fksaの日記 このページをアンテナに追加

2006-09-06 fksa流チェコの旅

[]6月28日 12:45 6月28日を含むブックマーク

プシェロフへは電車で訪問した。

プシェロフ プシェロフを含むブックマーク

 チェコ東部のプシェロフの国鉄駅は、鉄道マニアなら建物を見るだけでも楽しくなるだろう。2002年ごろに改装されてしまったが、かなり歴史的な部分が残っている。東のスロヴァキアとの国境近くでベチョヴァ川が生まれてこの街を流れ、西南に向かいモラヴィア川に合流する。モラヴィア川はさらに南下してスロヴァキアの首都ブラティスラヴァを経由してハンガリー共和国に入るとドナウ河と呼ばれ、最後に黒海に流れ込む。琥珀街道はベチョヴァ川に沿った街道でもあった。琥珀街道はウイーンまで続きそこからイタリアバルカン半島に続いていたと言われている。

f:id:fksa:20060906124717j:image


プシェロフの人口は戦前1万であったが、戦後になって大きな工業が起こり発展して現在5万となっている。チェコでは中規模都市である。日本人の目を引くことだが,町の中に空手や剣道の学校がある。


町の紋章はズブルという野生牛の頭が中央にあり、その左右に門、中央上部に冠が描かれる。ピィボヴァー・ズブルというのが地元のビールメーカーで1873年に製造販売を開始したと書いてあり、プシェロフはビール1,000年の歴史があると豪語するが、チェコでは昔どの家庭でもビールやワインを作っていた。今でも作ろうとすれば可能だ。

コメンスキー博物館 コメンスキー博物館を含むブックマーク

この町にも博物館(もとはお城だった)があるので訪問した。そのお城の円形の屋根は随分とスマートだ。尖塔のすぐ下のほうにある丸い金色の玉には日常品(1リットルのお酒、新聞・日用雑貨等)が2002年に保管された。屋根を造り直す工事のときだった。30年戦争のとき日本ではバイキングとして知られる獰猛なスウェーデン軍が進軍して戦いとなっていたころ教会の屋根が壊れてしまい、その後長いあいだ仮に造られた平たい屋根で風雪を絶えてきたものだ。それがスマートな尖がり帽子のような屋根に修復されたのが2002年であったから,ずいぶんと悠長なはなしである。この高くて遠くから見張らせる尖がり帽子の形をした見張搭がランドマークなのである。


博物館の前庭にはプロテスタント司教の像が立つ、17世紀の司教の像である。彼は誇らしげに両手を高く突き出し、その両手にチェコ語のバイブルをかざしている。この地はチェコが生んだ気骨の反カトリック思想を唱えて殺されたヤン・フスとフス派その後はプロテスタント擁護の町であった。石像になっているその司教の時代に、この地で教鞭をとったことのある世界的に有名な「教育の父」コメンスキーの遺品の数々が展示されているのが、この博物館なのだ。


地下が博物館入口となっている。土器とともに琥珀が展示されている。博物館の近くを流れるベチュヴァ川に沿ってむかし琥珀街道があった。バルト海で産出された琥珀とともに毛皮、金の装飾品が運ばれた。琥珀その他はウイーンまで運ばれ、そこからバルカン半島と現在のイタリアにまで運ばれ交易されたのでその道は琥珀街道と呼ばれた。

男女ネアンデルタール人(旧人類)の人形がある。狩猟生活で疲れるのか男は若死にした。女性の方が大きく長生きしたと館長の秘書が説明する。子供を産む女性が強い時代だったようである。ネアンデルタール人の遺骨はモラヴィア地方数カ所で発見されている。

マンモスの骨が多数展示されているが、960頭のマンモス骨がこのプシェロフ市郊外で発見された。その辺りには25,000〜30,000年前にマンモス狩りをするグループが住んでいたと判明している。市街のプシェドモスティという地の丘の中に住んでいた。欧州の考古学では名の知れた丘なのである。


紀元前4000−5500年には小麦栽培が始まっていたのは、大きなツボのなかに麦跡が発見されて判明した。ブロンズ時代紀元2000―1550年のブロンズのお金は大きなワッカの形だ。商人が琥珀などを交易しながら踏み固めたて琥珀街道を形成した時代でもある。但し、当時の遺跡も残っていないし記録もないので、ただ琥珀等の跡から解明された街道である。

人口大移動初期の時代5世紀にケルト族がチェコに移り住んだ。ケルトの時代から歴史遺跡が多くなった。ツボを墓にした形跡がある。


この博物館がまだ城として機能していたとき使われた「黒い台所」と呼ばれる台所が保存されている。地下洞窟の中の台所なので長年の間に煤で真っ黒になっているから「黒い台所」と呼ばれる。


 

モラヴィア地方を中心として現在のポーランドスロバキアの領土にスラブ民族の統一を果たした大モラビア時代は東西南北 人の移動が活発になり金具作りの道具・土器・綺麗な装飾品等を使い始めた10―11世紀中ごろの遺跡が保存されている。その頃プシェロフ城の基礎と砦が作られた村の様子は壁にあるスケッチをながめるとよく分かる。そして13世紀には博物館前のいまもある広場の基礎が造られた。4世紀後になってその広場の中心に、両手でチェコ語のバイブルを差し出す姿をした司教の銅像が建てられ、現在は博物館となった旧お城の広場に立っているわけである。


15―16世紀に使用されたズブルの土製リリーフが置いてある。16世紀の砦のスケッチをみるとこの時代には二つのゲートタワーがあった事がわかる。今も市の紋章には門が描かれているがそのゲートである。


18世紀にはお城全体の大改造があり二つのタワーは取り払われた。その模型を眺めて気が付くが、アーチ付きコリドールのある建築は後期ゴシックで、城は石垣で囲まれていた。この石垣もおおく現存しおり、小さな城砦跡なので徒歩で一周ぐるりと観察してもそれほど時間はかからない。


チェコスロバキア時代に入って1928年までお城であったが、その後博物館に改造されてコメンスキー博物館と名付けられた。このお城の最後のチェコ人君主はモラヴィアで広大な領土をもっていたジェロチーン家であったが、30年戦争後の宗主国の命令でチェロチーンは追放されて、その後残った資産すべてをドイツ人貴族が所有した。それはチェコの主だった城も教会も同じ経緯をたどって、戦後のチェコ政府によるドイツ人追放の結果として政府の持ち物になる経緯まで同じであった。

f:id:fksa:20060906124928j:image

コメンスキーの実績 コメンスキーの実績を含むブックマーク

「教育の父」コメンスキー(ラテン語名はコメニウス、1592−1670年)の部屋が館長自慢のものである。この博物館はコメンスキーの遺品を集大成して展示するという目的で設立されて、40年近く館長として働いてきたヒブルさんは多くの遺品収集を手がけてきた。

フレスコ画で美しい天井のこの部屋はオーストリア帝国調の部屋である。コメンスキーは教育関係ではチェコでもっとも有名な人物で、当時のモラヴィア地方の大領主ジェラチーン家の金銭的支援を受けて数々の栄光ある実績を残している。

バイブルをチェコ語に翻訳した、

宗教音楽も作曲した、

地図の作成、

思想の書物、

絵を書いて教育したから多くの絵本を残した、

手紙を残した、

(多数ある手紙はただの二枚がオリジナルのまま残っているが、その他は火事で焼失して、展示されているのは後になって書き直されたものである。)

幼児教育の重要性と物理の重要性を強調した、

(当時科学・物理が魔法だと信じられていた時代に、科学的頭脳の持ち主であったコメンスキーは、水パイプのオルガンとか反射鏡その他の工具道具を使って教育をした。)


30年戦争に敗れたチェコ人名士は多くが殺されたり国外追放になったがコメンスキーは欧州各国に出かけて考え方を広めた。これもチェコ人ジェロチーン家の支援があったから出来たことであった。


ハナー衣装と伝統の部屋も魅力ある作品を展示している。ここでも館長が収集された作品が多い。華やかなハナーの伝統衣装は刺繍が多く施され色も派手で、チェコで代表的な民族衣装だ。特にハナーの伝統では、結婚式に着飾る衣装は日本の着物の豪華さに等しいが、男女のかぶる帽子がチェコ歴史の王冠にも似てひときわ目立つ豪華さを誇る。


中身のない鶏の卵がある。これは、キリスト教が9世紀に伝播される前の話であるが、長く寒い冬が終わり死の神モレナから開放される頃、春が来て自然が生き返るのを表わすシンボルとして使った。わら人形を作り外で遊び踊り最後ははでに飾るわら人形を川に流したのだった。むかしこの辺りの冬の寒さは厳しく、今では地球の温暖化と暖房の完備で真冬でもそれ程苦痛でないが、電気もガスも水道もないころの生活では、「死の季節」冬をことさら恐ろしがり、暖かくなる頃、「生きかえる」春の到来を心から喜んだのだった。人形を川に流す習慣は、日本ではのどかな夏の風物詩であったが、こちらでは春を喜ぶお祭のひとつの催しだった。


オロモウツ県のなかでも土地が平坦で土地が肥えているお陰で農業が栄えた地方をハナー地域と呼び、豊かさが育んだ伝統衣装はチェコで最も美しく豪華なつくりになって伝統衣装といわれる。現在では、ハナーというとハナーの伝統舞踏が有名となり、伝統衣装で着飾った男女が室内の舞台か野外で舞踏する。

ハナー地域に25ほどのグループが結成されて伝統を守っているが、社会主義時代には団体活動は事実上禁止されていたので,伝統を守るのは大変な苦労であった。ひっそりと継承した踊りの文化は、だが、自由化後にはすぐ復活した。

f:id:fksa:20060906125034j:image

通路には、古いハナー衣装の写真が飾ってある。1830年、1837年の絵画もある。


プシェロフの博物館では、チェコの大教育家コメンスキーを知るのと、ハナーの衣装を見るのが値打ちだろう。

 

チェコのマンモス化石 チェコのマンモス化石を含むブックマーク

マンモス化石についてもう一度整理して書いておきたい。

プシェロフ市郊外のプシェドモスティはむかし大量のマンモス化石が発見されてたいへん有名なところである。プシェドモスティで2006年7月現在、やっと本格的調査が始まった。この発掘現場は、今までに本格的発掘がなされてきたヴェストニツェという有名なマンモス化石の地よりも、さらに劇的な発見があるのではないかと期待されていが、本格的な発掘と調査はずいぶんと遅れてしまったが、これから取組むそうである。


ここですでに正式なチェコ考古学上の大発見となったヴェストニツェというチェコ中南部で発見されたマンモス狩猟民の遺跡の報告を翻訳して要点をメモしておきたい。

Images of the Past, T.Douglas Price/Gary M. Feinman共著、2001年第三版、

Dolni Vestoniceの章、P.124〜P.127

 かってヨーロッパのツンドラ地帯にはマンモスが生息していた。チェコのヴェストニツ          

 ェには800〜900頭のマンモス化石が見つかったが、黄土に覆われた土壌に埋もれていた化石の保存状態はいいものであった。

 1947年から本格的な発掘調査が始まり、25,000年前の化石がたくさん見つかった。当時この地方は永久凍土に覆われていたのだった。

 そこには巨大な小屋があった。石、土、木柱、マンモスの骨をつかって建てた住むための建築物で、9x15メートルの楕円形をしていた。そこに堆積していた灰のなかに、マンモスの骨に女性を彫刻した見事な美術品が見つかった。ヴェストニツェのヴィーナスと呼ばれる作品である。

f:id:fksa:20051022170100j:image

 その後近くのべつの小屋では中空の小鳥の骨が発見されたが、楽器として用いられたようである。さらにその小屋の真ん中には炉床があり、そこに2300個の15,000年ぐらい前に焼いた粘土の小さな像が出土したのである。いまだ陶器製造の方法が発明されていない前の、世界でもっとも古い焼土の像であった。

プシェドモスティー プシェドモスティーを含むブックマーク

 わたしが散策したマンモスの地を説明しておきたい。

http://4travel.jp/traveler/fk/album/10026504/

  チェコ鉄道プシェロフ駅からバスで10分のところがバス停プシェドモスティーだ。プシェドモスティーは大戦前は寒村で大きな建物といえば教会だけだった。プシェロフ市に建設された工業が大発展する第二次世界大戦後の社会主義体制の時代にこの寒村は開拓され市に組みこまれてから多くのアパート(パネラークと呼ばれる高層住宅)が建設されて,住宅街となった。なだからな傾斜地の郊外は閑静な住宅地であるが古代人が住んでいたのとマンモスの骨が大量に発見されたことで研究者のあいだではよく知られている古代人も住んでいた場所。

 

 パネラーク群の中にちょっとした記念公園がある。そこには大きな岩があり24,000年前には人々が集落をつくり生活していたと説明書きがある。マンモス狩人たちの部落であった。1571年にはすでに,ある学校の先生がこの地には古代遺跡があるはずと発表している。 プシェドモスティー住宅街からかなりの勾配をしている散策道がある。その先1.5kmに数年前にマンモスの像が建てられ記念公園が完成した。そこを目指して歩き出した。


 散策を始めるとすぐ左手に,150年前に大量のマンモスの骨が発見されたと伝えられる場所があるがいまではなにも残っていない。そこには記念碑も何もなくただ雑草ばかりが生い茂っている。 道路の右には小学校があってその校舎の中に簡単な博物館がある。もちろんマンモスの博物館で,小学生にとり大好きな展示などがたくさんある。


 丘を歩きながら道路の右を眺めると低くなっている遙か彼方には牧歌的な村がある。そのまた遙か彼方には,右と左に続く山脈系に切れ目があり低地になっている、これがモラヴィアン・ゲートと呼ばれる古代からの街道である。ポーランドに続く街道が太古の昔から通じ通商で重要なモラヴィア門だ。そのなだらかな街道はマンモスやズブル(野生牛)など古代生物も往来しただろうと想像されている。人口大移動も戦争の軍隊もこの道を通ったことであろう。

 丘の上から右側の遙か彼方に煙突をみる。長い間チェコ産業の一つの代表だった砂糖工業は製品を欧州に輸出する大切な産業だった。経済自由化後,その会社はフランスの砂糖会社に買収された。そして潰された。 フランスの会社が砂糖をチェコに輸出する目的で安くチェコ企業を買収してから倒産させたのだった。チェコへの外国投資ではこの様なケースが山ほどあり,チェコ人は戦々恐々としている。チェコ人には外国を信頼することができないという難しい歴史的背景があるのに、いままた外国資本の餌食になる会社が多い。


 バス停プシェドモスティーから1.5キロの距離は、散歩するのに丁度いい傾斜と道幅で,それに右側遠景がポーランドに向いている景色が雄大である。人の気配もなければ自動車も走っていない。麓のベチョヴァ川沿いはむかしの琥珀街道だ。古代人が眺めた景色がおおく残っているような自然の風景だ。


 マンモス像が林の中に見えてきた。150年前1000頭近くのマンモスの化石が見つかった。が,当時の寒村の人々はその価値を全く知らなないので,骨を砕きビートの飼料にしたり近くの砂糖工場に売って、砂糖フィルターとしてぜんぶ使われてしまった。あとで後悔したのは学者達だった。だが幸いにその後も少しずつ骨や古代人の生活遺跡が見つかっている。

http://4travel.jp/traveler/fk/album/10083797/ ○プシェロフ

f:id:fksa:20060910110827j:image

f:id:fksa:20060910112937j:image

shinesunishinesuni 2006/09/10 04:06 プシェロフ も面白そうですねww
この地域ハマりそうです♪

fksafksa 2006/09/10 11:27 shinesuniさん,プシェロフは日本では教育者コメンスキー研究のなかでしられていると思います。チェコでは中堅都市でウイーンとポーランドのクラクフを繋ぐ鉄道の要駅として発展しました。そのずっと前は古来交易の中継村として存在。一番上の写真には彼方にポーランドに続くモラヴィアの門(山脈の切れ目)が見えます。
プシェロフでは骨董屋が,実は,面白いですよ。民族的には,ロマ(ジプシー)が多い。チェコ人口の3%以上がジプシーだといわれていますが統計にはあらわれません。私はロマの歴史にも同情しています。

shinesunishinesuni 2006/09/14 11:02 Prerov のrの上にレが付いてプシェなんですね^^;
ポーランド語でソリ舌のrzが同じ表記だと思います。
1文字にするか、2文字にするか...対応するのが大変です^^;

fksafksa 2006/09/16 06:09 shinesuniさん,おっしゃるとおりです。少し慣れると日本人のチェコ語発音はとてもよいそうですが,ポーランド語もそうでしょうか? OFF会参加ですか?

shinesunishinesuni 2006/09/18 07:13 日本語にはない下の位置が多数あるのですが、他の舌の位置で代用できますのでそれなりに綺麗になるのではないでしょうか...
OFF会?なんのですか??

汁ーんwwwwww汁ーんwwwwww 2009/06/15 06:16
週一ペースしかやってないのに20万振り込まれててぶっちゃけ手震えたww
とりま、あと4人こなしたら単純に100万だし・・・楽勝じゃん?
女の言う通りにマヌコ刺激してあげるだもんなーヽ(´ー`)ノ
俺は自分が気持ちよくないとイヤだから本番もやってるけどねwwwww

http://shiofuki.navi-y.net/lsPQXlV/

2006-09-05 fksa流チェコの旅

[]6月27日 11:47 6月27日を含むブックマーク

実業家ジュラチャン氏が経営するレストランや現在開発を進めている洞窟を案内すると申し出てくれた。

チェコの保養地 チェコの保養地を含むブックマーク

 オロモウツから東に車で20分足らず走るとテプリツェという所に行く。テプリツェは保養地で知られ健康治療スパーの町。チェコ国内からの保養者も多いが西欧からのお客さんがいつも散歩したり買い物をしているから、モラヴィアでは珍しく外国語が氾濫している町という特徴がある。もちろん国際見本市があるときには外国からの訪問客が絶えないブルノというイベントで外国人を引き寄せる都市もあるが、観光とスパーを組み合わせて外国から年中西欧人を引き寄せている都市はチェコ東部では二ヶ所しか知らない。実は水治療を開発したのはオロモウツの北の山脈の村に住むドイツ人だった。イエセニーキー山脈の懐に銀採掘で繁栄したイエセニークは、銀が枯渇した頃、ドイツ人が水を使う健康回復治療法を完成した。彼は農業を生業としていたが傷を癒すのにきれいな水を患部に流し続けると自然に治るというのを発見した。イエセニークの自然水の成分が治療にあっていた。

テプリツェ テプリツェを含むブックマーク

テプリツェのスパーを擁する大きなホテルが立ち並ぶ保養地も森林のなかにある。19世紀後半にはいってイエセニークもテプリツェも水応用の治療で人を集客して開発が進んだ。オーストリア帝国の衰退が忍び寄っていた時期ではあったが、鉄道網の発展はドイツ人の旅行ブームを開花させた。贅沢に設計された独特な建物群や、よく整備された緑と林のなかの散歩道、外観がお城のようなホテルを見学するだけで、往時の繁栄ぶりを偲ぶこともできる。

食事の面からいっても、チェコもオーストリアも今よりももっともっと肉食に偏っていたから健康を害する人が多かったであろう。パンにはラードを塗っていた。野菜不足は日常的だった。

そしてチェコのスパー産業はいまふたたび健在なのだが、それは、西欧に比べて滞在と治療の料金が安くつく、という理由からでもある。わたしは今のところ幸いにも健康を損ねていないのでスパーには浸かったことはない。スパーの楽しみを語る資格はないが、そこでの森の散策、洞窟探検、ホテルの食事などだけで結構健康を回復したような気分にはなる。

現在では15年前の国民の健康状態よりも相当改善されたという統計があるが、それでもいまだにしょっちゅう風邪をひいたり健康を害するチェコ人は多い。進出した日本企業はまずそれに驚かされるが,チェコの伝統的な食事というものを知ればさもあらんと悟るわけだ。

 今日はベチョヴァ川の向こうにテプリツェの森とスパーの建物群を見ながらジュラチャン氏の車で県道を走った。ヤロさんが通訳。妻はチェコの保養地をながめるのは初めての体験だった。日本でいうと軽井沢の風景であるが建物の設計が異なっている。ローカル線無人駅テプリツェ駅を過ぎるとすぐ彼のレストランがある。

f:id:fksa:20060905114415j:image

洞窟レストラン 洞窟レストランを含むブックマーク

モラヴィア地方ではかなり知られていた石灰製造・加工の工場を上手に改造してレストランと宿泊施設に完成させたものだった。16世中葉から1976年まで近くで採掘した石灰岩を1000度の高温で溶かし石灰として建築用レンガを製造していた。その現場は地下にあり改造後の今は、1000度で溶けたレンガがガラス状に硬化してピカピカと光り輝く壁になったものをそのままにし、石炭石を落とした穴も、通気口も残して、洞窟レストランに仕上げてあるから、元石灰工場の洞窟レストランである。むかしの石灰煉瓦製造法を将来に残す記念的な仕上げになっている。

この国には洞窟は至るところにあり、洞窟活用のレストランは少なからずあって新しいタイプのレストランとして人気がある。しかし、それにしても、レンガが溶けて光沢が美しい壁となった洞窟で食事をするというのは珍しいから話題になり、週末にはお客が集まるので事前予約が必要だ。これほど美しい地下洞窟で食事するなんて、素敵と、妻は喜んでいた。

f:id:fksa:20060905114614j:image

大自然 大自然を含むブックマーク

ジュラチャン氏の開発途上な土地を本人に案内してもらった。鬱蒼と茂る山林の湿った地表にぽっかりとあいた露天の洞穴を指し示されるまま上からのぞいて観察してみたら、表面が軟らかそうな成長している岩石というものがあった。自然が今の瞬間生き続けているそんな場面を見てわたしたちは感激してしまった。唖然としてしばらく眺め続けたが、それは日常生活には見当たらない神秘な自然界の息吹だった。これから調査を進めるという。


氏の山林には他に洞窟が二つある。開発を始めたばかりで水溜りがあちこちにある、湿った大地の足もとには、まだ電灯も準備していないから歩き進むのが恐ろしくなるような野性味に富んだ真っ暗な自然穴だ。フクロウを恐ろしがった妻もついつい迷路に誘われて奥に奥にと突き進む。大小の空間がすでに発見されている。迷路の中の一所では、なんと大きな水がめがあり緑の水が眠っているではないか。どれほどの深さなのか、地下水はどれぐらいあるのか、なにもかもこれから調査するのだとジュラチャン氏が語る。

恐る恐る進んだ。目の前につららの格好が現れた。何万年もすれば石柱となるのだろう、その若くて成長している洞窟天上からぶら下がっている物体の下端から一滴しずくが落ちるのをタイミングよく見た!! 触ってみた!! 冷え冷えとした大自然のなかで、悠久の時を味わった瞬間であった。

氏は洞窟の水を銅管で引くスパーを建設中だ。塩素系ナトリウムを多く含む水は、テプリツェのスパーの水と同質なのだ。

f:id:fksa:20060905114842j:image

地底湖 地底湖を含むブックマーク

無人のテプリツェ駅から徒歩で一キロ離れたところに国の自然公園があるというので、わたしたちは自動車に乗って、遠回りして、背の高い野草が目の前をふさいでいる道を走った。テプリツェ駅から公園には自動車道が通じていないから、遠回りしたわけだが、そのお陰でなだらかな丘を眼下にしてかわいい小村が散らばる平原と遥かかなたの山脈を見学するドライブだった。10月の紅葉は美しいそうだ。

国の自然公園へは草木をかき分けて入った。

国指定とはいえ自然公園に興味があったわけでないがジュラチャン氏がつよく勧めるので連れて行ってもらったこの公園には、わたしは初めてお目にかかる地底湖というのがあった。中欧でもっとも深い地底湖だという。

林の中にぽっかりとおおきな穴があいている。水が落ちているわけではないから滝ではない。やはり地底湖と呼ぶのだろうか、または水中洞窟と呼ぶのが正しいのだろうか、眼下に小さく見える小屋があり、梯子が水面に潜っている。ガイドがいないと水面近くまで行けないのでわたしたちは手すりにつかまって水面を覗き込んだ。

聞いた話によると、1995年には水面下205メートルの深さを確認した記録があり、最近はオランダ人探検隊がロボットを沈めて水面下260メートルぐらいはあると観測したが、確認はできなかったそうだ。未確認では300メートル以上の深さだと報告されている。

冒険家にとって挑戦の甲斐がありそうなこの地底湖は、フラニツェ洞窟の底である。フラニツェはオロモウツから30キロメートル東の町で、その洞窟は町の南方向の郊外にあるローカル線テプリツェ駅から一キロの距離。

f:id:fksa:20060905114933j:image

今日案内してもらった場所のごく近いところには石灰を採掘した現場が残っている。治療スパーで療養者と観光客が集まるテプリツェも近く、そこには観光者が冒険する探検洞窟がある。フラニツェからさらに東40キロも行くとわたしたちも観光した古代化石が発見されたシプカ洞窟があり、その他古い人類の骨が発見された洞窟もある。ジュラチャン氏の洞窟も、国指定の自然公園の地下にある地底湖も今後の開拓が楽しみな大自然の贈り物である。

食事ではマス料理をご馳走になった。

http://4travel.jp/traveler/fk/album/10085097/

f:id:fksa:20060910113212j:image

shinesunishinesuni 2006/09/06 08:22 洞窟レストラン 凄いですねww
面白そうな所が沢山あって みるだけでもワクワクしていますww

fksafksa 2006/09/06 09:09 shinesuniさん,洞窟は欧州中どこにもあると思いますが,かなり最近まで中欧では活用されてきたはずです。「プラハの春」という小説にもでてきますね。それがレストランに応用されているレストランがあってなかなか雰囲気がいいです。この洞窟レストランはもと工場だったという点で背景が異なるので面白いです。周りが森林とスパーの地というのも特別な雰囲気を醸し出しています。自然を楽しむ所です。

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/fksa/20060905

2006-09-03 fksa流チェコの旅

[]6月26日 14:19 6月26日を含むブックマーク

三位一体コラム(柱)という記念碑がチェコ共和国オロモウツ世界文化遺産に登録されたのはミレニアムの年2000年で、その最後の月にユネスコ登録記念のお祭があった。静かな古都にとっては近年始めての賑わいで、人口の大半が市街に繰り出す騒ぎだった。


 天気のよい季節になるとこのコラムの内部にある礼拝堂で尼僧がカトリックのせつめいや聖三位一体のコラムについての説明をしている。この尼僧は懇切丁寧なお話をしてくださるが、いかんせんわたしには言葉の障壁があってさっぱり分からなかった。今日こそはとヤロさんの通訳でお話をうかがうことになった。30分以上もかけていろいろな側面からカトリックにまつわる物語を説いていただいた。そしていままでボヤーとしていたオロモウツという町の歴史的な特徴がわたしには、はっきりしてきた。ここで改めてわたしなりに捉えたこの都市のイメージを書いておきたい。

町の特徴を醸し出す歴史 町の特徴を醸し出す歴史を含むブックマーク

 この町の突出した特徴は,カトリックが権勢を欲しいままにふるった時代から司教座があったことにある。時を経て司教座は大司教座に昇格して,ますます贅の限りを尽くした。もうひとつの特徴は,宗主国ハプスブルク家の帝国領土をまもる砦として発展したことだ。それらは長い歴史のあいだにあらゆる面でドイツ文化の影響を徹底的に受けてきたという特色を際だせることになる。この町はドイツ人に支配され続けてきたと表現する方が分かりやすい。


第二次大戦ではチェコ全土はドイツに支配されて、好まないのにドイツ軍のための武器弾薬などの物資を製造して供給するという侮辱的な経験をした。そのお陰というのか、歴史の皮肉か大戦中には戦場にならなかった。オロモウツの工業と産業、さらに軍事施設はドイツのものであった。


チェコが二度目の独立を果たした直後にはソ連邦に組み入れられてしまったがこれも人々が望んだことではなかった。オロモウツには社会主義時代にはロシアの大部隊が駐留した。人々はひっそりと、そして地味に暮らすよりなかった。大きなグループで踊ったりするのは許されることでなかった。


 そして,その歴史が古い貴重な建築物をたくさん生き延びさせてきた。社会主義時代にボロボロに朽ちさびたそれら記念的な教会,宮殿,建物物などが21世紀になり修復されていまやっと蘇えりつつある町なのだ。

贅沢だった司教・大司教が建築・改築した豪華絢爛たる装飾を戴く建造物はいまでは遠くからも注目され始めて観光客が毎年少しずつ増えている。それが古都オロモウツである。


旧市街の広場に聳える「聖三位一体碑」が2000年にユネスコ文化遺産に登録されて一躍有名になった。大火に,戦争に,ペストに,くり返し襲われては廃墟に化したが,その度に聖職者の尽力で蘇った。1700年代末期に大火災があった。1710年代のペストでは3万の都市住民が1,500人だけ生き残るという有様、凄まじい伝染病だった。その様な過酷な歴史を経て、ペストが収まったのを神に感謝して建造されたのが,この文化遺産であった。(その後の歴史も過酷であり続けたのだが)


女帝マリア・テレジアも皇帝も聖三位一体碑の開幕式に参列した。枢機卿というローマ教皇の次に高位にある聖職者もオロモウツに馳せ参じた。その場面の大きな絵画はときの最高権力者たちが集まる華やかな絵巻そのもので、オロモウツ大司教博物館に飾られている。

この碑はローマカトリック教の戦勝記念でもある。

世界文化遺産というもの 世界文化遺産というものを含むブックマーク

この35メートルの文化遺産は日本人にとって簡単に値打ちや意味がわかる代物でない。世界中には目の覚めるような美しい遺産、巨大な遺構、大自然などたくさんあるから、すでにそれらを見学された方にとり、これが世界文化遺産なのかとむしろいぶかしがる日本人は多い。でも少しだけといえどもその歴史の特徴を学ぶことができたので、もう一度「聖三位一体」の柱を正面外見から見学した。


簡素な造りの日本に残る神社やお城を美しいと鑑賞する美意識からすると、金襴豪華で出っ張りがなにやら意味を成している柱頭の一体物や下半分には石像がほぼ左右均等に配置されている柱の全体をながめて、ずいぶんと物々しいあまり格好のよくない物体があるという感じにも見えてしまうかもしれない。


柱頭に座っているのがいわゆるオロモウツの「聖三位一体」で、左手を天にかざす父なる神、右手に十字架をもつイエス・キリスト、真ん中にシンボルである鳩がとまって光を天に放つ精霊が一体となって神を表す。

その下に剣をたずさえて天国を守る大天使ミハル(又はミカエル)が座っている。彼の下方向は地上であり、真下にちょうどマリアが二人の天使に助けられて天国に昇天する場面が目に入ってくる。一見すると、上方にいる大天使がマリア様を引っ張り上げているように思えるが、そうではなくて、天国と地上を自由に飛ぶことのできる天使がマリア様を天に導いている。そこまでの石像は金箔が貼られて金色に輝いている。


キリスト教のいう地上を見るが、正面の礼拝堂入口の手前には、左右に二人の天使が松明トーチをかかえている。夜は明かりをともして信者を迎えてくれたのだろう。

礼拝堂入口の半円アーチの上には文字が刻んである。宗主国オーストリア皇帝と后が列席あそばしてこの記念碑を神様に奉納いたします、という内容。

その上の円形縁のなかに浮彫りされた人物はイエスの12使徒のなかでも一番弟子であった聖人ペトロ(ペトゥル)。ローマで布教活動を行っていたペトロは時の暴君ネロに捕まり十字架に架けられたが,神様であるイエス・キリストとおなじ姿ではおそれ多いと自ら頭をしたに逆さに架けられたのだった。

なお、礼拝堂の分厚い壁外側には12使徒みなの浮彫りが施されている。


 もう一度礼拝堂の入口をながめる。石像がそれぞれの柱の上に立っているが、一段目の右側には若きヴァーツラフの像。彼は殉死して「ボヘミアを守る聖人」としてチェコを見守り、困難が現れると馬にまたがり国の困難に立ち向かうと言い伝えられている。彼の名を冠したヴァーツラフ大教会はオロモウツの観光スポットの一つとなっている。

 一段目の左方向には、聖人モジツが立っている。モジツはアフリカ生まれのローマの軍人だったが後にオーストリアを守る聖人として列聖した。彼の名を冠した聖モジツ教会もオロモウツの観光名所で、とくに国際パイプオルガンの音楽祭で知られている。


二段目の左右にみられるのが、チェコにキリスト教を伝えた二人の聖人で、「モラビアを守る聖人」ツィリルとメトディウス。そして三段目左右の聖人は、聖母マリアの両親である。

f:id:fksa:20051109135100j:image


そのほかにもたくさんの聖人像がたっている。イエスの育ての父、洗礼を制度化したバプディスト、市庁舎の礼拝堂を守る聖人、私物をすべて貧しい人に与えたスペイン生まれの聖人、懺悔の秘密を守って殺された聖人二人、イタリア生まれの消防の聖人、などが立っている。

聖人物語はいつブームになるか? 聖人物語はいつブームになるか?を含むブックマーク

わたしはよく思うが、聖人に列せられた人物は実在した者もそうでない者も波乱に富んだ人生をおくったようで偉人風の人生物語になっているから、キリスト教が育った風土を知るのに役立つのではなかろうか。まったくこの世に実在できそうもないストーリーのギリシャ神話が幼児に読んで聞かせたい物語だとすると、神話よりもはるかに新しい物語だから、自分の趣味として読むと、往時のその地の世界観が理解できそうな、不思議なストーリーだと思う。いつかは日本でもキリスト教の聖人物語がブームになる予感がする。キリスト教で認められた日本人の聖人だって、いるのである。

礼拝堂 礼拝堂を含むブックマーク

f:id:fksa:20051109135300j:image

礼拝堂内部の壁には六つの浮彫りが飾られている。みな聖書に表れているという犠牲と生贄を捧げるシーンで、例えば、アブラハムが自分の息子の代わりに羊を焼いて神に捧げる場面のレリーフがある。「完全なる犠牲」となったイエスの十字架はりつけの浮彫りでは背景として、ちょっと驚くが、オロモウツの町が描かれている。なにやら悲しそうな町に描かれている… イエス・キリストは全人類のために犠牲になられたのであり、このオロモウツではオロモウツの民のために犠牲になられたのだという意味らしい。


礼拝堂ではどこまでも親切な尼僧が一生懸命キリスト教の話を語ってくれた。わたしも耳を傾けて聴き入ったが、ほとんどの内容は理解できなかった。それほどプロの聖職者の説明内容とは難しいものか… それともキリスト教という宗教又はその教義が理解しがたいものなのか、いつまでも不思議なのだ。まずは信じなさい、さすれば分かるのだ、という改宗を誘う決まり文句を思い出す…


礼拝堂から外に出て踊り場から市庁舎を眺めるとアングルがよい。踊り場から下に行くのに七段の階段があり、手すりがある。手すりに炎の形をした金色装飾がたくさんあるが、これらは尼僧の説明では、「愛の炎」だった。その下の階段は4段であるが、聖書は四名の作品で、その四という数字から、石段を4つに造られた、というのも尼僧の説明だった。七段の階段の「七」も意味があると尼僧は言ったが申し訳ないことに忘れてしまった。キリスト教も縁起というようなものを担ぐのだな〜と驚いてしまったのが原因で,キリスト教の七の意味は覚えなかった。

f:id:fksa:20051109135200j:image

趣味人 趣味人を含むブックマーク

夕方わたしと妻は友達に招待された。小高い聖なる丘コペチェックの一角に二年前から建築中だった大きな家にはまだ家具は揃っていないからできたての屋敷で、趣味人のご主人は家よりもプール付きの前庭がじまんだ。庭いじりが趣味な大男ネマイヤさんは、チェコ人共通の自然愛の心をもっていて、盆栽にも興味をもっている。

彼のもう一つの趣味はマシンだ。小型飛行機をもっていたがそれは彼の友達が墜落させてしまったから次の機種を探している。ネマイヤさんが獲得した今年の記念物は二つのトロフィーだった。アフリカとチェコでの自動車ラリーで優勝して得たものでまだ家具がなにもない部屋にひときわ目立つように置いてある。

今年はじめトヨタ自動車のカレンダー3種類をプレゼントした。説明が日本語なので飾ってくれるのかどうか予測できなかったが、車大好き人間というのは外国語説明という異物があってもそれを飾って自動車を理解するものかと認識した。ポスター兼カレンダーの写真に刺激されて、トヨタのランドクルーザに乗り換えた、それで優勝したといって高笑いしていた。


妻の方は奥方とペチャクチャ、子供や家の話をしていた。


http://4travel.jp/traveler/fk/album/10029771/

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/fksa/20060903

2006-09-02 fksa流チェコの旅

[]6月25日 15:20 6月25日を含むブックマーク

いそがしい海外出張のあいだを割いてパリからわざわざ観光資源を調べるためにオロモウツに来られた方をぜひともわが友ヨゼフに紹介しておきたいと考えて、彼の事務所に出向いた。みな忙しいので、10分ほど雑談をして分かれる。フジトラベルの岸さんは電車でプラハに向かった。

 わたしは自分のPCの置いてある部屋で一時間ばかり過ごしてから、妻とプラハに向かったが、運良くイタリア製のペンドリーノという今年のビッグニュースになっている高速電車の乗り心地を試す機会となった。


*p1*ペンドリーノ

 チェコEU欧州連合)加盟にそなえてインフラ整備を急いできたが、鉄道に関してもそうでレールの取替えと、曲がりくねっていた場所ではなるべく直線にするための新たな路線の敷設、駅構内はバリアフリーに近づける工事やあらたな駅の建設、トンネルの工事など続けていた。そして、イタリア製のペンドリーノの運行が今年2006年1月から始まった。前評判の高かったこの数台のペンドリーノエンジンは、だが、ながねんのチェコ当局とイタリアのメーカーとの技術的打ち合わせにも関わらず、不幸なことに冬季はすべて不調だった。途中でとまって動かないという不都合が続いて発生して、鉄道は大混乱に陥ってしまった。わたしも日本人で最初にペンドリーノを体験すべく1月には切符を手に入れて乗り込む寸前でキャンセルされてしまったという苦々しい経験がある。

駅構内でまっているが、30分遅れがアナウンスされる、そのあとにさらに50分遅れ、その次には2時間遅れとスピーカーから連絡していた。駅員に尋ねるといつ動くか分からない、という返事しかもどってこない。こうなるとその電車は早めにあきらめるのがよい。だが、その電車が主要駅のあいだでとまって動かない場合は、その日一日中電車を待つことになるかもしれない。わたしはその日急ぎの用事があったから電車以外の交通手段を考える必要があった。


 ただし、この2006年の冬は欧州どこでもたいへんな厳寒で、その例外的に厳しい寒さがペンドリーノのエンジンに不調をきたす原因だった。チェコでは自動車も動かなくなったが、寒冷地ではほぼどのメーカーの車もみな支障をきたした。ジーゼルの凍結という問題が発生したのだった。わたしはトヨタ車でボヘミアモラヴィア山地を走っているときにそのトラブルに直面した。一面雪に覆われた高原でエンジン不調の警告を発生する設定温度に達して車の制御が利かなくなった。それは早朝だったから、たいへんな思いをしてサービスを受けるために車を修理工場に運んでもらっておいて運良くポーランドからやって来た車に便乗させてもらい目的地のプラハまで行き着いたのだった。


 春になってからペンドリーノは順調に走るようになった。約250キロのプラハとオロモウツ間は以前の特急では3時間半程度は覚悟せねばならないが、ペンドリーノでは路線も直線が長いのと停車駅が少なくなり、2時間と少しになった。ひじょうに快適なスーパー特急である。もちろん日本の新幹線に比べるのは気の毒であろう。フランス自慢の新幹線でもそうなのだから。


 

 プラハについてホリショビツェ駅構内で食事をするつもりだったが、昼食時間を過ぎていたために、スープさえももうなかったから、今晩妻が宿泊するホテル近くのトルコ料理店を妻に紹介した。チェコではまだトルコ料理はめずらしいので珍しいシシカバブなどを妻は美味しそうに食べていた。

f:id:fksa:20060902152657j:image

トルコ人たちがわたしたちに話しかけてきたので雑談をした。日本語を少し理解する気前のいい男性がいてタバコ一本とトルコ・コーヒーをおごってくれた。大阪女性と付き合っていたときに日本語を覚えたと言っていた。

彼らはTVの周りに集まり、米国がテロを撲滅するという報道に息を潜めて耳を傾けていたが、分かれるときにはひとつ忠告してくれた。プラハではドロボーに気をつけるようにと。


f:id:fksa:20060902152502j:image 

 今日プラハに来た目的は、さくじつ天文時計のある搭に登る途中で財布の中身を上手にすりとられた女性を励ますためだった。彼女と友達の二人は今日は通訳付きでプラハ南部へ足を伸ばしていたが、わたしたちがプラハ到着するころにはホテルに戻っているはずだった。だがどうしたことかバスで出かけていて、大渋滞にまきこまれ何時になったらプラハに着くのか分からないという連絡が携帯電話に入った。それで、時間つぶしでカレル橋にいってみた。


*p2*カレル橋のザビエル

カレル橋の雑踏のなか,いならぶ聖人像のなかに、わが国にキリスト教を伝道した「海外布教の聖人」の像がある。イエズス会設立のメンバーの一人でもあったザビエルは日本をほめたたえた敬虔なる宣教師だった。宗教戦争を繰り返した欧州が殺伐とした魔女狩り旋風の中にある暗いくらい本家キリスト文明からやってきて、比較すればとてつもなく平和な日本で、親切で人のいい日本人とつきあって、人間というものが風土・環境によって影響されるものだと考えたかも知れない。またはまだそれほど多くの海外文明に触れていなくて,地球文明の分析はできなかったもかも知れない。ともあれ,日本についての彼の印象はすこぶるよかった。


「この国のかたち」二 司馬遼太郎 文春文庫 P.236 「聖サンフランシスコ・ザビエル全書簡」(アルベール神父・河野純徳訳・平凡社)から引用する。

 「-----この国の人びとは今までに発見された国民のなかで最高であり,日本人より優れている人びとは,異教徒のあいだでは見つけられないでしょう。彼らは親しみやすく,一般に善良で,悪意がありません。驚くほど名誉心の強い人びとで,他の何ものよりも名誉を重んじます。大部分の人びとは貧しいのですが,武士も,そうでない人々も,貧しいことを不名誉とは思っていません。」


日本歴史の大事件のひとつは信長が宗教の政治への介入を叩きのめしたことであろう。私利私欲にかられた僧侶たちを徹底的に殺戮してしまった。それは日本にとってひじょうに幸運したというのは今では定説になっている。


男の肖像 塩野七生 文春文庫P.74から引用してみたい。

 「織田信長が日本人に与えた最大の贈物は,比叡山焼討ちや長島,越前の一向宗徒との対決や石山本願寺攻めに示されたような,狂信の徒の皆殺しである。」

(中略)

 「キリスト教徒だって,信長の存命中はおとなしかったから仲良くしてもらえたので,他の布教国で行っていたようなことを日本でもやりはじめたら,とたんに信長から「焼討ち」にされていたであろう。とくに,日本への主力は,イエズス会という,ヨーロッパでさえ追放せざるをえなかった国があったほどの,「悪名」高き戦闘集団であった。」


P.76 「この四百年の間政教分離の伝統を維持してきた国は,欧米諸国が現在にいたるまで,この問題で悩み苦しまされてきた実情を知れば,われわれのもつ幸運の大きさに,日本人がまず驚嘆するであろう。」


かっての日本のよき時代を垣間見た欧州人には、わが国を最大限の賞賛でもって言い

表した人々が多くいた。イエズス会のザビエルでさえ彼にとっては異端の日本人をほめたのだった。


*p3*スリにあった人

大渋滞のなかバスでご夫人3名がプラハに戻ってきた。疲れきっていたが、さっそく手提げかばんにいれた財布から現金とカードがいかに手際よくすられたのか驚きの声で説明した。

ビールを飲みに出かけたら、ひとつの門を眺めるのに都合のいいレストランがあるのでそこの道路わきの席にすわった。夕陽がつるべ落とし、夜の雰囲気になった。

f:id:fksa:20060902152552j:image


 細かい説明を聞いた。彼女たちはその事件を報告に警察にいった。警察の建物で4時間待たされたそのあいだの印象は恐ろしく、泥棒にあった人々がたくさんいたし、話しかけてくる連中も泥棒にみえてしまったそうである。置き引きなんぞ日常茶飯事となっている大都市のプラハならではの経験を3女性は体験してしまった。遠くの地に観光で行って、貴重な時間のうち半日も失った二人は悔しく思った。


*p4*チェコの通訳

 通訳のことを少し書いておきたい。チェコでも日本語は希少言語であるから通訳も翻訳もとても高い。なぜそんなに高いのか、まだ生活物価の低いチェコには不相応でないかと日本語学生に質問したことがあった。返事は、ヨーロッパのどこでも高いですよ、という理屈がかえってきた。たしかに、希少なものやまだ一般的に出回っていないもの、贅沢な自動車や電化製品,電子製品等はお隣のオーストリアやドイツよりも高いぐらいだ。まだまだ起業家の生まれにくいという競争原理のはたらかない若い自由経済だから仕方のないことであろう。


 二人の日本女性に紹介したチェコ人は日本語を学んでいる学生で、妻が親しくしているプラハ在住の女性だった。

 オロモウツを出発してプラハ到着の時点から二人の観光者を案内して欲しいと頼んでいた。到着した二人にはプラットホームにポーターも待っていたそうだ。このポーターに支払いが生じた。駅をでると通訳はタクシーを呼んだ。駅から歩いて5分のところのホテルを予約したのに、一方通行でおおまわりしなくてはならないタクシーを利用した。ホテルではまたポーターを使い荷物を部屋に運ばせた。そのチップが約500円だった。言いなりにならざるを得ない二人だったが、その後もなんだかんだと出費がかさみ、その高さに驚いていた。物価のやすいチェコ東部で一週間ほどかなり豪華に旅行を続けた後にプラハと近郊を歩いてた印象は,プラハでは何でも値段が高くてお金が飛んでいった,だった。


 この通訳はけっして安い料金を二人に請求したのではなかったが、最初の夜,分かれるときには、ホテルに近くもないのに、自分の電車の都合いい場所でさよならと言って電車に飛び乗ったそうである。次の日には朝ホテルに電話して、どこそこで待っているから来てくれと言ったそうだから、僕もちょっと呆れた。

 この様なことは習慣が異なるので非難というのはできないが、大学で日本語を教える先生もガイドをやったり、日系企業でアルバイトをする。日本人のプラハ観光ブームと日系企業の進出ブームが日本語を少しでも操る人の料金を跳ね上げてしまった。だから、市場原理がつよく働いている希少言語の分野なのだ。ただし稀少ではない英語ガイドさえ安くはない。


*p5*タクシー

 妻は二人があすプラハ空港から帰国の途に着くので、翌朝タクシーに乗りエアポートで帰国手続きを済ませるまで付き合うことにして今晩は二人と同じ部屋に泊まる。このタクシー手配は妻が日本の旅行代理店に頼んでいたが,ホテルで明日のタクシーを確認すると,レセプションの女性は,彼女たちのタクシーは予約も手配もしていないという。

 それでは仕方ないのでレセプションの女性にタクシーを予約手配してもらった。タクシー代金は明日本人たちが払うことになった。そして私は電車の深夜便でオロモウツに向かった。

 このタクシー手配の件で帰国後に旅行代理店にクレームを出した。そして私が理解したのは,この日本の大手代理店はタクシー手配をプラハの大手の旅行代理店に依頼して予約をとって,本人たちは日本出発の前に日本で円払いしていた。それにもかかわらず,だれもホテルにはその旨連絡をしていなかった。本人たちはプラハでどこそこにタクシーの件で確認するようにという指示は日本で受けていなかった。

 これも後日判明したことだが,タクシーは代理店が手配したように約束の時間にホテル前にきて本人たちを待っていたそうである。この手の間違いやトラブルはこの国ではときどき発生する。まだまだ何事に於いても,特にサービスと段取りにおいて細やかな心遣いが行き届いていないからだ。言語に少しぐらい自信があっても,意志疎通と通信には念には念を入れて確約し,その上にこちらから最終確認を怠ってはならない。


*p6*深夜の電車

電車のコンパートメントにはドイツでサッカーW杯を観戦した米国人学生が二人いた。私も一緒になってビールを飲み交わして会話が続いた。満員の電車はウイーンが最終駅である。この学生たちは米国チームが一次リーグで敗退したので、これから観光して帰国するという。その一人が言った。「プラハで食事しているときカメラを後ろに置いたが一瞬のあとなくなった」と。

サッカーの試合で撮った写真が恨めしいと残念がるのはとうぜんだ。気の毒な男であった。

f:id:fksa:20060902152759j:image

http://4travel.jp/traveler/fk/album/10031955/ ぶらりプラハ

http://4travel.jp/traveler/fk/album/10027555/ 文化遺産のあるプラハ

http://4travel.jp/traveler/fk/album/10054370/ 200冬のプラハ

shinesunishinesuni 2006/09/06 08:29 fkさん ペンドリーノの旅行記4トラで作ってくださいww
ぜひぜひお願い致しますm(_ _)m

fksafksa 2006/09/06 09:02 shinesuniさん,ペンドリ-ノについてブログに何度か書きました。が,実のところ快適であることと走行時速が速いこと(停車駅が少ないこともあって),車窓の風景が従来線とは違う事(所々)ぐらいが印象に残るだけです。もう一度体験してから4travelに寄稿するかも知れません。

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/fksa/20060902

2006-09-01 fksa流チェコの旅

[]6月24日 11:21 6月24日を含むブックマーク

ある地元の旅行代理店オーナーが一日わたしたちを案内するという。親切な申出なのでわたしたちはWさんの乗用車に乗り込んだ。

*オロモウツ・チーズ

オロモウツの名産をひとつあげて欲しいと問われれば、多くの地元の方はオロモウツチーズとよばれる変わったチーズを思い浮かべ、ちょっと嬉しそうな笑顔をするだろう。においが強烈だが食べなれるととても美味しくなるというチーズで、オロモウツケー・トゥヴァルシュキという。「初めての人にはとても無理だろうな…食べにくいだろうな…匂いがつよいのよ… でも試してみたら」とオロモウツ人は言う。

オロモウツチーズの村ロシュティツェには、オロモウツケー・トゥヴァルシュキ博物館がありその1876年以降の歴史とチーズ生産の道具類が一般公開されている。

2,000トンの年間生産というからかなり大量で、オロモウツのレストランならばどこでもメニューの一品に加えられている。たいがい油で揚げて提供されるから匂いはかれらが思うほど強烈ではない。生のトゥヴァルシュキだと外国人にとってははじめ匂いが鼻について後ずさりするだろうが、料理したそれを恐る恐る食べてみて、数度口にすればいがいと美味しい、数日後に口に入れると味が分かってくる、という代物だ。日本の納豆と思えばいい。風土に合う伝統の味わいが溶け込むオロモウツチーズの天ぷらである。たいがい、パフリカ、キュウリ、ジャガイモが添えられて一食となる。

オロモウツチーズの村は広場でお祭だった。今日は夏の土曜日にふさわしい賑やかな音楽が流れ若い男女が集まっている。

*プラハ観光

そのとき私の携帯電話がなった。プラハのガイドを伴っているわが二人のうちの派手な衣装をまとっている方からだ… プラハの天文時計の搭の中で財布から現金とクレジット・カードが抜取られた、というのだ。

たまげてしまった。ちゃんとプラハに住む女性ガイドが付き添っているし、最近日帰りでプラハ観光をして少しでも馴染みのある町にいるのではないか、なんどもなんどもプラハは大都市で危ないから気をつけるように注意を促していたのに…

警察に届けること、盗難事件として被害を受けたことを正式な書式に書いてもらうこと、カードがだれかに使われないように、すぐに銀行に連絡するように、などと被害にあった女性にアドヴァイスをするだけしか今はなにもできない。ガイドを引き受けてくれたチェコ娘にも少し助言を与えておいた。

観光旅行代理店のオーナーがわたしたちに見て欲しいのはボウゾフ城なので、少しいそいだ。幹線道路をはずれて丘を越え森林のなかに入ると広々と開拓されている目的地に入った。観光客が多い。

*ボウゾフ城

チェコでも指折りのお城で、地元の人々にも海外からの観光客にも人気のあるボウゾフ城はおとぎ話にでてくるようなロマンチックな造りとして名高い。チェコのお城や宮殿、それとカタコンブとよばれる大型の洞窟は映画の撮影にひんぱんにつかわれるが、チェコの子供にとっては絶対に行ってみたいところがこのボウゾフ城だといって構わない。

このお城の特徴は、実に頑丈な造りになっていることだろう。武士たちがたてこもり激しい戦闘に耐えて生活するために築城された建造物であれば、山懐の森林に覆われた小高い丘に建てられているのが普通だが、このお城はちょっとだけ小高い丘にそびえている。このお城は戦争に巻き込まれたことがあるのだろうか?

そとから正面をもう一度しげしげと眺めると、石造りの城壁は石のいろがそのままでごつい感じがするが、小粒の石畳の壁のように映っている。ゲートの造りも、左右に広がる建て方も左と右の均衡がまったくとれていない。左にキリスト教を伝道した聖人の石造があれば普通は彼の相棒の石像が右にあるのが自然なのに、相方はいない。お城の正面に半円アーチのベランダがある。右にはない。左の四角い窓と右のそれとはまったく不釣合いのところにはめ込まれている。左の屋根の陽窓もそうなっている。太陽時計が右側だけにうんと目立つ色で浮き彫りのように組み込んである。うしろに見える搭の窓々もランダムに配置されている。塔の上の三角屋根の窓もそうなのだ。

それらの変わった設計であるのに関わらず、美しいと表現できないのに,不思議に素敵なのである。それが、このお城の第一印象だった。つまり、装飾の要素ひとつひとつはロマンチックであるのに、装飾はたくさんあるのに,均衡というような大人の美意識には関係がないつくり… 

言い換える必要がありそうだ。かわいいロマネスク風な要素がいっぱいバロック風に散らばっているが、ゴシック時代のはでな雨ダクトが全体としては小粒においてあって、建物のパーツが日陰をつくり、とっても妖精的!! 紺碧の空を背景としたボウゾフ城正面は一幅の絵である。

城壁でぐるりと囲んだ中庭から見上げる場合には、不均衡の人工美に、騎士の風格が放つ荒々しさが加わって、楽しめる美しさというのを感じる。子どもに大人気な美しさなのである。

f:id:fksa:20060901111934j:image

お城内部の観光ではガイドにより説明を受ける。だが、展示品の数々をここで説明するのは割愛しておこうと思う。

*ドイツ騎士団

このお城の起源はボウゾフ家が砦を築いた14世紀はじめに遡り、その後所有者は時代とともに変わり、最後には1696年ドイツ騎士団修道会がボウゾフ城と周辺一帯の広大な領土を購入してドイツ人支配に下った。チェコは国の運命というものか、宗教戦争の地として記憶されるが、チェコ人による宗教改革の30年戦争というのが決定的な歴史のその時であった。この戦いにけっきょくは敗れたのだが、主なる相手がカトリック教に敬虔なハプスブルク家であり、敗戦後チェコ貴族は殺されるか帝国外に追放されてしまった。つまり、彼らの領土財産はハプスブルク家をふくむドイツ人のものになった。戦いに功績のあったものハプスブルク家に都合のよい者に領土財産は分けられたのだった。ここではボウゾフ城だが、1696年にドイツ騎士団修道会のお城となった。

ところが彼らはボウゾフ城には興味がなくて、権力者が誰も住まないから、風雪にいためられたお城は19世紀後半にはボロボロになっていた。そのボロボロの城が格好よかったらしくて、鉄道網による大旅行ブームの時代、産業革命で豊かになった人々の観光スポットとなった。まだ領主であるドイツ騎士団の居城は近くのブルンタル城かウイーンの宮殿であった。

f:id:fksa:20060901112039j:image

ところが、19世紀終わりに近い1894年になって、新しい騎士団の長官がやってきてからこの城は大改築されて騎士団の住む城館となった。この時すでに戦争目的の意味はなく、ロマンチックな彼の好みにより、豊かな財源を投入、15年間の歳月をかけて現在の形に仕上げたのである。ドイツ人建築家により中世十字軍の居城イメージをボウゾフ城の姿として蘇らせたものなのである。その長官はハプスブルク家のオイゲン大公だった。

 

*栄枯盛衰

尾ひれを付けておこう。1939年に騎士団のこの領土はナチドイツに没収され、第二次大戦チェコスロヴァキアはドイツ人を追放し財産を没収した。さきに書いた世界文化遺産のレドニツェもドイツ系リヒテンシュタイン家のものであったからリヒテンシュタイン家も追放されたし、またボウゾフ城の所有者だったドイツ騎士団修道会のメンバーも追放された。戦前チェコの価値ある財産はどれもドイツ系のものであった。追放命令で300万人以上のドイツ人はチェコスロヴァキアから命からがら逃れることができたが、30万人にも及ぶドイツ人は殺されたり自殺したり、戦後の大混乱が起こった。中欧諸国ではどこでもおなじような悲しみが起きた。日本が満州と千島列島で体験したのとおなじ戦後の悲劇がここでもあったことを記憶しておきたい。

きれいなお城を見学して満足したわたしたちはホテルに向かった。

*歴史

保守管理が行き届いたきれいな遺産もあれば一方でいつかは取り払われるような遺構もある、そんなことを道中考えてみた…すごく辺鄙なところにある、小さすぎる館やお城は値打ちが全くないから、むかし権力と富をもってなんでもできたドイツ人も興味がなかったし社会主義時代にもまったく注目されなかったから、崩れかかっている。今にも完全な瓦礫の山になっても不思議でない朽ち果て弱っている石の固まり、そのようなボロボロな古城を、だれも関心のない建物を、わたしは二箇所で遠くから見学したことがある。崩壊の危険があるから近づけないわけであるが、それほど古いものがチェコにはいまだに残っているのである。

http://4travel.jp/traveler/fk/album/10085068/

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/fksa/20060901