に拠っていて、まず道元の系統以外ではほとんど「仏性」は理解されていない。厳密にいうと、チベット仏教では理解されているので、その系統なら通じる面はある。

 このように説明すると、道元という特定派の仏性理解にすぎず、各派にそれぞれ仏性の理解があってもよいという意見が出てくる。それも理解できる。これについても、道元は縷説しているので、それ以上に、ネットのような場では語りづらい。基本、各人が仏教だと信じるものを信じればいいじゃないかというのは、それはそれで市民社会の規則からしても正しい。

 道元の系統からするとしかし、ただ衆生の苦を見過ごしているに過ぎないとも言えるし、それゆえに道元があれほどに、心血を注いで「仏性」を説いたというのはある。

 ややこしく、これも大げさに思われてもしかたないのだけど、道元の系統、といいつつ、曹洞宗はすでに道元の思想からは離れている。なぜそう言えるかというのは、「修証義」にある。これは、道元の語句集のようでありながら、道元の思想とは異なるものだからだ。と、いうあたりもかなり説明が難しい。

 で、「仏性」とは何かなのだが、それこそ、道元が、正法眼蔵で縷説しているとおりなので、それをさらにパラフレーズしてもナンセンスになってしまう。

 ただあえて言うなら、仏性とは三法印との関連で見るとよい。ただ、三宝印もなかなか定まらない点もあるので、ややこしい。それでも、核は諸行無常・諸法無我であり、つまり、仏性というのは諸行無常・諸法無我のことである。

 道元も縷説しているが、「仏性」というのは、「仏の性」ではなく、「仏」そのものだということだ。

 この先も迷路になるのだけど、諸行無常・諸法無我というのは、たいていの仏教徒はすでに知っていると思っている。諸行無常というのは、常なる者はない、であり、諸法無我というのは、永遠的な実体はないということである。そして、すべては、空しく過ぎていくといった理解に陥る。

 ここが道元とまったく異なるので、道元は過ぎていかない、としている。今、この刹那に有、つまり、有時、が、仏性で、時間という迷いを前後際断している。このありかたが諸行無常・諸法無我であり、仏性である。

 では、なぜそれが坐禅に関連するのか?

 ここがまた難しい。禅というのは、メディテーションでもなければ、悟りに至る道でもない。これも道元が縷説しているとおり。

 坐禅はそのままに仏であるというのは、時間という迷いを前後際断いる有時を示しているから。

 これらの根幹には、四法印になるが、一切皆苦がある。仏の教えというのは、一切皆苦に向き合う生き方だし、禅とはその苦を逃れる最後の真理だからだ。とかいうと大仰だが、道元も実際はそう言っている。

 では、どうして一切皆苦という苦から逃れるのか? これは、悉有仏性を自分で知ることであり、この知るというのが修ということ。別のいいかたをすると、苦は時間という迷いを前後際断されないところから、我の妄念が生み出したということを知ること。

 これも難しいと言ってよいのだけど、これによって苦から逃れるというのは、普通人が思っているような「救済」「救われる」「悟る」というのは、けっこう違う。

 自らが作り出した苦をまさに自らが作り出したとして、自身を支えてきた思考という時間を手放すことにある。

 と、まあ、語るほど、まさに宗教めくし、うまく表現しづらい。

  

 

追記

 ブコメが付く可能性をすっかり失念していた。

 以下、簡単に個別の補足を。

 

surunpashi

全然分からんが、苦から逃れた先の在り方か、分からん2013/03/23

 苦から逃れたとき、今現前だけがあります。ごく簡単にいうと、理不尽な怨みをすべて忘れて許すということです。

kumatarou3rd

葛藤

2013/03/23

 葛藤が終わり得る根拠性が仏性。

okra2

伝わらないのは仏性そのものの話じゃなくてって事のような2013/03/23

 「おまえが理解してないから」ですよかね。

hatekun_11

仏教内の専門用語で言い換えてるだけのような。本当に分かってんのかなこの人 /「何を言ったか」でなく「誰が言ったか」ベースで語ってる限り内輪以外に伝わるは

 「本当はわかってない」でもいいですよ。ただ、「誰が言ったか」はここで道元なんです。その道元とは、道の元という意味なのですよ。

ずがない2013/03/23

ハイデガーに似てる。2013/03/23

 ええ、ハイデガーによく似ています。

uk_maniax

そもそもの話として、仏教は相対的にではなく「絶対的」に捉えないと解釈できないものではあり。2013/03/23

 残念ながらそのコメントは理解できず。まあ、ご自身で理解されていたらそれでいいでしょう。

yzxnaga

「自らが作り出した苦をまさに自らが作り出したとして、自身を支えてきた思考という時間を手放すことにある」2013/03/23

 そこがポイントです。自分は自分の内面の苦というものを見つめている・感じている・対象化している、というのが迷いであり、対象化する限り、苦が続くということです。見つめている・感じているという主体に見えるものが、苦を支える原動力なのだということです。これが仏性ということでもっとも重要なことです。

posmoda

「仏性」の実体を言葉で説明することには実はあまり意味がない(と仏説も言う)。悉皆成仏思想とはあえて言うならば実存への敬意。西洋で例えるなら人権思想にあたる。「人権の実在」について議論する人はいない。2013/03/23

 まず、仏性は実体ではありません。諸存在に実体がないというのが仏説であり仏性ということです。「実存への敬意」というと、そしてそれを人権思想に対比させているところを見ると、主体(実存)に対象化された諸存在が尊いというふうに理解されているのではないでしょうか。ところが、道元のいう仏性はそうではありません。

shigeno57

過去のエントリーに目を通したらこれまた回りくどいので、伝わらないのは「仏性」の難解さに加えてご自身の説明に難があるからではと邪推してしまった。2013/03/23

 「邪推」ではなく、それでいいと思いますよ。ご参考にならなければそれまでです。そもそも正法眼蔵を読んでいただければそれで終わりということです。

hihi01

ありがとうございます。2013/03/23

 こちらこそ。

yojik

なぜこんなに回りくどくなるのか。。道元の言葉をWeb向けに要約すると「修行で何か(仏性とか)を見つかるわけじゃなく重要なのは修行のプロセスじゃ!」ぐらいでいいのでは。。修行しないから結局は理解できないんだけど2013/03/23

 いえ、修行のプロセスは重要ではないのですよ。そもそも「修行」というのはないのです。「修行」ではなく、「修」するという今、この時の一度きりのあり方なのです。

komochishisyamo 仏教

ホッテントリに上がってたのでブクマ。総論だけど仏教ってホント意味ないよね、空っぽ、中身ないもんね。一切皆空なことを一番知らないのがこういう人。2013/03/23

advblog

 「総論だけど仏教ってホント意味ないよね、空っぽ、中身ないもんね。」ということの意味が仏教なのです。というと、ますます、「一切皆空なことを一番知らないのがこういう人」と評されるのでしょう。まあ、それはそれでご自由に。

narwhal

「諸行無常・諸法無我というのは…道元は過ぎていかない、としている。今、この刹那に有、つまり、有時、が、仏性で、時間という迷いを前後際断している。このありかたが諸行無常・諸法無我であり、仏性である」2013/03/23

 そこが道元的には重要な部分です。

okachan_man

これが禅問答というものか。2013/03/23

 いえ、それはシンプルに誤解です。道元は禅問答を実際には排除しています。そしてそれにならって私も無理なことを説明しようとしてドツボっているわけですよ。

arajin 人生

「自らが作り出した苦をまさに自らが作り出したとして、自身を支えてきた思考という時間を手放すことにある。」2013/03/22

 だから、それは「許す」ということでもあるわけです。

goo

「自らが作り出した苦をまさに自らが作り出したとして、自身を支えてきた思考という時間を手放す」

 思考とは計量・比較でこれが自動的に時間として作用する。過去を未来の思いを失う意識が苦しみを除くと。

 

追記

さらに。

locust0138

自称「仏教に詳しい」奴って、穴だらけで主観丸出しで何の説明にもなっていない酷い解釈を述べて、突っ込まれると「仏教とはそういうものだ」「解釈は人それぞれ」とか誤魔化して逃げることが多いような気がする。2013/03/23

 それはとても残念なことになりましたね。

rcade00fire01

この人がよくわかっていない。こんなひどい説明は初めて見た・・・2013/03/23

 そこまで独創的な説明でしたか。道元を読まれたら納得していただけるかな。

jt_noSke ダジャレ

仏のことはほっとけ2013/03/23

 あらあら。 

kei_1010

障害を負ったチンパンジーが凹まない。というのに通じてそう。2013/03/23

 「愚」に通じるところはありますね。

houyhnhm

「お前が思うならそうなんだろう。お前の中ではな」の、お前の中の所が相当広い感覚で、というお話でOK?/元本読んでない。この辺りは中国読みなのかしらん。2013/03/23

 ええ、それでもOK。ただ、苦から道元を思い出すなら、正法眼蔵の「仏性」巻を読まれたらいいでしょうくらい。

ryozo18

どうしたって言葉は座禅になり得ないからなあ2013/03/23

 ええ。

 

追記

 いろいろご不満なかた多いようで、であれば、私とはまったく異なる、こういう理解をご参考になったらいいじゃないですか。

 こういう理解とか⇒坐禅と暮らし |正法眼蔵 仏性 42

 こんなのもありますよ、曹洞宗らしいなあ⇒曹洞宗東海管区教化センター


追記

 ちなみに、正法眼蔵の仏性巻の冒頭、

釈迦牟尼仏言、一切衆生、悉有仏性。如来常住、無有変易。

 というのを

釈尊が言われている。「一切衆生には、悉く仏性がある。仏の本質は常住で、変わることがない」

 と訳したとたんに誤訳。

 水野先生の訳は丁寧につぎのように訳されている。

釈迦牟尼仏が仰せられた、「一切は衆生であり、悉有は仏性である。如来は常住であり、無であり、有であり、変易である」。

 この訳の差がわかるかが、正法眼蔵の仏性巻のポイント。

 つまり、「一切衆生には、悉く仏性がある」と理解してはいけないというのが、道元が一番伝えたかったこと。

 この誤解を誤解だというのを明らかにするのが、「狗子仏性」という禅問答というか、理解度チェックテストがある。

 「一切衆生には、悉く仏性がある」なら、「犬にも仏性がある」となる。で、そう理解したら、バツという話。ただ、この公案、いわゆる禅問答のように「無」、無が大切とかヘンテコな理解も多く、またまた迷路。

 迷路の例⇒狗子仏性 とは - コトバンク

 

kazushevakazusheva 2013/03/23 01:56 我執の存在に気づくということですか。

nittahitosinittahitosi 2013/03/23 07:47 最後から 2行目は、「時間という思考を手放す」ではないでしょうか。
もし自分の勘違いであったら本当にすみません。

tennteketennteke 2013/03/23 08:43 京極夏彦氏が著書で登場人物に「動物は仏性がないから仏になれない」と言わせたような気がするんですけど、京極氏がいろいろ説明している宗教の話をfinalventさんに添削してみてもらいたいなぁと思っております。

finalventfinalvent 2013/03/23 08:59 kazushevaさんへ。ええ。ただ、気づく主体がこの難問のポイントです。

finalventfinalvent 2013/03/23 09:00 nittahitosiさんへ。ええ、そう言ってもいいと思うのですが、その場合、思考が主体になるのですが、実は、思考は時間という差違から生じています。この時間は、有時の時間ではないのですが。

finalventfinalvent 2013/03/23 09:00 tenntekeさんへ。それは野暮というものでしょう。

coconiccoconic 2013/03/23 12:58 初心者です。仏性についての見解ありがとうございます。質問ですが、悉有は仏性 (ことごとくあるものは仏性) ならば、犬も仏性になりますが、「犬にも仏性がある」は何故間違いなのでしょうか。

yurikorin1985yurikorin1985 2013/03/23 14:06 自分の中のあらゆる事柄について思考して深い理解をしていっても、苦から逃れることは出来ないとすれば、言葉で仏性を説明することは不可能なのか?それでも言葉で説明するしか無いのか?

satmilosatmilo 2013/03/23 14:39 一切は衆生なり。悉有は仏性なり。如来は常住なり。無なり。有なり。変易なり。
端的でいいですよね。
放てば手に満てり、といきたいものですが。

ご著書拝読させていただきました。
finalventさんには、仏教のことも随分学ばせていただいています。
感謝です。

finalventfinalvent 2013/03/23 16:03 coconicさんへ。ええ、その見方から「狗子仏性」に「有」という解もあります。ただ、基本は、「仏性」を「仏になる種・可能性」といった実体として見るのを排するというのがこの議論の基本です。別の言い方では、「犬」は仏性ともいえますし、道元は「一悉」という言い方で、それも仏性としています。要点は、諸存在は諸行無常・諸法無我であるということです。

finalventfinalvent 2013/03/23 16:06 yurikorin1985さんへ。この点については、仏教では言語の不可能性という中観的な方向もありますが、概ね、言語問題とみるより、認識主体の問題と見ているようです。誤解を招く言い方ですが、ノエマとはノエシスです。苦が苦の認識主体そのものであり、その認識そのもが苦から逃れようとして苦を対象化し苦を作り出している。ではどうするか。仏性の権限に苦の解放があり、禅になる、と。

finalventfinalvent 2013/03/23 16:07 satmiloさんへ。ありがとう。思春期から長く親鸞に傾倒していましたが、器質的なものか年を取るにつれ、道元に引かれていきました。

coconiccoconic 2013/03/24 13:17 ご返答ありがとうございます。失礼かもしれませんが、詳しいですね。
多謝。

ShinRaiShinRai 2016/03/24 09:22 このところ寺田透の道元和尚広録を読み、只管打座が道元の教えでなかったことに気付きました。


随聞記は偽書じゃないですかね


正法眼蔵の第一、第二、第三を読み、仏性も仏教学者の言うことが間違いではないかと思いいたり、こちらのブログにたどり着きました。


ありがとうございます

ShinRaiShinRai 2016/03/24 09:25 道元の言葉は現代科学の非認識論的現象学やネットワーク理論の先取りじゃないでしょうか

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