Hatena::ブログ(Diary)

藤井啓之ハイパー研究室本館

2016-08-23

オリンピックから学ぶこと(備忘録)

リオ・オリンピックが終わった。

日本にいると、水泳、柔道、レスリング、卓球、体操、バドミントン、陸上などメダルラッシュで「日本スゲー」という報道に偏っているように思う。政府や財界やメディアは「近頃の若者は内向きだ」としばしば若者バッシングをするが、「いやいや政府メディアが率先して『内向き』にさせてるでしょう」と言わざるを得ないように思われる。

せっかくなので、東京オリンピックも見据えつつ、今後、内向きにならずにオリンピックを学びのテーマにするために、このオリンピックで考えた事や、この期間に報道等で知ったことについてメモしておきたい。


コマーシャル・ファーストなオリンピック

 オリンピックのひとつのモットーとしてアスリート・ファーストという言葉がある。選手を第一に考えるということだ。しかし、実態は、コマーシャル・ファーストだということだ。

 典型的なのは、真夏には不向きな長時間にわたるスポーツが行われることだ。マラソン競歩などが典型だ。いつか熱中症で死者がでるのではないかと懸念する。リオでもミストなどで暑さ対策をしていたが、競歩ではふらつく選手が多数いたのは記憶に新しい。東京都知事選挙の準備段階で宇都宮氏が「東京オリンピックを10月に実施する」という政策を提案していたのも、アスリート・ファーストからの発言だろう。私は1964年10月12日生まれだが、それは東京オリンピックの開会式の2日後のことであり、かつては9月〜10月に開催されていたのだ。体育の日が10月10日だったのはオリンピックの開会式にちなんだものだ。しかし、今や10月開催は決して実現し得ないだろ。IOCが首を縦に振るわけがないからだ。というのも、9月や10月になるとアメリカでは、アメフトやバスケットのリーグ戦が始まる。だから、オリンピックと視聴率の奪い合いになる。しっかり見てもらえなければ、協賛企業のコマーシャルも見てもらえないため、コマーシャル料が稼げないのだ。オリンピックはスポーツをネタにしたIOCという国際機関の官僚とスポーツブランド企業とメディアが結託した金儲けの機会になってしまっているのだ。

 こういうこともあった。卓球男子団体の準々決勝(日本VS香港)の時間が二転三転し、変更になったことを知らなかった日本男子チームはあわてて会場に向かったというニュース記事を見たが、どうやらこれも放送時間が日本で午前3時になるを避けて夜10時にすれば、日本でも香港でもテレビ視聴率が上がるという思惑が働いたようだ。監督も選手も知らないうちに試合時間が大幅変更されるって、どこがアスリート・ファーストなんだか…。

試合開始時間が二転三転、日本が猛抗議 卓球男子団体戦(朝日新聞デジタル)


ネーション・ファーストな日本

 また、閉会式のアベマリオについて、日本では絶賛されているようだが、リテラの記事にあるように従来、閉会式でのバトンパス(旗の受け渡し)はメジャーなアスリートが登場してきた。北京ロンドンではベッカムが受け継ぎ、ロンドン→リオではペレが受け継いだ。ところが、リオ→東京では安倍首相が中途半端にスーパーマリオに変装して登場した。国内のネット記事を見ると、まさに内向きにもアベのパフォーマンスを絶賛するものばかりだが、まず、オバマメルケルプーチンとは違って、日本の首相が誰なのかなんてほとんど知られていない。だから、わざわざ安倍首相が映像に出てくるときだけ"SHINZO ABE" "PRIME MINISTER"とテロップを付けざるを得ないのだ。スポーツの世界に日本がどのように関わるかよりも、日本国内で安倍晋三の評判が高まることを意識してのパフォーマンスであったと言わざるを得ない。

 ちなみに、NHKは8月21日「おはよう日本」で東京オリンピックの効用として次の5つを挙げている。

1.国威発揚

2.国際的存在感

3.経済効果

4.都市開発

5.スポーツ文化の定着

【平和の祭典じゃ・・】NHKおはよう日本が解説したオリンピックの5つのメリット。1番目は「国威発揚」2番目は「国際的存在感」(写真あり)

 5つも挙げながらスポーツに関することは最後に一つだけ。オリンピック憲章に反する国威発揚を一番に挙げるとかビックリ仰天である。東京オリンピックは、ナチスドイツが率いた1936年のベルリンオリンピックの再現となる悪寒しかない。


政治的パフォーマンスをするアスリート達

祖国の民主主義のために命をかけて訴えるエチオピアマラソンメダリスト

男子マラソンの銀メダリスト、母国エチオピアに無言の抗議「私は殺されるかもしれない」(画像)

リオ・オリンピックマラソン銀メダルをとったフェイサ・リレサ選手。住民を弾圧するエチオピア政府への抗議を表明するために、手を頭上で十字にクロスさせながらゴールした。試合での闘いとともに、祖国の民主主義を守る闘いも行っていたわけだ。

黒人差別反対に賛同したためスポーツ選手生命を絶たれたオーストラリア陸上選手

表彰台での勇気ある行為が原因で、母国で生涯を通して除け者扱いされ続けたオリンピックの銀メダリスト

1968年のメキシコオリンピックで、黒人差別に反対するパフォーマンス(ブラック・パワー・サリュート)を行った黒人選手に賛同して横に立っていた銀メダリストのピーター・ノーマンは、同時期、それが原因で、差別主義的な白豪主義をとっていた祖国オーストラリアでスポーツ選手生命を絶たれることになる。賛同を撤回すれば復帰できる機会があってもそれを拒否した。ノーマンも民主主義のために闘ったアスリートであった。

日本では、アスリートが民主主義のために発言することないのではないか。あるとすれば、当選しそうな政党から議員になるぐらいで、そこでも民主主義のために何かをやっているという印象はまったくない。日本のアスリートはそもそも政治的なことを考えていないのか、考えていても日本の空気のなかでは発言できないのか。どちらだろうか。


アスリート精神

卓球男子、水谷の道具ドーピングとの闘い

補助剤について(水谷隼オフィシャルブログ)

卓球ではラケットとラバーの間に接着剤以外を塗るのはルール違反なのだが、ここに反発力と回転力を高める補助剤を塗る選手が圧倒的だ。水谷はこの道具ドーピング根絶のために国際卓球連盟に訴えたりするなど力を注いできた。抗議の意味で世界大会を半年間ボイコットし続けたこともある。彼の行動力を支えているのは「すべてのプレーヤーと平等な条件でフェアに戦いたい」というアスリートらしい動機である。残念ながら、連盟はあれこれ言い訳をして重い腰を上げないので、リオ・オリンピックでも多くの選手は補助剤を使用していたと思われる。あきらかに不利な道具を使いながら個人戦銅メダル団体戦銀メダルなのだから、たいしたものである。


女子バドミントンダブルス金メダルの松友にとってのライバル

金のバド松友が持つ勝敗「超越した優しさ」にすごみ

これまでライバルたちと対戦することで自分たちは鍛えられた。彼女らとバドミントンをすることが心から「楽しみ」だったのだろう。自分たちが勝つ度にオリンピックを最後に引退を決めている選手たちとは二度と戦えなくなるという寂しさが去来する。自分たちの勝ち負けよりも、自分や他者のこれまでの成長をこそ考えることのできる選手。バドミントンが好きだからこその台詞ではないだろうか。これもアスリートの鑑の一人だろう。


日本だから、これらが日本のニュースになるのだが、日本以外にも今回のオリンピックでこういうすごい選手が何人かいたのではないか。そういうことをもっと知りたいと思ったリオ・オリンピックであった。

2016-07-16

ニースの無差別大量殺人とテロ防止と教育と

ニースのトラックと銃撃のテロ。犯行動機は分かっていないが、チュニジア系男性で、窃盗、家庭内暴力、武器所持等の前科という情報が伝わってくる。仮に、組織の指示をうけていない単独犯だとすると、どういう人間がこういう行為に走るか、よく考えてみる必要がある。テロをなくすためには、緊急の治安対策などではまったくもって不十分で、幼少時からの教育・福祉、雇用対策も含む長期的な取り組みが必要だ。

日本でも秋葉原で通行人にトラックで突入し、その後ナイフで斬りつける無差別殺人があったのを思い出した人も多いだろう。この事件はあれこれ分析されているが、競争と管理の教育、格差と貧困、不安定な雇用状況、共同関係の消失と孤立化など、さまざまな原因が論じられている。この分析が完璧だとは思わないが、すくなくともこれらの要因が犯人を自暴自棄にさせた面は拭えない。

こうした状況にある人が、世の中に不満を持ち、テロ組織の影響を直接、間接に受けて、過激な行動に走る危険性はおおいにあると言えよう。皮肉な話だが、日本が救われているのは、日本人の語学力の弱さかもしれない。テロ組織が唆す思想やテロの方法にアクセスする確率が下がるから。

つまり、日本でもニースの事件のような無差別殺人の犯罪予備軍は日々生み出されている。いや、その条件は、教育や雇用や福祉の状況を見ると、むしろますます強まっているとさえ言えるだろう。

無差別殺人は許しがたい行為ではあるが、犯人を一方的に非難する人がでてくると、私は「暴走族が社会秩序を乱すと言って怒る人」を連想する。しかし、すこし考えればわかることだが、社会秩序から何の恩恵も受けていない(と思っている)暴走族メンバーにとって、社会秩序を破壊することに躊躇があると考えるほうがおかしいのではないか。そう考えると、テロや無差別殺人を防ぐためには、すべての人が社会から恩恵をうけているという感覚を持てること必要なのではないか。当然、それに先だって、その事実と経験が必要なのは言うまでもない。

こういうことを考えるたびに思い出すのは能重真作『ブリキの勲章』。激しい「非行」に走る中学生に対し、教師が学級のなかに関係と居場所をつくる。「失うもの」がなかった「非行」少年が「失うもの」を持てたとき、初めて「非行」から卒業したのであった。テロ防止にとってもおおいに教訓になる。

2016-03-17

広島県府中町の中学生自死について(続編)

前回のブログのなかで、新聞記事を引用したが、そのなかに、校長が担任を非難するような文言があったのを確認して頂きたい。

とくに注意して頂きたいのは、「校長が担任を非難」というところだ。

しかし、今回、琉球新報の社説によって、あらたな事実が明らかにされた。その中学校では、それまで、中3になって以降に問題行動があった場合は、推薦しないという方針だったのを、校長が昨年11月に、入学時以降の問題行動があった場合に推薦しないという方針に変えたというものだ。

記事を見てみよう。

この学校がそうした方針にしたのは本年度のことである。従来、推薦要件の「問題行動や触法行為がない」期間の対象は中3の時だけだった。だが昨年11月に突然、対象時期を在校時全体に広げた。

 その際「過去に触法行為があってもその後頑張っている生徒は推薦対象にしたい」との反対意見もあった。亡くなった生徒の担任も反対だったとされる。だが最後は校長の判断で「一発アウト」が決まった。今回の自殺を機に元の基準に戻したというから、朝令暮改でもある。迷走する基準で進路を左右される生徒が気の毒だ。

<社説>「一発アウト」 子と向き合える体制こそ

この記事の中で、反対意見もあったし、件の担任も反対していたのに、「最後は校長の判断で『一発アウト』が決まった」とある。

これが、昨今、文部科学省が進めている、校長のリーダーシップの強化のなれの果てである。従来、かなりフラットな組織であった学校を、文科省は、上意下達機関に変質させてきた。2000年には「学校教育法施行規則等の一部を改正する省令」を出して、職員会議は決定機関ではなく、校長の補助機関という位置づけを明確にしたし、昨今、大学でもそうだが、ガバナンス強化など、とにかく下々は上の命令に従えという体制を強烈に推し進めている(ちなみに、社会科学ではガバナンスというのは、合意形成なので、文部科学省ガバナンスという言葉の意味を取り違えている。完全な誤用だ。文部科学省のやりたいことを横文字で表せば、ディクテーターシップである)。

恐らく、職員会議できちんと話し合って決めていたら、こんなばかげた方針にはならなかったであろう。なぜなら、一発アウトになると、一度でも問題を起こした生徒は「どうせどれだけ改心したって、おれの将来はダメなんだろ?」と自暴自棄なることは、誰が考えても明らかだからだ。

そうなると、教員は対応の手立てがほとんどなくなる。教師が生徒を指導し続けるためにも、「失敗にくじけず、頑張って道を開こう」と言える状況を確保しておくことが必要なのだ。校長は、直接生徒を指導しなくて済むから、このように、およそ非現実的な決定を安易に下してしまう。

つまり、今回の事件から言えることは、トップダウンという体制が、教育現場をちっともよくしないどころか、むしろ悪化させるということだ。

だから、今回の事件の土台には、文科省の誤った学校政策・教育政策、そして、それに乗っかって最前線の教員の意見を聞かずに、無責任なことを決めた校長、という存在があることを確認しておく必要がある。

2016-03-09

非行事実誤認による進路指導の結果、中学生が自死した事件について

広島県府中町の中学校で、中1のときの万引き歴を理由に推薦入試が受けられず、それによって中学生が自死した。しかし、実は、万引き歴自体が誤りであったということがわかり、当該中学校に全国から抗議が殺到しているという。

ニュースの焦点は、ほぼ「万引き事実の誤認がけしからん」というものであり、世間の批判もそこにあるようだ。

だから、次のニュースのようにどうやって万引き事実を確認したのかということが問題となり、どうやってそういうミスが出ないようにするか、という対策に終始する事になる。

坂元校長は教諭の対応について「生徒の非行歴を含む重要な進路指導が廊下で行われたことは非常に問題。来年度から準備室のような場での指導を教員に指示していく」としており、「組織体制の見直しが最優先。それができなければ学校再生はあり得ない」と話した。

http://mainichi.jp/articles/20160309/k00/00e/040/261000c

そして、この間違えた担任に対する批判がニュースの中心になる。

担任が体調不良を理由に保護者会を欠席したため、生徒の両親が「なぜ責任者が説明しないのか」と涙ぐみながら、抗議していたという。

http://www.jiji.com/jc/c?g=soc_date1&k=2016030900010

担任のミスがなければ、生徒は自死に至らずにすんだだろうから、そこに注目があつまるのはある意味で当然なのかもしれない。

しかし、教育学を研究している立場からいうと、問題はそこじゃないじゃん、と思う。仮に、自死した生徒が実際に中学1年生のときに万引きしていたとしても、それで高校に推薦しないということ自体が誤りなのではないか。もちろん、中1で万引きした生徒が、中2になっても中3になっても万引きを繰り返しているなら、話は別かもしれない。しかし、2年も前の万引きで、生徒の将来が決まってしまうというのはおかしくないか。子どもは一度過ちを犯したら、一生、その十字架を背負って生きていかなければならないのか(いじめで他人を自殺に追い込んだりしたのなら、それは背負って生きていくべきだとは思うが)。

学校は、子どもたちに烙印を押す場ではなく、子どもたちを産み変える場のはずである。仮に過ちを犯した子どもがいたとしても、悔い改めて、更生したのであれば、そこを出発点に、また進路を選んでいけるようにするべきではないのか。非行に走っている浮浪児をあつめて寄宿舎で教育を行った旧ソ連の教育実践家であり、理論家であるマカレンコは、子どもに「過去は問わない」と言っている。過去に過ちがあっても、問題なのは、これからどう生きるのかだということである。また、フランス詩人ルイ・アラゴンの詩「ストラスブール大学の歌」に「教えるとは希望を語ること、学ぶとは誠実を胸に刻むこと」という一節がある。教師は、子どもたちに希望を語るものではなければならない。しかるに、現代の日本の学校は、子どもたちに絶望を語っているのはではないか。

なぜこのようなことになるのかと言えば、中学教育の目的が、子どもたちを賢く育て、世の中のことがよくわかるようにし、社会を主体的に形成していける大人を生み出すことや、他者の境遇に思いをいたし、支え合える人間を育てることではなくなっているからだ。やや強い言い方をすれば、中学校教育は、子どもたちを教師の言いなりに動かすことになってしまっているのではないか(個々の教員がそうしようとしていると言う意味ではなく、日本の教育システムが、教員の仕事をそのようなものにしてしまっている)。今回の事件の発端となった、非行歴などによって推薦をする/しないを決める理由の大半は、「悪いことをしたら推薦されない」という脅し以外に何があるのだろうか。脅しという意味では、内申書も同様である。

だから、全国からこの学校に非難を集中させる暇があったら、それぞれが自分の地元の学校で、非行歴が進路指導にどのように利用されているのかを問うてほしい。

最後に付け加えておくが、もちろん、万引きはよくない。しかし、それがよくないと教えるのなら、脅しによってではなく、理解させることを通してだ。推薦されなくなるから万引きしないという教育は、単に私利私欲を教えていることにしかならない。そのような教育をしているから、自分が濡れないためには、傘一本ぐらい盗んでもよいだろうというような人が生まれるのではないか。

2015-08-01

立憲主義擁護のためにたたかう若者たちへの連帯メッセージ

安倍首相との相性

私が身銭を切って上京し、時には宿泊して、日比谷野外音楽堂国会議事堂前の集会やデモに何度も足を運ぶのは、9年ぶりである。(原発再稼働反対のときも、秘密保護法のときも1〜2回は出かけたが、これほど上京するのはやはり9年ぶりなのだ。)

9年前というのは、もちろん教育基本法改悪に対する反対運動のときである。(当時は、高橋哲哉氏や小森陽一氏など教育学以外の人たちも先頭に立ち、それなりの運動にはなったが、デモは5000人程度であった)。

このときの総理大臣もやはり安倍晋三だった。よほど安倍晋三は相性が悪いらしい。相性が悪いのは「私と」ではなく「民主主義と」である。(それにしても、新幹線で上京するたびに安倍首相のお友達であるJR東海の葛西会長の懐に金がいくと思うと腹立たしい限りである。)

すでに始まっていた立憲主義破壊の前哨戦

さて、最近の運動界隈の人びとにとっては福島以降が主たる戦時のようだが、我々教育学者や法律家にとっては、2003年に始まる教育基本法改悪反対の運動は、とても重要な闘いだった。教育学関連の諸学会や法律家を含む団体・個人から改悪反対声明がだされた。(たとえば教育基本法改正情報センター)。

専門外の方はご存じないかもしれないが、教育基本法日本国憲法は日本が立憲主義民主主義国家として飛び立つための両翼だった。このことを理解してもらうのには、前文がある法律が、ともに1947年に施行された教育基本法憲法だけであると指摘するとわかりやすいかもしれない。

立憲主義的ということで内容面に注目すれば、旧教育基本法の第十条を見ればよいだろう。

第十条(教育行政) 教育は、不当な支配に服することなく、国民全体に対し直接に責任を負つて行われるべきものである。

2 教育行政は、この自覚のもとに、教育の目的を遂行するに必要な諸条件の整備確立を目標として行われなければならない。

要するに、国や地方自治体などの行政は、金は出さねばならないが、口をだしてはならないという法律だったのだ。

しかし何よりも直接的なかかわりを示すのは前文である。

われらは、さきに、日本国憲法を確定し、民主的で文化的な国家を建設して、世界の平和と人類の福祉に貢献しようとする決意を示した。この理想の実現は、根本において教育の力にまつべきものである。

われらは、個人の尊厳を重んじ、真理と平和を希求する人間の育成を期するとともに、普遍的にしてしかも個性ゆたかな文化の創造をめざす教育を普及徹底しなければならない。

ここに、日本国憲法の精神に則り、教育の目的を明示して、新しい日本の教育の基本を確立するため、この法律を制定する。

ここで言っているのは、日本国憲法の掲げる理想を本当に実現するためには「教育の力にまつ」ということだ。だから日本国憲法の確定だけでは画竜点睛を欠くのであって、教育によるその実現が必要だということなのだ。

逆に言えば、教育を通して自分たちが望む臣民を育てれれば、おのずと憲法の理想の実現とはほど遠い社会がつくれるということもである。

改正に憲法のような高いハードルもないため、彼らは多くの教育学者の反対にもかかわらず、思想良心の自由等に関して、憲法に違反する疑いのある法律を強行採決してしまった。

予想されたように、改悪教育基本法は教育界にさまざまな害悪を及ぼしつつある。

その成果としてあらわれている一つの問題が、いまニュースなどでも話題になっている教科書採択問題である。教科書採択の際に、改悪教育基本法第2条の五

伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛するとともに、他国を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与する態度を養うこと

が持ち出され、「自由社育鵬社の教科書が教育基本法に一番適合的である」などと言う理由でその採択がごり押しされてきたのだ。(ちなみに、歴史修正主義の教科書問題は、教育基本法改悪よりも時代がさかのぼる。やはりこれに安倍晋三氏が関わっていた。彼は1997年に発足した「日本の前途と歴史教育を考える若手議員の会」の事務局長をつとめていたのだ。これについては第二次世界大戦終結70年 第2部 安倍首相と逆流の系譜を参照)。

そして、改悪された教育基本法に基づきながら、道徳を教科化し、国民に法や規範を守ること、愛国心を教え、生命の尊重を教え、しかしまた、なぜそうなるのかという子細の説明は省略するが、個人は死んでも日本民族という大きな生命のなかに生きれば良いというような死生観を忍び込ませつつあるのだ。私は生活指導を研究しているが、この分野には以前から管理主義に抗して「心に制服を着るな」というスローガンがあった。しかし、いま、権力者たちは、子どもたちの心に制服どころではなく軍服を着せようとしているのではないか。

それにしても、憲法を守らない内閣が「法やルールを守れ」と言ったり、イラク戦争イスラエルによるガザ空爆の中で多くの市民(老人・女性・子ども)が殺され、イラクに派遣された自衛隊員が多数自殺していることに心を痛めない内閣が「生命の尊重」を言ったりするのは悪い冗談かと思うが、自民党が改憲案を示して「憲法を守るのは国民である」といっているように、立憲主義とは真逆のことを堂々と謳っているところをみると、彼らはまじめに権力者は治外法権だと考えているに違いない。


立憲主義民主主義国家日本墜落の手前で

教育基本法が改悪されたとき、運動していた私たちはとても残念ではあったが、まだ憲法があると思っていた。しかし、まさか改憲もせずに、事実上憲法をいくらでも曲解改憲し、「総理大臣である私が言うのだから正しい」などという総理が現れようとは思いもよらなかった。教育基本法を失い片肺飛行でかろうじて生きながらえている立憲主義民主主義国家日本が、墜落の危機を迎えようとしている。

しかし、権力者の思い通りにはならない。墜落したかに見えたまさにそのとき、再び立憲主義民主主義日本は上昇を始めたのではないか。その証拠に、教育基本法改悪から9年を経た現在、本当に命を守りたい、人々の小さな幸せを守りたいと思う学生たちが立ち上がり、自分達の声を堂々と表明しているではないか。そして大学生中心の運動に触発された高校生たちも行動を起こし、声を上げはじめているではないか。

学びながら闘っている学生たちは言う。「私たちには理想の未来、つくりたい未来がある」と。これはまさにユネスコの学習権宣言(1985)の示す学習権を行使していると言えよう。

学習権とは、

  読み書きの権利であり、

  問い続け、深く考える権利であり、

  想像し、創造する権利であり、

  自分自身の世界を読みとり、歴史をつづる権利であり、

  あらゆる教育の手だてを得る権利であり、

  個人的・集団的力量を発達させる権利である。

 成人教育パリ会議は、この権利の重要性を再確認する。(抜粋)

http://homepage1.nifty.com/scientist/sengen.html

日本人のモラルは、学校の教科としての道徳だけではなく、家庭でも、ストリートでも、広場でも、育っていく。このような若者の学習と運動から民主主義的な知性とモラルが鍛えられていくことに期待したい。

そして、現在50歳である私が日本人の男性平均寿命まで生きていたとしたら、そのときに、ちょうど今の私と同じぐらいの歳になった現在の学生たちの口から「日本は100年間戦争をしない平和国家としてやってきました」という言葉を聞きたいものである。そしてその子どもたちがさらに120年、130年…と引き継いでいくことを願いたいものである。