社会の流動性について

 ちょっとこっちのかなり大きな企業と日本企業の間の通訳として働いたことがあるのだが、そのときに「キャリア・ディヴェロップメント」という言葉を使うときの前提が違っていることがあきらかだった。イギリス人の会社の人たちは、人々のキャリアが複数の企業にまたがってディヴェロップしていくことを、この言葉の前提として当然のことと考えていたのだが、日本の会社の人たちは、その言葉を、すべて自分の企業内での文脈のことと解釈してしまっていた、つまり人のキャリアはその一つの会社を越えないかたちでディヴェロップすることを前提としていた。
 そう考えるからには、その日本企業の人たちはその企業のなかでずっとやってきたわけで、(それぞれの国における)同業他社についての知識という点で、イギリスの企業の人と比べて相対的に劣っているような印象をうけた。というのはイギリス側の人の多くはすでに一つないしは複数の同業他社を経験していたからである。そういう人たちは、自分で今の会社の仕事について自分を売り込んだり、あるいはリクルートされたりして、今の会社が相対的に優れていることを知っていて移ってきているので、今の会社にはポジティブであるし、またある意味その企業に対してかなりloyal(これを「忠誠である」と訳すと儒教的な意味が附加されて違うんだよなあ)である(と自分たちでいっていた)。もちろん、彼らもだからといって今の会社が働くに値しない場所になってしまえば、次の会社に移って行くわけだけれども、こうした流動性と企業へのloyaltyが矛盾したものとして考えられていないという点が、日本の企業の人にとっては意外だったようだ。
 こういうことを目にしたうえで、下の下のエントリー(id:flapjack:20040627)で触れたうがやさんの描く朝日新聞のケースとかを思い出してみたとき、いろいろ考えてしまう。うがやさんのケースとここで僕が書いたことだけでも、その帰結を考えると、その射程は意外とある気がしているのだが、これからぼちぼち考えてみようかな、と思う。
 
 あ、終身雇用などの日本的雇用がいいとかよくないとかいう議論はかなり出尽しているんだろうし、いろいろいいところがあることも承知なんで、イギリスの雇用形態がバンザイという話をしようとしてるんではありません。あと、日本的雇用も変化しつつあるのも了解してます。なんだけど、どうにもここで触れたような日本的雇用の形態に僕はあんまりなじめなくて、そのなじめなさを考えたいということです。そこんとこよろしく。