食べることについて自分の中の変なこだわりのもう一つが、結構、同じ物を食べ続けて平気というところがあります。
たとえば野菜ですが、お店にはいろいろな野菜がたくさんあって、いつも買う前には「今日はちょっと変わった野菜に挑戦してみよう」「昨日とは違う野菜を」と思うのですが、結局はキャベツがずっと続きます。
さすがに何ヶ月もキャベツがメインだと飽きてくるのですが、ちょうどその頃に白菜のシーズンになり、今度は白菜がメインになり、結局は毎日ほとんど同じ野菜を買っている感じです。
そしてゴーヤが出回るとしばらくはゴーヤが続きます。
同じ野菜でも、最近はいろいろな調理方法がテキストやネットで見つかりますから、新しい食べ方に挑戦してみようと思うのですが、結局はいつもの料理です。
たまに違う調理方法を試してみるのですがなんだか落ち着かないし、期待したほどではないと感じていつもの方法に戻ってしまうのですが、味覚が保守的なのでしょうか。
そうそう、楽しみにしていた「孤独のグルメ」が始まりました。
いつも井の頭五郎氏がメニューからいろいろな料理を選んでいるシーンがあるのですが、私は外で食べたり調理された物を買う時にも、あまたある中から、結局はいつも食べ慣れている物を選んでしまいます。
で、1年間に食べた物を思い起こすとそれほどバリエーションがない生活だなあと思います。
でももしかしたら、こうして同じ野菜や調理方法を飽きもせずに食べ続けられる能力は、野菜の旬に適応してきたからではないかとも思えます。
1960年代ぐらいだとまだ、現在のように産地リレーによって年間をとおして多様な野菜を安定して買うことはできなかったと子どもの頃の食生活を思い返しています。
旬がきたらその時に買える野菜をひたすら食べる。
旬が終わったらおしまい。
そんな経験がそのまま体の中に残っているのかもしれません。
もうひとつ、東南アジアでも決まった同じ物を食べていた記憶があります。
日本に比べると1年中野菜が育つ東南アジアですが、市場で見かける野菜は1年中ほとんど同じでした。
市場や店先で売られている総菜やレストランのメニューもあまりバリエーションがなくて、どのお店に行っても種類も味もほとんど変わりませんでした。
他のお店と違うメニューを開発して競うようなことはなくて、同じメニューのお店が何軒も連なっているのです。
「安定の味」という感じで、私にはむしろ便利でした。
日本に戻ってくると、めまいがしそうなほどのメニューが溢れ、一見同じメニューなのに店によって味が全然違うので、むしろ「この店の料理は合うだろうか」と戦々恐々です。
こちらの記事でdoramaoさんの本で初めて知った「固食・・・同じものばかりを食べること」という食育用語を紹介しました。
世界中を見渡せば、もっと単純な食事だけで過ごしている地域はたくさんあるのではないかと思います。
「同じものばかりを食べる」もそれぞれの状況があり、良いか悪いかではなく程度の問題なのではないかと思えるのですが。
ああ、今日は何を食べましょうか。
「食べるということ」まとめはこちら。