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ふぃっしゅ in the water

2017-01-21

反動から中庸へ 7 <「子どもたちの自由と開放」の反動>

開発途上国」や「貧困」のイメージ写真によく使われるのが、栄養失調の母親しなびたおっぱいに吸い付く乳児の写真と、もうひとつ小学校低学年ぐらいの子どもが弟や妹を腰のあたりで抱えて世話をしている写真もあるかもしれません。


現代の日本では、まず見ない風景です。


東南アジアで、乳児を腰のあたりで抱えている小さなこども達を初めて見た時、ショックではなく懐かしさを感じたのは、自分自身にもそういう記憶があったからに他ならないことは、当時はまだ気づいていなかったのかもしれません。
先進国の日本から貧しい国に援助に来た」という気持ちの方が強かったので。



私が東南アジアで初めて暮らした1980年代前半の日本でも、そうやって弟や妹を世話をしている子どもの姿はありませんでした。
私たち世代でさえ、子どもが一人とか二人という家族がほとんどの時代になりましたから、正確な統計があるのかはわかりませんが、妹や弟の世話をした経験を持つ人も珍しくなったのではないかと思います。


私自身、乳幼児の世話をした経験がないまま看護学生になりましたから、初めて新生児を抱っこしたり、保育園実習で幼児に接した時の緊張感は今でもなんとなく甦ってくるほどです。
自分自身が子どもだった時代がちょっと前まであったはずなのに、何をどう接して良いのかわからない怖さというのでしょうか。


助産師になってから、「初めてお母さん、お父さんになる」方たちとたくさん出会ってきましたが、中にはとても初めてとは思えないほど新生児に緊張しない方もいらっしゃいます。
そういう印象を持った方には必ず「妹や弟さんを世話をした経験がありますか?」と尋ねるのですが、たいがいがご自身が小学生の頃に少し年が離れて赤ちゃんが生まれた方々です。
おそらく、幼児の頃よりはもっと赤ちゃんを世話をすることに積極的に関わって、より鮮明な体験の記憶として残っているのだろうと推測しています。


あるいは、ペットが小さいうちから世話をしていた方なども、新生児や乳児への緊張感が少ない印象があります。


1950年代ぐらい生まれぐらいまでの世代には、まだ自分の妹や弟を自分自身が幼児の頃から世話をしていた経験があるかもしれません。
1960年代生まれあたりを境に、自分の子ども時代に子どもの世話をした経験を持つ人は激減して、子どもができた時に初めて子どもの世話とは何かに直面するようになったのではないかと常々思っているのですが、どうでしょうか。



そして同時に、「子どもたちの自由と開放」を謳った児童憲章にあるような児童に対する考え方により、乳幼児の世話は大人の責任である時代に、わずかの間で急激に変化したのだろうと思います。
しかも、子どもを世話をした経験がまったくかほとんどない大人によって。


たとえば第6章にはこんなことがあげられています。

児童は、その人格の完全な、かつ、調和した発展のため、愛情と理解とを必要とする。児童は、できるかぎり、その両親の愛護と責任の下で、また、いかなる場合においても、愛情と道徳的及び物質的保障とのある環境の下で育てられなければならない。




たしかに、子ども一人一人が大事にされるような社会へと向かっているように思います。そのために大人が責任を持つことが当然であり、放任や虐待はいけないという認識が広まったのだと思います。



でも、もしかしたら、良い大人、良い親にならねばという方向が強く働いて、「子どもとはどういう存在なのか」が置き去りにされている反動の時代のようにも見えるのです。


誰もが子ども時代を経験しているから子どものことはわかる、とはいえないのが子どもという存在なのかもしれません。
新生児だって本当に、わからないことだらけですしね。



私たちは本当に子どものことをどれだけわかっているのでしょうか。




「反動から中庸へ」まとめはこちら

2017-01-20

反動から中庸へ 6 <子どもらしくというのはどういうことか>

私が看護学生だった1970年代終わりから80年代初めに、「母子保健」という言葉や児童福祉法母子保健法を学んだ頃は、すでに子どもは大切にされるべき存在であることが社会の前提になっていました。


たとえば母子保健法に書かれている目的や、私の母子手帳の表紙に記されている児童憲章も、私が生まれるずっとずっと前から日本の社会では当たり前のことだと思っていました。


ところが、ブログを書きながら出産や育児の歴史を行きつ戻りつしているうちに、こうした規範が社会に浸透したのはたかだか半世紀だったのだという思いが強くなりました。


まず、私が生まれた頃には児童憲章に基づいた児童福祉法はできていたけれど、母子保健法はまだなかった。
これは少々、ショックなことでした。
まだ、そんなレベルの社会だったのですから。


となると、両親が生まれ育った20世紀半ばまでの日本の社会のなかで、子どもというのはどんな存在だったのでしょうか。


それを追体験したのが、1980年代から90年代にかけて東南アジアアフリカで暮らした時でした。


<幼児から家事や労働力の担い手になる>


1980年代前半、まだ当時は発展途上国と呼ばれていた国に初めて赴任して、我と彼の差にショックを受けました。
一番、心が痛んだのは、まだ小学生にもならない子どもたちまで労働力として働くことが当然のように求められていることでした。
学ぶことよりも働くことが優先され、時には働くことよりも武装集団に入ることさえも求められていることは、「動物園のあれこれ」の中でこう書きました。

5〜6才ぐらいになると水汲みや弟や妹の世話だけでなく、路上で物売りをしながら働かざるを得ない子どもたちがたくさんいました。学校に行きたくても、小学校でさえ経済的に通えない子どももいました。
少年兵として武装集団や民兵に入るしか、食べて生き延びる道がない状況にある子どもも多かったことでしょう。



私自身の不自由のなかった子ども時代の記憶と比較して、当時の私は「子ども達が子どもらしく生活できなければ」と強い感情に押されたのでした。


よくよく考えれば、私の兄も幼児の頃から私の子守りをさせられていたわけですし、両親世代はそれが当然という時代に育っていたわけです。


ところが、両親世代子どもを育てる頃には、自分たちの「子どもらしさ」という価値観を大きく変えなければいけない時代だったことになります。
1960年代の私の母子手帳の表紙に書かれている児童憲章の、特に8から10について、両親の世代はどのような思いで受け止め、どのように子どもを育てようと変化したのでしょうか。


8. すべての児童は、その労働において、心身の発育が阻害されず、教育を受ける機会が失われず、また、児童としての生活がさまたげられないように十分に保護される。


9. すべての児童は、よい遊び場と文化財を用意され、わるい環境からまもられる。


10. すべての児童は、虐待、酷使、放任その他不当な取り扱いからまもられる。あやまちをおかした児童は、適切に保護指導される。



児童を酷使、放任しない社会へ>


幼児の頃には妹の世話をさせられた兄も、小学生になった1960年代半ばにはむしろ家事労働からは解放され、反対に「女の子」である私は当然のように家事の手伝いを任されました。


それでも、兄弟姉妹ともに両親からは勉強を頑張ることを期待され、家事の手伝いは勉強の妨げにならない程度でした。


1951年にできた児童憲章を改めて読み直すと、当時から「虐待」という言葉が入っていますが、この言葉を頻繁に聞くようになったのは1990年代頃ではなかったかと記憶しています。


どちらかというと、1960年前後に生まれた私たち世代は「酷使や放任」をしないことが時代の中で求められていたのかもしれません。
それが当時の社会が描いた「子どもらしさ」のイメージだったのかもしれませんね。


東南アジアでの「子どもらしさ」の衝撃的な体験は、貧困が理由というよりは、世界中で「子ども」に対する考え方の過渡期を迎えていた一面であったのかもしれないと、今は思えるのです。





「反動から中庸へ」まとめはこちら

2017-01-19

反動から中庸へ 5 <子どもという存在>

先日の記事で紹介した「利根川荒川は河道が安定せず、また次第に並行した流路となり、両者の合流点は下流へ移動した」という一文から、まるで反動から反動を繰り返す社会を言い表しているようだなと思いました。


そして、「反動から中庸へ」というタイトルで書いた記事があったことを思い出しました。


最近、ずっと考えていたのが、わずか1世紀いえ半世紀ほどで、社会の中の「子ども」という存在が大きく変化したのだろうなということです。
自分が子どもだった頃のあいまいな記憶をたどり、東南アジアアフリカ子ども達の状況と擦り合わせながら、社会がどのように変化してその中で子どもと言うのはどういう存在であり、どういう扱われ方をしてきたのか、行きつ戻りつ考えています。


<1960年代の子どもとは>


私には兄がいるのですが、私が小さい頃の記憶の中では、いつも兄についてまわって遊んでいました。
兄とその友だちが遊んでいる側にいたり、あるいは兄の背中に背負われている記憶がうっすらあるのですが、それはもう少し成長してから話を聞いてできた後付けの記憶なのかもしれません。
いずれにしても、私が幼児の頃の遊んでいる時の記憶には母の存在がないのです。


現在80代以上ぐらいの母の世代は、まだ兄弟姉妹の人数が多いので、子ども同士で子どもの世話までしていたのだろうから、兄が妹の世話をすることも母にとっては当然なことなのだろうと、その記憶を思い出すたびに考えていました。


その記憶の兄はまだ小学校に上がる前の5〜6才です。
きっと自分だけで遊びたいのに、妹を背中にくくりつけられたり後追いされてさぞ嫌だっただろうなと、ちょっと申し訳なさとともに思い出します。


まだ「母子保健法」(1965年)がなくて、子どもが「児童福祉法」(1947年)で守られ始めた時代でした。
私の母子手帳は、この児童福祉法によるものでした。



私の両親が子どもの頃にはなかった「児童福祉法・児童憲章・児童権利宣言」といった言葉や概念が広がり始めた時代に、子どもを育てるということは両親にとってどんな葛藤があったのだろうと思います。


父はもう答えを語ってくれませんし、母は母で私が子どもの頃の話を聞き出したそうとすると「認知症かどうか記憶力を試しているのか」と嫌がって、あまり話を聞かせてくれません。


両親の世代にとって子どもと言うのは、労働力であり家事の担い手であったのだろうというのが少し理解できたのが、1980年代から東南アジアで暮らした時でした。


続きます。




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2017-01-18

数字のあれこれ 16 <風速>

今まで風速を気にしたのは、台風や低気圧が通過して荒れ模様の日ぐらいでした。


最近、風速を気にして出かけることが多くなりました。
それは、お気に入りのいくつかの海辺でビールを飲むためです。


自宅のある地域ではそれほど風がなかったのに、海辺ではけっこう風が強いことがあります。
木陰のベンチに座っていても、木々が揺れて服がはためいたり、海では白波が立っていることがあります。
テーブルの上に置いた缶ビールは常に手で押さえていないと倒れそうな風で、せっかくぼーっとしようと思って行ったのに、早々に退散することがありました。


大事なポイントは、350mlの缶が倒れない程度の風かどうかです。


海辺に行くには風速のチェックも大事だと思い、次からはチェックしてみました。


その日は快晴。
少し気温は低めですが、太陽が照っていればけっこう暖かいだろうと思いました。
風速は5m/s。
気象庁の分類で言えば、「静穏ー風速0.3m/s未満の風」と「やや強い風ー10m/s以上15m/s未満の風」の中間ですが、ちょっとわかりにくいですね。


もうひとつの「風力階級」でみると、「和風 3.5-5.9 樹木の葉を揺らす」とあります。
なんとか許容範囲かと思って出かけてみました。
海岸近くの駅の樹木は、葉どころか木全体で揺れています。
結局、ずーっと缶ビールを片手で押さえて海を眺めたのでした。


ビールが飛ばされない風力は、「無風 0.0-1.4m/s 煙が真直に上る」から「軟風 1.5-3.4m/s 風のあることを感じる」あたりのようです。


ところで、海辺は風が強いのは陸上と海上の温度差ということはなんとなく知っていたのですが、
海陸風(かいりくふう)を読んで、今さらながら、知らなかったことがありました。

一日のうち朝と夕方に、陸風海風が切り替わる時間帯があり、無風となる。これが凪(なぎ)である。



海の風を観察し続けて、凪という状況を見いだしたことに、ちょっと気が遠くなりました。




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2017-01-17

観察する 18 <水族園に図書館が併設されるといいな>

葛西臨海水族園ペンギンの展示は、子どもよりもむしろ大人を引き寄せるのか、いつも歓声でにぎわっています。


幅広い年代の大人が、まるで子どものようになって、「何であんな動きをするの?」「あれは何で」と次々に疑問が出てくるようです。


私は泳ぎ方に一番興味があるので、その日も抵抗のない泳ぎのための体の動きだけに気を取られていました。
その時に、私より少し上の年代の女性が、「あのペンギンはおかしいわよ。体のどこかが悪いのよ。痙攣しているみたい」と気づきました。
たしかに、1羽だけ半身を痙攣させているような、今まで見たことがない動きをしています。
飼育員さんに言ったほうがよいかと逡巡しているうちに、何ごともなかったかのようにそうした動きをするペンギンがいなくなりました。



何十羽が動き回っている中で、あの女性はよくあのペンギンの動きに気づいたなあと思うとともに、ペンギンの展示の前でいろいろな疑問が飛び交っているのを聞くと、多様な見方や感じ方があることが面白いと思います。


ペンギンだけでなく、様々な魚や海鳥、海藻などを見ていると、その生活史に興味がたくさん沸いてきます。
展示にはわかりやすい説明や映像などもあるのですが、その生き物のさわりの部分という内容です。
私の疑問は専門知識未満、でもど素人の小さな疑問以上のレベルなのではないかと思うですが、飼育員さんをつかまえて聞くのも憚られて、そのまま帰路についています。



そこでひらめきました。
水族園に図書館を併設してくれたら、と。


ボタニカルアートの展示会が開かれていた日比谷公園の緑と水の市民カレッジには公園に関する資料室がありましたし、東京都水道歴史館にも水道に関する小さな図書館がありました。


水族園にもさまざまな資料が自由に読める図書館があったら、観察して疑問に思ったことをすぐに調べられますね。
本や資料から、また知らなかった世界が広がっていく。
地道な研究や調査に携わっている方々の知識や智恵にも触れることができる。


そんな水族園ができたらうれしいな。




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