乳児用ミルクのあれこれ 20 <小児科医シシリー・ウイリアムズ氏とは>

「母乳育児支援スタンダード」(NPO法人日本ラクテーション・コンサルタント協会、医学書院、2009年)で、小児科医シシリー・ウィリアムズ氏について書かれた部分があります。

1939年、シンガポールで活動していた小児科医Cicely D.Williamsは、人工乳(特に加糖練乳)で育てられた乳幼児の死亡率が異常に高い事実を告発する「ミルクと殺人 Milk and Murder」という記念すべき講演を行った。20世紀初頭から人工栄養児の死亡率が母乳栄養児に比べて高いことは知られており、母乳栄養の重要性と人工栄養の危険性については多くの医師が指摘していた。しかし、彼女のように強い怒りを込め、人工乳によって引き起こされた「乳児の虐殺」を告発した者はこれまでおらず、彼女は後に展開された母乳育児推進運動の先駆者として忘れられない存在になっている

1930年代と、シシリー氏の名前が使われてネスレボイコットが行われた40年後の社会や医療のレベルが全く異なります。
たとえば日本でもこちらの記事で紹介したように1930年代ごろというのは「お産にゼニをかける必要はない」社会であったり、産婆が医師の鉗子(かんし)分娩の技術に目を丸くしたというような時代でした。

なぜ1930年代の一小児科医が、1970年代以降の母乳推進運動では常に語られる存在になったのでしょうか?


<1930年代、加糖練乳が使われていた時代>


同書の中に「世界の母乳育児推進と人工乳の販売流通(マーケティング)を規制する運動の歴史」という表があります。
一番最初に、以下のようにシシリー・ウィリアムズ氏が書かれています。

1938年 Cicely D.Williams シンガポール 「ミルクと殺人」という題で加糖練乳と乳児死亡の関係を告発

この場合の「ミルク」は粉ミルクではなく、加糖練乳のことのようです。


「乳児用ミルクが作られ始めた時代」の記事の中で、日本乳業協会の人工栄養の歴史を紹介しました。
その中の「調整粉乳の誕生」では、次のように書かれています。

昭和15年になると戦時色が強まり、牛乳・乳製品についても配給統制規則が制定され、育児用乳製品も配給制になり、その約70%は加糖練乳でした。しかし小児科学会から「加糖練乳は砂糖が多すぎて育児には好ましくない」との指摘を受け、粉乳の検討が進められました。
昭和16年「牛乳営業取締規則」の改正が行われ、育児用粉ミルクは「調整粉乳として、初めて規格が定められました

昭和15年、1940年のことです。


つまり、途上国だけでなく当時の日本もまた加糖練乳の時代であって、糖分の多い加糖練乳を乳児に与えることはよくないという動きが高まった時代だったといえます。
「ミルクと殺人」
「ミルク」は粉ミルクのことではなく、加糖練乳として問題提起されたのではないでしょうか?


当時の状況は推測するしかないのですが、各国でこの加糖練乳を乳児に与えるリスクに関心があったところにシシリー氏の講演が後押しするきっかけとなり、急速に粉ミルクをつくる技術の開発へと動いた時代だったのではないでしょうか?

ところがこのシシリー・ウイリアムズ氏の訴えは、のちに「粉ミルク」への批判として使われていきます。


<「フード・ポリティックス 」より>


たとえば、wikipedia粉ミルクでは、参考文献にマリオン・ネスルの「フード・ポリティクス 肥満社会と食品産業」(新曜社、2005年)があげられていますが、その本ではシシリー・ウィリアムズ氏について以下のように書かれています。

 粉ミルク育児と乳児死亡率の関係が最初に人々の注目を集めたのは、1930年代のことだった。医師としての生涯のほとんどをアフリカで過ごした小児科医シセリー・ウィリアムズ博士が、発展途上国の母親に粉ミルクを販売促進することは意図的な乳児殺しだと訴えたのである。
(p.180)

加糖練乳への批判が粉ミルクにすり替わってしまっています。


加糖練乳が乳児の消化能力などに影響するという医学的問題であれば、その答えは調整粉乳の開発が答えになることでしょう。


ところが粉ミルクを買えずに練乳を与えるしかない人たちには、粉ミルクを買わせないことが問題解決にはならないはずです。


1970年代に始まったネスレ・ボイコット運動の中では加糖練乳の問題が粉ミルクの問題にすりかえられ、本当は粉ミルクが必要な人たちにまで不買運動を広げてしまった可能性があるのではないでしょうか。


<クワシオルコルとシシリー博士>


なかなかシシリー・ウィリアムズ氏についてまとまった記述を見つけられないのですが、クワシオルコルの中にその名前を見つけました。


クワシオルコルは、アフリカの飢餓の写真などで目にする異様にお腹が膨れた子どもたちの状態です。
開発途上国の医療援助では、このクワシオルコルとマラスムスは基本的な知識として必要ですが、この名前をつけたのがシシリー・ウィリアムズ氏だったということを今回初めて私は知りました。

ジャマイカの小児科医シシリー・ウィリアムズが、1935年に医学雑誌『ランセット』に投稿した記事の中でこの語を用い、専門語として認知されるようになった。

シシリー氏については「ミルクと殺人」が1938年だったり1939年になっていたり、あるいは「シンガポールで活躍」「アフリカで活躍」「ジャマイカの」などそれぞれ記述が異なるのですが、年代からみて同一人物ではないかと思います。


1935年にクワシオルコルという言葉を使って途上国の乳幼児の栄養失調について発表し、1938年には「ミルクと殺人」として加糖練乳の危険性を訴えているとすれば、そこには彼女の発表にはもう一つ別の意味があるのではないかと思うのです。
いえ、あくまでも推測ですが。


それはクワシオルコルの説明の最後の部分です。

既に損傷している肝臓にタンパク質を補給すると、尿素回路が機能せずに肝機能が破綻し、肝不全を引き起こして死に至ることもありうるからである。

以前、途上国で働いていた時に、私もこの話は耳にしたことがあります。
栄養不足だからといって高栄養のものを与えれば命取りにもなるということを。


シシリー氏が「ミルクを与えることは殺人である」と訴えた背景には、軽度の栄養失調のことではなく、クワシオルコルの子どもたちに高栄養のミルクを与えることが危険であるという診療経験があったのかもしれません。


こうした医学論文を発表していた1930年代にシシリー氏は少なくとも30代から40代以上であったと思いますが、1977年からのネスレ・ボイコットの時代まで生きたかどうかわかりません。


自分の功績が多国籍企業の粉ミルク販売批判運動に使われることは、本意それとも不本意、どちらだったのでしょうか。






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