東久留米についての記憶というと、コカ・コーラがあります。
コカ・コーライーストジャパンの「工場見学」に多摩工場がありますが、その工場があるのが東久留米市です。
小さい頃、たぶん3歳前後だと思うのですが、その工場の見学をした記憶が残っています。
日本コカ・コーラ株式会社の「日本コカ・コーラの歴史」には、「1957年 日本飲料工業株式会社(日本コカ・コーラ株式会社の前身)日本で「コカ・コーラ」の製造開始とあるので、日本でコカ・コーラが製造されて数年ぐらいの頃だったのではないかと思います。
あの炭酸のシュワッとした刺激は、まだ幼児の口には強すぎたようで、一口ぐらいで止めた記憶があります。
「コカ・コーラは痛い飲み物」と、あの赤と白のロゴが強く印象に残ったのでした。
私が幼児の頃は、清涼飲料水というとラムネと粉末のジュースぐらいでした。
小学生になって1970年代に入ると、多種多様な瓶入りのジュースが手軽に飲めるようになったように記憶しています。
小学生の頃はまだ、コカ・コーラは炭酸の刺激が強くて1本飲みきることができず、どちらかというとファンタを多く飲んでいました。
暑い夏の日の楽しみは、自宅で作るかき氷と冷蔵庫にある瓶入りのファンタでした。
これも、この頃から家庭に普及した冷凍冷蔵庫なしにはできない贅沢だったのですね。
コカ・コーラをよく飲むようになったのは、1980年代半ばに東南アジアで暮らした時でした。
食事と一緒にコカ・コーラを飲むことに驚きました。
しかも1リットルサイズの大瓶がドンとテーブルに置かれているのです。
コカ・コーラにそんなサイズがあることにも驚いたのでした。
1リットルサイズはそこそこの値段ですから、「(そのぶん食費にまわせばもう少し子どもたちにも栄養がいきとどくのに)」とやや批判的に見ていました。
開発途上国の貧困層のひとたちのなけなしのお金を、消費文化を浸透させて吸い取って行く多国籍企業という見方が私の心を支配してた時期でした。
でも暑い国でのコカ・コーラは本当においしかったので、私も病みつきになりました。
あと、その国のビールも。
20代、30代は日本に帰って来てからもコカ・コーラをよく飲みました。
だんだんとその刺激的な炭酸飲料をまた飲めなくなって来たのは、年齢のせいでしょうか。
コカ・コーラから少しずつ遠ざかっていた時期に、あのロゴをよく見るようになりました。
競泳の北島康介選手のスポンサー企業になったので、観戦にいくとキャップやタオルなどに描かれているロゴをみる機会が増えたのでした。
コカ・コーラのロゴからさまざまな記憶がいつも蘇ってきます。
あの東久留米の工場見学の記憶とともに。
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