努力しないで下さい

私は努力と言う言葉が嫌いです。

私は、「努力」という言葉でいろんなものをすっ飛ばして考える人が嫌いです。

例えばですね。
「頑張ってるんだけど足が速くならないんです」と、相談を受けたとしましょう。

発破をかけるために、こう言うかもしれません。
「お前には努力が足りない」とかなんとか。
あるいは、やさしいと人はこういうかもしれません。
「そんなに根詰めなくて良いよ、充分頑張ってるよ」なんて慰められたら私なら泣いちゃうね。

でも、ちょっと待って! その人は何を頑張っているのでしょう。

もしかしたら、足が遅い人は毎日必死に懸垂をしていただけかもしれません。
当たり前ですが、手に血豆ができるほど懸垂をしてもそうそう足は速くなりません。
それよりも他にすることがあるでしょう。

でも、【努力】と言う言葉で、目的も、手段も濁らせてしまっているんです。

そんな人が努力しろ、と言われたらどうするでしょう。
懸垂だけじゃなくて、ウェイトリフティングをカリキュラムに追加するかもしれません。
そうして、「腕が上がらなくなるほど懸垂してウェイトリフティングるのに足が速くならないという尋常じゃない徒労感」と「なんで周囲は俺の努力を、上腕二等筋を評価してくれないんだという理不尽な怒り」だけが残るわけです。

逆に、努力しなくて良い、と言われたらどうするでしょう。
本当は足が速くなるポテンシャルがあるかもしれないのに、その人は「足が速くなる」と言う目的そのものを諦めてしまうかもしれません。

努力、じゃない何か

「目的」を明確に定めて、「そのための手段」を決定する。
そして、目的のために進むことが本来の「努力」です。

しかし、自分がやっていることを【努力】という言葉でしか表現できない時点で、それは目的を見失っているのではないでしょうか。
がむしゃらに、自分を苛め抜いても求める能力を得ることはできないんです。

お互いに、【努力】に代わる言葉をちゃんと提示して、話をしましょう。
もしも、自分のやっている【努力】をきちんと言語化できるのであれば、その人は「努力しています」なんて突っ込まれるようなことは言わないんです。
もしも、相手に求めている成果をきちんと言語化できるのであれば、その人に「努力しろ」なんてあいまいなことは言わないんです。

努力って口にする前に、ちょっと立ち止まって考えてみてください。
足が速くなるために懸垂して、何を得るつもりですか?
足が速くなりたい、と言う人に懸垂させて、何を教えているつもりですか?