「410 Gone」

 手の中にある小さな箱、それを見てわたしはわずかに溜息を吐いた。ラッピングのためのリボンに挟まっていた紙片には、《お返しです》と丁寧な筆跡で書かれている。その言葉が何を意味するのか、はじめは本当にわからなかった。もう何週間も他人とまともに接触していなかったのだから。
 あのひとがいなくなってから、ずっと眠っていた気がする。もちろん実際はそんなことはなくて、空腹に耐えかねて食事もしたし、最低限行わなくてはいけないことはいくつもあった。ただ、逆に云えば、それら以外の時間は、ずっとベッドのなかにいた。何かを考えようとすると、すぐ眠くなった。というか、その《何か》というのはあのひとに起きたことそのものであったのだけど。昼となく夜となく、わたしは眼を瞑っていた。眠っていることと起きていることの境目にわたしはいたかった。そうすることで、あのひとの居場所に近づけるのだと、思っていたのかもしれない。
 なぜあのひとがいなくなって、自分はまだいるのか、わたしはいまだにわからずにいる。いなくなりたいと思っているのではなくて、ほんとうに、ただわからない。今という一瞬があって、その次の一瞬までの時間が連続して命が続いている。そしてそれはいつか、不意に途切れる。あのひとが途切れて、わたしはまだつながっている、それが、その理由が、ほんとうに、全然、理解できない。眼の前の箱を見た。いま、少しでもわたしが力を入れれば、くしゃりとそれは潰れるだろう。誰かが、あのひとの命をくしゃりと潰したのだろうか。
 ――わたしは、でも、潰すことはせず、箱を開封した。リボンを解く指が痩せた気がする、当たり前か。
 なかから出てきたのは、小さな飴だった。鮮やかな赤に着色されている。苺味か何かだろうか。飴と、《お返しです》と書かれた紙片――錆び付いた思考力でそれらを結びつけるのは、至難の業だ。放棄しかけたときに、充電ケーブルが挿さったまま床に落ちている携帯電話が眼についた。拾い上げると、メールと着信が大量にあることがわかる。再び床に投げ置こうとしたときに、日付が視界に入った。それで、すべてがつながった。
 ……今日は、三月十四日、ホワイトデーなのだ。
 けれどそれがなんだというのだろう。わたしが送った唯一のチョコレートは、あのひとの手に渡ることなく――今はどこにあるだろう。掃除のおばさんか誰かが回収したのだろうか? まあどうでもいいことだ。とにかく、わたしのチョコレートを受け取ったひとが、いないことだけは確かなのだから。
 飴が入った箱は、部屋の扉の前に郵便物と一緒に置かれていた。郵便物として配達されたのではあればその状態で置かれるはずだから、おそらくこのまま入っていたのだろう。誰かが直接郵便受けに入れたのだ。
 届くはずのないものが手元にある。明らかにおかしいことが起きているのだけど、それ以上突き詰めてそのことを考える気にはなれなかった。飴を口に放り込んで、またベッドに戻る。――苺ではなくて、林檎の味がした。

 それからも毎年、飴は送られ続けた。誰にもチョコレートを渡していないというのに。

                       *

 月日は、わたしをベッドから引き離していた。何かしら感動の出来事があって劇的に立ち直ったというわけではなく――ただ、なんとなく、だった。少しずつ、何もしていないことがわたしのなかで負担になり始めていたのかもしれない。自分の部屋以外の世界とのかかわりを取りはじめた。もちろん元通りにならないものがほとんどだったけれども、繋ぎなおせるものもわずかにあった。それをよすがに手繰り寄せて、わたしは外へ出た。空白はあまりにも大きい。なかでもあのひとという空白は永遠に埋まらないだろう。それでも少しずつ、それは減りはじめていたと思う。

 最初のときに予想した通り、箱は郵便受けに直接入っていた。いつも同じ花柄の箱で、中身もいつも同じ林檎味の小さな飴だった。そして紙片には《お返しです》と書かれていた。
 本当は思いたかった、あのひとが送ってくれているのだと。そしてたとえばわたしが、あのひとにチョコレートを供えたりすれば、それは小さな物語の輪として完結したはずで、それはおそらくとても美しいものだったろう。でもわたしはそうは思えなかった。なぜならば、すでにいないものは、飴を送ることなど出来やしないのだから。
 そういうわけで、飴の問題はずっと放っておかれていた。本当にその気になれば、たとえば監視カメラを置くとかそういうことをすれば、突き止めることは不可能ではなかっただろう。けれどそこまでする気にはなれなかった。だから、放っておかれていたという表現は正しくないのかもしれない。放っておいたのだ。そうやってただ時だけが過ぎていた。

                       *

 その朝、自宅を出ると、見知らぬ男が立っていた。こうやって思い出そうとしても、うまく彼を描写できる言葉が見当たらない。確かスーツを着ていたような気がする。確か眼鏡を掛けていた気がする。確か――手提げ鞄を持っていたような気がする。髪型は……どうだっただろう。
 数秒、眼が合ったまま時間が過ぎる。
「あの――」
「いいかげん、チョコレートを下さい」
 まっすぐわたしを見つめたまま、男はそう云った。
「は?」
「チョコレートを下さい、と云っているのです。もちろん義理で構いません。市販のもので事足ります。ただなんらかのチョコレートを下さい」
「何を云って……」
「何を? 二月十四日にチョコレートの話をすることがおかしいでしょうか?」
 その言葉を聞いて、ようやく今日がバレンタインデーであることを思い出した。けれども、今のわたしにとって、それは何も意味しない記号だ。男はまくしたてるように続ける。
「毎年三月十四日に僕は飴を贈り続けました。チョコレートを受け取っていないのに、です。もう五年も続いているのですよ」
「五年も……」
「他人事みたいですね」
 小さく、男は笑った。
「あなたの恋人は、あなたからのチョコレートを見て……」
「あ、あれ、あのひとのところに渡ってたんですか」
「知らなかったんですか? はい、間際でしたが」
「そうなんですか。それは……」
 ――良かったの、だろうか?
「……話を戻して良いですか。あなたからのチョコレートを見て彼は、ホワイトデーにはお返しをしなくちゃな、と呟きました。もちろんそれが不可能だと悟ったうえでです。彼は僕を見て、代わりにお返ししてくれないかな、と云いました。正直に云えば、別に彼とは親しい間柄ではありませんでした。いくつもの偶然が重なって、その場に立ち会うことになったのです。おそらく彼はもう周りの人間を個々に認識することも難しくなりつつあったのでしょう。それでもそれは、僕の役目になりました」
 彼はわたしの言葉を待っていたが、何も云わないので、諦めたように話を続けた。
「周りの視線もあって僕は、わかったと云うほかありませんでした。それを聞いて、彼はゆっくりと眼をつぶり、毎年頼むよ、と呟いて微笑みました。……それが最後でした。冗談だったのかもしれません。そうだったなら、あまりにも性質が悪かったと、あえて僕はここで云いたいですけど」
「それからずっと」
「そうです。それからずっとです。三月十四日になると、早朝、あなたの家へ行き、郵便受けに飴の入った箱を投げ入れる。たいしたことではありません。けれどどう考えても不自然な行為でした。その不自然さは僕のなかで、耐え難いものになっていきました。チョコレートをもらってもいないのに、その返礼を贈るというのは、おかしい」
「そうですね」
「だから、チョコレートをください。今は持っていないでしょうから、そこのコンビニで買っても良いですよ。なんなら付いていっても……」
「無理です」
「そうですよね」
 走りすぎた演技のように、お互いの言葉が終わる前に自らの台詞を重ねていた。
「今この瞬間、僕はあなたから拒絶されました。僕はこれ以上あなたに飴を贈ることはできません」
「はい」
「僕は彼の意思が入った容れ物でしかありませんでした。そしてそうあるべきでした。そのうえで成り立っていたあなたとの関係は、僕の行動によって壊れました。もうあなたと会うこともないでしょう」
「……はい」
「さようなら」
 彼は背を向けて去っていった。ゆっくりと歩いていたことは覚えている。どこの角を曲がって、視界から消えたのかは覚えていない。わたしはぼんやりとそれを見届けていた。そしてようやくわかった。彼は死んだのだ。