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2007/12/31 (月)

マーラー 交響曲 第2番「復活」

まずは交響曲第2番 (マーラー) - Wikipediaより以下の歌詞を引用しよう。この訳、大変な名訳だ。作者に乾杯!!

MAHRER SYMPHONIE II 5.satz

nach KLOPSTOCKS HYMNE "DIE AUFERSTEHUNG"

Auferstehn, ja auferstehn, wirst du,

Mein Staub, nach kurzer Ruh.

Unsterblich Leben wird,

der dich rief, dir geben.

Wieder aufzublühn wirst du gesät!

Der Herr der Ernte geht

und sammelt Garben

Uns ein, die starben.

O glaube, mein Herz, o glaube

Es geht dir nichts verloren!

Dein ist, dein, was du gesehnt.

Dein, was du geliebt, was du gestritten!

O glaube,: du wardst nicht umsonst geboren!

Hast nicht umsonst gelebt, gelitten!

Was entstanden ist, das muß vergehen.

Was vergangen, auferstehen!

Hör auf zu beben!

Bereite dich zu leben!

O Schmerz! du Alldurchdringer!

Dir bin, o Tod! du Allbezwinger,

ich entrungen!

Nun bist du bezwungen!

Mit Flügeln, die ich mir errungen,

in heißem Liebesstreben werd ich entschweben

Zum Licht, zu dem kein Aug gedrungen.


Mit Flügeln,die ich mir errungen

Werde ich entschweben.

Sterben werd ich, um zu leben!

Auferstehn, ja auferstehn wirst du,

mein Herz, in einem Nu!

Was du geschlagen,

zu Gott wird es dich tragen!



クロプシュトックの賛歌『復活』に従いて


よみがえる、そう、汝はよみがえるのだ。

私の塵は、短い安らぎの後で。

汝を呼んだ永遠の命が

汝に与えられる。

種蒔かれた汝は再び花を咲かせる。

刈り入れの主は歩き、

我ら死者の

束を拾い集める


おお、信ぜよ。わが心よ! おお信ぜよ。

失うものは何もないのだと!

汝のものーそれは汝が望んだもの

汝のものーそれは汝が愛したもの、戦って来たものなのだ!


おお、信ぜよ。汝がいたずらに生まれて来たのではないのだと!

いたずらに生を楽しみ、苦しんだのではないのだと!


生まれて来たものは、滅びなければならない。

滅び去ったものは、よみがえらねばならない。

震えおののくのをやめよ!

生きるために汝自身を用意せよ!


おお、苦しみよ!汝は全てにしみ通る。

おお、死よ!全ての征服者だった汝から

私は逃れ出る!

今こそ、汝は征服されたのだ!

私は勝ち得た翼をたずさえて、舞い上がろう!

愛の命ずる求心力の中へと

眼にも届かぬ光のもとへ!


私が勝ち得た翼を広げて、

私は舞い上がろう!

私は再び生きるために死ぬのだ!

よみがえる、そう汝はよみがえるのだ。

私の心よ、今ただちに!

汝の高鳴ったその鼓動が

神のもとへと汝を運んでいくだろう!


Wikipedia「交響曲第2番 (マーラー)」より交響曲第2番 (マーラー) - Wikipedia

マーラーは1番で自分のオーケストレーション音楽の構築についての自信を深めた。そして恐らく合唱を伴う大規模な作品で名を上げたいと思ったに違いない。優秀な指揮者であったが、彼は本来クリエーターであって、作曲こそ本分であった。しかし多忙室内楽などの小品で少しづつ積み上げることは出来ない代わりに、その多忙からまるで逃げるかのように天才をして恐ろしい早業で巨大な交響作品を創り上げていったわけだ。

この2番交響曲は、野心の塊なのだ。

完成は1834年暮、そして初演された1895年は彼は35歳。新進気鋭のコンダクターとして活躍躍如たるものがあるころだ。

プライベートでも恋や肉親の死、社交。。。この時のマーラーの胸中に野心が無いわけが無い。

まず、完成した第一楽章を「葬礼」という名でまず出版しようとした彼は、その作品を聞かせたハンス・フォン・ビューローをして、「これが交響曲ならトリスタンはハイドンのようなものだ!」*1という名(迷)台詞を生ませてしまう。当然の拒否反応。

しかし、彼の死は皮肉にも、終楽章に「復活」の詩を合唱で歌い上げるという更なる野心をマーラーに芽生えさせてしまう。

その野心は、ひとつの賭けだった。もちろん、ベートーベンの第9交響曲を乗り越えるという賭けだ。

結果的に、彼は終楽章に合唱を持って凝らざるを得なかった。これは、ブラームスが1番を器楽だけで書いたのとは違い、まっこうから立ち向かいそして挑戦であり、その評価は全曲初演で大成功を収めることで、ある意味で勝利を収めたのだ。

そしてマーラーの交響曲作家としての大きな碑となったのだ。

第一楽章は、緊張感をはらむドラマティックな作品。何か新しい音楽を作り出そうという気概に満ちていて、そこかしこで圧倒される。

全曲の1/3の長さを持ち、これだけで第一部とされるなど、極めて独立性が高い。これだけを出版しようとしたのもうなずける。その構成は単なるソナタ形式ではなく、少なくとも3つ以上の息が長い完成度の高い主題を縦横無尽に展開・変奏するもので、ダブルコンポジションとして理解しようとするアナリーゼでは追いつかないほどだ。これは、交響詩的な自由さを持っている起承転結がある作品として、形式論は複数の方法を持て理解するしかないかと思う。逆にマーラーはこれを後の作品ほどに”締める”ことが出来なかった。未熟な部分があるともいえるのだ。

それでもこの楽章の音楽的価値は、いわゆる表現主義的理解の下で大きな価値があるだろう。

第二楽章は 打って変わって 古風で優雅なメヌエット。形式も単純明快で落ち着いた美しい音楽。一楽章を聞いた後には、まるで夢のような安らぎ感がある。ほとほとメロディーの豊かさに驚かされる。

第三楽章においては、まず大太鼓の連打でびっくり。スケルツォ。鞭を伴うまるで幽霊のような速いパッセージにまるでおもちゃ箱をひっくり返したように、これでもかこれでもかとチャーミングあるいはコケティッシュ、さらには不気味でおどろおどろしい音楽が続く。

マーラーの面白さは、実はこういう楽章が挟み込まれていることによるのだが、案外人はこういう楽章を高く評価しない。それは片手落ちだ。7番のスケルツォや10番のプルガトリオなどこの曲なしでは生まれ得なかっただろう。もっと、分析評価をするべきだ。

そしてここでアルト独唱による四楽章「原光」。

きわめて荘重に、しかし素朴にと支持される

ここでもその美しく神秘的な歌を引用しておこう。

aus "DES KNABEN WUNDERHORN"

ALTSOLO

O Röschen rot!

Der Mensch liegt in grösster Not!

Der Mensch liegt in grösster Pein!

Je lieber möcht ich im Himmel sein!

Da kam ich auf einen breiten Weg.

Da kam ein Engelein und wollt mich abweisen.

Ach nein,ich liess mich nicht abweisen!

Ich bin von Gott und will wieder zu Gott!

Der liebe Gott wird mir ein Lichtchen geben,

Wird leuchten mir bis in das ewig selig Leben.

子供不思議な角笛」から

アルトソロ

おお、深紅のかわいらしい薔薇よ!

人間は大きな苦悩に閉ざされている!

人間は大きな苦難に閉ざされている!

それよりも私は天国にいたいと思う!

私は一本の広い道にたどり着いた。

一人の天使がそこに来て、私を先に行かせまいとした。

いいや、私はそうはさせはしなかった!

神から生まれた私はまた神のもとにいくのです。

神はきっと一筋の光を私に授けなさり、

永遠の喜びの生命の中で私を照らしてくださるにちがいない。

交響曲第2番 (マーラー) - Wikipediaより引用

「子供の不思議な角笛」からとられているとは言え、ここには次の楽章への大きな動機付けを行っている。この歌を聴かねば、次楽章は深みを持たない。人間マーラーの自己へあるいは広く人間へ対する内に秘める救済への枯渇を切々しかし淡々と本当に素朴に訴える。

それは一種崇高な感じもするが、マーラーのさりげない独り言なのではないかしら。

終楽章は、再び第一楽章を思わせるスペクタクルな始まり方をする。まさにベートーベンの向こう張った始まり方で、合唱への導き方もその経緯の時間的長さや構成のあり方は大きく長大である。第九では、比較的早いうちに合唱が登場するのだが、なぜこうまでマーラーは引き伸ばしたのだろうか。

自分はこれは山登りのようだなと思って聴いている。

山の頂上へいま少しのところで、彼は逡巡し戸惑いあるいは悩み苦しんでいる。そこへ啓示が現れるが、それとは別にまた嵐はやってくる。そして戦う。その繰り返しを経た後、とうとう、頂上に届くのだ。崇高な響きのしかし静かで瞑想的な合唱。これは歓喜を顕にする第九とはまったく別の次元である。ある意味第九を乗り越えているのではないか。巨匠の最後の最後の作品に若干35歳のマーラーは手が届くところまで来てしまった。

合唱は徐々に力を帯びて、力強くなり、そして人間の中にはらむ大きな宇宙を明示して輝くばかりのフィナーレを迎える。

総じて初期のマーラー作品ではあるが、同じ合唱付き交響曲の8番よりもある意味深いところを突いている曲ではないだろうか。


以前、紹介したけどもう一度。非常に透明感があり、素直な演奏。しかし、終楽章の崇高さは分析派のブーレーズらしくなくて逆に大盛り上がりで大満足です!!

最近でた8番は今年のレコードアカデミー賞に輝いたですね。まだ買っていない。

*1:「これが音楽だとしたら自分は音楽が理解できていないことになる」とも云った。

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