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ふぃっしゅ in the water

2015-03-19

ケアとは何か 9 <ケアを受ける当事者になるということ>

前回の記事で、厚生労働省の「人手不足で『施設の統合』検討」というニュースに感じたのは、資格を取得した後に長い時間をかけて形成される専門性への視点が弱いことでした。


では、ケアの専門職の専門性とは何でしょうか?
究極の目標は、「その人がして欲しいと思うケアの実践」に近づくことではないかと思います。


ところが現実には、「よいケアとは何か」と理想と現実で打ち砕かれる毎日です。
「ケアは誰でもできると思われている」「ケアは女性がすべきと思われている」あたりも、ちょっぴり自尊心をうずかせるものです。
あるいは、人手不足やコスト不足といった現実的に綱渡り状態なのに、先が見えない閉塞感もあります。


ただどちらかというと私自身は、「自分が良かれと思って実践したケアが相手には必要でなかったり、かえって不快にさせたりしたこと」に落ち込みます。


それは仕事上だけでなく、両親の介護に対しても同じです。
こちらがいろいろと考えて対応したのに、親が求めているものとは違っていることがたくさんあります。


<ケアをする側がケアされる側になるということ>



たとえば、私が両親の立場になって「本当にしてもらいたいケア」が理解できるようになるには、私自身が高齢者になり認知症になった時ではないかと思います。


もちろん、ケアの専門職自身が自分の闘病経験や、家族をケアした経験を生かすこともできるのですが、「本当にしてもらいたいことはこういうことだったのか」と理解できるのは、自分自身が障害を負ったり高齢者になって初めてケアを受ける当事者になった時ではないかと思います。


あるいは保育であれば乳児から幼児まで誰もが経験したはずのことですが、その頃の自分は何を感じていたのかさえわかりません。


「ケアを受ける当事者としての視点がない」
それをあの厚生労働省方針に強く感じたのでした。



「当事者の声を聞いていない」というよりも、自分自身が老いていくことや体が不自由になり誰かの手を必要になるということがどういうことなのかということから目をそらしているような、そんな感じです。


いえ、でもそれは厚生労働省の方々だけでなく、誰もがそうなのだと思います。


死ぬとはどういうことか当事者になって初めてわかるように、ケアを受けることも、日頃考えているようで考えていないことのひとつかもしれません。


そして年を取り、ケアを受ける当事者に少しずつなる頃には、「どうして欲しいのか」さえうまく伝えられなくなる。


そこにケアの難しさがあるのだと思います。





「ケアとは何か」まとめはこちら

2015-03-18

ケアとは何か 8 <ケアの専門性とは>

医療の末端で働いている私にとっては、厚生労働省方針方向性は身近であるようで案外よくわかっていない部分です。
というか、厚生労働省の構造とか、どのように政策が決められて行くのかなどほとんどわかっていません。


10年前の産科医療崩壊と言われた時期あたりから、医療関係のニュースを以前にも増して真剣に読むようになりましたが、時々、一体これは何をしたいのだろうというニュースを目にします。


3月15日の「人手不足で『施設の統合』検討 厚労省」(NHKニュース)もそのひとつでした。

 厚生労働省は、地方などの福祉施設で今後、人手不足が深刻化し、存続が難しくなるケースも予想されるとして、介護施設や保育施設などを一つにまとめて運営できるよう規制を緩和することや、介護福祉士保育士などの資格を統一することを検討する考えです。
 厚生労働省は、▽介護職員が、いわゆる団塊の世代がすべて75歳以上となる10年後の2025年に全国でおよそ33万人不足する一方、▽保育士は、2018年に全国でおよそ7万人足りなくなると推計されており、地方や山間地域の福祉施設人手不足が深刻化し、存続が難しくなるケースも予想されるとしています。
 こうした状況を受けて、厚生労働省介護施設や保育施設、障碍者施設を一つにまとめて運営できるよう規制を緩和することや、将来的に介護士や保育士准看護師などの資格を統一することを検討する考えです。
 厚生労働省は、こうしたことが実現すれば、一人の職員高齢者介護と乳幼児の保育に当たる事ができるようになり、職員が足りなくても福祉施設の運営が可能になるとしており、近く省内に作業チームを設け、福祉施設の団体などからのヒアリングを始めることにしています。



まず、「介護施設や保育施設などをひとつにまとめて」と「将来的に介護士や保育士准看護師などの資格を統一」の「など」という言葉にひっかかりました。ここに書かれていないものがあるのだろうか、と。


そしてこの「資格の統一」について、専門性が違うことももちろんですが、介護士や保育士は国家資格であるのに対して、准看護師は各都道府県知事資格ですから、これを「統合する」というのはどういう意味だろうということがよくわかりませんでした。


これはNHKのニュース自体にも言葉が正確に伝わらない報道上の問題があるような気がします。


このニュースについて詳細を知りたいと思い、検索していましたが、ほとんどわかりませんでした。
いつもは医療ニュースをm3.comで大まかに把握しているのですが、そのサイトではこのニュースさえとりあげられていませんでした。


<ケアの中のグレーゾン>



「人手不足で『施設の統合』検討 厚労省 感想ツイートのまとめ」の中に、「専門職から総合職にする」「保育・介護は、一般家庭でも行われている行為ですから、資格がなくても行えるようにして、資格を持った人は、指示・指導する立場にすれば、人材確保できます」と書かれたツイートを見かけました。


もしかしたら、そのあたりかもしれません。


その施設の職員全員に介護から保育までのオールマイティなケアを求めるということではなく、すでに国家資格や知事資格を持った人が、その専門性を超えて管理職的に介護と保育の統合施設に配置するというあたりでしょうか。


現在も、たとえば保育園にも看護師雇用されていて、医療と保育のグレーゾン的な仕事をしていますし、介護施設でも看護師介護福祉士の仕事は明確に線引きできない部分も多いのではないかと思います。


「看護と介護の『ケア』」あたりでその境界線について少し書きました。


たとえば保育園で働いている看護師さんは、病院での小児科看護からもう少し広く小児と関わりたいと思って保育園勤務を選択された方も多いのではないかと思います。


実は最近、私自身が認知症の父との経験から、介護にとても関心がでてきました。
あと数年ぐらいで助産師を辞めて、介護施設で働いてみようかなという思いが日に日に大きくなっています。


もちろん高齢者と保育、あるいは出産や医療機関でのケアにはそれぞれの専門性がありますから、簡単に仕事ができるようになるわけではありません。
反面、ケアの共通点があるからこそ、自由な行き来ができる部分も確かにあります。


ただ、このニュースを聞いて「現場感覚がない」「机上の空論」と感じたのは、経験は積んでいくものという視点があまりになさすぎるのではないかというところかもしれません。


資格を持っていても、新人から達人になるには時間が必要であるということが。






「ケアとは何か」まとめはこちら

2014-10-21

行間をよむ 30 <保健指導」という言葉>

1990年代頃から、仕事の中で使う事をためらうようになった言葉があります。
それは「指導」という言葉です。


医療現場、特に看護には「指導」とつく用語がたくさんあります。
「退院指導」はどの科でもありますし、産科でいえば「沐浴指導」「授乳指導」「栄養指導」などなどです。


「なんだか『指導』という言葉は嫌だな。『説明』でよいのでは」と思い始めていた頃に、一緒に働いていた産科の先生がやはりぼそっと「指導って言葉はおかしくない?」と言ったのを聞いて我が意を得たりという気持ちになりました。


おそらく、医療の「パターナリズムからインフォームドコンセント」へと大きく変わり始め、あるいは「接遇」という言葉が聞かれるようになった時期に、同じように感じていた人が増えたのではないかと思っています。


表現が変われば、意識も変わり、行動も変わります。


「この疾患の人は、こういう生活の注意事項が必要」という指導から、「あなたは退院したらどのような生活をしますか。どのようにすればよい治療を続けられますか。あなたはどうしたいですか?」という問いかけを含んだ説明になり始めたのが1990年代ともいえるかもしれません。


ただ、こちらに書いたように、まだ私たち助産師の業務として「保健『指導』」という言葉が法律に書かれたままなので、臨床の意識も行動も変化しているのに法律だけが変化していないような違和感があります。

助産師の定義>
助産又は妊婦・じょく婦若しくは新生児の保健指導を行うことを業とする女子をいう

助産」の定義もあいまいだし、「保健指導」も別の言葉の方がよいと思うし、いったい助産師とは何をする人なのかとまたなやんでしまいそうですが、何かよい表現はないでしょうか。


<「指導」とはどういうことか>


あまりこの言葉を突き詰めて考えた事はありませんでした。
というわけで、またお手軽ですがwikipedia指導を参考に少し考えてみようと思います。

指導とは特定の事項について、かつ明確な理由の下に、指導を行う者(指導者)が指導を受ける者(被指導者)に尊重して取り扱われたことを期待してなされる明示的な行為である。

わあ、読んだだけでも頭がくらくらしそうなわかりにくい一文ですね。


医療の中で「特定の事項について、かつ明確な理由の下に」というのは、「健康や疾病に関して、医学的根拠に基づいた」と置き換えられるのではないかと思います。
「こういう治療効果がある」あるいは「治療によってこういうリスクも生じる」「治療を受けない事を選択すればこういうことが起きうる」などの情報が「尊重して取り扱われたことを期待してなされる明示的な行為」といえるかもしれません。


つまり「医学的根拠に基づく医療を行うための説明」であり、医療の中では医師が最終的な責任を持っている内容と言えるのではないかと思います。


助産師の業務の中でも、産褥期の体の変化と過ごし方、家族計画あるいは新生児の体重や黄疸について養育者に注意を促すための説明は「医学的根拠に基づく医療を行うための説明」です。
言い替えれば、医師による説明を代理で行っていると言えるのではないでしょうか。


それ以外の育児技術的な内容については、「医学的根拠に基づいた」という点で伝えなければいけない事というのは案外少ないものです。
過去に事故が起きたようなことについては危険防止の視点での説明が必要ですが、それ以外は「こうしてもいいし、ああしてもいいですよ」つまり正解もなければ間違いもない程度の話です。


助産師の業務は「専門的助言」「技術的助言」ではないか>


その中で、沐浴だけが厳然と「沐浴指導」という言葉で使われ続けています。
しかもたっぷりのお湯の中で新生児を浮かせながら顔から全身を洗うという、難易度の高い方法を私たちも学生時代から教わってきました。
そして産後の腰痛のおこりやすいお母さんたちにとって過酷な姿勢で、しかも冷や汗をかきながら沐浴実習をさせているところが多いのではないかと思います。


「お湯の中でなくても、外で石鹸で洗って、十分に石鹸分を落とすような方法でいいですよ」
こんな一言の説明ですむ事が、「指導」になっている部分が多いのかもしれません。


それがwikipediaに書かれている「専門的助言」「技術的助言」ではないかと思います。


そして最後の一文の意味は、助産師が「保健指導」という言葉を使うことについて考え直すポイントになるかもしれません。

なお「事項の特定性、または、理由明確性が低いものは、指導の要件を満たしていない。「事項の特定性、または理由の明確性が低いもの」は、指導ではなく単なる一般的助言として扱う考え方もある。

保健婦助産婦看護婦法ができた1948(昭和23)年は、まだ大半の国民が医師の診察を受ける事ができない時代で、助産婦医師の説明を代行する必要があったのだと思います。


1960年代を境に、日本中の誰もが医師にかかることができ、「健康や疾病に関しての説明」を医師から受けることができるようになりました。


さらに1990年代の「根拠に基づく医療」と「インフォームドコンセント」の流れから、「特定の事項について、かつ明確な理由の下」には医学的根拠が明確にされることが求められてきました。


助産師の「保健指導」という言葉を、漫然と使っているとこうした流れから取り残されるのではないかと不安がよぎります。
一般的助言」にさえならない代替療法を「保健指導」として取り込むことが多いのを見るとなおさらです。

2014-08-21

ケアとは何か 2  <「ケア」の語源と意味ー「ケアの社会学」より>

親の介護を真正面から考えなければいけなくなったときに、上野千鶴子氏の「ケアの社会学 −当事者主権の福祉社会へ」(太田出版、2011年)に出会いました。


「ケアとは何か」。
看護ケアの現場で働いてきた中で、ずっと心の中にあった根本的な問いに答えれくれる本はなかなかありませんでした。



入院中の患者さん、あるいは産科では妊産婦さんや新生児、そしてそのご家族への「ケア」は、当然ですが、常に第三者側としての「ケア」でした。
仕事では客観的に判断していたことも家族のことになると感情が渦巻き、客観的な判断はできないことがしばしばありました。


自分が仕事としてきたケアと、家族へのケアとは違うのだろうか。
そんな疑問で悶々とする中で、この本を見つけたのでした。


帯には「超高齢社会における共助の思想と実践とは何か?!」とあります。
そしてこの本には、最初から「ケアとは何か」その言葉の定義や語源から始まっていました。


上野千鶴子氏の本は以前から関心があって読んでいました。
この本も読む角度によっては批判も共感も大きく分かれるのかもしれませんし、介護や福祉に関しては私自身素人なのでこの本を読みこなせていませんが、ケアとは何か頭の整理をする機会になりました。




<「ケア」は何に対して使われてきたか>


上野千鶴子氏が「ケア」という言葉を使った経緯が書かれています。

 本書は高齢者介護を主たる研究主題とするが、その際、「ケア」という上位概念を採用する。


その理由は、これまで主として「育児」の意味に限定して使われてきたこの概念を、育児介護・介助・看護・配慮などの上位概念として拡張して再定義することで、家事・育児に典型的にあらわれた「不払い労働」、のちに「再生産労働」と呼ばれるようになった分野に関わる理論が、すべて利用可能になるからである。(p.5)

日本では育児に対してケアという言葉はあまり使われないと思いますが、この点について、第1章で英語圏での使われ方が書かれています。

英語圏の「ケアcare」の語源は、ラテン語のcuraに由来し、「心配、苦労、不安」の意味と、「思いやり、献身」のふたつの意味で使われていた。哲学者の森村修は「ケアの語源のcura」には、「重荷としてのケア」と「気遣いとしてのケア」という対立する意味があった、と指摘する。ケアが前者の消極的な意味を持っていることは、記憶しておいたほうがよい。(p.36)


本文では「『育児』に限定されていた用法が、介護看護で介助へと拡張解釈されていく」ケアという言葉の変遷が書かれています。


順番としては「看護と介護の『ケア』」に書いたように日本では看護から使われだして後に介護で使われるようになりましたが、むしろ育児にケアという言葉を使う機会はほとんどないかもしれません。



さて、この本では2001年にメアリー・デイリーらが定義した以下の定義を採用しているとのことです。

依存的な存在である成人または子どもの身体的かつ情緒的な欲求を、それが担われ、遂行される規範的・経済的・社会的枠組みのもとにおいて、満たすことに関わる行為と関係



<「ケアの人権」>


定義など少しかた苦しい話が続きますが、もう少しおつきあいください。


私がこの本を店頭でみつけて、ちょっと難しそうだし分厚い本だけど買おうと決めたのは、「初版への序文」に「4つの権利の集合からなる『ケアの人権』」という箇所を読んだからです。

1. ケアする権利
2. ケアされる権利
3. ケアすることを強制されない権利
4. (不適切な)ケアされることを強制されない権利


この3と4を私は探し求めていたことをはっきりと認識し、そして親の介護を施設に任せることもいけないことではないことに救われたのでした。
「家族だから親を介護するのが当然」「高齢者は自宅で家族に囲まれているのが幸せ」そうした価値観は、私と私の親の関係にはあてはまらない。そう思っても後ろめたさからは逃れられずにいました。


また、ケアする側として働いてきましたが、「退院後は家族のサポートがあるから大丈夫」とそれ以上はできるだけ考えずにきたように思います。


どの家族、というよりどの個人にも、3と4の権利があることにさえ気づかなかったのでした。


<「当事者主権」ニーズの帰属先>


さて、その序文では続けて「よいケア」と「当事者主権」について書かれています。少し長くなりますが、そのまま紹介します。

したがって「よいケア」とは、ケアされる者とケアする者双方の満足を含まなければならない。この議論は10章の「福祉経営」へとつながる。
それに加えて、本書において核となる規範的立場は、3章「当事者とは誰かーニーズと当事者主権」に展開した「当事者主権」であると言わなければならない。本書はケアの定義に複数の行為者による相互行為性を前提としているが、それと同時に、この相互行為の非対称性はいくら強調してもしたりない。ケアはニーズのあるところに発生し、順番はその逆ではない。ニーズは社会構築的なものであり、ケアの受けてもしくは与え手、あるいはその双方が認知しないかぎり、成立しない。そしてニーズの帰属先を当事者と呼び、そのニーズへの主体化が成り立つことを当事者主権と呼ぶ。


ケアは自然現象とは違う。ニーズー「必要」と訳されるーが認知されないかぎり、自ずから満たされることはない。赤ん坊でさえ、泣いたり身体の徴候によってニーズを表出し、それを養育者が認知することを通じて相互行為が成立する。「母性愛」が自然でも本能でもないことがあきらかになった今日、赤ん坊のいかなるニーズに応え、いかなるニーズに応えないかもまた、文化と歴史によって変化する社会構築的なものである。


ケアの受け手と与え手の関係は非対称である。なぜなら相互行為としてのケアの関係性から、ケアの与え手は退出することができるが、ケアの受け手はそうでないからである。この非対称な関係は、容易に権力関係に転化する。うらがえしにケアに先立って存在する権力関係を、ケア関係に重ねることもできる。家族の支配・従属関係、ジェンダー、階級、人権など、ありとあらゆる社会的属性が、ケア関係の文脈に関与する。このなかで搾取や強制、抑圧や差別が生じる。ケアの非対称性とは、このような社会的文脈におけるケアの抑圧性を、ケアする側・ケアされる側の双方から、問題化することを要請する。


もう、この序文だけでも読み応えのある本でした。
いえ、ちゃんと本文もしっかり読みこなさなければいけないのですが、それはゆっくり行間を読みながら時間をかけようと思います。


前回・今回のケアについてを踏まえて、また産後のトラブルについて続きます。






「ケアとは何か」まとめはこちら

2014-07-29

行間を読む 19 <新生児訪問の心構え>

こちらの記事で、20年ほど前に東京都がまだ新生児訪問指導員のための研修制度があった頃、その研修では「心構え」についても話があったことを書きました。


それよりさらに数年前、私が助産師学生だった時に「訪問の心構え」を恩師から教わった記憶があります。


学生は、かならず継続事例を受け持つ事になっていて、妊娠中から分娩、そして出産後の訪問までを実習させてもらいました。
右も左もわからないような学生が妊婦健診や分娩、そして産後までずっとかかわることを了承してくださった方々に本当に感謝です。
私たちはこうして社会でそだててもらったのだと、改めて思うこのごろです。


無事に分娩介助をさせていただいて、無事に退院をされ、そして産後に訪問をさせていただく頃には、お母さんたちも助産学生を妹か友達のように親近感をもってくださるようでした。


産後の訪問実習の前に授業で学んだことが、その後の自治体の新生児訪問でもしっかりと私の中に残っていました。


<必要な「心構え」とは>


当時のノートは処分したので記憶に頼った内容ですが、以下のようなことを恩師は話されました。


「訪問というのは、相手の生活の場にお邪魔させていただくという気持ちが必要である」
「お茶などの接待は一切受けないこと」
「お礼も一切受け取らないこと」


最後の「お礼」というのは、お母さんたちが「学生さんが側にいてくれて助かった」とお礼の品などを準備していても受け取らないように、ということです。


至極、当たり前のこの3点ですが、とても本質的な部分だと感じたのは、新生児訪問に関心が出始めてからでした。


自主的に退院後のお母さんを訪問していたときも自治体の訪問でも、あらかじめ電話の時点で「訪問時にはお茶等のお気遣いは一切不要です」と話すようにしていましたし、自主的に訪問していた時にも絶対に謝礼のたぐいは受け取らないようにしていました。「自分が勉強させてもらっている方なので」ということで。


都の研修でも、新生児訪問で苦情が来た例などの話がありましたが、やはり上記の姿勢があれば違っていたのではないかと感じる内容でした。


新生児訪問を受けた側からの評価に関する研究>


新生児訪問の実態についての研究を探していたら、1992(平成4)年の厚生省心身障害研究の「新生児訪問指導に対する保護者からの評価」が公開されていました。


1992年の立川市で実施された訪問でのアンケート調査のようです。


1992年当時は、まだ今ほど百花繚乱の代替療法は広がっておらず、桶谷式乳房マッサージとそれに伴って広がった舌小帯切除ぐらいだったでしょうか。


ですから「マイナスの評価」(p.214)を見ても代替療法などを勧められたといった「変なこと」は書かれていなくて、「古い考え方」や「理想とする子育て」を押し付けられたといった内容でした。


「接遇に関する問題点」(p.215)では、「時間が長かった」「突然の訪問だった」「短時間で聞きたいことも聞けなかった」「もう少し話を聞いて欲しかった」「事務的に終わった」「話が一方的だった」などが書かれています。


このあたりも、実際に訪問にいくと相手のお母さん方もいろいろですから、質問攻めになって2時間位になってしまうこともあれば、こちらがやんわりと何かないか尋ねてもほとんど話さない方もいらっしゃって、半ば一方的に説明をして短時間で帰ることもありました。


それでも、「相手の生活の場にお邪魔させていただいている」という恩師の一言が、いつも蘇ってきて対応方法を考えることができたように思います。



訪問する側とお母さんの相性のようなものもありますから、何となく不満が残ったというものもあるでしょうが、常識的な態度さえ疑われる人がいることも確かではないかと思います。


上記のアンケートにも「玄関でドアをあける前に『どなたですか』と聞いても答えない」とか、「電話してきて名前も名乗らず一方的にしゃべりだした」「道がわからないから迎えに来いといわれた」など、驚くような内容があります。


ただ、1992年当時40代〜80代の助産婦が訪問していたようなので、そういう時代背景もあるのかもしれませんが。


代替療法や価値観・信念を広げないために>



その後、上記のようなアンケート調査が行われたかどうかはわからないのですが、もしあるとすれば、「その他」(p.216)に書かれているようなことが増えているかもしれません。

話はなかなか面白かったが、諸説あるためかとも思うが、病院で聞いたこととくい違っている話もあり、多少とまどった点もあった。



「諸説あるかも」と聞き流してもらえた時代から、世の中全体に代替療法的なものや考えが跋扈している中で、必要もないことにお母さんたちを信じ込ませる機会が増えているのではないかという心配は、開業助産師のHPの内容から考えれば杞憂ではないと思います。


その一方で、お母さんたちのこうした声にも答える必要があります。

顔などに赤いしっしんが出ていて、アトピーか心配だったので質問したけれど”よくわからない”と言われてしまった。

自分が知らなくて「わからない」と認めることは大事です。
標準的な医療の考えを不勉強なのに、代替療法の「知識」を教えるよりはよっぽど誠実な態度かもしれません。


ただ、それではその不安に何も対応していないことになります。


標準的な医療ではどのように対応しているのか、代替療法の考え方で注意が必要あるいはデメリットが大きい考え方は何かなどを知った上で、「現在は『よくわかっていない』こともあるので様子を見てよいのでは」とか「小児科受診をして相談してみたらよいのでは」という対応になるのではないでしょうか。


「諸説」を伝える立場ではなく、「諸説」を中立な立場からメリット・デメリットを説明する立場であることも、訪問の大事な心構えではないかと思います。






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