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2004-07-06

抽象的発言 抽象的発言を含むブックマーク

葉柳和則さんの「常識破りをめぐる常識」を読んで思う。研究者になるつもりがない学生が大学で学問をやることの意義(あるいはそういう学生に学問を教えるというのは)って、葉柳さんがいう「トレーニング」を受ける(施す)ことではないかなあ、とおもうんだけどな。いや、別に「常識の自明性を疑う」ことそれ自体が目的というのではない(そう葉柳さんがいっているわけでもない)。ほんとに「考える」と常識が違って見えるということだ。「考える」ことのトレーニングをする場が大学ということだ。抽象的すぎる? そういうのは「実学」ではない? そーですか。いや、あたりまえのことですか。そうだったらいいんですが、ほんとにそうなんですか。

sujakusujaku 2004/07/06 09:14 「まさに!」とおもうと同時に、他方、大学における「常識」もまた相対化されるべきだともおもいます。●たとえば、ぼくにもいくらかはしたしみのある<建築>というジャンルを例にとってみましょう。<建築>は、工学から行政、都市論、はたまたそれこそ表象文化・・・と、それぞれ別々の研究がなされていて、その上、個々の領域には、こまかく細分化された専門家がいて・・・。建築をトータルに考え、語ろうとする人は少なく、壁をひとつ隔てただけでも、対話はなかなか成り立ちません。おそらくそれはどこの領域にも言えることではないでしょうか。●よくある光景。→ 功なり名をなしとげすでに名誉教授になった学者が、(もはや誰も止められなくなった立場!)おもむろに、洗いざらいなんでも語り、おもしろいことや、怪しげなことを言いはじめる。・・・そしておれはおもう、そんなにおもしろいことを考えてたんなら、なぜ、50年早く、それを言ってくれなかったんだよ!

BonvoyageBonvoyage 2004/07/06 12:01 あはははは。それ、思います。「50年早く」って。◆僕は大学の研究室にいた頃、基礎的な教科書を何冊か集めて、何度も読んでいました。「みんなが今までずっと見落としてきたけれども、言われてみれば基本的なこと」を探して、それを研究したいと思っていたのです。でもそれは周りの人に認められることはありませんでした。多くの人は、「教科書を読む」=「知識にとらわれる」または「時間の無駄」と考えているようで、要するに彼ら自身が、知識にとらわれるような知識との接し方、無駄になるような知識との接し方しかできないことを暴露しているわけです。で、僕は「あいつは知識はあるけどな」というふうに言われ続けました。僕にとっては知識は副産物にすぎなかったのに。どう考えても、重箱の隅をつつくより、「教科書に載っててもおかしくないはずなのに、載ってない」というような研究のほうがおもしろいに決まってる。研究者って、研究はするけど、研究の仕方を研究しないんだな、と僕は思いました。研究者全員がそうだというわけではありませんが。

flapjackflapjack 2004/07/08 01:22 そうっすねえ、ひとことで応答できないんで、もうすこしおまちください。