事実とは何か 18 <第五福竜丸展示館>

いつか行こうと思っていた公園に、夢の島公園がありました。


辰巳国際プール葛西臨海公園に行く途中でいつも見ていましたし、子どもの頃から「夢の島」と言えばゴミの最終処分地だったので、緑地公園になっている風景にいつか歩いてみようと思っていました。


もうひとつ、以前、地図で見つけた第五福竜丸展示館も気になっていました。
その船の名前は原水爆に関する知識の中で、小学生の頃には学んだ記憶があります。


展示館には、平日ということもあってか、私以外にはもう一人しか来場者がいませんでした。


展示されていたマグロはえ縄漁船は戦前に作られたそうですが、予想以上に大きくしっかりした船でした。


<乗組員22人は回復した>


第五福竜丸と聞くと、「死の灰」という言葉とともに水爆実験で乗組員のほとんどが急性放射線症によって亡くなったと思っていました。


Wikipediaには以下のように書かれています。

乗組員は約4、5時間も放射性降下物を全身に被りながら作業を行い、船体や人体を十分洗浄もしないまま、強い放射能汚染のある状態で帰港までの2週間船上で生活をした。放射線による火傷、頭痛、嘔吐、目の痛み、歯茎からの出血、脱毛など急性放射線症状を呈し、「急性放射線症」と診断された。23名の被ばく線量は個人により異なるが全身線量で最低1.7Gy最大6.9Gyと評価された。
体の表面に付着した放射性降下物によるβ線皮膚照射で、皮膚に紅斑、炎症、水疱、びらん(ただれ)、潰瘍が認められたが、数ヶ月で治癒し、がん化するようなことは無かった。造血器障害は初期にはリンパ球の減少が全員に見られたが、被ばく第8週から回復し始め、白血球数は約8年後に戻った。生殖細胞は2〜3ヶ月後には殆ど消滅したが、数年後には完全に回復した。染色体検査では、現在も異常の増加が認められているが、臨床症状に結びつくものではなかった。甲状腺については、1965年の検査で1例甲状腺腫が認められたが翌年の検査では消えていた。その後も甲状腺腫はみとめられていない。その他の症例は正常な甲状腺機能を示した。


今から60年も前の医学のレベルですから、解明しきれなかったことはあるにせよ、22名の乗組員は「死の灰」を浴びても亡くなってはいなかったことを、初めて私は知ったのでした。



<今も昔も変わらないのは何故だろう>



展示の中で二つのことが、特に気になりました。
Wikipediaの中にも書かれている「当店では原子マグロを買いません」と掲げられた魚屋さんの看板と、当時のニュースの街頭インタビューで「焼津の人とは結婚しません。放射能が移るから」というような答えが放送されたことでした。


「原子マグロ」は「放射能」になり、「結婚しません」は「結婚できない」になり、2011年以降、日本国内に広がった感情をそのまま見ているかのようでした。
その時に感じたことは災害とデマに書きました。


第五福竜丸アメリカの水爆実験に巻き込まれたのは、戦後まだ10年にもならない時ですから、社会の多くの人は、広島・長崎の原子力爆弾への恐怖心が強かったのだろうと想像できます。
原子力」とは何かという知識や情報も不十分なままに、広範囲の地域が一瞬にして焼け、そして時間とともに白血病のような症状とともにたくさんの人が亡くなっていった話を、私自身、1960年代半ばの幼稚園児の頃に写真とともに知って戦慄しました。
子ども心に怖くて、しばらくは一人で眠れなくなった記憶があります。


この第五福竜丸のことがきっかけになって、原水爆禁止運動が広がっていったことは、世界にも大きな影響を与えたのではないかと思います。


ただ、もしかしたら放射線への知識を啓蒙する大事な機会を、「死の灰」というひと言のインパクトが強すぎて、日本の社会はその経験を活かせていないのではないかと、ふと思いました。


ここまで書いて、もう一度、展示館に行ってみようと思いました。
まだまだ見えていない事実があると思うので。





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