助産師の歴史 3  <女性学年報>

<女性学年報の論文紹介>


女性学年報第32号(日本女性学研究会)の木村尚子氏の論文「戦間期における産婆団体の自立と揺らぎ」の中に、前回の記事で触れた「幻の助産師法案」について書かれています。


木村尚子氏の論文の主旨は、「産院や健康保険法を契機として台頭する医師の助産業務に対抗し、産婆自らがその職業の法的根拠を求めた立法化の運動は、女性の権利意識を育て職能団体の形成と発展を促す。」とあとがきにも書かれているように、女性の職能団体の形成という視点から書かれているので、幻の助産師法案をめぐって産婆間での見解の相違があったことを「揺らぎ」と捉えています。


ただし、以下の引用文にあるように、論文自体は産婆の権利に重きを置くよりは淡々と時代背景を掘り起こしていく内容で、女性学年報第31号と併せて助産師は必読だと思います。

また松岡悦子は、産師法制定運動を産婆が「専門職化」をめざした運動と位置づけ、その「専門職化に失敗した」原因は「政府の態度」であったと結論する。(松岡2009、1貢、7貢)。同報告は産婆会の「内紛」や「組織としての制限」にも着目し、これらが運動を阻む要因となったとしている点は重要である(同2-5貢)。しかしながらこの考察は、全体としては運動の成否を検証する立場からなされていると考えられる。これに対し本稿は、運動があったことを始点としてその跡づけを行うのではなく、そこに至る背景を踏まえながら産婆・助産婦の状況の変遷を見ていく。


この「運動があったことを始点としてその跡づけを行うのではなく」というのが何を意味しているかは、木村尚子氏の女性学年報第31号の論文「産婆の主張にみる『異常』の提示と権威の志向」を受けているものと理解しています。


つまり松岡氏は「産婆は正常産の専門家」(大出春江氏ら)という前提にたった上で産師法をめぐる運動を捉えているのに対し、木村尚子氏は「わたしはその前にまず、産婆が本当に『正常産の専門家』でありえたのか、それは制度や産科医に承認されていたのかなど、産婆と産科医の攻防に至る関係とその内容を問いなおす必要があるように思う。」(女性学年報第31号 p.75)という立場のようです。


助産師がこれまで産婆から助産師の歴史を知る資料のほとんどが、「産婆は正常産の専門家」の視点にたったものであったと思います。


前回の記事で触れた「産科と婦人科」2010年10月号(診断と治療社)の岡本喜代子氏(日本助産師会)の寄稿文でも、助産師業務の変遷として以下のような記述があります。

戦後、GHQのミス・マチソンは、正常妊娠でも最低2回は医師の診察を受けることを推奨した、そういった指導の影響もあり、助産師のおもな業務である正常分娩に医師が関わるようになっていった。
現在、病院においては正常産に関して医師が主導で関わることもまだまだ多い。それに伴い、正常産においても、会陰切開、血管確保、連続モニター等の医療が日常的になっている。
かたや病院等の勤務助産師の正常産に関する主体性が失われていった。


「終わってみないと正常産とはいえない」ことを認めずに「助産師は正常産の専門家」であり医師は正常産に手を出すなと主張する一部の助産師側の信念が、助産師内部の混乱の歴史を引きずり再燃させているものではないかと、女性学年報の木村尚子氏の論文や助産師だけでお産を扱うということ 1 <日本で助産婦が出産の責任を負っていた頃> - ふぃっしゅ in the waterで紹介した伏見裕子氏の論文を読むにつけ思います。



「自然なお産」「助産師による温かいお産」あたりの文脈でよく見かける、上記のような助産師は正常産のプロとか、GHQがあるいは産科医が助産師の業務を認めなかったかのような歴史の記述について、本当にそうなのか懐疑的に考えていくことはとても大事だと思います。


そういう意味でも産科医は助産師を認めてくれないと不満に思っている人たちこそ、女性学年報の木村尚子氏と伏見裕子氏の論文をじっくり読むことをお勧めします。





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