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『本郷短歌』第3号の感想と言い訳

こないだの文フリで買った『本郷短歌』第3号を読んだ。


僕はふだんから短歌を読まない人間なので、この短歌について僕が書いたものを公開するのもどうなのかなとは思ってたんですが、よくわからないなりに感想を書けば、もしかしたら「本郷短歌」の知名度向上だとかに役に立ったりするかもしれないかも(そうであって欲しいな)と思って、公開することにしました。
とはいえ、特に短歌のパートは、解読できなかった歌も少なくなく、連作全体を見通した総合的な感想を述べられない作品もありました。また、感想がピント外れのところもあるかもしれなません。笑ってゆるしていただけるとありがたいです。


感想を文章として書こうとすると、何も言わないっていうわけにもいかないので、理解できない歌とどう対峙するのかというのは本当に難しい問題で、「分からないけど何かすごそう」と思考停止してしまいそうになる。


そこで、行き当たりばったりだけど、「分かった気がしてすごい」ものと、「分からないけどなんかイメージされるものがすごい」ものについては、「すごい」と書くことにした。


本誌は東大の本郷短歌会の機関誌で、年度末ごとに発行されているそうで、本号は短歌の連作(延べ15人分)、行事のレポート、評論(特集:ジェンダー)、前号(第2号)に載った作品のレビューなどで構成されている。


短歌連作については自信がないので後にまわし、さきに評論について書く。


(実はいま目次を見直したら、前号の講評の前にふたつも見逃していた文章があって愕然としている。寺山修二と稲葉京子についての文章だ。でももう頭が限界なので勘弁してください。後日余裕ができたら書きます。ほんとうにごめんなさい。)

特集:ジェンダー ——身体・こころ・言葉——

宝珠山陽太「〈母性〉の圧力とその表現」においては大口玲子『トリサンナイタ』と俵万智『プーさんの鼻』というふたつの育児や出産を扱った歌集をとりあげ、これらの作品中にみられる「〈母性〉の圧力」についての表現を検討し、さらに、それがこれらの作品中に意識的に表現されたものであることを示し、これら2作品は本質的には同じ問題を扱っていて表裏一体であることを明らかにしている。
吉田瑞季「開かれた『私』 現代短歌における作者の位置」は短歌に描かれた主人公像である「私」と作者である「私」の位置関係の変遷を、時代を大きく3つに分けて分析したものだ。
服部恵典「『歌人』という男」では、この特集のテーマである「ジェンダー」に真正面からとりくんでいる。過去10年分(10回分)の短歌雑誌の新人賞の講評を調査し、そこで「女性性」や「女性」がどのように扱われてきたかを、サンプル数は少ないものの定量的に明らかにした。また、さらに、そのような扱い方による弊害も指摘している。
また、特集の末尾には関連する文献を解説つきで紹介していて、親切設計である。


「〈母性〉の圧力」は現場リポートという感じがした。『トリサンナイタ』が「歌集全体の構築性が、読者の眼前に一つの母子の関係をつきつけている」として、その実例を示している
また、『トリサンナイタ』と『プーさんの鼻』の違い(ネガティブ/ポジティブ)は歌人本人の「パーソナリティの違いといった問題に帰着できるものではな」く、「どう取り組むべきかという歌人としての意識」の問題だという点は、吉田の「開かれた『私』」でさらに検討される。


「開かれた『私』」は、「アララギ自然主義」とそれに避けがたく付随する「二重の嘘」(「作者の体験した諸事実に即して作るもので……読むときにもそのつもりで読む」)を脱したつもりでいる現代の短歌表現がなお、説得力を持たせるために「真実」を「実感」に読み変えただけの「二重の規範」に縛られているのではないかという疑問を投げかけている。
本特集のテーマである「ジェンダー」に関していえば、「実感」の中にはジェンダーやその他あらゆる作者の属性を反映した表現が含まれることを考えると、「二重の規範」から解放されることは、ジェンダー等の属性を反映した作品づくり・読みとりを強いられることからの解放につながる。「私が誰か」ということに縛られている、ということに自覚的になるべきではないか。(という風に僕は読んだ。)


「『歌人』という男」と「開かれた『私』」は縦糸と横糸という感じで、よくできたチームプレイだと思う。はじめに「開かれた『私』」を読んだときは、「で、ジェンダーがどうしたんだっけ?」という感じであったが、「『歌人』という男」と併せて読むと、相乗効果で「私」の位置関係がより立体的に見通せるようになるのだった。


「『歌人』という男」は定量的なデータと定性的なデータをうまく組み合わせていて、その過程は痛快と言いたいくらいだ。
大ざっぱに言うと、新人賞のなかで「女性的」な歌人がどういう風に弁別され、「女性」だと決められるとどういう扱いを受けるのかということを示している。また、「男性的」とされた作品よりも、「女性的」とされた作品の方が圧倒的に多いことなどから、「『歌人』はふつう『男性』」だと認識されていることも明らかになる。
ジェンダー論の立場からみると本記事の議論は「基本的な考え方であり、新しさはない」ということで、(そういうニュアンスで言ったんじゃないと言われそうだけど)たしかに各トピックをあまり深追いしていない印象もあるが、文章量と内容のバランスがよく読みやすかった。

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