2010-02-02
サンディエゴ現代美術館 Museum of Contemporary Art San Diego
美術館紹介 |
サンディエゴのダウンタウンに建物が二つ。La Jollaにひとつ。シンプルで雰囲気が好き。チケットが1週間有効で、3つ全ての建物で使えるのもいいです。
この美術館は、数か月で展示内容がほとんど入れ替わります。私が行ったときはTara Donovan展でした。すごーい良かった。細胞がsurfingする感じ。
写真付きのサンディエゴ現代美術館 Museum of Contemporary Art San Diegoの紹介はこちらをクリック。
2010-01-03
久留里
観光地紹介 |
千葉県は木更津辺りまではもう都会ですが、JR久留里線に乗っていくと、みるみる景色が変わってくるのがわかります。久留里線は単線で本数も少なく、何しろ東京駅から高速バスに乗った方が早い。
久留里という地名の由来には諸説ありますが、そのうちの一つが「阿久留里王(あくるおう)」という豪族の名前からとった、という説。どうやら阿久留王は実在した人物のようで、ヤマトタケルに滅ぼされて「鬼」にされたようです。君津市鹿野山が本拠地で、付近に「鬼塚」「鬼泪山」「血染川」といった地名が残っています。阿久留王の胴体を埋めた「阿久留王塚」、頭部を埋めた「お八つが塚」もあります。長野県安曇野の「魏石鬼八面大王」もそうですが、当時は頭部と胴体を切断して鎮魂したんですね。
こういった「鬼」がいた土地は、古くからの信仰が残っていることが多く、久留里神社は、非常に興味深い。日本の信仰の歴史とその魅力は、神仏混淆と神仏習合のダイナミズムにあると思います。明治政府による神仏分離令(+廃仏毀釈)によって、その跡はだいぶ消えてしまっているのですが、ときどき、その跡がまだ残っている場所があります。ここがそこ。
長野駅からの野沢温泉のような、遠すぎず近すぎずの絶妙の距離、しかも東京から普通乗車券で来れる。名水の評判と数多く残る井戸。ちょっとしたハイキングに最適な久留里城。阿久留里王という古代ロマン伝説。何よりもその名前の響き。などなど、観光地としての条件を備えた久留里ですが、唯一、それらを台無しにしてしまっているのが、城下町の家並みの通りに、国道を通してしまったこと。古い街並みは「旧道」になって、主要道路から少し外れる場合が多いのですが、ここは、びゅんびゅん車が通るので、雰囲気が台無し。一本外すだけで観光地としてのバリューが全く違っていたはずなのに。残念。
2009-12-31
善光寺
お寺紹介 |
日本最古の歴史を持つ長野県善光寺。長野駅そのものが善光寺の門前町で、すさまじい集客力です。
歴史上の有名人が多く関わる1400年の歴史と、独自性の高い出自と信仰システムが善光寺の隆盛を支えています。善光寺がここまで信者を集めたのは以下の理由からでしょうか。
・ 信者のプロファイルを限定しない。無宗派。女性OK。古い時代に女人禁制でなかったのは珍しく、女人救済の寺として有名になったので、江戸時代には参詣者の半数が女性だったそうです。
・ 一般人が建設したというユニークな由来と古代ロマン。仏教派の蘇我稲目と対立していた廃仏派の物部尾輿は、蘇我稲目の向原寺を焼き払い、祀られていた大陸伝来の阿弥陀三尊仏を、難波の堀江に捨ててしまいます。これを拾ったのが、難波に来ていた信濃の本田善光という一般人。本田善光は、拾った仏を自宅に祀ります。つまり、善光寺とは、よしみつさんのお寺なのです。だから無宗派なんですね。よしみつさんは、奥さんと息子さんとともに本堂に祀られています。
・ 全国に拡がった善光寺。霊験あらたかな御本尊は、戦国時代、戦国武将に奪われて自分の領土に持って行かれます。長野→甲府(武田信玄)→岐阜(織田信忠(信長の長男))→尾張清州(織田信雄(信忠の弟))→浜松鴨江(徳川家康)→甲府(徳川家康)→京都(豊臣秀吉)→長野に戻る。各武将が自分の領土に「善光寺」を立てたので、かえって、全国に名前が拡がる結果となりました。全国に、「善光寺」を正式名称とするお寺は119ヶ所、「善光寺仏」は443体あるそうです。
・ 内陣の地蔵菩薩像と弥勒菩薩をはじめ、芸術作品として一級品の数々。中でも「びんずる尊者」は素晴らしい。来訪者が参加してできあがる現在進行形の仏像は、観客参加型の現代アート作品を連想させます。
・ 期待と想像を刺激する「秘仏」システム。ちなみに、7年に一度の御開帳は、秘仏と同じ姿の前立本尊で、秘仏はあくまで絶対秘仏です。
・ 暗闇を歩いて秘仏の本尊と結縁する「お戒壇めぐり」システム。
・ 天皇に庇護されたお寺。皇極天皇が、本田善光に高い地位を与え、伽藍造営を命じます。だから、明治の廃仏毀釈も乗り切ったのではないでしょうか。
私が疑問なのは、これだけの経済力をもった寺が、なぜ特定宗派にとりこまれなかったか、ということ。今は、天台宗と浄土宗が共同管理、ということになっていますが、実態はどうなっているのでしょう?
また、なぜ秘仏になったのか。654年頃に仏の宣託によって秘仏になったと伝えられていますが、詳しいことは不明です。
写真付きの善光寺紹介は→http://www.fromkiyama.com/zkj.htm。
2009-12-30
野沢温泉
観光地紹介 |
長年、人気を維持している野沢温泉。その理由はこれぐらいでしょうか。
・村人が使う複数の共同浴場を可能にした豊富な湯量。→ 内湯なしの外湯のみ、という旅館経営が可能になる。→ 外湯にすることで、観光客が町を歩き、町そのものが活性化される。
・豊富な湯量 → 「麻釜」という迫力のある景観。村人が卵や野菜を茹でるという風情。
・スキー場が徒歩圏内
・大きなホテルが(たぶん色々な事情で)建たなかった。
・各地区の住民が管理する共同浴場を無料にした為、旅行者にとっては「使わせて頂く」ことからくる独特の雰囲気。十三ヶ所ある共同浴場すべて入りましたが、この雰囲気は共通。これが100円でも支払うのであれば、全く違っていたと思います。
・長野駅からの電車とバスを乗りついで1時間半という、遠すぎず近すぎずの絶妙な距離感
2009-12-29
戸隠神社
お寺紹介 |
戸隠神社といっても、奥社、九頭龍社、中社、火之御子社、宝光社、の五社あります。すべて歩くと丸一日はかかります。
山岳信仰が強かった山には、「古道」と呼ばれる、歴史と文化を感じさせる道が残っていることが多く、ここ戸隠にも、戸隠古道という素晴らしい道があります。ポイントとポイントをこまめにつないでいるので、1時間ぐらいの散歩コースにもなります。一応地図には載ってるけど、多分歩く人は殆どいない。これこそが観光資源なのに。11月だったこともあって、1日歩きましたが、誰とも会いませんでした。でも、道は杉の落ち葉でフカフカで、すごく気持ちよかった。
アマテラスオオミカミが隠れてしまった天岩戸が、ここに投げられたから、「戸隠」という名前になった、ということになっていて、地元の人に聞くと、古事記にそう書いてある、と言うんですが、古事記にも日本書紀にも、書いてあるのは「戸隠れ」したことだけで、信州のこの地に岩戸を投げた、なんていう記述はありません。調べたのですが、誰が、なぜ、この地にしたのかは謎。信州が交通の要衝だったので、重要な神様をあえて指定したのかもしれません。
戸隠神社の中社付近に行くと、参道にたくさんの宿坊があることに驚きました。宿坊は御師とセットで、中世の神社の隆盛を支えたシステムです。
御師(オシ)、というのは、下級の神職、ということになっているのですが、今でいうところの、観光代理店、バスガイド、グッズ出張販売、宣教師、を兼ねたようなイメージでしょうか。日本各地をまわって、講(共同購入グループみたいなもの)を作り、その神社へ団体旅行をするアレンジをする仕事です。当時は旅行は人生の一大イベントなので、講でお金を積み立てて、交替でみんなで旅行したわけです。田舎に行くと、何々山に行ったきたぞ!という石碑をちょくちょく見かけますが、講の名残りです。
神社側からしても、地元の支援者(檀家/氏子)は物理的な限界があるし、組織を拡大しようとしても役職がない、そういった成長限界を超える仕組みが御師制度だったと言えます。ホテル業に事業を多角化し、かつ役職を確保できる事業が、神社の参道に盛んに作られた宿坊という宿泊設備なわけですが、その宿泊設備にお客を連れてくる仕事が御師だったわけです。戸隠神社にはいまでも20以上の宿坊(今は旅館)があります。ガイドブックの宿泊施設リストに掲載されてないということは、いまでもこの御師-宿坊システムは残存しているはず。
このエリアには、「鬼女紅葉」の話がちらちら出てきます。「鬼女紅葉」というのは能や歌舞伎の題材になる話で、ごく簡単に言うと、900年頃、紅葉という名前の美女が、源経基の侍女となり、子供を産むが、正妻に呪いをかけた疑いで、戸隠に追放される。戸隠神社の里の辺りの水無瀬(今の鬼無里)にたどりつくが、京に戻りたくて、一族を率いて戸隠山に籠り、付近の村を「戸隠の鬼女」として荒らしまわるようになるが、討伐を命じられた平維茂に滅ぼされる、という話。
戸隠神社の辺りから歩いていくと山越えして1日かかると言われて行かなかったんですが、鬼無里(元は木那佐)村、行けばよかった。紅葉が立てこもった岩屋というのもあって、きっと何かあると思うんです。最近、「邪魔になったので中央から滅ぼされて歴史上「鬼」にされたけど、実は地元で愛されていたリーダー」という分野がある、という事に気付きました。キリスト教が拡がるときに、土着の神様とか王族が悪魔にされたのと同じですね。