Hatena::ブログ(Diary)

ふぃっしゅ in the water

2018-10-10

気持ちの問題  53 <マウント>

マウントという言葉をよく耳にするようになったのは、いつ頃からでしょうか。
もちろん「Mount. Fuji」のように「山」という意味では子どもの頃から知っていましたし、動物の行動に使う言葉であることも知っていました。


それが人間に使われるようになり始めたのが、いつ頃だったのかはっきりした記憶はありません。
最初の頃は、「動物みたいで嫌な使い方だな」という感想が、最近は動物の生活史を少しずつ知る機会が増えて、「動物みたいなんて、動物に失礼だ。動物以下、いや未満の行動だ」という感じです。


日本語だと、どんな言葉になるのでしょうか。
Wikipediaでは「人間同士の見えの張り合い」と双方の行動のように書かれているのですが、実際には一方的にけしかけられていることを感じることがままあります。
そう、「けしかける」とか「自分の方が上」「強がる」「相手に挑む」あたりでしょうか。
そして、人間の場合、なんのためにそうしているのかよく理解できないという感じ。


<がむしゃらに泳ぐ>


プールの中の境界線で「水泳というのは、かなり全身の感覚を周囲に向けているものだということがわかるようになりました。車の運転に似ているかもしれません」と書きました。
相手の泳ぎを邪魔せずに、安全に追い越したり、渋滞を起こさないようにペース配分をするあたりが運転に似ています。


最近は、怖い煽り運転も話題になっていますが、プールの中でもそういうことが増えてきた印象があります。
もちろん、以前から多少はあったのですが、以前はどちらかというと圧倒的に速い人が遅い人を追い越す際に「煽られたように感じて怖かった」という初心者側の反応が多かったのかもしれません。


ところがこのところ、あまり使いたくない言葉ですがこの「マウントされた」と感じるのは、むしろ中高年層の初心者的な人たちです。
「プールの中の境界線」を書いてわずか数年ですが、またプールの雰囲気が変化してきました。


水しぶきをあげない泳ぎ方は、ゆるゆるとゆっくり泳いでいるように見えるのではないかと思います。
きっと「追い越せる」と思うのでしょう。すぐに後ろからピタッとスタートして、追い越しできるコース側から激しくキックしてがむしゃらに泳ぎ始める人たちが増えてきた印象です。
見ていると、ゆるゆると泳いでいても結構スピードが出ている人には挑んでくるのですが、それよりも速度的には遅いけれどバシャバシャと速そうに見える人には挑まないので、おそらく錯覚があることに気づいていないのだろうと思います。


ほんのちょっとスタートを遅くしてくれたら、「追い越そう」という距離感ではなくなるのですが、「追いついてやる」「追い越してやる」という気持ちが微妙に見えるのですね。
客観的に見れば追い越せない速度なのに、追い越そうという気持ちが前面に出ているので、なんだか煽られた気持ちになることがしばしばあります。


何に挑んでいるのだろう。
なんだか嫌な雰囲気だなと思う場面が増えて、使いたくないけれど「マウント」という言葉を思い出してしまうのです。
でもやっぱり、マウントという言葉も使いたくないですしね。



「気持ちの問題」まとめはこちら

2018-10-09

イメージのあれこれ  20 <水しぶきをあげると速く見える>

プールに行くと、泳ぐ前に念入りに準備体操をするようになったことは、以前書きました。


この時に、もうひとつしていることがあります。
それは、その時のプール内にいる人の状況を把握して、どのコースでどのように泳ごうか計画を立てることです。
だいたいの泳ぎ方やペースを見て、「あの人はこう泳ぐだろうから、私はこのペースで泳ごう」と見極めて、お互いに泳ぎを邪魔せずに最大限の練習ができる、そんな感じです。


それと、盛大に水しぶきをあげて泳ぐ人がいるコースは避けようと、泳ぎ方も見ています。
私自身は抵抗のない泳ぎに集中して、その結果でスピードもついてくる練習方法を模索しているので、よほど混んでいない限りは水しぶきをあげるような人を避けて、プール内のコースを転々とします。


<水しぶきをあげる方が速く見える錯覚>


どの人がどれくらいの速度で泳いでいるかは、25mを何秒で泳いでいるかという客観的な測定方法があります。


準備体操をしながら、どの人がどれくらいで泳いでいるかをプールサイドの時計で見当をつけています。
私自身は誰かより速く泳ぎたいことが目的ではなく、徐々にペースをあげながら水の中を歩くように泳ぐ感覚が再現できて、1本でもそういう泳ぎに近づけたらその日の目標は達成したという満足感があります。
そのために、プール内で泳いでいる人たちの状況を相対的・絶対的に把握している感じです。


そうして泳ぎ方と実際の速度を見続けているうちに、水しぶきをあげている泳ぎ方の方が速く見えるという錯覚に陥ることがあるのかもしれないと思うようになりました。


水しぶきをあげている方がダイナミックに見えますし、実際に、トップスイマーを見ていると背泳ぎでもすごい水しぶきで推進力があります。
ところが、それは達人の世界の泳ぎで、そのレベルに至らない段階ではトップスイマーのイメージで泳いだつもりになると、水への抵抗が水しぶきになってスピードを落としているのかもしれません。


こうした錯覚は私だけではなさそうです。
「バシャバシャと泳いでいる人は、ゆるゆる泳いでいる人よりも速い」という思い込みがあるのだろうという場面に、しばしば出会います。


人は客観的に自分を観ることが難しいのかもしれないと、なんだか他の場面でも活かせそうだなあと水の中で考えています。




「イメージのあれこれ」まとめはこちら

2018-09-22

運動のあれこれ  23  <「『自己の超越』というブルジョワ的な価値の追求」>

京葉線に乗って猫の街へ行った時に、アクアテイックセンターがどれくらいできたか定点観測も楽しみにしていました。大きな屋根ができたあとは、工事が進んでいる感じは外見からはわかりませんでした。


私が一番最初にあの観客席に座れるのはいつなのかなとあれこれ想像していますが、さまざまな盛り上げ方がなされる国際大会の雰囲気はもういいかなと思っています。国内外のエキスパートな泳ぎを直接会場で観たい反面、あの喧騒は私には向いていなさそうなので、東京オリンピックは録画で観るつもりです。
2007年に千葉国際プールで開かれたインターナショナル・スイムミートは今思えば、落ちついて観戦できた国際大会だっなとなつかしく思い出しています。


十数年前から競泳観戦にはまったのですが、最近、私のように競泳大会を楽しみにして会場に通い盛り上げることはよいことなのだろうか、何か悪い方向へと向かわせていることもあるのではないだろうか、という根源的な問いがあります。
そのあたりは、以前にも過度に一般化された興奮でも書いたのですが、選手の結果に過剰に期待することがその選手の人生をも潰すことになる怖さとでもいうのでしょうか。



<「競技スポーツはいつから『健康』とたもとを分かってしまったのか」>


ドーピングの哲学の「訳者解説」に、その私のもやもやを整理してくれる箇所がいくつかありました。


競技スポーツを通して健康増進が語られるとき、意図的にないし無意識的に覆い隠されるのは、エリートスポーツがもはや『健康』とはほとんど関係がないという現実である」(p.298)として、以下のような内容が続いています。

 いったい競技スポーツはいつから『健康』とたもとを分かってしまったのだろうか。クヴァルはその発端を、「スポーツ」と「体育」とが分離を始めた20世紀初頭に見出す。心身の健康の促進を目指す近代的な「体育」は、18世紀の啓蒙思想の発明品であり、フランスでは「体育」の語は医師ジャック・バレクセールが1762年に刊行した書物にまで遡るとされる。クヴァルの言うように、「スポーツは、まず教育的なプロジェクトとして出現した」。この体育が古典的な体操から別れて、貴族的・軍事的な価値ではなく、「自己の超越」というブルジョワ的な価値観を追求し始めたときに、スポーツは体育から分離して、独自の発展を遂げるための萌芽が生まれる。


絶えず自己を超越し、「より速く、より高く、より強く」を目指す、近代的な競技スポーツの出現である。




練習を頑張ってよりよい結果を残す。
これに対して微塵の疑問さえないほど競技スポーツはよいものであり、そこに感動を求めているのが今の社会ではないかと思います。



ところが一世紀ほど前に、すでに警鐘を鳴らしていた人がいたことが書かれていました。

「エべルテイズム」と呼ばれる新たな体育法の創業者として知られるジョルジュ・エベールは、1925年著作『スポーツ対体育』で、体育とは別物になろうとするスポーツの成り行きを憂いている。エベールによれば、常に限界を超えることを目指し、節度を失ったスポーツは、もはや教育的効果を失っている。


 スポーツは、その性質からして常にその先を目指す戦いであるために、理論上は限界がない。有用性、節度、利他主義という、すでに述べた教育的な理由が調整役として作用しないのならば、常により速く、常により速く、あるいはより一般的にいえば、常にその先を目指すという考えに歯止めをかけるものは何もなくなる。このような条件のもとでは、さまざまな種類の危険が懸念される。


 エベール曰く、過度の専門化に走るスポーツ選手たちの中には、自分が専門としない種目になると、子供にすら及ばないことがあるのだという。「一部のスポーツマンが虚弱であると言われるのはなぜかがこれで理解できる」。エベールは、スポーツには病人に似ていると言ってはばからない。




クヴァルやエベールという人も初めて知りましたし、行間には私がまだまだ理解できていない体育やスポーツの歴史があるのですが、今でも古臭さを感じさせない、いえむしろ本質的な何かを感じさせる内容だと思って読みました。


運動の運動はこれからどこへ向かうのでしょうか。




「運動のあれこれ」まとめはこちら
ドーピング関連の記事のまとめはこちら

2018-08-15

水のあれこれ 85 <上げるより下げる方が大変>

災害レベルの暑さが続く今年の夏ですが、32〜33度ぐらいでは驚かなくなったので、慣れたのかそれとも感覚が麻痺したのでしょうか。
自宅ではほぼ冷房を切らすことなく使っているので、7月分の使用料がどうなっているのかとても不安でしたが、何と、昨年とほぼ同じ使用電気量と料金でした。
やはり新しいエアコンの節電効果でしょうか。


ところで、雨が降ろうが、槍が降ろうがそして大雪だろうが泳ぎに行く私ですが、さすがにこの暑さだと「行きたい」と思う気持ちはあっても泳ぐ回数が減っています。
かっぱは猛暑にも弱いのかもしれません。


そんな災害レベルの暑さなのに、7月に入るとテレビでは屋外プールや海で遊ぶ人たちの映像を流していました。季節のお約束なのでしょうね。
あの屋外プールでは、直射日光だけでなく水温も上がって熱中症の危険性があるのではないかと心配していたのですが、あるニュース番組で「水温が32度以上になると体を冷却できなくなるので熱中症の危険性が高まる」と伝えていました。
こういう情報も、文字スーパーで周知した方がよい情報ではないかと思いますね。


私が泳ぐ屋内プールでは、屋外プールと違って室温も水温も一定に管理されているのですが、プールによって微妙に水温が異なります。
がんがんと泳ぐ人が多い50mプールだと30度以下で、最初に入るときはかなりひやりとしますが、泳ぎだすとちょうど良い水温に感じます。


25mプールだと30.5度前後でしょうか。ゆっくり泳ぐ人や歩く人が増えたので、体が冷えない水温も求められるようになったのかもしれません。
そこそこの距離を泳ぐので、私には途中で息苦しくなる水温の高さです。


適切なプールの水温はどれくらいなのだろうと気になっていたら、ちょうど野口智博氏「高温下での水中運動」という記事を書かれました。


<「高温下での水中運動」>


小学生の頃は6月から9月まで屋外プールでの授業がありましたが、真夏の7、8月でも中には唇が真っ青になって体が冷え切ってしまう同級生が必ずいました。
野口氏のブログにはこう書かれています。

これまで、低温に関しては「水温と気温(室温)を足して50℃以上」という基準がありましたが、高温の限度についての提言は、あまり見られません。恐らく、こういう状況は想定されていなかったからだと思います。



「寒いからプールは中止」はしょっちゅうありましたが、こういう基準があったのですね。初めて知りました。
それに対して、「どれくらいの暑さ、水温になったら中止した方がよいか」という情報は、たしかにあまり見た記憶がありません。


野口氏のブログでは、冒頭の水温32℃の根拠となる論文も紹介されていました。

32℃以上では、安静にしている状態で酸素摂取量が変化しないということは、深部温を上げるような代謝が不要...となります。


「Nielsen(1978)は、産熱量と放熱量の収支バランスが崩れ、運動中に体温上昇が起こる臨海水温を予測している。例えば、酸素摂取量3l/分(クロールで役43秒/50mのペース)で泳いだ場合、約5℃の温度差が必要となるから、体温を37℃と設定すると32℃が泳ぐ際の上限温度となる。この水温以上で泳ぐと産熱が放熱を上回り、体温の上昇が生じ、長く泳ぎ続けることができなくなり、更に、34℃以上の水温で泳いだ場合、体温が上昇し約30分で危険な状態になることも示している。


「また、Craigら(1968)は、高負荷の運動において、深部温の変化をい防ぐ水温は29℃であることを示している」
いずれも情報としては少し古いものがありますが、授業実施の可否については、環境およびその日に行う実技内容を考慮しながら、33℃、34℃あたりに達したら「勇気ある撤退」も必要であると、考えた方が良いようです。



さて、野口智博氏の勤務する大学の屋内プールの環境が、「室温36℃、水温33℃」「室温33℃、水温32℃」といった状況であることが書かれていてけっこうびっくりです。


公共のプールではたしか、だいたい「室温32℃、水温30.5℃」あたりの表示です。
そうか、この猛暑で、屋内プールといっても水温を下げた状態にするには、おそらく夜間もエアコンで一定の室温を保たれているということなのですね。
快適に、そして何より安全に泳ぐために、室温と水温が調節されていたのだと。

あと、水温って、上げるより下げる方がコストがかかるって知ってました?
なのでできれば、どこかの会社で、経済的にも負担が低く、簡易的に水温を下げられる機器を開発してくれないかな...と願っています。



ああ、水温30℃前後に調節されていることが、何とすごいことなのでしょうか。
今日も感謝して泳ぎに行くことにしましょう。




「水のあれこれ」まとめはこちら
野口智博氏に関する記事のまとめはこちら

2018-08-14

運動のあれこれ 21 <競泳に必要なものは何だろう>

いろいろな意味で層が厚くなったと感じたパンパシ水泳でしたが、もうひとつ印象に残ったのがフィリピン選手の参加でした。


今までも、ジャパンオープンやワールドカップ東京大会でフィリピンの選手が時々参加していましたが、個人種目に出場している2〜3人ぐらいしか記憶にありません。
意外なところですが、マレーシアはこれまでも競泳大会に何人も選手が出場していました。
私自身が東南アジアに暮らしたこともあって、ちょっとその地域に思い入れがあります。
ですから、東南アジアの国から競泳大会に参加しているのを見ると、思わず応援したくなります。
まあ、東南アジアと言っても、一つの国内だけでも多様な文化を擁しているのですが。


Wikipediaパンパシフィック水泳選手権を見ると、2006年にフィリピンが参加しているようですが、その1回だけでしょうか。


1984年に始まったパンパシ水泳ですが、フィリピンにとって1984年といえばピープル・パワーと呼ばれた草の根運動で独裁政権を倒した年でした。
でもようやく手に入れた自由でも、海外出稼ぎ医師や看護師の海外への流出など、貧困から立ち上がるには混沌とした状況でした。
スペインの植民地からアメリカの植民地になり、そして日本の占領時代から独立をした後も、長い間アメリカの影響を強く受けていた国です。
1980年代に難民キャンプで一緒に働いていたフィリピン人スタッフの中には、「アメリカの州になった方がよい」と本気で言う人もいるくらい、アメリカへ渡って新しい人生を夢見ている人も多かった印象です。


当時、フィリピン国内の人気スポーツといえばバスケットボールとボクシングのようでした。
おそらく、どこでもちょっとした空き地があればできるので、誰にでもできたのでしょう。
フィリピンも海に囲まれた国ですが、泳ぐことを学ぶ機会がないこと、プール建設や維持のためには経済力も必要ですし、やはり競泳大会に参加するには経済力が必要だからフィリピンにはなかなか広まらないのだろうと思っていました。


そのフィリピンにリレーを組むだけの選手層ができて、国として参加していました。
タイムはアメリカ、オーストラリア、カナダ、日本に比べてどの種目も20秒近く遅いのですが、フォームも美しくて、まだまだ伸びしろがあることを感じさせる選手たちでした。


ほとんどの種目で他の選手よりかなり遅れてのゴールでしたが、果敢に挑戦している姿を見て、フィリピンの競泳の歴史を知りたくなりました。



そして、フジヤマのトビウオを生み出した時代はまだ湖や川が練習の場だったことを考えると、競泳も遠くへきたものですね。


競泳に必要なものって何だろう。
ちょっと青臭い疑問ですが、筋肉的キリスト教運動の流れと合わせて考えてしまいました。



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