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藤井啓之ハイパー研究室本館

2017-03-16

教育勅語を批判する(1)―教育勅語のどこが問題か

稲田防衛大臣が、社民党福島瑞穂氏の質問に答えて

教育勅語の核である、例えば道徳、それから日本が道義国家を目指すべきであるという、その核について、私は変えておりません」

と発言した。

教育勅語は現代人には読みづらい漢字カナ交じりの文語で書かれているので、その一部だけ取り出して、「やさしい」日本語に訳されて、あたかもとても価値のあるものであるかのような宣伝が行われている。

原文と読み方と意味については、たとえば次のサイトなどを参照するとよいかもしれない。

http://chusan.info/kobore8/4132chokugo.htm

あるいは、わかりやすいのだと、高橋源一郎の訳かな。

https://togetter.com/li/1090802



1.「教育勅語には良いことが書いてある」?

さて、教育勅語を現代に復活させようとする人たちが一番よく口にするだろう言葉が「教育勅語には現代にも通じる良いことが書かれている」というところである。この場合、復活論者は教育勅語の真ん中あたりに列挙されている以下の徳目だけ取り上げる。

「父母ニ孝ニ兄弟ニ友ニ夫婦相和シ朋友相信シ恭儉己レヲ持シ博愛衆ニ及ホシ學ヲ修メ業ヲ習ヒ以テ智能ヲ啓發シヲ成就シ進テ公坤鰈▲畧ぬ灰魍キ常ニ國憲ヲ重シ國法ニ遵ヒ」

それぞれの徳目は

父母ニ孝ニ(父母に孝行し)

兄弟ニ友ニ(兄弟仲良くし)

夫婦相和シ(夫婦は仲むつまじく)

朋友相信シ(友だちとはお互いに信じ合い)

恭倹己レヲ持シ(行動は慎み深く)

博愛衆ニ及ホシ(他人に博愛の手を差し伸べ)

学ヲ修メ業ヲ習ヒ(学問を修め、仕事を習い)

以テ智能ヲ啓発シ(それによってさらに知能を開き起こし)

徳器ヲ成就シ(徳と才能を磨き上げ)

進テ公益ヲ広メ世務ヲ開キ(進んで公共の利益や世間の務めに尽力し)

常ニ国憲ヲ重シ国法ニ遵ヒ(いつも憲法を重んじ、法律に従いなさい)

これだけ読むと良いことのように思う人も少なくないだろう。ちなみに私は、上記の徳目を現代に持ち込むのにはいくつか疑問がある。

(1)虐待された子どもも親孝行しなければならないのか?

(2)「公益」、というのは、諸個人が相互の権利を尊重し、調整するという意味での「公共」とは意味が異なり、国家の利益を第一に考え、そのためなら個人の権利は制限してもかまわないという考えであり、現代の日本国憲法の原則に反するものである。(ちなみに、だからこそ、自民党憲法改正案では、「公共の福祉」を削り、「公益及び公の秩序」と言い換えて、基本的人権を制限しようとしているのだ。)

(3)「憲法を重んじる」というときの憲法とは、主権在君である大日本帝国憲法のことであり、国家権力の暴走を抑止する立憲主義に基づいた現代の日本国憲法とは根本的に異なる。

批判はとりあえずこれぐらいにして、百歩譲って、これらの徳目が「よいこと」だとしてみよう。しかし、これらの徳目は教育勅語がないと教えられないのか。戦後、教育勅語の失効・排除決議がされた、教育勅語なき後の日本の道徳教育では、これらの徳目のどれも教えてはならなかったのか。あるいは教えてこなかったのか。

そんなことがありえないのは、誰の目にも明白だ。ということは、教育勅語復活論者があえて教育勅語を持ち出すのは、ここに書かれていること以外の部分を復活させたいからだ、ということも同じく明白なのだ。



2.教育勅語復活論者があえてスルーしているところ

では、いったい彼らがスルーしている部分に何が書いてあるのか。

皇国史観

まず冒頭の

「朕惟フニ我カ皇皇宗國ヲ肇ムルコト宏遠ニヲ樹ツルコト深厚ナリ」

である。

これは、神話をもとにした日本という国の成り立ちを表現している皇国史観そのもので、歴史的には真っ赤なウソである。ウソは道徳教育にはよくない。ちなみに、「日本はどこが素晴らしいか」というときに、保守右翼の政治家たちが戦前も戦後も一貫して主張するのは、クールジャパンとか「ウォシュレットのある日本サイコー」とかではなく、最終的には必ず「万世一系の天皇を戴く国」というところなのである。ウソをつかないと誇れない日本って何だろうね。おそらくは、率先してウソを教えることで何かべつのことを企んでるんだろうけど。

また、天皇が日本の道徳を樹立したと書いてあるけど、皆さん、日本史の授業や、古文の授業を読めばわかるように、親子、兄弟で血肉の争いをしてきたこととか、色恋沙汰とか、裏切りとかあれこれやってるよね。つまり、天皇が日本の道徳を樹立したなんてのも真っ赤なウソ。現代の天皇や皇太子夫婦のことだけを念頭に置いていたら見誤る。

あるいは、「天皇は道徳を守ってないじゃないか」というのに反論するとすれば、次の文だろうか。

「我カ臣民克ク忠ニ克ク孝ニ億兆心ヲ一ニシテ世世厥ノ美ヲ濟セルハ此レ我カ國體ノ猷撻縫轡虹外薀諒ジ史鰌薀忘.紡献后

つまり、臣民である国民だけに守らせることで日本の美をつくってきたって解釈も可能ですね。天皇など権力者は道徳を守らなくてもよくて、臣民である国民だけが徳目を守るようにさせてきたってこと。つまり権力者は何をやっても良くて、国民にだけ道徳を守らせて統制することこそが教育の本質だということだろうか? これこそ教育? That's the KYOIKU!

徳目一覧できれいさっぱり無視しているところ

さきに挙げた徳目一覧の前と後の部分は重要である。

徳目一覧の前の部分とは「爾臣民」という3文字である。つまり、「臣民は今から挙げる道徳を守りなさいよ」ということ。やっぱり、さっき言った「天皇は別」ってのは正解なんだろう。そして、「天皇が与えた道徳だから臣民は守れ」という形式が大問題だ。そもそも勅語というのは天皇の言葉を意味するが、要するに、「天皇が守れといったら臣民は守らなければならない」という上下関係で道徳を押しつけていることが問題だろう。道徳は押しつけられて守るものか?

つぎに、先ほどの徳目の後の部分であり、徳目の最後の項目。

「一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壤無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ」

天皇に危機が迫ったら、臣民は命を捧げて天皇制を守りなさいということ。「天皇のために死になさい、お国のために死になさい」というのは、道徳教育ではありえない。命を大切にすることこそが道徳教育。しかし、これこそが復活論者たちが求めていることなのだ。復活論者の意図は、必ずしも、天皇制の維持だけを意味しないだろう。たとえば、現政権の野望を実現するために、自衛隊員は命を惜しまず海外派兵に出かけなさい。日本企業を守るためには、過労死も辞さず働きなさい。こういうことに通じるのではないか。いずれにしても、国民ひとりひとりの生命や人権を無視して、国家を優先するということ。国民はあくまで国家の道具で有り、捨て駒であるということを表明しているのだ。国民はトカゲの尻尾だということ。そういえば、まさに今、国政では、権力者がトカゲの尻尾を切ろうと全力でやってますが、まさにそういうこと。


道義国家とは特定のイデオロギー

ちなみに、稲田が道義国家を目指すのだといったとき、「たしかに、道徳を大切にする国は大事だ」と思った人も多いかもしれない。しかし、道義国家というのは、戦前のファシズムの一角をなす思想であり、道徳を大切にする国なんて意味ではないので誤解しないように。あっ、教育勅語には道義国家って出てこないけどね。

2016-08-23

オリンピックから学ぶこと(備忘録)

リオ・オリンピックが終わった。

日本にいると、水泳、柔道、レスリング、卓球、体操、バドミントン、陸上などメダルラッシュで「日本スゲー」という報道に偏っているように思う。政府や財界やメディアは「近頃の若者は内向きだ」としばしば若者バッシングをするが、「いやいや政府メディアが率先して『内向き』にさせてるでしょう」と言わざるを得ないように思われる。

せっかくなので、東京オリンピックも見据えつつ、今後、内向きにならずにオリンピックを学びのテーマにするために、このオリンピックで考えた事や、この期間に報道等で知ったことについてメモしておきたい。


コマーシャル・ファーストなオリンピック

 オリンピックのひとつのモットーとしてアスリート・ファーストという言葉がある。選手を第一に考えるということだ。しかし、実態は、コマーシャル・ファーストだということだ。

 典型的なのは、真夏には不向きな長時間にわたるスポーツが行われることだ。マラソン競歩などが典型だ。いつか熱中症で死者がでるのではないかと懸念する。リオでもミストなどで暑さ対策をしていたが、競歩ではふらつく選手が多数いたのは記憶に新しい。東京都知事選挙の準備段階で宇都宮氏が「東京オリンピックを10月に実施する」という政策を提案していたのも、アスリート・ファーストからの発言だろう。私は1964年10月12日生まれだが、それは東京オリンピックの開会式の2日後のことであり、かつては9月〜10月に開催されていたのだ。体育の日が10月10日だったのはオリンピックの開会式にちなんだものだ。しかし、今や10月開催は決して実現し得ないだろ。IOCが首を縦に振るわけがないからだ。というのも、9月や10月になるとアメリカでは、アメフトやバスケットのリーグ戦が始まる。だから、オリンピック視聴率の奪い合いになる。しっかり見てもらえなければ、協賛企業のコマーシャルも見てもらえないため、コマーシャル料が稼げないのだ。オリンピックはスポーツをネタにしたIOCという国際機関の官僚とスポーツブランド企業とメディアが結託した金儲けの機会になってしまっているのだ。

 こういうこともあった。卓球男子団体の準々決勝(日本VS香港)の時間が二転三転し、変更になったことを知らなかった日本男子チームはあわてて会場に向かったというニュース記事を見たが、どうやらこれも放送時間が日本で午前3時になるを避けて夜10時にすれば、日本でも香港でもテレビ視聴率が上がるという思惑が働いたようだ。監督も選手も知らないうちに試合時間が大幅変更されるって、どこがアスリート・ファーストなんだか…。

試合開始時間が二転三転、日本が猛抗議 卓球男子団体戦(朝日新聞デジタル)


ネーション・ファーストな日本

 また、閉会式のアベマリオについて、日本では絶賛されているようだが、リテラの記事にあるように従来、閉会式でのバトンパス(旗の受け渡し)はメジャーなアスリートが登場してきた。北京ロンドンではベッカムが受け継ぎ、ロンドン→リオではペレが受け継いだ。ところが、リオ→東京では安倍首相が中途半端にスーパーマリオに変装して登場した。国内のネット記事を見ると、まさに内向きにもアベのパフォーマンスを絶賛するものばかりだが、まず、オバマメルケルプーチンとは違って、日本の首相が誰なのかなんてほとんど知られていない。だから、わざわざ安倍首相が映像に出てくるときだけ"SHINZO ABE" "PRIME MINISTER"とテロップを付けざるを得ないのだ。スポーツの世界に日本がどのように関わるかよりも、日本国内で安倍晋三の評判が高まることを意識してのパフォーマンスであったと言わざるを得ない。

 ちなみに、NHKは8月21日「おはよう日本」で東京オリンピックの効用として次の5つを挙げている。

1.国威発揚

2.国際的存在感

3.経済効果

4.都市開発

5.スポーツ文化の定着

【平和の祭典じゃ・・】NHKおはよう日本が解説したオリンピックの5つのメリット。1番目は「国威発揚」2番目は「国際的存在感」(写真あり)

 5つも挙げながらスポーツに関することは最後に一つだけ。オリンピック憲章に反する国威発揚を一番に挙げるとかビックリ仰天である。東京オリンピックは、ナチスドイツが率いた1936年のベルリンオリンピックの再現となる悪寒しかない。


政治的パフォーマンスをするアスリート達

祖国の民主主義のために命をかけて訴えるエチオピアマラソンメダリスト

男子マラソンの銀メダリスト、母国エチオピアに無言の抗議「私は殺されるかもしれない」(画像)

リオ・オリンピックマラソン銀メダルをとったフェイサ・リレサ選手。住民を弾圧するエチオピア政府への抗議を表明するために、手を頭上で十字にクロスさせながらゴールした。試合での闘いとともに、祖国の民主主義を守る闘いも行っていたわけだ。

黒人差別反対に賛同したためスポーツ選手生命を絶たれたオーストラリア陸上選手

表彰台での勇気ある行為が原因で、母国で生涯を通して除け者扱いされ続けたオリンピックの銀メダリスト

1968年のメキシコオリンピックで、黒人差別に反対するパフォーマンス(ブラック・パワー・サリュート)を行った黒人選手に賛同して横に立っていた銀メダリストのピーター・ノーマンは、同時期、それが原因で、差別主義的な白豪主義をとっていた祖国オーストラリアでスポーツ選手生命を絶たれることになる。賛同を撤回すれば復帰できる機会があってもそれを拒否した。ノーマンも民主主義のために闘ったアスリートであった。

日本では、アスリートが民主主義のために発言することないのではないか。あるとすれば、当選しそうな政党から議員になるぐらいで、そこでも民主主義のために何かをやっているという印象はまったくない。日本のアスリートはそもそも政治的なことを考えていないのか、考えていても日本の空気のなかでは発言できないのか。どちらだろうか。


アスリート精神

卓球男子、水谷の道具ドーピングとの闘い

補助剤について(水谷隼オフィシャルブログ)

卓球ではラケットとラバーの間に接着剤以外を塗るのはルール違反なのだが、ここに反発力と回転力を高める補助剤を塗る選手が圧倒的だ。水谷はこの道具ドーピング根絶のために国際卓球連盟に訴えたりするなど力を注いできた。抗議の意味で世界大会を半年間ボイコットし続けたこともある。彼の行動力を支えているのは「すべてのプレーヤーと平等な条件でフェアに戦いたい」というアスリートらしい動機である。残念ながら、連盟はあれこれ言い訳をして重い腰を上げないので、リオ・オリンピックでも多くの選手は補助剤を使用していたと思われる。あきらかに不利な道具を使いながら個人戦銅メダル団体戦銀メダルなのだから、たいしたものである。


女子バドミントンダブルス金メダルの松友にとってのライバル

金のバド松友が持つ勝敗「超越した優しさ」にすごみ

これまでライバルたちと対戦することで自分たちは鍛えられた。彼女らとバドミントンをすることが心から「楽しみ」だったのだろう。自分たちが勝つ度にオリンピックを最後に引退を決めている選手たちとは二度と戦えなくなるという寂しさが去来する。自分たちの勝ち負けよりも、自分や他者のこれまでの成長をこそ考えることのできる選手。バドミントンが好きだからこその台詞ではないだろうか。これもアスリートの鑑の一人だろう。


日本だから、これらが日本のニュースになるのだが、日本以外にも今回のオリンピックでこういうすごい選手が何人かいたのではないか。そういうことをもっと知りたいと思ったリオ・オリンピックであった。

2016-07-16

ニースの無差別大量殺人とテロ防止と教育と

ニースのトラックと銃撃のテロ。犯行動機は分かっていないが、チュニジア系男性で、窃盗、家庭内暴力、武器所持等の前科という情報が伝わってくる。仮に、組織の指示をうけていない単独犯だとすると、どういう人間がこういう行為に走るか、よく考えてみる必要がある。テロをなくすためには、緊急の治安対策などではまったくもって不十分で、幼少時からの教育・福祉、雇用対策も含む長期的な取り組みが必要だ。

日本でも秋葉原で通行人にトラックで突入し、その後ナイフで斬りつける無差別殺人があったのを思い出した人も多いだろう。この事件はあれこれ分析されているが、競争と管理の教育、格差と貧困、不安定な雇用状況、共同関係の消失と孤立化など、さまざまな原因が論じられている。この分析が完璧だとは思わないが、すくなくともこれらの要因が犯人を自暴自棄にさせた面は拭えない。

こうした状況にある人が、世の中に不満を持ち、テロ組織の影響を直接、間接に受けて、過激な行動に走る危険性はおおいにあると言えよう。皮肉な話だが、日本が救われているのは、日本人の語学力の弱さかもしれない。テロ組織が唆す思想やテロの方法にアクセスする確率が下がるから。

つまり、日本でもニースの事件のような無差別殺人の犯罪予備軍は日々生み出されている。いや、その条件は、教育や雇用や福祉の状況を見ると、むしろますます強まっているとさえ言えるだろう。

無差別殺人は許しがたい行為ではあるが、犯人を一方的に非難する人がでてくると、私は「暴走族が社会秩序を乱すと言って怒る人」を連想する。しかし、すこし考えればわかることだが、社会秩序から何の恩恵も受けていない(と思っている)暴走族メンバーにとって、社会秩序を破壊することに躊躇があると考えるほうがおかしいのではないか。そう考えると、テロや無差別殺人を防ぐためには、すべての人が社会から恩恵をうけているという感覚を持てること必要なのではないか。当然、それに先だって、その事実と経験が必要なのは言うまでもない。

こういうことを考えるたびに思い出すのは能重真作『ブリキの勲章』。激しい「非行」に走る中学生に対し、教師が学級のなかに関係と居場所をつくる。「失うもの」がなかった「非行」少年が「失うもの」を持てたとき、初めて「非行」から卒業したのであった。テロ防止にとってもおおいに教訓になる。

2016-03-17

広島県府中町の中学生自死について(続編)

前回のブログのなかで、新聞記事を引用したが、そのなかに、校長が担任を非難するような文言があったのを確認して頂きたい。

とくに注意して頂きたいのは、「校長が担任を非難」というところだ。

しかし、今回、琉球新報の社説によって、あらたな事実が明らかにされた。その中学校では、それまで、中3になって以降に問題行動があった場合は、推薦しないという方針だったのを、校長が昨年11月に、入学時以降の問題行動があった場合に推薦しないという方針に変えたというものだ。

記事を見てみよう。

この学校がそうした方針にしたのは本年度のことである。従来、推薦要件の「問題行動や触法行為がない」期間の対象は中3の時だけだった。だが昨年11月に突然、対象時期を在校時全体に広げた。

 その際「過去に触法行為があってもその後頑張っている生徒は推薦対象にしたい」との反対意見もあった。亡くなった生徒の担任も反対だったとされる。だが最後は校長の判断で「一発アウト」が決まった。今回の自殺を機に元の基準に戻したというから、朝令暮改でもある。迷走する基準で進路を左右される生徒が気の毒だ。

<社説>「一発アウト」 子と向き合える体制こそ

この記事の中で、反対意見もあったし、件の担任も反対していたのに、「最後は校長の判断で『一発アウト』が決まった」とある。

これが、昨今、文部科学省が進めている、校長のリーダーシップの強化のなれの果てである。従来、かなりフラットな組織であった学校を、文科省は、上意下達機関に変質させてきた。2000年には「学校教育法施行規則等の一部を改正する省令」を出して、職員会議は決定機関ではなく、校長の補助機関という位置づけを明確にしたし、昨今、大学でもそうだが、ガバナンス強化など、とにかく下々は上の命令に従えという体制を強烈に推し進めている(ちなみに、社会科学ではガバナンスというのは、合意形成なので、文部科学省ガバナンスという言葉の意味を取り違えている。完全な誤用だ。文部科学省のやりたいことを横文字で表せば、ディクテーターシップである)。

恐らく、職員会議できちんと話し合って決めていたら、こんなばかげた方針にはならなかったであろう。なぜなら、一発アウトになると、一度でも問題を起こした生徒は「どうせどれだけ改心したって、おれの将来はダメなんだろ?」と自暴自棄なることは、誰が考えても明らかだからだ。

そうなると、教員は対応の手立てがほとんどなくなる。教師が生徒を指導し続けるためにも、「失敗にくじけず、頑張って道を開こう」と言える状況を確保しておくことが必要なのだ。校長は、直接生徒を指導しなくて済むから、このように、およそ非現実的な決定を安易に下してしまう。

つまり、今回の事件から言えることは、トップダウンという体制が、教育現場をちっともよくしないどころか、むしろ悪化させるということだ。

だから、今回の事件の土台には、文科省の誤った学校政策・教育政策、そして、それに乗っかって最前線の教員の意見を聞かずに、無責任なことを決めた校長、という存在があることを確認しておく必要がある。

2016-03-09

非行事実誤認による進路指導の結果、中学生が自死した事件について

広島県府中町の中学校で、中1のときの万引き歴を理由に推薦入試が受けられず、それによって中学生が自死した。しかし、実は、万引き歴自体が誤りであったということがわかり、当該中学校に全国から抗議が殺到しているという。

ニュースの焦点は、ほぼ「万引き事実の誤認がけしからん」というものであり、世間の批判もそこにあるようだ。

だから、次のニュースのようにどうやって万引き事実を確認したのかということが問題となり、どうやってそういうミスが出ないようにするか、という対策に終始する事になる。

坂元校長は教諭の対応について「生徒の非行歴を含む重要な進路指導が廊下で行われたことは非常に問題。来年度から準備室のような場での指導を教員に指示していく」としており、「組織体制の見直しが最優先。それができなければ学校再生はあり得ない」と話した。

http://mainichi.jp/articles/20160309/k00/00e/040/261000c

そして、この間違えた担任に対する批判がニュースの中心になる。

担任が体調不良を理由に保護者会を欠席したため、生徒の両親が「なぜ責任者が説明しないのか」と涙ぐみながら、抗議していたという。

http://www.jiji.com/jc/c?g=soc_date1&k=2016030900010

担任のミスがなければ、生徒は自死に至らずにすんだだろうから、そこに注目があつまるのはある意味で当然なのかもしれない。

しかし、教育学を研究している立場からいうと、問題はそこじゃないじゃん、と思う。仮に、自死した生徒が実際に中学1年生のときに万引きしていたとしても、それで高校に推薦しないということ自体が誤りなのではないか。もちろん、中1で万引きした生徒が、中2になっても中3になっても万引きを繰り返しているなら、話は別かもしれない。しかし、2年も前の万引きで、生徒の将来が決まってしまうというのはおかしくないか。子どもは一度過ちを犯したら、一生、その十字架を背負って生きていかなければならないのか(いじめで他人を自殺に追い込んだりしたのなら、それは背負って生きていくべきだとは思うが)。

学校は、子どもたちに烙印を押す場ではなく、子どもたちを産み変える場のはずである。仮に過ちを犯した子どもがいたとしても、悔い改めて、更生したのであれば、そこを出発点に、また進路を選んでいけるようにするべきではないのか。非行に走っている浮浪児をあつめて寄宿舎で教育を行った旧ソ連の教育実践家であり、理論家であるマカレンコは、子どもに「過去は問わない」と言っている。過去に過ちがあっても、問題なのは、これからどう生きるのかだということである。また、フランス詩人ルイ・アラゴンの詩「ストラスブール大学の歌」に「教えるとは希望を語ること、学ぶとは誠実を胸に刻むこと」という一節がある。教師は、子どもたちに希望を語るものではなければならない。しかるに、現代の日本の学校は、子どもたちに絶望を語っているのはではないか。

なぜこのようなことになるのかと言えば、中学教育の目的が、子どもたちを賢く育て、世の中のことがよくわかるようにし、社会を主体的に形成していける大人を生み出すことや、他者の境遇に思いをいたし、支え合える人間を育てることではなくなっているからだ。やや強い言い方をすれば、中学校教育は、子どもたちを教師の言いなりに動かすことになってしまっているのではないか(個々の教員がそうしようとしていると言う意味ではなく、日本の教育システムが、教員の仕事をそのようなものにしてしまっている)。今回の事件の発端となった、非行歴などによって推薦をする/しないを決める理由の大半は、「悪いことをしたら推薦されない」という脅し以外に何があるのだろうか。脅しという意味では、内申書も同様である。

だから、全国からこの学校に非難を集中させる暇があったら、それぞれが自分の地元の学校で、非行歴が進路指導にどのように利用されているのかを問うてほしい。

最後に付け加えておくが、もちろん、万引きはよくない。しかし、それがよくないと教えるのなら、脅しによってではなく、理解させることを通してだ。推薦されなくなるから万引きしないという教育は、単に私利私欲を教えていることにしかならない。そのような教育をしているから、自分が濡れないためには、傘一本ぐらい盗んでもよいだろうというような人が生まれるのではないか。

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