2010-03-28
シャングリラ−故郷と共に生きる
抗がん剤の影響で、ここ5日くらいの記憶はほとんどない。
ずっと寝ていたから。寝てるか食べてるか。寝てるか食べてるか・・・。
でも実は食べれていない。
また体重が減った。
次の抗がん剤投与日までに体重が戻らなければ、また申告しなくてはいけない。
抗がん剤は、体積に比例して量を決めているらしい。
非常に危険である治療なので、量管理が大切だそうだ。
体重が減ると抗がん剤の量を減らしてもらわないと危ない。
実は今回頭痛がした。
最初のアレルギー用の薬の時点で、かなり体がしんどかった。
粘膜部分が痒くなった。
前回よりもなんとなく、回復が遅い気がする。
それもそうか。白血球が完全に元に戻ってないのに、抗がん剤するんだもの。
抗がん剤が抜けるのに、数ヶ月かかるだろうな。
あまりのしんどさ、体のダメージに精神まで鬱々していた。
徐々にマシになるとは分かっていても、相当応えた。
こういうときは、自分の存在ってなんだろうと考えてしまう。
まあ大した存在じゃないほうが、大した存在ではないゆえに、理由付けがほしくなって考えてしまうんだろう。
でもそのときは真剣だ。今となっては笑ってしまうが。子供みたいだな。
今日はヤン・リーピンのシャングリラを観て来た。
これは抗がん剤後に見れるぎりぎりの日程だった。今日がラスト。でもどうしても観たかったので、吐いてでも観に行こうと思った。
チケットもギリギリ買えた。母や息子は興味が無いらしく、一人で観に行った。
観に行って大正解。
理由は2つ。
一つは舞台が素晴らしかった。→『シャングリラの舞台』
もう一つはこの部隊の成り立ち、経済活動だ。→『この舞台を支えるために−商業成功』
まとめはこちら。→『必死で生きてきたのか』
ヤン・リーピン氏について知らない人もいると思う。
中国雲南省大理地方の少数民族、ぺー族の出身。1971年、シーサンパンナ州歌舞団に入団、「孔雀姫」のヒロインを演じ、79年、雲南省芸能コンクールで優勝。86年、自身の代表作となるソロダンス「孔雀の精霊」を創作、同年、第2回中国舞踊コンクールで脚色・主演の2部門で1位を受賞するなど、一躍有名になる。90年、北京での第11回アジア・オリンピック閉幕式でも「孔雀の精霊」を披露。93年、中国中央テレビの春節番組(日本の紅白歌合戦のような国民的番組)で自ら創作・主演した「2本の木」は視聴率ナンバー1を獲得。97年、監督・主演した映画「太陽の鳥」は、カナダ・モントリオール国際映画祭で審査員特別賞を受賞。 2000年、雲南省の少数民族の文化を15ヶ月に渡って取材・探求。2003年、自身の創造力を駆使してこれらの要素を一つにまとめた、少数民族の旧き良き文化を現代的なコンセプトで融合して生み出した、全く新しい芸術表現「シャングリラ」を発表した。 2008年3月、「シャングリラ」の東京公演が大成功した後も、ますます創作意欲は盛んになり、同年、チベット民族をテーマにした新作「蔵謎」(チベットのミステリー)、2009年、「シャングリラ」の姉妹編ともいえる「雲南響声」(雲南の声)を続けて発表している。出典:ヤン・リーピン、プロフィール
台湾で資本主義的な暮らしをしていたが、90年代末に久しぶりに故郷を訪れて、その美しい風土が風化していることに愕然としたという。
それが今回、少数民族たちによる各民謡舞踏をステージ化するに至る経緯。
現地の人を採用し、現地の衣装、現地の舞踏、現地の歌を再現した。
彼女自身、幼い頃に両親が離婚。貧しい中舞踏集団に入り、頭角を現す。
シャングリラ=理想郷だが、彼女はこの舞台に何を託したのか、何を伝えたかったのか。
シャングリラの舞台
大きく流れを分けて、混迷期〜家族形成〜集団形成〜信仰とあるように思う。
しょっぱなのステージにもおお、と思った。原始的な太鼓のリズム。
全体を通して言えることなのだが、「舞踏・楽器は神(天・自然)への祈り」であり、「男女の営み」である。
まるで、男女の営みなくしては神(天・自然)との共存がないと思えた。
太鼓は女性を、バチは男性をあらわすという。
虎や女性だけの太鼓部隊、シンバルのような楽器、雨乞い・・・様々な打楽器で少数民族特有の舞踏が繰り広げられる。
そして、月光−。
やわらかさや、愛らしさではなく、女神としての神秘性。気高さ。
これはヤン・リーピンのソロパート。
それまで混沌とした人間の創世記だったのが、一気に神代の国へ舞台が変化した。
女の子たちのラインダンス(?)が華やかでかわいらしいのだが(この舞台の前半メインでもある)、私はその次の舞踏に魅入ってしまった。
女性の国、という舞踏。
♪太陽は休んでもいい。月も休んでもいい。
でも女は休まない。
もし女が休んだら、かまどの火が消える。
扉の隙間からの冷たい風が老人の頭を痛めつけるなら、女は我が身を持って風をさえぎる。
(略)
女が家にいるとき、その家族は一つになる。
もし女がそばにいれば、男は山崩れにも耐える。
(略)
女にとって、辛すぎる挑戦はない。
もし女が人生に失敗すれば、人生はもはや甘くない。
もし天上に女がいなければ、夜明けがくることはない。
地上に女がいなければ、緑は育たない。
男のそばに女がいなければ、男はすぐに病に倒れる。
地上に女がいなければ、そこに人類はない。
太陽は休んでもいい。月も休んでもいい。
でも女は休まない。
♪
ダンスは抽象的で、しかも男性の集団の中に女性が一人だけという構成。あえてこういう形にしたという。
うーん、すごい。
このあと打歌という舞では、現代で言う男女の合コンの舞踊が繰り広げられる。
「人として生まれたのに踊らないなら、生まれた意味がない」
男女の激しいタックル(!)で気に入った女の子を男の子が抱っこして帰って行く。でも女の子は簡単に落とせない。男がぶつかってきたらそれ以上の力でぶつかる。
きっと山間部の厳しい生活では、男女差があるとはいえ、女性でも力がなければ生きていけないのだろう。
メインダンサー2人が、最後女の子をお姫様抱っこしていた。が、途中で力尽きた。
そのとき、女の子がなんと男の子をお姫様抱っこしたではないか!
会場からは笑い声が。
これがたぶん、この舞台を象徴していると思った。
もう一つ衝撃的な舞踏を。
煙草入れの舞、というのがある。
これはもうほとんど交尾のダンスといっていい。虫や他の動物になぞらえた、交尾まがいのダンスが繰り広げられている。
こう書くと下品だが、全然違う。
自然賛歌、人間賛歌。
内からあふれ出る、生命力を感じた。
そして、つがいになる意味を、私は改めて理解したように思った。
契りとは、相手を信頼するとか条件とかそういうことじゃなく、「一緒に生きる」ということなんだと。
一緒に生きるための信頼や条件ではない。理由などではない。
「共に死ぬまで生きる」、ということなんだと思った。
うれしくなった。愛するって素晴らしい。
理想郷とは、場所ではなく、人間の営みがあるところ。
男女が互いを求め、子を産み、民族を愛し、土着で生きていること。
そんな風に思った。
この舞台を支えるために−商業成功
この舞台の素晴らしさは、少数民族各舞踏をオリジナルの神事をそのまま舞台に持ってきたことではなく、舞台用に改めてリライトされていることだと思う。
ヤン・リーピンは確か50歳を超えている。
素晴らしいパフォーマーだ。
しかし、舞台監督はこれが初作品だという。
自分が踊るのと、舞台を構成するのは当たり前だが全然違う才能だと思う。それでも恐れずにやった。
また、この作品は中国で初めて有料チケット化し商業的に成功した舞台らしい。未だに中国では「チケットは無料でもらうもの」という感覚があるようだ。
中国本土だけでなく、アメリカ、ヨーロッパ、アジア各地で展開している。
私は珍しく今回はパンフレットを買ったが、パンフレット以外に各少数民族のみやげ物も置かれていた。
彼女はおそらく、中国の中でも貧困から成功できた稀有な人だろう。少数民族、農村の出の人が中国の都会で戸籍を持つことは難しい。
皆必死で、這い出ようとしている。その中で彼女は勝ち取った。
ダンサーたちをスカウトする辺境の地を巡るたびの中、彼女は何度もその貧困の現状に泣いたという。
貧困は、故郷を風化させる。
だから彼女は、この舞台を成功させなければならなかった。強い決意がそこにあったと思う。
パンフレットを思い出しながらぱらぱらめくっていると、スタッフプロフィールのところで目が留まった。
【総経理】
と書かれているそこには、モルガンスタンレーのシニア・エクイティー・インベスターとして10年以上投資業務を経験し、ヤンリーピンの作った会社の社長にワン・イェンウという人がいるという。
なるほどなぁ、と思った。
パンフレットの構成がまず違う。
そして、東京にあるレストランと提携してヤンリーピンオリジナルメニューを紹介していた。(期間限定で舞台の半券を持っていくと割り引いてくれるようだ。)
お金をたくさんかけるのではなく、何にお金をかけるかを良く練られていると思った。
メッセージだけじゃだめだ、こうやってきちんとリーチする、きちんと回収する仕組みを作っていたんだ!と思った。
もしかして、私が知らないだけかもしれないが。他にこういう展開をしているものがあるかもしれない。
故郷を思うからこそ、故郷を見世物にするのではなく、確実に収入にする仕組みを作る。
彼女は、故郷を離れて資本主義の生活をしていたけど、結局戻ってきた。
故郷を愛しているから。
そこには現代の利器−経済が必要だったと思う。
必死で生きてきたのか
正直、舞台上で少数民族の厳しいながらも暖かな愛をはぐくむ生活を、ヤンリーピンの現代経済にあわせた舞台芸術の実現とに、ダブルパンチでやられた。
自分が悩んでることなんてつまらないことじゃないか・・・。
おそらく、病気をしている私が少数民族として存在していたら、とっくに姥捨て山行きだろう。
なんせ踊れない女はどんなに美人でも嫁の当ては無いそうだ・・・。
美人でもないし、踊れない。やばい・・・。
これは自分の生活にもいえる。
魅力的な人間として、果たして存在しているのか。
もう一つは、前から言っているきちんと実現しているかどうか、たとえば収入の話、というところだ。
彼女はきちんとそこにリーチしている。
お金だけじゃない。少数民族そのものにスポットを当て、伝えたいこともメッセージ化している。
仕事をするって、どこか格好をつけていたように思う。
お金を儲けるには、もっと特別な技術が必要だと思ってた。
だから自分には無理。
何も出来ない。
そんな風に思ってた。
それは多分、本当に必死じゃないんだと思う。
今最低限食べていけるから、それでいいんだと思ってるんだと思う。
本当に地べたをはいつくばってするようなことは無いと思ってるんだと甘えてる。
なにより、地べたをはいつくばってる自分が格好悪いと思ってる。
人に馬鹿にされたくない。
病気だからなんだからと、自分に理由をいつまでつけるんだろう。私は。
そっちのほうが恥ずかしい。
いつまでもそんな状態だったら、病気だって治らない。
生きるという名詞には意味がない。生きる内容に意味を持たせるのは自分じゃないか。
少数民族の過酷な生活からすれば、自分の生活は実に快適で満たされている。
満たされているけど、ある意味別の次元で過酷だ。実態の人間関係、精神やバーチャル。
彼女らとそういう意味では変わらないのに、必死さでは劣っていると思った。
また、癌に関するこのブログや、自分が経験したことをどうやって伝えるべきかについてももう少し考えるべきじゃないかと思った。
つらい、悲しい、だから検診へ。では届かない。
どうやったらいいか、もっと考えて、そしてどんどん発信するべきだと思った。
人間の根源的な力を見せ付けられた。
生きるって楽しいんだって。
とにかく格好をつけるのはもうやめよう。
癌じゃなくてもどっちみち、いつかは死ぬんだから。
癌が悲劇じゃなくて、小さいことにこだわってるほうが悲劇だ。
男がいて、女がいて、子供が生まれて、命の輪廻があって、それが御世に続く。
男も女もどっちも大事だ。
ヤンリーピンは言う。
「西洋のダンスは形にこだわる。」
そうだ。形にこだわるのはやめよう。
内なるもので生きていこう。
出来ることからやればいい。
とにかく今日は楽しかった!


