Hatena::ブログ(Diary)

fitzmalonの日記

2012-05-08

元日本代表FW久保竜彦、コーチとして新たなスタート (1/3) 「“うまくなりたい”子どもの手助けを」

 その男の表情からは、鋭さが消えていた。現役時代、ピッチ上で見せた相手を射抜くような瞳ではなく、まるで慈父のような温かさで、サッカー少年たちを見つめていた。

「ええ感じや」「うまいぞ」

 何気ない彼の一言が、子どもたちを燃えさせる。打つ、打つ、打つ。とにかく、シュートを子どもたちは打ち続ける。その姿を、久保竜彦コーチはずっと見つめている。

 サンフレッチェ広島や横浜F・マリノスで活躍した元日本代表FW、というだけでは表現しきれない記憶に残るストライカー。天空で止まっているかと思わせるほどの跳躍。「面倒臭いから」と後方からのロングボールをそのままボレーでたたき込む野性味と発想力。アフリカ系の選手を思わせる抜群の身体能力と寡黙だが素朴な人柄を、多くのサッカーファンは愛した。

 それほどの大選手の引退がひっそりと報じられたのは、今年の4月7日。同時に、広島県廿日市市が本拠地となるNPO法人廿日市スポーツクラブのコーチ兼アンバサダーへの就任が発表された。
 最後の所属先となったJFL・ツエーゲン金沢との契約満了後、久保はさらなる現役続行を模索した。オファーはあった。国内から数チーム、タイのクラブからも誘いを受けた。だが、最終的には自分で決断し、17年にわたる選手生活にピリオドを打った。

■「やめる時が来たのか……」

 2009年秋、広島を退団した時には「まだやれる」という自信はあった。悩まされ続けた腰痛などのけがが快方に向かい、コンディションも上がってきたからだ。
 だが、「体に痛みはなかった」という金沢で、彼は現実を見せつけられる。点を取ってはいたが、久保らしい独力で相手を抜いて得点をたたき込む形がほとんどない。全盛期を支えた驚異的なバネも落ち、スピードの衰えも感じた。11年、手首を骨折した時も「今までならテーピングを施せばプレーできていたのに、あの時は練習できなかった。どうしても元気が出てこなかったですねえ……」と久保は首をひねる。

 そんな彼に再び活力が戻ってくる。天皇杯で古巣・広島との対戦が決まったからだ。サンフレッチェと戦いたい。その強い思いが久保をサッカーへとかり立てた。その姿を上野展裕監督(当時)も認め、広島戦で彼は先発出場を果たす。

 紫のユニホームとは違うシャツを着てピッチに立った久保を、広島の人たちは温かく迎えた。前半に見せた40メートル近い距離からのロングシュートに「久保らしい」と拍手。決定的なクロスに飛び込みながらシュートを外した時には、思わず「惜しい」と声を漏らす人もいた。それほど、彼は愛されていた。

 だがこの試合が、彼の心の奥底で、引退の引き金を引いてしまった。

「シュートが枠に飛ばない」

 久保はシュートに関して“自分の形”を持っている。例えば、横浜FCや広島で放った伝説的なロングシュート。あれは“とりあえず打つ”ではなく、自分の形に持ってきたがゆえに、確信を持って左足を振っているのだ。

 ところがこの日、自分の形に持っていったにもかかわらず、シュートが枠に飛ばない。バネもない。自分でゴール前に持ち込めない。思いと裏腹にシュートを決められない。ショックだった。

「やめる時が来たのか……」

 若いころは、楽しければ良かった。楽しくなくなれば、サッカーはいつでもやめていい。そう思っていた。だが、けがによる離脱期間が長くなるにつれて、思いはサッカーへと向かう。若いころはほとんどやらなかったストレッチを、誰よりも念入りに行った。一番早く練習場にやってきて、最後に練習を切り上げる。2度目の広島時代、若いころとは真逆の取り組みを続けていたのも、すべてはサッカーを続けるため。だが、運命とは皮肉なものだ。サッカーへの情熱が高まった時、久保の体は自らのイメージを実現する状態には戻らなかったのだ。

2012-04-12

澤穂希 なでしこイレブンを奮起させた「澤ノート」の中身

4月5日の「キリンチャレンジカップ」で優勝したなでしこジャパン。だがそのとき、エース・澤穂希選手(33)は試合会場にいなかった。3月の「アルガルベ杯」でめまいなどの症状を訴え、戦線離脱中の澤だが「なでしこメンバーの活躍の裏には、澤選手からのバックアップがあった」とスポーツ紙記者は言う。

「これまで公になることはなかったんですが、澤選手は日ごろ「澤ノート」というものを書いているそうです。初めて全日本のメンバーに選ばれた18年前から書き続けている。その日の練習内容や体調、試合があれば、その経過と結果、自分のプレー内容などが細かく書かれているんです」

その澤ノートの内容が後輩・大野忍選手(28)を通じ”裏指令”として、なでしこメンバーたちに伝えられているという。サッカー関係者によると「技術論や戦術論はもちろんですが、とくに後輩たちが共感しているのは、ノートの端に書かれた彼女の人生観や、メンタル面に関することのようです」。

ノートに書かれている澤の言葉とは--

<悩みがあることは良いこと。目標があるから人は悩む>
<あなたは人の見ていない所で努力している。でも、知っている人は知っている>
<困難は、それを乗り越えられる人だけにやってくる>

不在のエースからの言葉に、メンバーたちは優勝で応えたのだ。

2012-04-11

川崎フロンターレが相馬監督を解任

J1川崎フロンターレは11日、相馬直樹監督を解任すると発表。当面は望月達也コーチが指揮を執り、後任監督が正式決定次第発表するとした。

 川崎は今季、リーグ戦ナビスコカップで7戦して2勝2分3敗と低迷している。武田信平社長は「当初の期待を大きく下回り、フロンターレらしいエキサイティングなサッカーが影を潜め、チームが活気を失っている。苦渋の決断ではありましたが、今回の決断をいたしました」と、監督解任の理由をコメントした。

 監督就任2年目途中で解任された相馬監督は「志半ばでチームを離れることになり、非常に残念です。サポーターのみなさん、これからもフロンターレを支えていってください。ありがとうございました」とチームを通じてコメントした。

2012-04-10

しずちゃん、16日脳検査 脳に『影』と週刊誌報じる

 女子アマチュアボクシングでロンドン五輪出場を目指す“しずちゃん”こと山崎静代(33)=よしもとクリエイティブエージェンシー=が、日本連盟の指示で頭部の精密検査を16日に受けることが9日、分かった。

 一部週刊誌が「2010年春に頭部のMRI検査で脳に『影』が見つかった」と報道。8日に大阪市内でしずちゃんと面会した日本連盟の山根明会長は「本人は『本当じゃないです』と話していた。しかし、疑いを持たれている以上、検査を受けた方がいい」と説明した。脳外科専門の同連盟医事委員長に診断を依頼。過去の病院での診断資料も持参するよう本人に指示を出した。

 5月上旬に五輪出場枠を争う世界選手権中国・秦皇島)が控えるが、異常が見つかった場合、山根会長は「判断は医事委員長が下すことになるが、ドクターがストップと言えば、どうしようもない」と出場辞退を勧告する可能性を示唆した。

2012-04-05

G大阪の低迷を生んだ最大の誤算 (1/2) “ミスターガンバ”松波新監督は原点回帰で立て直しへ

リーグ戦でクラブ史上初の開幕3連敗を喫し、並行して行われるAFCチャンピオンズリーグ(ACL)も2連敗。クラブ史上初となるブラジル人監督としてチームを率いたセホーン体制は、公式戦5連敗という泥沼の中でピリオドが打たれた。

 異例の早期解任にクラブが踏み切ったのは、単に結果だけの問題ではない。
「わたしは攻撃的なサッカーを志向する。だからと言って守備を疎かにはしない」。1月の新体制会見でセホーン前監督はキッパリと言い切っていたが、昨年クラブ史上最高の勝ち点70を積み上げ、リーグ最多得点を記録した大阪の雄は、今季最初の公式戦となったACLの対浦項スティーラーズ戦で0−3とホームで完敗。「まだ1試合目だけど、僕は相当な危機感を持っている」。新加入の今野泰幸がこう漏らすほど、攻守における完成度は低かった。

 セホーン体制下での5試合は、すべて先制される展開が続いていたが、深刻だったのはクラブが誇るべき表看板の攻撃力。5試合で計4得点。流れの中で相手守備陣を崩して奪ったゴールはわずか2点で、ガンバらしいパスワークは皆無だった。

 毎年のように前線に新加入選手を迎え、攻撃陣を再構築してきたチームではあるが、時間不足は決して問題ではない。チーム主将の明神智和も「連携不足の問題じゃない。むしろ、今年は始動してからの時間は今までより長かった」と明かす。ある主力選手も開幕早々の段階で「単に前の2人を走らせているだけ。このサッカーでは1年もたないし、ガンバのスタイルじゃない」とその先行きを懸念した。

 昨年は天皇杯で早期敗退したこともあり、例年にない充実したオフの期間を経て、1月中旬にチームは始動。明神の言葉にもあるように、石垣島と宮崎で長いキャンプ期間を過ごしてきたチームではあったが、すでにキャンプ中から低迷の“予兆”は見え始めていた。

■最大の誤算は呂比須ヘッドコーチの手腕

「選手の顔ぶれもさほど変わっていないし、やるサッカーは変わらない」と、指揮官が変われども、ピッチ上で全権を握る遠藤保仁は自信を垣間見せていたが、実際にセホーン監督と呂比須ヘッドコーチが志向したのは、昨年までと大きく異なるスタイルだった。

 西野元監督の指導法をすべて肯定する訳ではないが、「強気な縦パス」「密集地帯での連動性」を肝とする前体制を否定するかのような練習メニューが用いられ、ワイドでピッチを幅広く使うと言えば聞こえがいいものの、「ロングボールとサイドチェンジを狙いすぎて、選手間の距離が空きすぎている」と佐々木勇人は漏らした。

 始動直後には禁じたはずのセンターバックからの強引な縦パスも開幕直後には解禁。当初は、後方のリスク管理を徹底すべく守備陣に人を割いた配置も、キャンプ中とは対照的に「攻撃時にサイドバックはハーフラインに位置する」(藤春廣輝)というスタイルに転換され、一部選手たちは「キャンプ中にやってきたことと違う」と明らかに違和感を口にした。

 クラブにとって、最大の誤算は呂比須ヘッドコーチの手腕だった。

「あくまでも監督はセホーン。2頭体制にはなりえない」と山本浩靖強化本部長(当時)は公言し続けていたが、セホーン前監督の実力は、母国で指導者として成功せず、Jリーグを新天地としていなければ、今ごろサンパウロ州選手権3部の弱小チームを率いていたに過ぎないロートル監督。呂比須ヘッドコーチが事実上の監督として機能させずして、セホーン体制の成立はあり得なかった。