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ふぃっしゅ in the water

2016-12-11

観察する 17 <待合室の30年の変化>

なぜ「生活史」という言葉に引きつけられたかというと、産婦人科の待合室のここ30年ほどの変化を考えていたこともあります。



私が看護職になった1980年代初頭と比べて、大きく変化したことがあります。
それは待ち合い室に男性と子どもの姿があることです。


1980年代初頭の記憶はあいまいですが、1980年代終わりに助産師になった頃、「夫立ち会い分娩」や「両親学級」が先駆的な分娩施設で取り入れられ始めていた頃でしたが、妊婦健診に同伴する男性はまだいませんでした。



当時勤務した二つの総合病院でも、産婦人科外来は外来棟の端にひっそりとあり、男性が踏み込みにくい場所にありました。
産科だけでなく、婦人科受診する女性の羞恥心に配慮したものだったのでしょう。
子どもを連れての受診もあり得ないという雰囲気でした。


90年代半ばになると、ボチボチと妊婦健診に夫同伴で来院する姿を見かけるようになった記憶があります。
ただ、本人の診察の間は夫は待ち合い室で居心地が悪そうに待っている感じです。
産婦人科外来とか産婦人科クリニックに入ること自体が、男性側にもまだまだ抵抗感があったのではないかと思います。


2000年代になると、経腹エコーでの胎児の様子を夫も見ることが普通になってきて、産婦人科外来の診察室に男性が入ることがごく自然になりました。
産婦人科外来の待合室も、時には男女半々ぐらいの割合のことがあります。



仕事中は、そういう場面も当たり前になってしまったのですが、もし私が婦人科を受診しようとドアを開けた時に待合室に男性の姿を見たら、そっとドアを閉じて他の施設を探すかもしれないと、ちょっと複雑な気持ちです。
まあ、通院し始めたら気にならなくなるのかもしれませんが。


子どもと一緒に妊婦健診に来る理由>


子どもの姿を病院の待合室で見るのは、小児科外来だけでした。
その子どもの姿が産婦人科外来で見かけるようになったのは、男性よりもあとだった印象です。


病院の待合室というのは体調も悪い人がいるので静かにしなければいけない、静かにできない年齢の子どもは連れてくるべきではないという社会的な暗黙の規範があったのだと思います。


それが80年代、90年代の「自然なお産」の流れで「家族とともに迎える出産」という雰囲気が、外来の風景も変えました。
「院内助産のメリット」に、「夫や上の子供も一緒に話し合ったり、エコーを見ることができる」とありますが、「院内助産助産師外来」でなくてもいつの間にか、勤務先の外来もこの変化を受け入れていました。


ひとむかし前の産婦人科外来待合室の厳然とした雰囲気を思えば、ものすごい社会の変化が90年代あたりを境にして起きたことになります。


お母さんに連れられて来た幼児の言葉や発想に、こちらも和んだり、驚くこともあってそれはそれで良い変化だったのではないかと思います。


ただ、ちょっと気になるのが、「預けたくても預けるところがなくて仕方なく上の子を連れて妊婦健診に来ている」方がけっこう見受けられることです。
待ち時間にぐずったり、診察中にも目を離せなくて、自分の健診どころではないこともあります。
ちょっと疲れた様子が気になります。
本当は、この妊婦健診の時ぐらい一人になりたいという方もいらっしゃるのだろうと思います。


こういうわずかな変化を見逃さずに「生活史」として記録され、ケアに必要なことは何か考えていけると良いのですけれど。




「観察する」まとめはこちら

2016-12-10

観察する 16 <生活史>

「観察する」まとめで、「湿地帯中毒 身近な魚の自然史研究」(中島淳著、東海大学出版、2015年10月)の「はじめに」を紹介しましたが、その文の中で引きつけられた言葉が「生活史」でした。



そうか、生物学と言うのは「生活史」という言葉を使うのか、と。
そして具体的に「生活史」が以下のように説明されています。

「どのようにして現在の分布域を獲得したのか」「いつどこでどのように生活しているのか」「それらはどのような姿形をしているのか」・・・そういった情報を科学的な手法を用いて網羅的・枚挙的に記載していく作業となる。




この「生活史」と言う言葉はWikipediaによれば二通りに使われているようです。

生物学において生活史(生物)は、個々の生物の生涯にわたる生活の有様を指す。
社会学では、個人の生活の様相を記述したものを生活史(社会学)と呼んで研究資料とする。




人間の場合にも他の生物と同様に、生物学的な生活史(どのように生まれ、どのように育ち、どのように繁殖し、どのように死んで行くか)がその基本にあるけれど、さらに時代や環境の変化などが複雑で、社会学的な意味での生活史の全容を把握するのは至難の技といえるかもしれません。



まして、「個人の生活の様相を記述するため」の社会学そのものが、客観性よりは「こうなって欲しい」と言う願望や理想に引きずられたときに、なかなか人間の生活史というのは明らかにされにくいのだろうと思います。


看護あるいはケアという分野は、医学とともにこういう人間の生活史が両輪になって発展していくのかもしれない。
あるいは、生活史がきちんと観察・研究されなければ、看護やケアは自己満足のやりがいだけの仕事に成り果てる可能性もあるのだろう。


そんなことをこの「はじめに」の文章から感じたのでした。

2016-12-09

つじつまのあれこれ 9 <専門性とは何か>

昨日の記事で紹介した「植物をたくみに操る虫たち 虫こぶ形成昆虫の魅力」(徳田誠著、東海大学出版部、2016年11月)を、ぼちぼちと読んでいます。


「観察する」まとめで紹介した「湿地帯中毒 身近な魚の自然史研究」(中島淳著、東海大学出版部、2015年10月)と同じく、今まで全く関心もなくて知らなかった分野なのに、著者がどうしてその研究を始めたか、何に魅き込まれてずっと観察をし続けているのかという話が導入になっているので、ところどころ難しい専門用語が出てきても挫折せずに読むことができます。


これをいきなり、生物の教科書を買って読んだらもう1ページ目あたりで撃沈していただろうと思います。


「マンボウの素顔」「ノブドウ(野葡萄)」説明文のように、一般の人向けに書かれたわかりやすく簡略な説明でも、そのひとつひとつの言葉の定義まで掘り下げてみようとすると、そこにはまた何十冊もの専門書が必要になりそうです。


<専門用語を本当に理解できているか>


最近はめっきり本を読まなくなり、このまま読書とは無縁になっていくのかとちょっと寂しく感じていました。


その理由には、著者の考え方の未熟さが先にみえてしまうようになったこともあるのですが、よく考えれば、私自身がそういう「正義感にあふれた何かを伝える本」を好んでいたことが一因だったわけです。
その時には、「すごい。こんなに先見の明があることが書けるなんて」と感動していたのですが、時を経てみると、なんだか現実と理想の間でつじつまがあわないのですね。


たとえば、「自然なお産」を求める運動は「医療介入の多い病院での分娩」に対する批判が土台にあります。
文化人類学者とか民俗学者とか世界各国で書かれたそうした批判を読むと、「医療介入」の部分での専門用語の使い方が臨床の私たちとはずれているところが気になることがところどころありました。


周産期医療の専門外の方たちが、これだけの内容を書くのには相当大変だっただろうとは思うのですが、やはり、批判のためには現実を多少無視してでも主張するニュアンスが見えてしまったのでした。


30年ほどの変化をみると、そのわずかの専門用語の理解の差が、出産の安全性と快適性におおきなひずみをつくることになったように思えてなりません。



<専門用語は気が遠くなるような観察によって生まれる>



たとえば昨日の「ノブドウ(野葡萄)」の説明文ですが、「茎」や「葉」は当然、誰もが知っている言葉です。茎を指して「葉」ということがないように。
ところが、「茎」とは何かとなると、またそこには厳密な定義があるはずですし、リンク先のWikipediaに書かれていることでさえ、まだまだ序の口知識なのでしょう。


あるいは「冬芽」とは何か。
どうやってその存在を見つけて、定義されたのか。


長い長い観察の積み重ねを思うと、その知識になるまでの歴史に面白さを感じるのです。



そして地道な観察や研究を担っている人たちが、拙速に答えをつくり出そうとすると、おそらく10年後、20年後にはつじつまのあわないことが社会に返って来てしまうのではないかと。
周産期看護を見て漠然と感じる不安の答えが、冒頭で紹介した本などの行間にあるような気がしています。






「つじつまのあれこれ」まとめはこちら

2016-12-08

観察する 15 <ノブドウ>

先日のボタニカルアート展で、鳥肌が立ちそうなほど感動した展示がありました。


それがノブドウでした。


ノブドウは子供の頃に野生児で裏山を駆け遊んでいた頃、秋になると美しい実をつけていました。
今の生活圏ではほとんど見かけないので、懐かしいと思いながらその説明文を読みました。


秋になるときれいな紫や水色に色づくこれらの色が生じるのは、ブドウタマバエやブドウガリバチの幼虫が寄生する結果です。正常な色は白色ですが、あまり見かけることはありません。この宝石のように魅惑的な美しい色が虫こぶによって作られたとは、信じられない自然の妙です。




絵に描かれた紫色の実も実物を観ているような美しさでしたが、この色が何故どうやって作られるのか初めて知っただけでも、この展示に来た甲斐がありました。


冒頭でリンクしたWikipediaにも書かれていませんが、「松江の花図鑑」というサイトのノブドウ(野葡萄)に、説明と変化がわかる写真がありました。

落葉つる性木本
北海道沖縄の山野に生える。2分岐した巻きひげで他物にからみつく。茎は暗灰褐色で節の部分は膨らむ。茎は毎年枯れるが、基部は木質化して直径4cmほどになる。枝ははじめ粗い毛が密生するが、のちに無毛。円形の皮目が多い。巻きひげは各節からでる。葉は互生。 葉身は長さ8〜11cm、幅5〜9cmのほぼ円形で、3〜5裂する。裂片の先は尖り、縁には粗く浅い鋸歯がある。基部はハート形。雌しべは1個。果実はブドウタマバエやブドウタマバチの幼虫が寄生して、虫えいをつくることが多く、紫色や碧色などになる。正常な果実は少ない。種子は長さ3〜5mm。花期は7〜8月。冬芽は半円形の葉痕の奥に隠れて見えない。(樹に咲く花)
葉が深く切れ込むものをキレハノブドウとして区別されることもある。
学名は、Ampelopsis glandulosa var.heterophylla
ブドウ科ノブドウ



7月から11月にかけて変化していく写真を見ていると、普通は植物自体の色の変化だとしか思えません。


でも誰かが虫えいを発見し、色の変化に虫が関係したことを見つけた。
気が遠くなりました。


ところで、「虫えい」と打ち込んだものの「ムシエイ」だと思ったら、「チュウエイ」と読むようです。引用した説明文は日本語だけれど、一つ一つの言葉が専門用語であり、読み方からそのさらに深いところにある知識までが「専門性」なのですね。



こういう「生物の生態を観察し続けている人の生態」が気になっているのですが、虫こぶ(虫えい)を観察している方の本が出版されました。

フィールドの生物学ー21
「植物をたくみに操る虫たち ー 虫こぶ形成昆虫の魅力」
徳田 誠著、東海大学出版部、2016年11月30日




すごい偶然ですよね。
ボタニカルアートで虫こぶを知った直後に出版されたのですから。



あ、でも「客観的には神秘でも奇跡でもないものが、個人にとっては神秘にも奇跡にもなる」というひと言のおかげで、偶然の出会いに粛々と感謝してポチリました。







「観察する」まとめはこちら

2016-12-07

事実とは何か 21 <胡散臭い>

日勤に出勤する前は、朝5時台から6時台までNHKをつけっぱなしにしています。


いろいろと気になるニュースや話題がひっかかってきて、勉強になります。
どういう勉強かというと、「どうやってこういう胡散臭い話題が放送されるのだろう」というあたりです。


先日は、小学生が本の内容を漫才にして紹介するという話題がありました。
大人達の笑い顔と感心したというコメント、子ども達の「ためになった」という感想がテンプレになっているのは、以前も観た授業に漫才を取り入れる話と同じですね。


あるいは、さまざまな便利グッズの紹介コーナーもあります。
確かに便利そうなものもあるのですが、たいがいのものは「なくても不便ではないし、あればものが増えるだけでは」という印象です。
それを紹介する「一般の人」もまた、雑誌に出てくるような生活感が感じられないきれいに片付けられた家の中で、家族と「便利です」と、これもテンプレ通りという感じ。


朝から脱力するような胡散臭いと感じる話題が多いのですが、社会の変化をあれこれ考える良い機会にはなります。



ちょっと唐突ですが、こうした胡散臭い話題を聞いていると、私は学生時代に苦手だった文化祭とかイベントの雰囲気と重なってしまうのです。
日常のありのままの生活ではなく、いきなり上辺だけの昂揚感に包まれるあの雰囲気が苦手でした。


文化祭」なのに、こつこつと研究したり練習して来たことを発表すると言うよりも、いきなり焼きそばを作って売ったり、お化け屋敷を作ったりすることで楽しいと感じるあの雰囲気です。


卒業して、もうこういう雰囲気とは無縁になるとほっとしたのも束の間、さまざまな催しや職場の宴会など、自分には不向きなキャラクターを演じさせられることが終わりにならないという絶望感。あ、ちょっと大げさですけれど。



こうしたニュースで流される話題が、イベントに感じる何かと重なるのはなんだろうと考えていたのですが、洗練とこだわりも過ぎれば、現実感のない胡散臭さになるあたりかなと思っています。





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