『国家の罠−外務省のラスプーチンと呼ばれて』

佐藤優著。新潮社(リンクは右のイメージから)。前のエントリーでふれた『「朝日」ともあろうものが。』を読み終えようとしていたところ、近所の公立図書館からメール。半年前に予約していた『国家の罠−外務省のラスプーチンと呼ばれて』が貸し出し可能になっているとのこと。キタ━━━━(゚∀゚)━━━━ッ!! しっかし半年も待たされるとは思わなかった。
 あちこちですでにいわれていることだが、めちゃくちゃおもしろい。
 
 本書の内容については朝日新聞での青木昌彦氏の書評を参照。
 http://book.asahi.com/review/TKY200504190211.html

 本書については
 『外務省のラスプーチン』をどう読むか(id:kaikaji:20050414#p2)
  本書を読む上での「予備情報」(flapjackのつけた仮題) http://bewaad.com/20050417.html#p01
が必読。
 そのほか、まとめサイトとして
 id:hmmm:20050410#p4 id:gachapinfan:20050413#p1 など。
 
 主要な内容についてはすでにいろいろ書かれているので、気になったことをいくつか。
 
 2002年1月モスクワでのプーチン大統領森前総理大臣会談に、鈴木宗男氏が同席することを森氏は(そして鈴木・佐藤両氏も)求めていた。しかし、これがうまくいかない。いくつかのルートをつかってロシア政府側に接触すると、「できるだけのことをする」というが、同時に「これはロシア側での問題ではない」という。日本側の誰かが鈴木氏同席を妨害している、つまり、日本政府内からの妨害である可能性が高い。佐藤氏は、首相官邸からの介入の可能性も考えている。*1 (『国家の罠』102-105頁)
 
 同じような内容を最近どこかで読んだなあ、と思ったのだが、それは、11月のエントリーでふれた「前駐米英国大使クリストファー・メイヤー回想録」だった(id:flapjack:20051109#p2)。メイヤーは、ブレア首相とその官邸スタッフが、メイヤーを筆頭とする英国外務省側を外交の舞台から何度も外そうとしたエピソードを記している。
 つまり、外交が、国と国との関係で行われるのということだけでなく、それと同時に、ひとつの国の政府内部でのせめぎ合いの舞台でもあるということは、おそらくどこでも同じなのだろう。(そのような舞台を理解するためのツールとして『国家の罠』を読むということについて、上述の id:kaikaji メモを参照。)しかし、メイヤーの回想録(一部だが)を読んだ時は『国家の罠』と対比することになるとは思わなかったが、考えてみれば、いずれも重要な外交の場に身をおいた外交官の手記であるという点では同じなのだった。
 
 たまたま立て続けに読んだせいだが、『「朝日」ともあろうものが。』が取材をする側の世界を描いているように、『国家の罠』も「取材」という観点でみることができるように感じた。ただし、この本で描かれているのは、非常に重層的世界である。この本の大きなテーマである逮捕・公判に至る過程のなかでは、佐藤氏は、マスコミには取材をされ−検察には取り調べを受け−書かれる側である。その佐藤氏も本来の外交分析官の仕事では「取材」する側であり、また、取り調べをうけながら、それを取り巻く世界を「取材」し、この本を書いている。検察は、マスコミからの取材をうけながら、マスコミの報道をコントロールしようとする、と同時に、マスコミの報道の規制を受けている。
 そして、いずれにケースにおいても、「取材」し書く側と「取材」され書かれる側は、それに関わる個々人がかなり密接に接触にすることにより可能になり、ある種の「共犯関係」を形作ることになる。

 問題は、その「共犯関係」のなかでも、その個々人がそれぞれの役割のなかであるラインを引いておかねばならないという意識を持ち続けることができるのかどうか、という話だ。*2 
 
 そういう視点から、上にあげた2冊の本を読んだ限りでの印象にすぎないが、この2冊があつかった検察、外務省、マスコミ(ここでは朝日新聞)の世界を全体としてならしてみると、あくまで相対的程度の順においてだが、検察よりも、外務省よりも、うがやさんの描く朝日新聞の世界において、そうした規範意識がもっとも希薄に見えてしまうのだった。
 
『「朝日」ともあろうものが。』の著者と『国家の罠』の著者には共通点があって、それは二人ともが、旧約聖書の預言書を引いているということだ。
 前者の烏賀陽(うがや)氏は後書きの最後で『エゼキエル書』を引く。

「民は来て、あなたの前に座り、あなたの言葉を聞きはするが、それを行いはしない。彼らは口では好意を示すが、心は利益に向かっている。しかし、そのことが起きるとき(見よ、それは近づいている)彼らは自分たちの中に預言者がいたことを知るようになる」

佐藤氏も「あとがき」でこう述べる。

「『聖書』について、私は神学部時代から新約聖書にはかなり親しんできたが、旧約聖書旧約聖書続編は、今回、獄中ではじめて本格的に読んだ。(中略)いつも手元に置き、毎日、預言書に目を通した。ヨブ、エゼキエルなどイスラエル預言者が時空を超え、独房に現れ、私の目の前で話しているような印象をもった。」<< 
 『国家の罠』というタイトルも、コヘレトの書(伝道の書)からとられている。
 預言書を読んだから、このような(すぐれた)人たちになるというわけではないし、このように引けば「わかっている」ということになるのでもない。
 ただ、世界のなかで個/孤であるということに触れているのだろうと思う。
 

*1:*以下104-105頁からの引用:大使館では丹波大使以下、鈴木氏の同席実現に向けて全力を尽くしている。大使館が裏表のある行動をとることは考えられない。そうすると東京で妨害をしている者がいるということだ。しかもロシア側に影響力を与えうる人間だ。誰なんだ。外務官僚にその胆力はない。田中真紀子外相か。彼女はそのような仕掛けはできないし、田中女史が働きかけてもロシア側は反応しないだろう。そうなると官邸か。誰だ。いったい誰が仕掛けているんだ」と私は考えを巡らせた。

*2:それを破ったから佐藤氏が捕まった、などという話では全くないことに注意されたし。++追記++ もう少し、正確を期しておきたい。その一定範囲を超えたから佐藤氏が捕まったと検察はいうわけだが、その基準のバーが「区切り」をつけるためにぐっと下げられて、通常ならばひっかからないレベルの行為がクローズアップされて犯罪とされた(=国策捜査)というのが、佐藤氏の言い分である。