行間を読む 1

助産婦学校時代に感染症を教えてくださったのは、当時、周産期感染症で第一人者と言われた先生でした。


一言一言を漏らさずに聞き取ろうとノートをとり、授業もひきつけられるように聞き入っていた記憶があります。


それだけ熱心に筆記していた授業内容でしたが、今何を覚えているかというとこの先生がおっしゃられた一言でした。

教科書に書いてあること、その行間を読めるようになってください。


その時はまだ漠然としか理解できていなかったのですが、これからの仕事にとても大事になってくる一言だと思ってノートに書き留めたのでした。


それ以来、医学関係にかぎらず本や文献を読むときには、ふとこの「行間を読む」ことが思い出されていつも意識しています。
そしてあの先生は、どんな思いで学生の私たちにあの一言をお伝えになられたのだろう、と。


<「知っている」ことと「理解している」こと>


助産師学生の頃は、ただただ知識を頭に詰め込む必要がありました。
看護学生も同じですが、医療の中で看護をするためには現代医学という共通の知識が必要になります。
患者さんの疾患や治療方針がわからなければ、回復過程にあわせて、あるいは残された機能でよりよく生きるために生活を整える看護はできません。


わずか3年ほどで、基本的な人体の解剖・生理から疾患について、医学の入り口の知識を学びます。
ひたすら暗記です。


そして働き始めて、つぎつぎと出会う患者さんの状況の多様性と複雑性、そして不確実性に自分の無力さを突き詰められることになります。
あれだけ勉強したのに、手も足もでない自分に。
疾患名も治療方針も知っている。教科書に書かれていることは、読んで知っている。
でもわかっていない自分に。


教科書に書かれているのは知識のエッセンス(最も大切な要素)をまとめたにすぎず、それを知っていることと本当に理解していることは違う。
その行間には臨床の実践で遭遇するもっと不確実で多様な状況が書かれている、そういうことをお伝えになりたかったのではないかと思うのです。


平たく言えば「教科書どおりにはいきませんよ」ということですね。
自分だけでなく人の経験、特に困難や失敗の経験を知り、不確実性や多様性に対応できる能力を養って初めて知識を「理解する」ことになるということかもしれません。


<歴史を知る>


医学はどんどんと進歩、変化していきますから、私たちは最も新しい考え方や方法を常に知る努力を求められています。
医師だけでなく、医師の方針に沿って看護する看護職も同様です。
医学関係、看護関係の書籍や資料は次々と新しい内容になっていきます。


たとえば数年前に「新たな方法」として多くのページをさいて書かれていたものも、臨床で当然の知識となれば、わずか数行のエッセンスだけが記載されるようになります。


こちらの記事で書いた新生児メレナとビタミンk2投与による予防法の確立も、産科関係者にすれば当然すぎるほど「知っている」ことです。
あるいはこちらの記事の日本住血吸虫症になるとおそらく最近の教科書には名前が載っている程度で、過去の疾患としての「知識」と認識されているかもしれません。


でもその歴史をさかのぼってみると、たった一つの疾患名あるいは数行の行間にはどれだけの歴史が込められていたのかと思います。


そういう過去の数え切れない無念さや苦労の積み重ねの上に得られた本質の部分を、現代の私たちは「知識」としていとも簡単に知ることができてしまうわけです。


行間を読む。
その知識になるまでの歴史を知ってこそ本当の理解に近づくということを、先生はお伝えになりたかったのではないか。


特にあのビタミンk2レメディの事件のあと、強くそう思うようになりました。


不定期になると思いますが、「行間を読む」というタイトルで時々考えてみたいと思います。




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