気持ちの問題 17 <あまのじゃくと認知バイアス>

初めてあまのじゃくという言葉をいつ知ったのか思い出せないのですが、子どもの頃からなんとなく「自分はあまのじゃくなところがあるかもしれない」と認識していました。


Wikipediaの「天の邪鬼」の「転用」にこんなことが書かれています。

人の心を見計らって悪戯をしかける小鬼」とされることから転じて、現代では「他者(多数派)の思想・言動を確認したうえで、あえてこれに逆らうような言動をする"ひねくれ者""つむじ曲がり"」「本心に素直になれず周囲と反発する人」またはそのような言動を指して、「あまのじゃく(な人)」と称されるようになった。


いえ、ここまでへそ曲がりのつもりはないのですが、相手との会話やテレビや雑誌などからの情報に対しても、「そうかな?」「反対のこともいえるのではないかな?」とまず感じてしまうのでした。


そのために、友だち同志で共感してほしいような話題でわーっと盛り上がっている時にも、「本当に!」と合わせることができず、「でも、こういうこと(別の見方)もあるかも・・・」とつい言いたくなるのでした。


まあ1970年代ごろからの「しらける」や10年ぐらい前の「KY(空気を読めない)」という言葉が流行った時代なら、こういう天の邪鬼な態度は場をしらけさせることもあったのでしょうし、反対に1980年代や90年代になるとクリティカル・シンキングだと肯定的にも受け止められるかもしれませんが。


こうしてブログを書き始めて、自分自身の失敗とか言動の傾向を突き詰めていくようになって、この天の邪鬼な態度はどうして私自身の中に形成されたのかは、おそらく不機嫌になると黙る母との関係にあったのかもしれないと思っています。
その「沈黙の時間」にあれこれと別の視点から問題解決を見いだそうという訓練をしていたから、悩むでもなく、考えるでもない状態は耐えられず、何かを見いだそうとしていた・・・そんな感じでしょうか。


<「それをした場合としなかった場合」>


元日の夕方、何を観るともなくテレビのチャンネルをいじっていたら、ちょうどNHK放送大学の「錯覚の科学」の認知バイアスについての授業が始まっていました。


2009年から、大阪大学菊池誠先生のブログでニセ科学についてたくさん考えるようになったことをこちらこちらの記事でも書きました。
そのkikulogで時々お名前を目にしていた信州大学菊池聡(さとる)先生の授業です。


その授業の最後の方で、「雨乞いをすると雨が降る」について「2かける2表」を使って説明していました。
「2かける2表」というのは、「ニセ科学とつきあうために」の「13. 個人的体験と客観的事実」でp.11にその表が載っています。


「雨乞いをしたら雨が降った」という事実(Aの部分)は認知されやすいけれど、「雨乞いをしたけれど雨が降らなかった」(B)「雨乞いをしなかったけれど雨が降った」(C)は記憶に残りにくしですし、「雨乞いをした場合としなかった場合」の比較がされないままにAが効果として残りやすいといった話です。


分娩施設でいえば、「満月の日にはお産が多い」あたりですね。
実際には「お産がまったくない満月の日」もけっこうあるのですが、満月の日にお産があると「やっぱり満月だからお産が多いのだ」という認識が強くなるのでしょう。
どこかで書いたのですが、本当に満月とお産が関係があれば、産科病棟の勤務表を作りやすくなります。満月の日には出勤者を増やせばよいのですから。
でも、実際にはそんな勤務表は現実的ではないわけです。


さて、この授業を聴きながら、もしかしたらわたしの天の邪鬼な認識の仕方は、「認知バイアス」に陥らないために結構役立っていたのではないかと思ったのでした。
「え〜っ、本当に?」「そうかな〜」と無意識に「2かける2表」で考えていたのではないかと。
でも、思い返すと赤面の人生なのですが。

まあ何にしても人間の気持ちって、本当に摩訶不思議でやっかいなものですね。





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