出産の正常と異常について考えたこと 2  <思い込みの「正常」>

「終わってみないと正常かどうかわからない」のが出産だという当たり前のことに気づくのに、私自身が20年近くかかりました。
数年前に周産期医療はどうなるのだろうと不安で医師ブログを読むようになって、その中でみつけたこの表現に頭を殴られる感じでした。
それほど「正常な分娩は助産師だけで介助できる」という言葉に自分自身がしばられていました。


もしあの産科崩壊と言われた時期がなかったら、まだその言葉にたどりつかずにいたのではないかと思います。
毎日、妊娠・分娩の異常に対応し、ひやっとしたりどきっとすることをたくさん体験しているはずなのに、なぜ「正常な分娩」があると思い込めてしまうのでしょうか。


助産師として働き出したばかりの方や助産師を目指している方が読んでくださることを祈りつつ。


<産科医に比べて異常に関する知識が絶対的に少ない>


助産師全般にやはりこれが一番の理由だと思います。
医師と助産師の教育内容の違いは当然あるし、助産師が医師なみに異常に関する教育を受けることは現実的ではないことでしょう。


教育内容と職域の違いから知識量が少ないことは仕方がないことです。
問題は、異常を知らないことに無関心であることだと思います。


ひやっとしたケースに直接当たった時や聞いた時に、参考文献を読み直す。
そうすると今まで同じ文献を読んでいても目に入っていなかったことが書かれているのに気づくことが多いです。
そうして学び続けるしか、「異常」の知識を増やすことはできないでしょう。


異常を知らなければ正常はわからないはずですが、「正常なお産は助産師で」というところがすでに「怖いもの知らず」であることを公言しているようなものだと思います。



<異常の経験量に差がある>


不思議と助産師の中でも、怖いお産によく遭遇する人とそうでない人がいます。
たとえば分娩直後の弛緩出血は助産師も日常的にと言ってよいぐらい経験する異常ですが、10年ぐらいの経験年数で分娩介助もそこそこに経験していながら輸血をどうするかと悩むぐらいの弛緩出血にさえあたったことがないという助産師もいます。
反対に、緊急対応が必要な分娩によくあたる助産師もいます。


異常にならないように怖いお産にならないようにという対応の力量差ももちろんありますが、多くの母子の致命的な異常は助産師個人の力量や資質に関係なく突発的に起こります。
「なぜ私の勤務時間帯にそれが起きたのだろう」と運命を呪いたくなるような感じなのです。


そういう助産師が「自分は異常への対応経験が少ない」と自覚できれば良いのですが、「お産はたいがいは問題なく終わる」という気持ちになりやすいかもしれません。


卒後数年もたつと、周囲からの技術的なアドバイスは得られにくくなります。
端から見ていて「ちょっとあぶないな」と思うような助産師でも、その人なりのプライドがあるでしょうから直接注意するのはためらわれることが多いのですね。
ましてや力量・経験量以上の自信や「自然にまかせていれば複雑なお産にはならない」などと強く確信してしまっている助産師には、どういうアドバイスが良いのか悩みます。


「10年やってわからなかった怖さを20年してわかるのがお産」ということを実感した私としては、最近は経験10年ぐらいの中堅助産師にも注意することができるようになりました。
が、多くの大きな病院ではそのくらいの経験年数の人たちが中心になるでしょうから、よほど自分に厳しくしないと誰もアドバイスはしてくれないだろうと思います。


<異常を怖いと思わない人>


異常を怖いと感じていない助産師もいるのではないかと思うこともあります。


問題もなく自然な経過で進んでいたのにいきなり赤ちゃんの心拍が下がり、生まれてきた赤ちゃんは挿管してNICUへ搬送が必要なほどの重症仮死というような分娩に一度でも当たればお産は怖いと思うはずなのですが、そういう体験をしてもなお助産院に就職した助産師もいました。


あるいはけっこう異常分娩にあたって怖くなりお産から遠ざかっていたのに、自分自身の出産は助産院を選択した助産師もいました。


こうなると、本当に助産師の心理というのは本当にわからないものです。
よほど助産院のお産が自分の分娩介助に比べてすばらしいものという思い込みがあるのでしょうか。
あるいは病院だから異常分娩にあたるとでも思っているのでしょうか。


<異常に気づかない>


うちのクリニックは一次施設ですから、基本的にローリスクの出産のみを受け入れています。
それでもひやりとすることはしょっちゅうですし、時には高次病院へ搬送が必要になってその後の経過を心配して胃が痛い思いをすることもあります。


私は必ず他のスタッフの分娩記録や分娩監視装置(CTG)の記録もすべて目を通していますが、これはあぶなかったと思うような場合には必ずそのスタッフに経過を聞いています。
そのスタッフも指摘されて初めて理解するような、CTGの異常波形その他異常のサインの見落としや対応の甘さが時々あります。


「お産の神様が試練を与えずに見逃してくれた」と思います。


こんな裏話を書くと医療を受ける側の方々には不安だと思いますが、誰もがすぐにベテランになるわけではないので、こうして職場の中であるいは医療全体の中で学びあって経験を積むしかないことですね。
今思い返すと自分自身怖いもの知らずで自信満々の時期がありました。
だからこそ、うっとおしがられてもいいので「異常に気づいていないだろう」と思う時にはできるかぎりアドバイスするようにしています。


<どうしたら異常を学ぶことができるのか>


目の前の妊産婦さんあるいは新生児が一応問題がないように見えても、それは正常であると思い込まないようにすることが第一歩だと思います。


観察したことをありのままに書く訓練と、分娩記録をきちんと書くことも大事だと思います。
自分の思い込みや期待(こんなお産にしたい、など)を極力排除した客観的な事実を経時記録として残すことは、案外難しいものです。


自分だけでなく他のスタッフの分娩記録・CTG記録用紙も読むことで、他の人の経験に学ぶことも大事だと思います。
他のスタッフの経験から学んでいる人とそうでない人の差は、必ず出てきます。


また人間の記憶力は都合のよい部分を覚えていたり、事実とは異なる錯覚を記憶していることがあることを認識することは大事ですね。
分娩経過中にヒヤリとしたことがあっても、無事に終わると分娩介助の楽しかった部分、うまくいった部分、あるいは感動の部分のほうが記憶に残りやすい場合もあります。
冷静に自分の分娩介助経過を振り返らなければ、そのヒヤリとした大事な学びの機会を生かせないままにしてしまいます。
そういう意味でも、きちんと分娩記録を書く訓練は必要です。


ヒヤリとしたり気になることがあったら、できるだけその日のうちに文献で調べてより良い対応を学ぶ機会を自分で作ることも大事だと思います。


こうした専門職としては当たり前とも言える積み重ねがあれば、「ほとんどのお産は正常だから、助産師だけで大丈夫」なんて言うことはなくなると思います。
私が一緒に働いてきた助産師のほとんどが、謙虚に学びながら、あるいは自分の経験不足を自覚しながらお互いの足りないところを補いあって仕事をしていました。


だから「正常なお産は助産師だけで」と声高に求める人、さらに「そのために会陰縫合も認めよ」という人は、別世界の助産師のように感じてしまうのです。
そして、やはり異常の怖さを知らない助産師なのではないかと。



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