1.V. Wholeness and Spirit

 "The miracle is much like the body in that both are learning aids for facilitating a state in which they become unnecessary."「奇跡と肉体は似ていて、どちらも不要になるまでの補助である。」
 私がAcimを理解していないからかもしれないが、これは人の霊の姿というのは「死」ということかなとも思う。私たちはみんな死んで無になる。Acim的には無ではないというが、現実的には無である。それを私たちは、死なんか怖くないという人でも、心の底では怖れている。あるいは、死によって自我の苦悩から逃れようという人は、死が安楽であると思っている。が、いずれも無である。私たちがみな無になるというのは、完了の相としてある。
 次に私たちは、私が無になってもこの世界は残ると思っている。これも実は「私」の延長の存在願望に過ぎず、日本も地球も宇宙さえもいずれ無になる。原子や陽子ですら消え去るだろう(ここはまだ科学的には明らかではないが)。時間もなくなる。だが、いつかの相でまた生命が生まれ知性が生まれる。と、考えるなら、霊こそが真実在であると考えるのもさほど非理性的なことではない。ただ、その考え、アイデアが人を無への恐怖から支えるわけでもないだろう。
 このあたりはわからないし、わかる意味もないように思える。
 ただ、私は肉体としてこの世界に存在している。肉体がこの世界と私(という知覚)を成立させているというのは言えるし、それが苦悩の姿であるのも確かなら、この苦悩が究極的に志向するものは先見的に存在している、完了の相としてあるとも言えるだろう。言葉の遊びでもあるが。
 "As these false underpinnings are given up, the equilibrium is temporarily experienced as unstable. However, nothing is less stable than an upside-down orientation. Nor can anything that holds it upside down be conducive to increased stability."「間違った思い込みが断念されると、均衡がくずれ一時的に不安になることはあるだろう。が、倒錯した状態での安定はありえない。倒錯によって安定へと改善されることもない」
 簡単にいえば、宗教も含め、この世界が与えてくれるいかなる世界観も人の苦悩に役立たない。それが壊れることはよいことだが、移行期には不安定になる。
 それもまたメタ的に宗教といえないこともないが、実感としてはわかる。
 章としてのテーマは「全一性」にある。誰も他者を排除はできないということだろう。