Hatena::ブログ(Diary)

ふぃっしゅ in the water

2016-09-26

記録のあれこれ 1 <数は数えなくても記録は残せ>

アドバンス助産師の制度についてはいろいろと書いてきましたが、唯一、「自分の分娩介助経験を記録する」きっかけを作ったことは良かったのではないかと思います、



こちらの記事の「私にとっての『100例』の意味」にも書きましたが、助産師になって分娩介助経験数が100例になった頃、ふと、分娩記録を残していこうと思い立ち、今日まで全ての分娩介助を記録してきました。


いえ、「全て」とは言えないですね。
「何を『主導』したいのか」に書いたように、ある時期までは、吸引分娩や鉗子分娩あるいは緊急帝王切開になった分娩は記録に残していませんでした。
「自分が胎児娩出の直接介助をした」ことだけしか、自分の分娩経験として認めていなかったのですね。


私が分娩介助した記録を残していることに、いつも同僚の助産師に驚かれていました。
「え?みんなは残していないの?」とこちらが驚きました。


「私も記録を残している」という人には、今まで私自身は会っていないので、助産師の「分娩介助経験数」というのは案外といい加減な数字なのかもしれないと、思うようになりました。



ですから、アドバンス助産師の認定を受けたい助産師は分娩介助記録を残すようになったことで、ようやく「分娩介助経験数」が少しは正確に把握されるようになることでしょう。


それにしても、皆、どうやってあの申請に必要な「100例」の記録を探し出したのでしょうか?




<何を記録しているのか>




「助産実践能力習熟段階(クリニカルラダー)活用ガイド」日本看護協会、2013年7月)の18ページに、「助産実践報告書:分娩介助」の記録用紙があります。
それを見ると、産婦の年齢、介助年月日、初経産、胎児人数、分娩所要時間、出血量、分娩形式を1行でまとめたもののようです。


これだけ簡素な内容でも、全く何も記録しないよりはましだと思います。


ただ、卒業したばかりの助産師さんたちには、是非、分娩経過をすべて記録することもおすすめします。


私は、基本的にその産婦さんの分娩の始まりから産後2時間まで、パルトグラムに記載された内容を自分の記録ノートにも残すようにしています。
その産婦さんや御家族の言動も含めて、できるだけ見たままを書くようにしています。
そしてその情景をもう一度思い返しながら、自分の記録ノートへと転記していきます。


そのあたりは、<どうしたら異常を学ぶことができるのか>で、こんなことを書きました。

観察したことをありのままに書く訓練と、分娩記録をきちんとかくことも大事だと思います。
自分の思い込みや期待(こんなお産にしたい、など)を極力排除した客観的な事実を経時記録として残すことは案外難しいものです。



また人間の記憶力は都合のよい部分を覚えていたり、事実とは異なる錯覚を記録していることがあることを認識することは大事ですね。
分娩経過中にヒヤリとしたことがあっても、無事に終わると分娩介助の楽しかった部分、うまくいった部分、あるいは感動の部分のほうが記憶に残りやすい場合もあります。
冷静に自分の分娩介助経過を振り返らなければ、そのヒヤリとした大事な学びの機会を生かせないままにしてしまいます。




数を数えるな。でも記録は残せ」
ふと思いついた言葉ですが、案外「助産師の世界」につかえるのではないかと思いました。


ということで、また新たなタイトル「記録のあれこれ」が不定期に入る予定です。





<おまけ>



<どうしたら異常を学ぶことができるのか>は2012年4月28日に書いたものですが、読み返して当時は私も無意識のうちに学びの機会なんて使っていたことにちょっと冷や汗。

2016-09-25

「早期母子接触」ってなんですか? 5 <「早期母子接触」と「早期の母子接触」>

厚生労働省から平成27年12月に、「早期新生児期における早期母子接触及び栄養管理の状況」についての調査報告が出されています。


先にその全体版を読んだのですが、「集計結果の概要」には「早期の母子接触を実施している施設は、88.2%であった」と書かれています。


アンケートに応じた1680分娩施設の9割近い施設で、出生直後の新生児を裸のまま母親の胸の上にのせているのかと、とてもびっくりしました。


私の勤務先では希望されるお母さん自体が少ないのでほとんど実施していませんが、「早期母子接触」を除けば、ごく普通の標準的な産科施設だと思っていました。
もはや少数派の施設なのでしょうか?
それとも、たまに実施するだけでもこの9割に含まれるのでしょうか?



ところで、「早期母子接触」ではなく、「早期の母子接触」と書かれています。
この違いは何でしょうか?
気になりますね〜。


<「用語説明」より>


用語説明では、2012年(平成24年)に日本周産期・新生児学会、日本産婦人科学会、日本産婦人科医会、日本小児科学会、日本未熟児新生児学会、日本小児外科学会日本看護協会日本助産師会)から出された「「早期母子接触」実施の留意点」に示されている「実施方法」が書かれています。


「実施の留意点」に示されている経膣分娩を対象とした以下の「実施方法」のこと。


<実施方法>
バースプラン作成時に「早期母子接触」についての説明を行う。
◆出生後できるだけ早期に開始する。30分以上、もしくは、児の吸啜まで継続することが望ましい。
◆継続時間は上限を2時間以内とし、児が睡眠したり、母親が傾眠状態となった時点で終了する。
◆分娩施設は早期母子接触を行わなかった場合の母子のデメリットを克服するために、産褥期およびその後の育児に対するなんらかのサポートを講じることが求められる。


[母親]
・「早期母子接触」希望の意思を確認する
・上体挙上する(30度前後が望ましい)
・胸腹部の汗を拭う
・裸の赤ちゃんを抱っこする
・母子の胸と胸を合わせ両手でしっかり児を支える


[児]
・ドライアップする
・児の顔を横に向け鼻腔閉塞を起こさず、呼吸が楽にできるようにする
・温めたバスタオルで児を覆う
パルスオキシメーターのプローブを下肢に装着するか、担当者が実施中付き添い、母子だけにしない
・以下の事項を観察、チェックし記録する
(以下、略)



これが「早期母子接触」の定義と言い替えてもよいと思われます。



<「早期の母子接触」とは?>



さて、「早期新生児期における早期母子接触及び栄養管理の状況」の簡略版の「集計結果のポイント」にはこう書かれていました。


早期母子接触
○出生直後から早期に母子を接触させていると回答した施設は88.2%
「「早期母子接触」実施の留意点」(平成24年、日本周産期・新生児学会等)に示されているとおりの早期母子接触を実施している施設は36.0%




どうやら、「早期母子接触」と「早期の母子接触」はニュアンスが違うことのようです。
それを踏まえて全体版を読みこなさなければ、結果が違って見えることでしょう。


普通に服を着せてバスタオルにくるんで分娩台で抱っこや授乳をすれば、「早期の母子接触」になるようです。


なんだか簡単なことを難しくしていますよね。
そして、数字には注意が必要ですね。





早期母子接触ってなんですか?」まとめはこちら

2016-09-24

数字のあれこれ 13 <分母が増えると>

父の面会に月に3回ほど行くようになってもうじき2年になります。


一勝九敗に書いたように、平日だけでなく土日も結構混んでいるので、相変わらず座席に座れるのはこの確率です。


それだけでなく、往復した回数(分母)が増えるに従って、アクシデントに遭遇する回数も増えてきました。
あらかじめ運行状況は確認してから家をでるのですが、乗っている途中で人身事故のために電車が止まったことが2回。こればかりは運転再開までじっと待つしかありません。



また、父の暮らしている地域は雨が多いので、これも天気予報を確認して大雨になりそうな日は行かないようにしているのですが、予想外の雨で電車が止まり引き返したことが1回。


いやはや、計画的に行動していても、分母が増えるといろいろなことに遭遇するものだなあと実感しています。


数字が得意な人だったら、ちゃちゃっと計算してなにか法則性のようなものが見えてくるのでしょうか。
数字が苦手な私は、感覚的に「経験(分母)が増えると、アクシデントに合う確率が高くなるのだろうな」ぐらいしかわからないのですが。



<「5000」の意味>


1週間分の録画予約をしていたら、近々、助産院の放送があるようです。
その番組説明に、「23年のキャリアを持つ」「5000人以上の子どもを取り上げた」と書かれていました。


「取り上げる」という言葉については、以前こんな記事を書きました。

「何を『主導』したいのか」
「赤ちゃんを『取り上げる』こととトリアゲバアサン
「数を数えるな」



分娩には児の娩出に直接かかわる直接介助と、周囲でサポートする間接介助がありますが、両者を合わせて「分娩に立ち会った」という意味であれば、「5000人」も不可能ではないと思います。


もし自分が「主導的」な立場で児娩出を介助したことを「取り上げた」として表現しているのであれば、現代の助産師としてこの数字に到達することは不可能ではないかと、あれこれ計算してしまいました。


開業して8年のようですが、取り扱い分娩件数がかなり多い助産所でも年間200件程度です。
それを全部、自分で「取り上げた」として、約1600件。
ただ、開業直後からそんなに分娩を扱えることはまず不可能でしょう。
それ以外の3400件を病院時代の15年で経験したとしたら、1年に平均して226件の分娩介助をした計算になります。


226件/365日だから毎日1件の分娩に当たっていれば可能ではないか、と思われるかもしれませんが、分娩施設に勤務していればあり得ない数字だと体感的にわかることでしょう。


日本国内で分娩数が多い施設は、年間2000件前後の分娩を取り扱っています。
その施設の年間分娩数の10分の1を一人の助産師が取り上げるというのは、どう考えても無理です。


「5000人を取り上げた」というのが、分娩に立ち会ったことも含めているのではないかというのが、この番組宣伝を読んでひっかかったのでした。


まあ「5000件ぐらい分娩に立ち会った」のであっても分母がそれくらいになれば、異常や緊急事態にも遭遇する確率が高くなって、「10年やってわからなかった怖さを20年やって知るのがお産」という気持ちになるような気がしますが。






「数字のあれこれ」まとめはこちら

2016-09-23

気持ちの問題 29 <時間が必要なこと>

カンボジアの話題があったので、そうだまだ書きかけのこの記事があったと思い出しました。


だいぶ前になりますが、NHKニュース番組の中で、カンボジアのポルポト時代の加害者と被害者の和解プロジェクトを紹介していました。


ニュースを見た印象としては、まだまだ人の気持ちが変化するには時間が必要なのではないかというものでした。
半世紀とか一世紀ぐらいの長さの。


そのニュースでは、村の住民から無視され続けて辛いと訴える女性の話から始まりました。



その女性は、ポルポト時代に村の多くの人を強制労働や再教育キャンプへ送る密告役でした。
当時はまだ10代だったその女性は、おそらく密告役にならない限り生き延びることができないほど追い詰められていたことでしょう。


私がその立場だったら。
あなたがその立場だったら。
密告役にはならないと言い切れないのではないか、そんな永遠の命題とも言える状況です。


ポルポトの時代が終わり、その女性が住んでいる家の道をはさんだ向かいには、その女性の密告によって家族が連行され殺害された人が、その女性を許す事ができずに住み続けているのです。


ああ、これがあのカンボジアの現在の姿なのだと思いました。


その和解プロジェクトのリーダーは30代前後の女性でしたが、加害者と被害者の話し合いの機会を設けて、「過去と決別」して和解してもらうことを目的としているとのことでした。
おそらくポルポト時代が終わった後に生まれ、カンボジア国内の分裂に心を痛めながら育った年代と思われるので、和解を求める気持ちが強いのかもしれません。


そのプロジェクトを始めてどれくらいの人数に関わったのかはわからないのですが、番組の中では「和解に至ったのは2件」だけでそのプロジェクトがなかなか難しいことを伝えていました。



<「友好」から「慰霊」にも70年の月日が必要だった>


ちょうどこのニュースと前後して、天皇フィリピンを訪問しました。
宮内庁ホームページに「天皇皇后陛下フィリピンご訪問のおことば」が掲載されています。


それを読むと皇太子だった1962(昭和37)年に、昭和天皇に代わってフィリピンを訪問しており、その時の様子をこのように話されています。

1962年11月、マニラ空港に着陸した飛行機の機側に立ち、温顔で迎えてくださったマカバカル大統領夫妻を初め、多くの貴国民から温かく迎えられたことは私どもの心に今も深く残っております。



1980年代でもこちらの記事に書いたように、東南アジアでの日本に対する感情には厳しいものがありましたから、1962年当時、皇太子としてフィリピンに降り立つ時の気持ちはいかばかりだったことでしょう。


そしてこの時には「友好」目的であったものが、ようやく天皇として以下のような想いを伝えることができるまで、さらに半世紀の時間が必要だったといえるかもしれません。

フィリピンでは、先の戦争において、フィリピン人、米国人、日本人の多くの命が失われました。中でもマニラの市街戦においては、膨大な数に及ぶ無辜のフィリピン市民が犠牲になりました。私どもはこのことを常に心に置き、この度の訪問をはたしていきたいと思っています。



カンボジアの場合は国内での革命失敗による深い傷跡であって、他国間の戦争とはまた状況が異なるのですが、自国内で憎しみあいながら隣り合わせに生きている状況が変化するにはまだまだ時間が必要ではないかと、この「慰霊」のニュースからも思います。



<「カンボジア・0(ゼロ)年」>


冒頭のニュースを見ていて、「あ、あの本をもう一度読まなければ」と思い出しました。
カンボジア・0(ゼロ)年」(フランソワ・ボンショー著・北畠霞訳、連合出版)です。


初版は1975年に出版されているのですが、1980年代半ばにインドシナ難民キャンプで働いていた時に、唯一といってよいほどあのカンボジアで起きたことを知ることができた本でした。
でも20代半ばのその当時は、あまりの壮絶さに恐怖と吐気を催しながら読んだので、むしろ内容があまり記憶にないのです。


書店で目にするたびに、まるでやり残した宿題かのように「もう一度読まなければ」と思いつつ、なかなか手が出ませんでした。
ブログカンボジアのことを思い出して書くうちに、「買わねば」と購入しましたが、やはりなかなか開けませんでした。


歴史の当事者にも時間が必要ですが、その歴史を学ぶ側にもまた時間が必要そうです。



「気持ちの問題」まとめはこちら

2016-09-22

思い込みと妄想 34 <壮大な社会実験と現実の医療>

医療サイトのm3com.に「カンボジアに日本式病院 医療の海外展開」というニュースがありました。

日本医療の海外展開の一環として日本政府設立を支援してきたカンボジアの病院が首都プノンペンに完成し、20日フン・セン首相らが出席して開院式典が行われた。


サンライズジャパン病院」で、北原国際病院(東京都八王子市)などが設立。設備だけでなく、医療技術などソフト面の移転も含めた「日本式の病院をまるごと輸出する」(北原国際病院)試みとしている。


全50床で、救命救急センターなどを設置。日本人医師や日本で研修を受けたカンボジア人スタッフらが常駐し、健康診断などを含む日本の水準の医療サービスを提供するという。


式典であいさつしたフン・セン首相は「外国投資家や旅行者の信頼獲得、ひいてはカンボジアへの投資増加につながる」と病院への期待を表明。小田原潔(おだわら・きよし)外務政務官は「日本式医療サービスがカンボジア国民の健康に寄与し、生活を豊かにすることを確信している」との安倍晋三首相のメッセージを代読した。
2016年9月21日 共同通信社




政府開発援助(ODA)が関係した話かと思いましたが、そうであれば、1980年代から90年代に東南アジア首都に「日本の最新の医療機器を備えた近代的な病院」を建設して失敗してきた経験が生かされていない、変な話だなあという印象です。


当時、日本でもまだ最新の医療機器だった超音波診断装置(エコー)などが、無償援助として途上国へと送られていました。
結局は、頻繁な停電や故障のメインテナンスに対応できず、相手国からも不評だったようです。


なにより、その援助でできた近代的な病院周辺に住む、大半の健康保険を持たない貧困層の人たちには、あまり恩恵のない箱物援助になってしまいました。


どんなに「日本の医療はすばらしい」と志高く途上国医療を変えようと飛び込んでも、医療とはその国の経済状況や文化の変化によってつくり出されていく現実に、自分たちの考え方を変えなければいけなかったのだとうなだれて帰国するのが、当時、海外医療援助に関心があった人たちの失敗学ともいえるのではないかと思います。


このニュースを読んで、「日本式医療」というのは国民皆保険制度を根幹とした医療なのかと思いましたが、それにしてはフン・セン首相の「外国投資家や旅行者の信頼獲得」とは少しかみ合わない変な内容だなと思っていたら、8月6日の「カンブリア宮殿」でこの北原国際病院が紹介されていたニュース記事がありました。


少し長いのですが、全文紹介します。

カンブリア宮殿「こんな病院見たことない!ニッポンの医療を変える男」
2016年8月07日(金)配信 Live on TV


医療もサービスを競う時代・・・


江戸川区にある江戸川病院は、患者の緊張を和らげるためギャラリーのようなポップな作りとなっている。加藤隆弘院長は10年前からこの改革を進めた。一方、愛媛大学病院では病院食の改革が起きている。会席料理のような特別メニューがプラス千円で提供されており大好評となっている。


北原国際病院は脳神経外科が中心の病院でホテルのような高級な作りとなっている。MRIなど精密検査もその日のうちにでき、即日結果を知ることができる。検査を受けた川幡千代子さんはその日のうちに結果がわかるのはありがたいと話した。また、薬の副作用などに対しすぐに対応するため薬は病院で医師の前で飲むことになっている。これら医療法人社団KNIは北原クリニックなど八王子に4つの施設を持ちグループ経営している。


北原国際病院では24時間救急外来を受け付けていて、断らないことをモットーとしている。患者のたらい回しが問題となるなかでこの病院の受け入れ率は96%で、入り口から処置室やX線MRI室などは効率的に配置され、医療行為以外の仕事は手が空いたスタッフで分担。入院患者の園田留美子さんは迅速な対応により後遺症も殆ど無く回復した。
北原茂実氏は時間があれば現場に医師として患者の目線に立って診察している。同氏は大学病院の勤務医時代に劇症肝炎発症し、自らが勤務する病院に運ばれた。医師の事務的な接し方や病院の内装に居心地の悪さを覚え、95年に現在の北原国際病院を設立した。北原茂実氏は薄暗い待合室から明るい診察室に入った患者は医療者との距離を近くに感じ、十分な満足感を味わえることができると語った。また具合の悪い来院患者がいないか目を見張る相談専用の看護師を配置するなど、北原国際病院は患者目線に立った病院作りとなっている。北原氏は人の痛みがわかるとか、本当の意味で癒されることがわからなければ医療はできないとコメント。




医療再生の処方箋 北原病院グループ北原茂実


北原病院グループの北原茂実氏は病院設計そのものを自分でこなし、最初の頃は殆ど全て個人保証だったとコメント。また日本では国民皆保険により病院は利益があがらず、料金やサービスなど医療にも幅広い選択肢を設けるべきだとの考えを抱いている。自薯では国民皆保険の見直しや病院の株式会社化などを提唱していて、医療は利益を生む産業足りえるべきと語った。これは好き嫌いとかいう問題ではなく、現実社会をどうするかという問題と指摘



ここまで読むと、「日本式医療」とは何を指すのかよくわからなくなりました。
まだ続きます。

新しい病院のカタチ


東京八王子は兎唇から電車で1時間足らずのベッドタウンだが、中心部を離れれば風光明媚。そんな環境下に北原リハビリテーション病院はあり、地域の特色を生かした治療が行われている。鬱病を抱える患者は畑を耕したり、羊を世話するなど患者同士で協力して農作業に勤しんでいる。こうした取り組みは農業リハビリと呼ばれ、他ならぬ患者自身も効果を感じている。作業療法士の高橋章郎さんは見守ることに徹している。収穫した野菜は価格を決めて病院内で販売。北原茂実氏はセルフメデイケーションという患者自身が治していくという手法少子高齢化の中での治療法の1つではと語った。


東京八王子にある北原リハビリテーション病院は障害などで体が不自由になった患者にリハビリを施す病院で、小峰育子さんの父親である壮助さんは脳梗塞麻痺が残ったがリハビリを通じて回復の兆しが見られている。育子さんは父親の世話の傍ら、家族ボランティアとして院内で清掃やレクリエーションのヘルプなどを行っている。患者の家族が病院内で一定時間働くシステムで、この病院では100人以上が登録。1時間労働で1ポイント、家で雑巾5枚、巾着2枚を縫ってもポイントを獲得できる。獲得したポイントで病室の雑費を抑制でき、更に育子さんは他の患者や家族とも関わりを持てるとコメント。永見旨子さんは御年81歳ながら家族ボランティアとして働いて、主に患者の話に耳を傾けている。入院していたご主人が他界し、永見さん自身も病気を患っているが、ボランティアを通じて生きがいを感じている。


北原リハビリテーション病院では患者家族がボランティアとして院内清掃や患者の話に耳を傾けていて、北原茂実氏は患者も家族も病院の中に取り込んでしまう発想とコメント。医療知識を培うことや病院に対する信頼関係が構築でき、北原氏は医療とは人がいかによく生きて死ねるかを統括する統合生活産業と考えているとコメント。農林水産やITインフラ、葬式に至るまでが医療の仕事で、町おこしにもつながると指摘した。



「日本式医療」ではなくて、読めば読むほど一個人理想郷建設のための壮大な社会実験のような印象です。
どうしてそれをカンボジアに実現させようと思ったのでしょうか。

カンボジアから始まる壮大計画


カンボジアは近年、経済成長が著しい注目の国だが、北原茂実氏は医療の質は低いと指摘。そこで日本の医療ノウハウを新興国に供給しようと足繁く通っている。現地で評判な泌尿器科専門クリニックでは設備は整っているように見受けられるが使用済みの器具が散乱し、執刀医は手術の映像を取らせて自慢気に見せている。北原氏は現地の医療関係者を来日させて北原病院グループで研修させようと決断。今年5月に23人の研修生が訪れ、北原氏は歓迎会を開催。カンボジア医師のロン・ソールさんは働いた病院をやめてまで研修に参加し、日本の最先端医療を吸収し、後進の育成にも努めたいとコメント。病院では脳外科手術の研修に励み、髪の毛よりも細い糸を顕微鏡を使って血管を縫合する技術を学んだ夜には自室で脳外科の医学書を使って復習した。病院では看護師理学療法士なども研修していて、今年中に十数人を新たに受け入れる予定。一方で、北原氏は再びカンボジアプノンペンを訪問した。


北原病院グループの北原茂実氏はカンボジアプノンペンにある建設現場を訪れた。同グループは日揮産業革新機構とともに病院を設立・運営を目指していて、2016年春に完成予定。日本で研修を受けたカンボジア人スタッフが中心となり、医療機器や設備等はオールジャパンとする予定。北原氏はニッポンの医療を新たな輸出産業にするという構想を抱いている。


北原茂実氏は日本の医療を新たな輸出産業にしたいと考えているが、現地には現地のやり方があると語った。村上氏は医療は様々な産業の複合体として輸出できるのではという考えで、北原氏はカンボジアとった(原文のまま)輸出先にとっても日本にとってもメリットがあると説明。自らが病院を設立した20年前に大学や医師会から異端児などと疎まれてきたが、北原氏は最近では講演を頼まれるなど変化を感じているとコメント。


村上龍の編集後記


収録を終えた村上龍は「国民皆保険全廃、病院の株式化など、北原先生の改革案は、過激に映る。だが「選択肢」として論議すべきことばかりだ。これまで番組に登場した、経営が比較的安定している病院ほど、危機感が強い。医療が崩壊したときの国家的混乱は想像を絶する。わたしは、北原先生の「檄」に耳を傾けたいと思う」と振り返った。




そうか、「ニッポンの医療」というのは、国民皆保険全廃・病院の株式化を見据えた実験的なものを指すのですね。


でも、お金がない人は院内の清掃をするとかは嫌だな。
院内の清掃も専門的な知識を必要とする大事なチーム医療の一つで、その人件費を削ればきっとどこかに問題が噴出することでしょう。


ところで、あのポル・ポト社会実験の犠牲になったカンボジアの人たちの記憶はまだまだ生々しいのではないかと思います。
こういうやり方をどう受け止めることでしょうか。




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