Hatena::ブログ(Diary)

藤井啓之ハイパー研究室本館

2016-07-16

ニースの無差別大量殺人とテロ防止と教育と

ニースのトラックと銃撃のテロ。犯行動機は分かっていないが、チュニジア系男性で、窃盗、家庭内暴力、武器所持等の前科という情報が伝わってくる。仮に、組織の指示をうけていない単独犯だとすると、どういう人間がこういう行為に走るか、よく考えてみる必要がある。テロをなくすためには、緊急の治安対策などではまったくもって不十分で、幼少時からの教育・福祉、雇用対策も含む長期的な取り組みが必要だ。

日本でも秋葉原で通行人にトラックで突入し、その後ナイフで斬りつける無差別殺人があったのを思い出した人も多いだろう。この事件はあれこれ分析されているが、競争と管理の教育、格差と貧困、不安定な雇用状況、共同関係の消失と孤立化など、さまざまな原因が論じられている。この分析が完璧だとは思わないが、すくなくともこれらの要因が犯人を自暴自棄にさせた面は拭えない。

こうした状況にある人が、世の中に不満を持ち、テロ組織の影響を直接、間接に受けて、過激な行動に走る危険性はおおいにあると言えよう。皮肉な話だが、日本が救われているのは、日本人の語学力の弱さかもしれない。テロ組織が唆す思想やテロの方法にアクセスする確率が下がるから。

つまり、日本でもニースの事件のような無差別殺人の犯罪予備軍は日々生み出されている。いや、その条件は、教育や雇用や福祉の状況を見ると、むしろますます強まっているとさえ言えるだろう。

無差別殺人は許しがたい行為ではあるが、犯人を一方的に非難する人がでてくると、私は「暴走族が社会秩序を乱すと言って怒る人」を連想する。しかし、すこし考えればわかることだが、社会秩序から何の恩恵も受けていない(と思っている)暴走族メンバーにとって、社会秩序を破壊することに躊躇があると考えるほうがおかしいのではないか。そう考えると、テロや無差別殺人を防ぐためには、すべての人が社会から恩恵をうけているという感覚を持てること必要なのではないか。当然、それに先だって、その事実と経験が必要なのは言うまでもない。

こういうことを考えるたびに思い出すのは能重真作『ブリキの勲章』。激しい「非行」に走る中学生に対し、教師が学級のなかに関係と居場所をつくる。「失うもの」がなかった「非行」少年が「失うもの」を持てたとき、初めて「非行」から卒業したのであった。テロ防止にとってもおおいに教訓になる。

2016-03-17

広島県府中町の中学生自死について(続編)

前回のブログのなかで、新聞記事を引用したが、そのなかに、校長が担任を非難するような文言があったのを確認して頂きたい。

とくに注意して頂きたいのは、「校長が担任を非難」というところだ。

しかし、今回、琉球新報の社説によって、あらたな事実が明らかにされた。その中学校では、それまで、中3になって以降に問題行動があった場合は、推薦しないという方針だったのを、校長が昨年11月に、入学時以降の問題行動があった場合に推薦しないという方針に変えたというものだ。

記事を見てみよう。

この学校がそうした方針にしたのは本年度のことである。従来、推薦要件の「問題行動や触法行為がない」期間の対象は中3の時だけだった。だが昨年11月に突然、対象時期を在校時全体に広げた。

 その際「過去に触法行為があってもその後頑張っている生徒は推薦対象にしたい」との反対意見もあった。亡くなった生徒の担任も反対だったとされる。だが最後は校長の判断で「一発アウト」が決まった。今回の自殺を機に元の基準に戻したというから、朝令暮改でもある。迷走する基準で進路を左右される生徒が気の毒だ。

<社説>「一発アウト」 子と向き合える体制こそ

この記事の中で、反対意見もあったし、件の担任も反対していたのに、「最後は校長の判断で『一発アウト』が決まった」とある。

これが、昨今、文部科学省が進めている、校長のリーダーシップの強化のなれの果てである。従来、かなりフラットな組織であった学校を、文科省は、上意下達機関に変質させてきた。2000年には「学校教育法施行規則等の一部を改正する省令」を出して、職員会議は決定機関ではなく、校長の補助機関という位置づけを明確にしたし、昨今、大学でもそうだが、ガバナンス強化など、とにかく下々は上の命令に従えという体制を強烈に推し進めている(ちなみに、社会科学ではガバナンスというのは、合意形成なので、文部科学省ガバナンスという言葉の意味を取り違えている。完全な誤用だ。文部科学省のやりたいことを横文字で表せば、ディクテーターシップである)。

恐らく、職員会議できちんと話し合って決めていたら、こんなばかげた方針にはならなかったであろう。なぜなら、一発アウトになると、一度でも問題を起こした生徒は「どうせどれだけ改心したって、おれの将来はダメなんだろ?」と自暴自棄なることは、誰が考えても明らかだからだ。

そうなると、教員は対応の手立てがほとんどなくなる。教師が生徒を指導し続けるためにも、「失敗にくじけず、頑張って道を開こう」と言える状況を確保しておくことが必要なのだ。校長は、直接生徒を指導しなくて済むから、このように、およそ非現実的な決定を安易に下してしまう。

つまり、今回の事件から言えることは、トップダウンという体制が、教育現場をちっともよくしないどころか、むしろ悪化させるということだ。

だから、今回の事件の土台には、文科省の誤った学校政策・教育政策、そして、それに乗っかって最前線の教員の意見を聞かずに、無責任なことを決めた校長、という存在があることを確認しておく必要がある。

2016-03-09

非行事実誤認による進路指導の結果、中学生が自死した事件について

広島県府中町の中学校で、中1のときの万引き歴を理由に推薦入試が受けられず、それによって中学生が自死した。しかし、実は、万引き歴自体が誤りであったということがわかり、当該中学校に全国から抗議が殺到しているという。

ニュースの焦点は、ほぼ「万引き事実の誤認がけしからん」というものであり、世間の批判もそこにあるようだ。

だから、次のニュースのようにどうやって万引き事実を確認したのかということが問題となり、どうやってそういうミスが出ないようにするか、という対策に終始する事になる。

坂元校長は教諭の対応について「生徒の非行歴を含む重要な進路指導が廊下で行われたことは非常に問題。来年度から準備室のような場での指導を教員に指示していく」としており、「組織体制の見直しが最優先。それができなければ学校再生はあり得ない」と話した。

http://mainichi.jp/articles/20160309/k00/00e/040/261000c

そして、この間違えた担任に対する批判がニュースの中心になる。

担任が体調不良を理由に保護者会を欠席したため、生徒の両親が「なぜ責任者が説明しないのか」と涙ぐみながら、抗議していたという。

http://www.jiji.com/jc/c?g=soc_date1&k=2016030900010

担任のミスがなければ、生徒は自死に至らずにすんだだろうから、そこに注目があつまるのはある意味で当然なのかもしれない。

しかし、教育学を研究している立場からいうと、問題はそこじゃないじゃん、と思う。仮に、自死した生徒が実際に中学1年生のときに万引きしていたとしても、それで高校に推薦しないということ自体が誤りなのではないか。もちろん、中1で万引きした生徒が、中2になっても中3になっても万引きを繰り返しているなら、話は別かもしれない。しかし、2年も前の万引きで、生徒の将来が決まってしまうというのはおかしくないか。子どもは一度過ちを犯したら、一生、その十字架を背負って生きていかなければならないのか(いじめで他人を自殺に追い込んだりしたのなら、それは背負って生きていくべきだとは思うが)。

学校は、子どもたちに烙印を押す場ではなく、子どもたちを産み変える場のはずである。仮に過ちを犯した子どもがいたとしても、悔い改めて、更生したのであれば、そこを出発点に、また進路を選んでいけるようにするべきではないのか。非行に走っている浮浪児をあつめて寄宿舎で教育を行った旧ソ連の教育実践家であり、理論家であるマカレンコは、子どもに「過去は問わない」と言っている。過去に過ちがあっても、問題なのは、これからどう生きるのかだということである。また、フランス詩人ルイ・アラゴンの詩「ストラスブール大学の歌」に「教えるとは希望を語ること、学ぶとは誠実を胸に刻むこと」という一節がある。教師は、子どもたちに希望を語るものではなければならない。しかるに、現代の日本の学校は、子どもたちに絶望を語っているのはではないか。

なぜこのようなことになるのかと言えば、中学教育の目的が、子どもたちを賢く育て、世の中のことがよくわかるようにし、社会を主体的に形成していける大人を生み出すことや、他者の境遇に思いをいたし、支え合える人間を育てることではなくなっているからだ。やや強い言い方をすれば、中学校教育は、子どもたちを教師の言いなりに動かすことになってしまっているのではないか(個々の教員がそうしようとしていると言う意味ではなく、日本の教育システムが、教員の仕事をそのようなものにしてしまっている)。今回の事件の発端となった、非行歴などによって推薦をする/しないを決める理由の大半は、「悪いことをしたら推薦されない」という脅し以外に何があるのだろうか。脅しという意味では、内申書も同様である。

だから、全国からこの学校に非難を集中させる暇があったら、それぞれが自分の地元の学校で、非行歴が進路指導にどのように利用されているのかを問うてほしい。

最後に付け加えておくが、もちろん、万引きはよくない。しかし、それがよくないと教えるのなら、脅しによってではなく、理解させることを通してだ。推薦されなくなるから万引きしないという教育は、単に私利私欲を教えていることにしかならない。そのような教育をしているから、自分が濡れないためには、傘一本ぐらい盗んでもよいだろうというような人が生まれるのではないか。

2015-08-01

立憲主義擁護のためにたたかう若者たちへの連帯メッセージ

安倍首相との相性

私が身銭を切って上京し、時には宿泊して、日比谷野外音楽堂国会議事堂前の集会やデモに何度も足を運ぶのは、9年ぶりである。(原発再稼働反対のときも、秘密保護法のときも1〜2回は出かけたが、これほど上京するのはやはり9年ぶりなのだ。)

9年前というのは、もちろん教育基本法改悪に対する反対運動のときである。(当時は、高橋哲哉氏や小森陽一氏など教育学以外の人たちも先頭に立ち、それなりの運動にはなったが、デモは5000人程度であった)。

このときの総理大臣もやはり安倍晋三だった。よほど安倍晋三は相性が悪いらしい。相性が悪いのは「私と」ではなく「民主主義と」である。(それにしても、新幹線で上京するたびに安倍首相のお友達であるJR東海の葛西会長の懐に金がいくと思うと腹立たしい限りである。)

すでに始まっていた立憲主義破壊の前哨戦

さて、最近の運動界隈の人びとにとっては福島以降が主たる戦時のようだが、我々教育学者や法律家にとっては、2003年に始まる教育基本法改悪反対の運動は、とても重要な闘いだった。教育学関連の諸学会や法律家を含む団体・個人から改悪反対声明がだされた。(たとえば教育基本法改正情報センター)。

専門外の方はご存じないかもしれないが、教育基本法日本国憲法は日本が立憲主義民主主義国家として飛び立つための両翼だった。このことを理解してもらうのには、前文がある法律が、ともに1947年に施行された教育基本法憲法だけであると指摘するとわかりやすいかもしれない。

立憲主義的ということで内容面に注目すれば、旧教育基本法の第十条を見ればよいだろう。

第十条(教育行政) 教育は、不当な支配に服することなく、国民全体に対し直接に責任を負つて行われるべきものである。

2 教育行政は、この自覚のもとに、教育の目的を遂行するに必要な諸条件の整備確立を目標として行われなければならない。

要するに、国や地方自治体などの行政は、金は出さねばならないが、口をだしてはならないという法律だったのだ。

しかし何よりも直接的なかかわりを示すのは前文である。

われらは、さきに、日本国憲法を確定し、民主的で文化的な国家を建設して、世界の平和と人類の福祉に貢献しようとする決意を示した。この理想の実現は、根本において教育の力にまつべきものである。

われらは、個人の尊厳を重んじ、真理と平和を希求する人間の育成を期するとともに、普遍的にしてしかも個性ゆたかな文化の創造をめざす教育を普及徹底しなければならない。

ここに、日本国憲法の精神に則り、教育の目的を明示して、新しい日本の教育の基本を確立するため、この法律を制定する。

ここで言っているのは、日本国憲法の掲げる理想を本当に実現するためには「教育の力にまつ」ということだ。だから日本国憲法の確定だけでは画竜点睛を欠くのであって、教育によるその実現が必要だということなのだ。

逆に言えば、教育を通して自分たちが望む臣民を育てれれば、おのずと憲法の理想の実現とはほど遠い社会がつくれるということもである。

改正に憲法のような高いハードルもないため、彼らは多くの教育学者の反対にもかかわらず、思想良心の自由等に関して、憲法に違反する疑いのある法律を強行採決してしまった。

予想されたように、改悪教育基本法は教育界にさまざまな害悪を及ぼしつつある。

その成果としてあらわれている一つの問題が、いまニュースなどでも話題になっている教科書採択問題である。教科書採択の際に、改悪教育基本法第2条の五

伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛するとともに、他国を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与する態度を養うこと

が持ち出され、「自由社育鵬社の教科書が教育基本法に一番適合的である」などと言う理由でその採択がごり押しされてきたのだ。(ちなみに、歴史修正主義の教科書問題は、教育基本法改悪よりも時代がさかのぼる。やはりこれに安倍晋三氏が関わっていた。彼は1997年に発足した「日本の前途と歴史教育を考える若手議員の会」の事務局長をつとめていたのだ。これについては第二次世界大戦終結70年 第2部 安倍首相と逆流の系譜を参照)。

そして、改悪された教育基本法に基づきながら、道徳を教科化し、国民に法や規範を守ること、愛国心を教え、生命の尊重を教え、しかしまた、なぜそうなるのかという子細の説明は省略するが、個人は死んでも日本民族という大きな生命のなかに生きれば良いというような死生観を忍び込ませつつあるのだ。私は生活指導を研究しているが、この分野には以前から管理主義に抗して「心に制服を着るな」というスローガンがあった。しかし、いま、権力者たちは、子どもたちの心に制服どころではなく軍服を着せようとしているのではないか。

それにしても、憲法を守らない内閣が「法やルールを守れ」と言ったり、イラク戦争イスラエルによるガザ空爆の中で多くの市民(老人・女性・子ども)が殺され、イラクに派遣された自衛隊員が多数自殺していることに心を痛めない内閣が「生命の尊重」を言ったりするのは悪い冗談かと思うが、自民党が改憲案を示して「憲法を守るのは国民である」といっているように、立憲主義とは真逆のことを堂々と謳っているところをみると、彼らはまじめに権力者は治外法権だと考えているに違いない。


立憲主義民主主義国家日本墜落の手前で

教育基本法が改悪されたとき、運動していた私たちはとても残念ではあったが、まだ憲法があると思っていた。しかし、まさか改憲もせずに、事実上憲法をいくらでも曲解改憲し、「総理大臣である私が言うのだから正しい」などという総理が現れようとは思いもよらなかった。教育基本法を失い片肺飛行でかろうじて生きながらえている立憲主義民主主義国家日本が、墜落の危機を迎えようとしている。

しかし、権力者の思い通りにはならない。墜落したかに見えたまさにそのとき、再び立憲主義民主主義日本は上昇を始めたのではないか。その証拠に、教育基本法改悪から9年を経た現在、本当に命を守りたい、人々の小さな幸せを守りたいと思う学生たちが立ち上がり、自分達の声を堂々と表明しているではないか。そして大学生中心の運動に触発された高校生たちも行動を起こし、声を上げはじめているではないか。

学びながら闘っている学生たちは言う。「私たちには理想の未来、つくりたい未来がある」と。これはまさにユネスコの学習権宣言(1985)の示す学習権を行使していると言えよう。

学習権とは、

  読み書きの権利であり、

  問い続け、深く考える権利であり、

  想像し、創造する権利であり、

  自分自身の世界を読みとり、歴史をつづる権利であり、

  あらゆる教育の手だてを得る権利であり、

  個人的・集団的力量を発達させる権利である。

 成人教育パリ会議は、この権利の重要性を再確認する。(抜粋)

http://homepage1.nifty.com/scientist/sengen.html

日本人のモラルは、学校の教科としての道徳だけではなく、家庭でも、ストリートでも、広場でも、育っていく。このような若者の学習と運動から民主主義的な知性とモラルが鍛えられていくことに期待したい。

そして、現在50歳である私が日本人の男性平均寿命まで生きていたとしたら、そのときに、ちょうど今の私と同じぐらいの歳になった現在の学生たちの口から「日本は100年間戦争をしない平和国家としてやってきました」という言葉を聞きたいものである。そしてその子どもたちがさらに120年、130年…と引き継いでいくことを願いたいものである。

2015-07-21

SEALDsへの批判はどこに向かうのか

現在、安倍内閣を揺るがしている抗議行動の中心的なものの一つとして、SEALDs(自由と民主主義のための学生緊急行動)という学生主体の運動が注目を集めている。

安倍政権・安倍支持者側からの批判

かれらが台風の目となるなかで、安倍政権寄りの立場からSEALDsを批判する人たちが湧いてくるのは当然のことだろう。SEALDs運動の拡大に焦ったのか、嫉妬してるのか、2ちゃんねる等では、内輪同士で批判話に花が咲いている。

あからさまな批判で一番笑えるのは、磯崎陽輔首相補佐官によるデモ参加者の過小評価(6万、10万という報道があるのに5000人とつぶやき)や百田尚樹や「デモ参加者はバイト」というものだ。これについては、デモをなめるな!(リテラ記事)に詳しいのでご参照いただきたい。

ちょっと手が込んでくると、彼・彼女らのことを心配しているようなフリをしながら運動から遠ざけようとするものも現れる。

この場合の特徴は、

SEALDs共産党

あるいは

「デモに参加すると就職できなくなるので気をつけてね」

というものである。

この両方を盛り込んで大量にリツイートされているのがたとえばこちら

アカといえばみんな逃げ出すと考えている時点で「脳みそが未だにアジア・太平洋戦争の戦時中から1mmも成長していないのか?」と言いたくなるし、もし仮にそういう状況になっているなら、それこそ現在が新たな戦前であることを意味するので、市民はますますそういう考えを打ちのめさないといけないということになるだろう。

(修正→)警察が現に犯罪が起きてないと写真をとることができないという昭和44年の最高裁判決は、最近の最高裁判決で覆ったというご指摘をコメントでいただいたので、24番目のコメントを参照してください。比較のため、以下のもともとの記述も残しておきます。

ちなみに、警察が犯罪を犯していない時点で写真をとるのは法律違反なので、見つけたら警察官に最高裁判決を教えてあげましょうね。→デモ活動への警察撮影について

また、「就職できなくなるので気をつけてね」というのは親切そうに見えるが、ほんとうに心配しているなら、次のような態度を取るはずである。


そもそも、デモに参加したから就職できないなんてことは実際あるのかということだ。西武グループのカリスマとして君臨した堤清二氏は、東大在学中は学生運動に傾倒していたし、学生運動に参加した団塊世代の学生たちも多数大学教員として就職している。

(→加筆)もうちょっと言えば、デモに参加する人はおかしいことをおかしいと主張する可能性の高い人なので、例えば、食品の産地偽装賞味期限改竄や企業の粉飾決算に対して「ノー」という素質を持った人であるとも言える。企業は、そういう人を採用しておいた方が、オリンパスや東芝のような重大な問題に至らずに済むわけだから、むしろ積極的に採用すべきだろうと思う。


安倍政権側からの批判


安保法制に批判的な人達からのSEALDsに対する批判も喧しい。

もちろん、SEALDsの運動にも足りない部分はあるかもしれない。だから、アドバイスしたりするのは一向に構わない。しかし、私がネットの言説を眺めている限り、SEALDsがそれら小姑達のアドバイスを全面的に受け入れないと、SEALDsの運動そのものを全面否定するようになっていく人も少なくないと思われる。

それらのテーマはだいたい以下のようなものだ。


1.警察との関係

通行人の通路を確保するなど、警察と相談しながらデモ・集会を実施しているのが、権力と一体化しているという批判。

これについては、いくつかツイートで批判しているのだが、その観点は大きく分けて二つある。

第一の点は、運動を支える世論との関わりに関するものだ。抗議行動に世論の支持があるのか世論から眉をひそめられているのかは、その後の運動の拡大にとって極めて重要である。権力者がメディアを巧みに利用し、かつメディアの報道を正しいと思う人の割合が高い日本では、細心の注意が必要な問題だ。過激な運動の是非はおくとしても、それが効果を発揮するのは、それに対して世論とメディアの支えがあってはじめて、のことである。

第二の点は、権力機構の末端であるという組織上・役職上の敵である警察を、本当の敵にしてしまうということだ。警察官は、上から言われた命令に従って行動しているに過ぎない。それなのに、警察官を罵倒したり、デモ隊がくってかかったり、挑発したりすれば、彼・彼女らは「上からの命令が正しかった」と意を強くして、ますますデモを抑圧するだけだ。そうならないために、警察官が職務を遂行しようとすればするほど「いつも会話しているこの人やあの人を暴力的に抑えつけて良いのか」という「道徳的衝動」が生まれるような関係を作っておくことも重要なのだ。ナチスの研究をしたアーレントやバウマンがもっていた問題意識から考えると、そういうことになるのではないだろうか。


2.「国民なめんな」というコール

SEALDsの運動は、日本国籍を持たない人を排除している。国民なんて言葉を言葉を使うのはけしからんという批判。

この批判は批判で、国民とは誰か、市民とは誰かという法学的・政治学的問題を考えるときには、重要な問題ではある。これについても二点論じておきたい。

第一は、日本国憲法に国民という用語が出てくることだ。そしてこの用語が何を指すのかについては学問上も様々な議論がある。もともとはpeopleという単語を訳したもの(GHQ占領下の日本において、日本国憲法はまず英語で書かれた)である。だから、必ずしも日本国籍を意味しないという議論もある。それなら、「ピープルなめんな」というコールもあり得るので、修正しても構わないだろうが、このあたりは、すでに定型化したコールを変えることについての効果に関する戦術的・戦略的な問題であるように思える。

第二は、もちろん問題があるからといって、SEALDsの運動そのものにブレーキをかけるほど重大な問題かということである。まずは安保法制を廃案に追い込んで、その後でゆっくり議論しても遅くないのではないか。そのためには、自分たちと考えが違うからといってSEALDsを罵倒するのではなく、対話し続けることが重要なのではないかと思う次第。

3.ルッキズム・セクシズム

これは、おしゃれなWebサイトに、おしゃれなフライヤーやプラカード、ヘソだしルックやミニスカなどおしゃれな服装が、広告代理店みたいだし、男性に媚びているという批判。

SEALDs(シールズ)の美女が可愛い!戦争・徴兵制・安倍晋三に反対する若者たちの姿というまとめが作られたことを境に、一挙にSEALDs批判が吹き上がった。

これについては3つの点で問題を整理しておきたい。

第一に、それはまとめた人の視線であって、SEALDsの考えではない。彼・彼女らは、自分たちの普段のセンスでWebをつくり、フライヤーをつくり、プラカードを作っているにすぎない。もしもそれが広告代理店みたいだというなら、そりゃそうだろう。広告代理店によって作られたも言葉やモノに囲まれた日常のなかで育ってきたんだもの。責めるなら彼・彼女らではなく、「そういう世の中にしてしまった大人たちの方を」でしょうに。

そして、彼らは、日常生活しているスタイルをそのまま運動に持ち込んでいるだけなんじゃないだろうか。彼らが日常はジャージにサンダルで大学に行っているのに、デモの時だけヘソだしでミニスカで来ているというなら、それはそれで批判の余地もあろうが、かれらは息をするように、街に遊びに行くように、デートに行くように、デモにも出かけているのではないか。

内田樹は7月15日に

「今日が始まりです。この法案を廃案にするまで、息をするようにどこまでも長く運動していかねばならない。今日感じた"いてもたってもいられない"をこれからも継続していきましょう。市民の力は無駄じゃない。」

http://blog.goo.ne.jp/koube-69/e/ced6f32e710e8e05be207af7238f2820?fm=rss

と発言しているが、まさに息をするようにデモをやってるからあのスタイルになるのではないかと思うのは私だけではないだろう。

第二に、SEALDsの女の子たちをカワイイとかヘソだしだとか言って性的な対象としてまなざしているのは外野だろう。仮にデモに来ている女の子がカワイイとして、それは彼女らの責任か? 世間のモノサシでカワイイ子がデモに来たら、批判されなければならないのか? あるいは日常のおしゃれでヘソだししたり、ミニスカはいたりしているのを、性的を売り物にしているみたいに言うのって、痴漢された女性に対して「そんな服装しているからだ」とかいってるのとどう違うんだろうかという話である。

第三に、全共闘世代の人たちの「ヘルメットにマスクにサングラス」とか、「立て看板やビラの独特の書体の文字とか、あれが正統だという根拠は全くない。むしろ、あれはあれで、当時の若者がこれが政治運動ではカッコイイと思ってやっていたのではないか。そういう意味では、現在のSEALDsの運動とたいして違わないのではないか。

そもそもの目的に立ち返ろう

安倍政権に批判的な人たちが、運動のスタイルとかこまかなことで、アドバイスするならわかるけど、脚を引っ張り始めている状況で、いったい何がしたいのかと思う。今は、とりかく所期の目的を達成するために、連帯できるところは連帯して、対話するところは対話しながら、運動を拡大していくときではないのか。