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キリンが逆立ちしたピアス このページをアンテナに追加 RSSフィード

2009-08-18

[][]ばななと日本人

 よしもとばななが、web上で叩かれている。居酒屋での店員の対応について書いたエッセイが発端のようだ。

よしもとばななさんの「ある居酒屋での不快なできごと」」

http://www.enpitu.ne.jp/usr6/bin/day?id=60769&pg=20090808

よしもとさんは、自分たちのように社会的人脈が豊富な客に対しても、頑なに接客マニュアルを固持し、特別サービスをしてくれない居酒屋店長を批判する。よしもとさんによれば、この店長は接客マニュアルに従うことに専心するばかりに、相手の権威的な立場を計算に入れずに対応する。こうした相手の立場に応じて損得を計算するような、その場その場の対応がないがために、結果的にマニュアルに縛られた居酒屋店長は利益を逸しているというのだ。

 よしもとさんが批判しているのは、店長個人ではなく、こうしたマニュアル通りの対応をさせているチェーン居酒屋のシステムだろう。そして、その背景にある、ひとりひとりの顔がみえなくなるように仕向ける、消費社会の性質だろう。よしもとさんは、ここ10年以上*1スピリチュアルな思想を隠さない小説を書き続けている。オーラや魂といった、宗教的なモチーフも多用されている。死んでしまった人が、こちらの世界にあらわれるといったシチュエーションも多い。また、オーガニック製品を愛用し、ロハスな生活を志向している。このエッセイは、エコロジー思想の観点からの批判でもあったのだろう。

 だが、とてもそうは読めない。これでは融通のきかない店長が非難され、自分の名声自慢をしただけである。

 よしもとさんがデビューしたのは1987年である。1970年代の高度成長期を通過し、1980年代のバブル経済がまさに花開くそのころである。消費主義は積極的に肯定され、買っては捨てる文化が日本の社会でも定着していく。ファーストフードがもてはやされ、流行を追うことにみなが躍起になっていた。同時に、そのころエコロジーニューエイジの思想も台頭してくる。ぎらぎら光る消費社会のネオンがあってこそ、その対抗軸としてスピリチュアルムーブメントが清い輝きを持つのである。太陽と月のようなものだ。

 その時代精神とも言うべき作家の一人がよしもとばなな*2だった。凝ったレトリックを排し、稚拙とも言える簡素な文体で、少女の視点から見る死と世界の謎をつづった作品は、当時から賛否両論だった。彼女の父親である吉本隆明は「マクドナルドのハンバーガー」と評した。口当たりよく、安価で、すぐに手に入るような、アウラを失った商品としての小説。高尚な知識や、格調高い韻のリズムもない。だが、よしもとさんの作品は若者を中心に大量に消費されていった。

 今回、web上でよしもとさんのエッセイを「小娘のセンチメンタリズム」と呼んだ人*3がいる。その評価は彼女にふさわしい。20年以上ずっと、彼女は、「小娘のセンチメンタリズム」を書き続けてきたのだから。文壇で、ある作品を「少女小説」とカテゴライズすることは、揶揄として使われる。なぜならば、所詮「女子どもに向けた小説」は、男子諸君に向けた小説よりもずっと劣っているからだ。そして、女子どもには「本当の文学」はわからず、「小娘のセンチメンタリズム」に浸るくらいしか芸がないのである。こうした小娘に浴びせられる視線の中で、屈折したよしもとばななは出来上がった。

 よしもとさんが、消費社会を批判すればするほど、ウソくさくなる。彼女がこうして名声を手にしたのは、まさにその消費社会のおかげであるからだ。そして、その名声を盾に、消費社会の内部で生きる人々を外側から批判しようとするよしもとさんは、いったい何者だというのだろう。よしもとさんは、34歳の男性に対し、「いいときの日本を知らないんだなあ」と書く。だが、「いいときの日本」を潰してきた張本人が、よしもとさんである。そして、その欺瞞をよしもとさん自身も知っている。

 私はよしもとばななの日記をずっと読んでいる。身内のアレコレをつづっただけで、さして面白くもない。日記のなかで、よしもとさんは、すぐに怒るし、礼儀正しいとは言えないし、読んでいてイライラするような発言もよくしている。価値観も共有できない。それでも、読み続けるのは、この世代の人たちの屈折を体現しているように思うからだ。孤独ぶってみるものの、仲間で群れる。宗教を希求しながら、信仰生活には入らない。イデオロギーを馬鹿にしながら、さして政治的発言はできない。若い世代を批判したり、憐れんだりしながらも、「自分たちはいつか追い抜かれる」と思っている。なぜならば、「最先端が最高峰」の時代の人たちであるからだ。

 よしもとさんは、犯罪被害者をモチーフにした作品をよく書いている。私が一番できがよかったと思ったのは「デッドエンドの思い出」である。

デッドエンドの思い出

デッドエンドの思い出

社員食堂のカレーに毒物が入る事件があり、その被害者となってしまった女性が主人公である。幸い、数日の入院で回復し、会社にも復職する。だが「殺されかけた」という思いは、主人公にまとわりつき悩ませる。しかし、周囲の人たちとの温度差に苦しみながらも、日常の中で、ゆっくりと主人公はもとの生活へと戻っていくのである。

 また、「ひとかげ」では、かつて書いた「とかげ」を全面書き直ししている。

ひとかげ

ひとかげ

児童精神科医である主人公の恋人”とかげ”は、子どもの頃に犯罪に巻き込まれている。主人公は、そのトラウマに寄り添おうと努め、二人で山に登った経験をきっかけに希望を見いだす。

 「彼女について」では、女児殺人事件に巻き込まれた主人公が、霊的な世界を通して救われる物語が書かれている。

彼女について

彼女について

 私は、こうしてよしもとさんの小説をポツポツ読んでいる。彼女の小説は、どうしようもなく浅く、私の深いところには届かない。表面をなぞらえるばかりで、心地よい感動はあっても、人生を変えるような転機となる作品ではない。社会的に起きた事件を、個人の癒しのストーリーとして回収する作品は、やはり、「マクドナルドのハンバーガー」であり、いくら読んでも腹は膨れるが、小説を読むモチベーションとなる”満たされない飢え”のような渇きを潤すことはない。

 先日、村上春樹ラノベ作家であることは書いた*4が、よしもとばななもまた、ラノベ作家なのである。言い換えれば、商品市場で格闘する職業作家であり、消費社会システムの一部である。それでもなお、「オカルト」趣味を隠さず、「小娘のセンチメンタリズム」を一貫して作品化し続けることが、彼女の小説家としての意地であろう。よしもとさんは、そうした作品を書き続けるために、権威に振り回され、そうならないために名声を獲得してきた。強くなければ、己の目指す道は選べない。この能力主義とマチョイズムに裏付けされた、個人主義的発想が、居酒屋店長を批判の根源にある。支配されたくなければ、支配者になるしかない。そこに支配関係を崩そうという構造の転換はなく、個人の自己責任と自助努力に収斂され、書かれたエッセイは「居酒屋店長批判」に終わってしまう。そして「この国のいやなところ」として、抽象的に全体化されていき、結局責任をとる「誰か」は見過ごされ「みんなの問題」になってしまうのだ。

 私は「いい時代を知らない」34歳よりも、ずっと年下である。消費社会の限界が繰り返し指摘され、その輝きがかげれば、エコロジー思想もやはり曇る。かつて、「社会を二項対立で捉える」という批判が、こうした新人類世代から団塊の世代へと向けられた。だが、「社会と個人」または「システムと個人」を対立させようとする新人類世代へも、私たちの世代の視線は冷ややかなものとなるだろう。個人での救済が、社会の救済になる、わけがなく、その奇跡への信仰は嘲笑の対象にしかならない。

 「顔と顔がみえるコミュニケーション」を称揚すれば、何か得られる気がした「いい時代」を、もはや私たちは生きていない。「コンビニのレジの無人化」について書いている人*5がいたが、すでにイギリスの大型スーパーではレジは無人化されている。また、居酒屋もメニューを各卓のデンモクから選べる店ができている。清算もカード払いにしてしまえば、淡々と店の人が料理だけを運んでくるシステムになるのかもしれない。安くあげるならば、そのほうが効率的だからだ。もしくは、「飲み屋と客のコミュニケーション」を商品化し、ウリする店はもっとふえるかもしれない。すでに、年配女性の接客をコンセプトにしたチェーン居酒屋がある。さらに、それらは厳密に価格で序列化され、わかりやすくパッケージングされていくだろう。

 だが、すでに私たちはオーウェルの描いた「1984年」が到来しないことを知っている。全体主義は、より巧妙になっていく。すべての店で、「顔と顔がみえるコミュニケーション」が失われるのではない。経済層や文化圏によって、ゾーニングが行われ、カネと力と欲望があれば、望むものが手に入る状態は維持されるだろう。「コミュニケーションが欲しいんですか?では提供しましょう」という調子だ。だが、問題は、私たち自身が、コミュニケーションを欲しなくなっていく可能性だ。私は、「社会がそうなっていくこと」を危惧しているわけではない。私は、「すでに自分がそうなってしまったこと」を危惧している。「小娘のセンチメンタリズム」を「小娘のセンチメンタリズム」としか消費できない私は、コミュニケーションを欲していると言えるだろうか。

 そしてまた、よしもとばななをweb上で叩いた人たちは、よしもとばななの顔は見えていただろうか。そもそも顔など見たいだろうか。だが、私たちにコミュニケーションへの飢えがないわけではない。むしろ、もっともっと強く渇望している。それは「顔の見えるコミュニケーション」を称揚することでは、とても満たされず、個人への慰めでは癒えきれないような、大きな欲望と傷である。それが何かわからない、し、何もないのかもしれない。だけれど、それらが、このようなweb上での大騒ぎを引き起こす、エネルギーであるのだろう。

matasaburomatasaburo 2009/08/19 01:18 よしもとさんの作品を読んだことがないのであれなんですが、なるほどなるほどと思える部分が多々あって、特に、"そして「この国のいやなところ」として、抽象的に全体化されていき、結局責任をとる「誰か」は見過ごされ「みんなの問題」になってしまうのだ。"というくだりは、自分にも思い当たるところが多々あり、グサグサ突き刺さる感じを受けながら読みました(ちなみに、このくだりはid:kanimasterさんのエントリーhttp://d.hatena.ne.jp/kanimaster/20090817/1250517339と一脈通じるところがあると思いました)。せっかくグサグサきたので(というのはおかしな理由ですが)、ちょっと本筋からずれるのかもしれませんが、font-daさんが言及されていた「コミュニケーションへの飢え」という点について質問したいと思います。

本文には「コミュニケーションを欲しなくなる可能性」について言及されていますが、一方で「コミュニケーションへの飢え」はなくなっている訳ではなくむしろその渇望はより強いというふうにも書かれています。これは、顔の見えるコミュニケーションは欲しないけど、なにか別の形式のコミュニケーションを欲しているという意味なのでしょうか?

ちなみに、私の場合、割と単純に、今の社会が顔の見えるコミュニケーションを分断するような方向(レジの無人化とか)に進んでいて、ベタなコミュニケーションが希薄となり、それゆえに逆に「ベタなコミュニケーションの絶対化」のようなある種の「幻想」が生じて、それが自分には得られていないのではないかという不安というか苛立ちのようなものがコミュニケーションへの過剰な飢えをもたらしているのかなと考えていました。なので、ベタなコミュニケーションが得られる状況がある程度確保されれば、問題はかなりの部分は解消されるのかなと(かなり楽観的に)考えていました。

でも、上述のように、font-daさんの考えはその逆で、「わたしたちはベタなコミュニケーションをそもそも欲望していない」と主張されているのかなと解釈したので、もしそうだとすると、わたしの想像を遥かに超えてなんか相当根が深い問題なのかなという印象を持ち色々と複雑な気がしました。

なんだか質問と感想が渾然となって分かりにくいですが、まず一番確認したかったのは二段落目の問いなので、もしお時間があればお答え頂ければと思います。無駄に長くてすんません。

mmmm 2009/08/19 04:16 >強くなければ、己の目指す道は選べない。この能力主義とマチョイズムに裏付けされた、個人主義的発想が、居酒屋店長を批判の根源にある

「小娘のセンチメンタリズム」を売りにしてた人が子女のようなわがままを歳をとっても言ってるだけしょう。「みんなの問題」などにもなってない。単なる「子女のわがまま」で終わる大昔からあった手垢のついた話で現代の問題ではないでしょ。

>人生を変えるような転機となる作品ではない。
かどうかは、読み手の「レベル」の問題です。あなたが変態チックにグルメで非ミーハーなのです。心地よい感動で充分人生を変えるような転機とする人もいますよ。

>小説を読むモチベーションとなる”満たされない飢え”のような渇きを潤すことはない。

その満たされない飢えは普通の人にはない貴方の個人的な変態性であって、一般大衆が普遍的に持ってるものでもなんでもないです。
人の寂しい飢えを幻想で埋めるだけでしかない創作に
ライトだの職業作家作品だの高尚だの安ハンバーガーだの
分類はいいですけど貴賎はないですよ。
まとめると、単に個人的にばなばはあまり自分に合わなかったって話をペダンチックに語っただけですよね。

font-dafont-da 2009/08/19 09:59 >matasaburoさん

丁寧な感想とご質問をありがとうございました。

まだ考えがまとまっておらず、簡潔に書くことはできなさそうなのですが、いくつか今思いつくことだけをお答えします。

一般的に、「自己と他者」の関わりには暴力性が含まれます。しかし、現代社会では、できるだけこの暴力性を忌避しようとの試みが行われています。大きな問題の枠組みでいえば、復讐を禁じ司法制度が樹立されたことであり、小さな問題の枠組みでいえば、コミュニケーション論の発達です。

上記の問題で、harutabeさんが指摘していることですが、居酒屋がチェーン化されたこととは、クリーンで安全な飲み屋の登場したことでもあります。
http://d.hatena.ne.jp/harutabe/20090817/1250450032
客と店員のコミュニケーションが減ったことにより、両者の間に起きていた暴力的なことがらも減るのです。顔と顔がみえないコミュニケーションでは、相手からの愛情の譲渡が排除されると同時に、相手からの傷つけも排除されます。

お互いが傷つけあうリスクを減らし、暴力性を排したコミュニケーションは、カフェイン抜きのコーヒーのようなものです。それは、確かにコーヒーなのですが、かつて人々がコーヒーを飲み始める欲望の動因は、すでに失われているのです。暴力抜きのコミュニケーションは、すばらしい、ことは否めないですが、それで人間が充足できるのかどうか。

私のもともとの興味分野は、性暴力やDVといった親密な関係において起きる/起きやすい暴力です。別のブログに書いているときにも触れたことがあります。
http://d.hatena.ne.jp/gordias/20071007/1191683887

私は、決して暴力を肯定しません。ですが、現在、渇望されているモノとは、エロスではなくタナトスだろうという直観があります。

答えになっているかわかりませんが、走り書きだけでも……

(しかし、「エライ質問者があらわれちゃったよ、久々の査問だよ」と思ったらサザエさんの人だったのですね。たまに読んでます)

font-dafont-da 2009/08/19 10:00 >mmさん

変態認定ありがとうございます。これからも、マジでクィアの諸先輩がたに追いつけるように、日々精進したいと思います。10月はクィア学会もあるしね。

matasaburomatasaburo 2009/08/19 12:30 丁寧にお答えいただきましてありがとうございました。粘着体質なのでこってりした文章になってしまいましたが、査問などとだいそれたことを考えているわけではもちろんありません。コミュニケーションのあり方については漠然とですがつらつらと考えていることがあり、その際のヒントが得られればと思い、おもいきって質問致しました。font-daさんの別エントリーも読んで改めて考えてみたいと思いますが、甘えついでに先ほどのお答えについてもうひとつ質問しちゃおうと思います。現代のコミュニケーションが愛情の譲渡も傷のつけあいも排除された形で形成されているというのは直感的にですが理解できる気がするのですが、エロスもタナトスも排除されたコミュニケーションに充足できない人たちが、なぜタナトスの方に偏って渇望するのかという理路が私には分かりませんでした。愛情の譲渡を試みてはみるものの、その結果、愛情の譲渡の実現可能性に対して相当に懐疑を抱く、あるいは絶望することを経て暴力に向かうという道筋なのでしょうか。あるいは、そもそもエロスへの渇望がなんらかの作用によって弱められてしまっているということなのでしょうか。またタナトスを渇望せざるを得ない人々がかなりの割合で存在するというふうに考えておくべきなのでしょうか。急ぎませんが可能ならば考えるヒントだけでもいただければと思います。本筋からずれますが、サザエさんの世界というのは、死も病気も暴力も介護もすべて排除された世界になっていて、それが(あるいはそれゆえに)未だにかなりの視聴率を維持しているというのは個人的に興味深い現象だなと思っております。また長くなって済みません。今後も楽しみにしております。

font-dafont-da 2009/08/19 19:41 >matasaburoさん

コメントありがとうございます。いまのところ、よい答えは思いつきません。お役に立てなくて残念です。でも、面白い問いをいただきました。これだけでご飯三杯いけますね。

何か思いつきましたら、また次回書くということで。お相手をありがとうございました。

matasaburomatasaburo 2009/08/19 20:03 こちらこそ丁寧にありがとうございました。また機会があれば色々と教えてください。自分でも少しは考えてみたいと思います。

Source_QuenchSource_Quench 2009/08/20 23:59 >人の寂しい飢えを幻想で埋めるだけでしかない創作に
>ライトだの職業作家作品だの高尚だの安ハンバーガーだの
>分類はいいですけど貴賎はないですよ。

貴賎云々じゃなく、ゾーニングの話だって本文で語ってるような…。

手っ取り早く手に入り、一応の欲は一時的に満たせる、そういう品。
ちゃんと探せば同じ位の値段で、もっといいものは見つかるけど
その手間が惜しまれる時にニーズのある品。
でもずっとそればっかりでいいのか?とも思う品。
(それでもいいという人は居るだろうけど、結末は推して知るべしですな)

時間も胃袋の余裕もリソースは有限なんだ、という事のメタだと
自分は捉えたけどなぁ。

by マックSW-MGR経験者(キャリブレーションでしょっちゅう食べる)

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