山口佐和子「アメリカ発 DV再発防止・予防プログラム」

 3月に出た、米国のDV関連プログラムを調査し、研究した文献である。日本語で読める文献の中では、最新の情報が得られる本だということになるだろう。資料として有用である。シェルター職員の給与、被害者のためのプログラム、加害者のためのプログラム、被害を受けた子どものためのプログラム、DV防止プログラムなどが紹介されている。
 とりわけ重要なのは、いままで取り上げられることの少なかった、「女性加害者のためのプログラム」が紹介されている点だろう。女性が男性に暴力をふるうという問題は、矮小化されがちであり、男性被害者が声を上げにくい状況にもつながっている。山口さんは、女性加害者が、男性加害者に比べ、孤立しやすい点も指摘している。DVについての情報が広まっていることもあって、「妻に暴力をふるう男性はたくさんいる」という社会認識があり、加害者本人も受け容れ易い。だが、「女性が男性を殴り、それは深刻な問題である」という社会認識は薄い傾向がある。そのため、女性加害者は「誰にも言えない」と孤独に陥りやすいのではないか、と本書では分析されている。*1そして別項では、女性加害者のうちの大半が、以前に男性から虐待された経験があるとしている。過去にため込んだ怒りが、新しいパートナーとの関係のなかで、暴発するという側面が指摘されている。*2
 こうした情報が掲載されている一方で、違和感も残った。たとえば、次のような記述がある。

 日本では、被害者の心の回復や自立支援プログラム、被害者の子どもプログラムや予防教育のプログラムよりも、加害者プログラムが先行した。しかし、心理系、男性運動系、フェミニズム系、そして新たに現れた精神医学系の連携はいまだに取れず、一定の基準作りのないまま各々が思うままにプログラムを行い、その正当性を主張している。また、日本では裁判所命令で加害者プログラムに行くことはないので、すべて自発的であるが、被害女性支援者によると、離婚を阻止するために加害者プログラムに通うなど、加害者男性側の戦略として使われることもある。このように日本の加害者プログラムには取り組むべき課題が多い。
(234ページ)

山口さんが指摘するように、加害者に対する支援は乱立した状態が続いている。だが、問題は、加害者のニーズを満たしているのかどうかであって、「正統的プログラム」が何であるのかを確定することではないはずだ。
 たとえば、被害者の支援に関しては、プログラムの正統化が行われ、「配偶者間暴力支援センター」が窓口になっている。もちろん、山口さんも、この窓口では十分ではなく、被害者が民間の支援にアクセスできるような工夫が必要だとしている。だが、それ以上の問題は、こうした正統化のあおりを食うのは、マイノリティであるということだ。先日も、警察がDVに積極的に介入する方針が発表された。大手新聞社の中には、DVを「男女間暴力」と表記していた。これは、異性愛主義があらわになる典型的な表記である。「配偶者間」という、(現行法では)異性間でしか行えない婚姻という関係を特権化したような窓口名は、こうした社会状況を固定化する働きをするだろう。また、在日外国人、部落出身者、障害者などが、こうした窓口を利用しづらいという状況が続いている。そして、それらの人びとへの支援は、補完的なものとして扱われる。つまり正統化には、必ず周縁化が伴うということである。
 私自身は、正統化には賛同しない。*3各団体が乱立し、自らの正当性を主張するのは健全なことである。被害者であれ、加害者であれ、それぞれの持つニーズは違う。そして、自分にあわない支援は、パスできる状況のほうがよい。山口さんは、本書で、加害者プログラムのリカバリー率が調査できないのは、予算がないからだとしている。*4だが、ある加害者にとってリカバリーとは何か。また、その加害者に被害を受けた人にとって、リカバリーとは何か。もし、リカバリーの尺度を、支援者の側が握ってしまうのとなると、かれらに従わない当事者は、「リカバリーしていない」という状況に置かれる。だからこそ、正統的な支援者も、正統的なリカバリーの尺度も決定せず、多様な支援が乱立したほうがよいと考える。ただし、当事者が、「どの支援団体にアクセスすればよいのかわからない」という問題が生じるだろう。それに対しては、アレンジメントの手助けをする、ソーシャルワーカーを設置し、必要であれば利用できるようにすることで、ある程度緩和できると思う。
 また、山口さんは米国の加害者プログラムのスタッフが「文化によって加害者にさほど差があるわけではなく、アメリカの加害者プログラムを日本風に変えなければ通用しないということはありえない」と語り、そのナラティブを分析することなく同調している。*5どのような立場の、どのような経歴の人の発言であるかすら、説明されていない。一方で、他項では、日米のプログラムの違いを次のように記述している。

 小さな子どもだけでなく、高校生や若い男性向けの予防プログラムも盛んになりつつあるが、それらのメッセージは日本とは異なる。
 日本の男性運動系の加害者プログラムは、弱さを提示することによって、暴力から離れようとする。「男性も、男性であるがゆえに、社会のなかで傷ついている」。「男性も泣いてもいい」。「男性だからといって強くなくていい」というメッセージを通して非暴力を説いてきた。
 しかし、アメリカのこういった類の予防プログラムのメッセージは、「我々男性の強さは、傷つけるためにあるのではない」。「男らしさと暴力的であることを、同義に語る社会またはメディアを分析し、本当の強さを考えよう」といったものである。
 男性性を否定するのではなく、たくましさと強さをポジティブに捉え、なおかつそのことと暴力性の分離を図っているのがアメリカの男性向け予防プログラムの特徴である。(210〜211ページ)

私は、男性向けの米国の加害者支援プログラムの特徴が、本当に上記のものであるならば、批判の対象であると考える。上は、男女二項対立の固定化であり、男性性の押し付けに外ならないだろう。そして、性別移行を試みる人たちへの、差別でもあるだろう。「強くたくましい理想の男性像」を作り上げ、それにコミットすることを強要するプログラムに対し、私は反感を持つ。「男性らしくない」または「男性らしくしたくない」男性に対する抑圧であるからだ。
 では、日本の男性運動系の加害者プログラムは、「男性らしくしたい」男性に対する抑圧だろうか。だが、日本の男性運動は「私たちは、『男らしさ』から降りたい」と表明し、そうしたい男性たちへの呼びかけを行ってきたのである。だからこそ、プログラム参加への強制力も持たない、弱い取り組みとなる。実績を実証できない点や、狭い範囲での取り組みにとどまる点で、日本の男性運動系の加害者プログラムは、加害者支援全体をカバーするのに充分なものではないだろう。山口さんは「日本の加害者プログラムは課題が多く、広く一般的に認められる効果的事例は少ないが、一歩ずつ歩を進めて欲しい」*6と書いている。だが、データも出さずに、どこの誰だかわからない米国支援者のひと言で、米国の支援方法を日本でも効果があるとし、日本で加害者支援を行ってきた人にそのような言い方をするのは、あんまりではないかと思った。
 さらに、米国のシェルター内に、支援者から被害者に対する暴力がある、という点に一切触れられていない点が気になった。これは、米国のDV支援における負の側面だろう。コヤマエミ「フェミニズムの不忠」という冊子で、詳しく書かれている。発行元は連絡がとれない状態であり、現在は、入手が難しいだろう。次の書評が参考になる。

ひびのまこと「虐待をうむしくみは『私たち』の内部にもある」
http://barairo.net/works/index.php?p=38

また、コヤマさんが、DVの問題に関して、英語で書いた文章が、以下のページより読める。

http://eminism.org/readings/index.html

これまでの、日本のフェミニズムの歴史の中で、米国の支援方法を最新のものとして輸入しようとしてきたことは、何度もある。それが、かならずしも悪いことではなく、他国の支援方法を学び、活用することは重要である。だが、必ず負の側面もあることに留意しなければならない。コヤマさんは日本に、DVシェルターの普及が広がっていないからこそ、別の方法を導入することができる、という可能性を別の記事*7で示している。

macska「DVシェルター廃絶論−−ハウジング・ファーストからの挑戦」
http://macska.org/article/235

 また、コヤマさんは、一連の記事で「支援者と被害者の間の権力関係」を問題化している。私は、本書で、山口さんはこの点を軽視してるのではないか、と懸念している。というのは、次のような記述があるからだ。サポートグループについての説明である。

 サポートグループの利点は、お互いに勇気づけ、孤立化から救い、さらにお互いの経験や知識を交換することで、選択肢の幅を広げることができるというところにある。サポートグループは、たいていの場合、期間が10週から16週である。ファシリテーターは1人もしくは2人であり、専門家かサバイバー(ドメスティック・バイオレンスの被害経験をもち、そこから立ち直った人)であることが多い。
 ファシリテーターについていえば、サポートグループはセラピーグループとセルフヘルプグループの中間にある。セラピーグループはファシリテーターが専門家に限られ、セルフヘルプグループは必ずその問題を経験した人でなければならない。しかし、サポートグループのファシリテーターはグループメンバーの支援とピアとして教えるということが本質的要素なので、資格や経験にとらわれることはない。
(35ページ)

セルフヘルプグループが、「専門家を入れない」という点にこだわるのは、「専門家と被害者との権力関係」の悪影響を懸念するからだ。この「グループメンバーの支援」「ピアとして教える」という権力関係こそが問題とされているのだ。「資格や経験にとらわれることはない」と書いてあるが、そのことこそが、権力関係を不可視化し、「まるで、お互いがピアであるかのような錯覚を招くのではないか」という危険が出るだろう。セラピーグループであれば、権力関係が可視化するため、被害者の側が、初めからそういうものとしてファシリテーターに対処することもできるかもしれない。それが、「ピアでありながら、権力を持つ人」という入り混じった状態のファシリテーターであれば、その権力に抵抗する負担はより大きくなるのではないか。
 以上のような疑問を持ちながら、読んだ本であった。
 最後に、蛇足で大きなお世話を言うけれど、章末につけられたコラムは不要ではなかったか。山口さんの、米国での調査で経験したちょっとした異文化体験がつづられているのだが、あまりにも個人的なもので、本の中で浮いている。特に「毎日がサバイバル・ゲーム」というタイトルをつけたコラムには閉口した。ホテルでタクシーを読んでもらえなくて苦労した、というエピソードだ。山口さんにとって、米国での生活が大変なものであったのはわかる。だが、山口さんは、同書で、暴力を振るわれ続けるサバイバーについて書いているのである。かれらは、ゲームではなく、現実をサバイブしている。「あなたにとって、サバイバルという言葉はどういう意味なのですか?」と聞きたくなった。もちろん、これは不正であるというよりは、「センスが悪いよ!」という話である。

*1:166〜167ページ

*2:139ページ

*3:性暴力に関しては、正統化に賛同しない上で、アクセスガイドを書いたことがあるhttp://d.hatena.ne.jp/font-da/20090515/1242364490

*4:138ページ

*5:244ページ

*6:244ページ

*7:「macska」名義になっている

中村珍「羣青(Gunjo)」(上)

羣青 上 (IKKI COMIX)

羣青 上 (IKKI COMIX)

*ネタバレありです。(読むつもりがある人は、先に漫画からどうぞ)

 一部では、ずいぶんと話題になっている漫画である。主な登場人物は、2人の女性。1人は、貧困家庭で暴力を振るわれて成長し、その後、結婚した夫からも暴力を振るわれていた(通称「メガネさん」)。もう1人は、お金持ちの家に育ったレズビアンで、メガネさんにずっと片思いをしてきた(通称「レズさん」)。メガネさんは「暴力をふるう夫を殺してほしい」とレズさんに頼む。そして、レズさんは実際に夫を殺す。レズさんが、公衆電話から、メガネさんにその報告をしている場面から、この物語は始まる。2人の逃避行を描いた漫画である。
 ミヤマアキラが、2人の関係性に焦点をあてた、すぐれた評を書いている。

ミヤマアキラ「ヘテ女(じょ)とレズのあいだには、深くて暗い溝がある」
http://www.delta-g.org/news/2010/02/post-307.html

ミヤマさんの評でも触れられているように、作品のなかでのレズビアンの表象の仕方をめぐって、議論も起きている。
 私がこの作品で異様だと思うのは、「選択した殺人」という罪を描こうとすることである。メガネさんも、レズさんも、社会的に不利な立場に置かれてきたことが、繰り返し強調される。同じ設定で、「レズさんが、追い詰められたメガネさんを救おうとして、夫を殺す」という描き方もできたはずだ。実際に、漫画で描かれるような状況ならば、メガネさんが夫を殺そうとすることには、同情の余地もあろう。また、レズさんの殺人も、メガネさんを<愛するがゆえに>ということで、共感が呼べるかもしれない。読者は「彼女たちが、殺人を犯したのは仕方がなかったのだ」と感想を持つようなストーリーである。
 だが、中村さんは、こうした読者の解釈を拒むかのような描写を繰り返す。圧巻なのは、第五話である。メガネさんは、レズさんの彼女と話している。レズさんと彼女は、ささやかで幸せな生活を二人で送っていた。だが、メガネさんが、レズさんに殺人を依頼したため、その生活は壊されてしまった。レズさんの彼女は、メガネさんの首を締めながら「…アンタ…自分が悪いのに、詫びの言葉が言えんのか…?」と聞く。漫画では、メガネさんのモノローグで「ごめんなさい…ごめんなさい…ごめんなさい…」と語られている。だが、吹き出しの中の、メガネさんが実際に話しているセリフは「謝りません…どうせ彼女を…返せません……」となっている。そのあと、彼女は、レズさんに「…なあ、…アンタの好きな子…、罪悪感ではち切れそうよ。わかってて犯ったん…?あの子が”殺させた人”になっちゃったんは、アンタがホントに殺したからよ…。」と言う。
 さらに六話では、メガネさんは、自殺未遂をしたレズさんにこう聞く。「…ねぇ、どうして本当に…殺したの。『どこかに逃げて一緒に暮らそう』みたいな手案は、殺人よりも難儀だった?」レズさんはこう答える。「あーたが『助けて』じゃなくて、『愛してるわ だから殺して』を選んだから、…それってあーしのせい?真に受けたあーしのせーなの?」その後、レズさんは慟哭して「知りあわなきゃ、絶対幸せだったのに〜…」「旦那じゃなくてお前が死ねよ!!!」と叫ぶ。
 さまざまな社会的要因の中で、2人はある男性の殺人に至った。だが、そうした事情はすべて捨象され、2人にとっては、自分たちの選択こそが問題になる。メガネさんは、自分がレズさんに依頼したという選択を悔い、罪悪感に押しつぶされている。レズさんは、メガネさんに「お前のせいだ」叫びながら、第八話では「自首するよ」と一人で罪を被る申し出をしている。メガネさんに、許し続け罪を被り続けるつもりだったが、許せない、だがそばにいたい、と告白する。その後、この逃避行をやめ、「償えば、元に戻る」として、自首するというのだ。だが、道に出て職務質問を受けそうになったとき、レズさんはとっさに逃げ出してしまい、メガネさんと警官に背を向け駆け出す。メガネさんが「どうして?」と問うと、レズさんは、捕まる前に「あーたの手紙を読み返したくて」と答えるのである。こうして、レズさんは、また殺人者であり続けることを自分で選んでしまう。
 2人の逃避行は、何の先も見えないものである。「殺人」という一線を越えてしまったがために、<法外>へと投げ出されてしまう。もし、<法内>の枠組みに戻れば、逮捕される。虐待家庭を生き延びたこと、DV被害者であること、セクシュアルマイノリティであることの困難には、(決して十分でなくても)支援があり、他者とのつながりがある。救いがあり、未来がある。だが、それはあくまでも<法内>にいる限りの話だ。<法外>で2人は、次々と他者とのつながりを切り、暗闇へ向かって走って行くしかない。そして、それは2人にとっては、あくまでも、自らの選択の結果なのだ。
 では、2人にこうした行動をとらせる作者の中村さんが、露悪主義であり、法外者の美学を描いているのだろうか。一方で、上巻最後に収録されている第十話では、レズさんの彼女と、その母親のエピソードが描かれる。レズさんがいなくなった部屋に訪れた母親は、父親とともに彼女がレズビアンであることを受け容れていることを告げる。<法外>にあるレズさんやメガネさんとは対照的に、彼女は<法内>の世界で、家族とのつながりを持ち生活し続けるであろうことが、「幸せ」と見えるように描かれている。中村さんは、<法外>の世界を魅惑的に描くことはない。ただ、そこが深い闇であると描きながらも、それでも2人を追い込んでいくのだ。
 この物語は、いったい後半でどう展開して行くのだろうか。前半でここまで緊迫感を持ち、盛り上がった以上、生半可な終幕では読者は納得しないだろう。安易な悲劇も、救いも、うそ寒いなものになってしまうだろう。中村さんは、どうやって、最後まで描き切るのか。私は、この上巻だけでも、傑作だと思うが、後半が楽しみでもあり、不安でもある。

村上春樹と、子どもとのセックス

*直接的な性描写があります

 村上春樹1Q84」のBOOK3が飛ぶように売れているようだ。大ベストセラーである。

1Q84 BOOK 3

1Q84 BOOK 3

私は、兼ねてより気になっているのだが、「1Q84」BOOK2には、はっきりと子どもとのセックスの描写がある。成人男性である天吾は、17歳のふかえりにペニスを挿入する。次のような描写である。

 そんなできたての小さな性器に、彼の大人のペニスが入るとはとても思えなかった。大きすぎるし、硬すぎる。痛みは大きいはずだ。しかし気がついたとき、彼はすでに隅から隅までふかえりの中に入っていた。抵抗らしい抵抗はなかった。ふあけりはそれを挿入するとき、顔色ひとつ変えなかった。呼吸が少し乱れ、上下する乳房のリズムが五秒か六秒のあいだ微妙に変化しただけだった。それを別にすれば、何もかもすべて自然で、当たり前のことであり、日常の一部だった。
(303ページ)

1Q84 BOOK 2

1Q84 BOOK 2

私はだから、「1Q84」を法規制すべきだとは思わない。だが、現在、日本で売れに売れている小説の中に、子どもとのセックスが描かれていることを、どう考えればいいのだろうか。
 もちろん、「1Q84」は小説作品であり、文脈から切断してこの描写を判断することはできない。作品中では、セックスは儀式として描かれ、作品中に必然性をもって性的な場面が挿入されている。そういう点で、この描写は、「表現の自由」として法規制を免れるだろう。だが、先日、話題になった「非実在青少年をめぐる問題」*1においても、はたして「表現の自由」は、ほかの法益があるときに最優先して保護されるべきなのか、という疑問が出されている。もちろん、都条例においては、小説作品は除外されているので、規制の対象にはならない。しかし、法規制の問題としてではなく、倫理的問題として、子どもとのセックスを描写することを考えるとき、「1Q84」も考察の俎上にあげられるだろう。
 私が問題にしたいことは、多くの日本でこの作品を手に取る人たちは、「1Q84」の中の、子どもとのセックスの描写を、どのように読んでいるのか、ということだ。それは、いわゆる「児童性愛」とカテゴライズされるものだが、読者はこの作品を楽しむときに、そのことをどう認識するのか。自らも、「児童性愛者」であると考えるのだろうか。そんなことはないだろう。「村上春樹はすばらしい」というとき、こうした「児童性愛」の側面を指すことは、少ない。多くの「文化人」が、べた褒めにし、「現代思想」と「ユリイカ」が同時に特集を組む作品である。
 カフカ賞の候補にも選ばれるハルキ。イスラエルで、「卵の側に立ちたい」とスピーチするハルキ。こうした、「世界のハルキ」が、17歳の少女の膣にペニスを挿入する場面を描いても、読者は「文学」として「芸術」として、お咎めなく楽しむことができる。カラフルな表紙の、漫画絵で少女が描かれたポルノとは、まったく別物のように感じられるだろう。だが、それは、子どもとのセックスの描写なのである。
 私が問題だと思うことは、村上春樹の小説に、子どもとのセックスの描写があることではない。一方で、「非実在青少年」という言葉で子どもとのセックスの描写に法規制がかけられながら、もう一方で子どもとのセックスの描写がある作品が、そのことを問題化されることもなく、ベストセラーとして本屋で溢れんばかりに配架されている。この両者のアンバランスさに、違和感を覚えるのである。繰り返すが、私は両者が法規制されればいいとも思わないし、両者が無批判に氾濫すればよいとも思わない。ただ、これはダブルスタンダードであり、日本における、子どもとのセックスについての言説の混乱を、端的に表しているようにも思う。子どもとのセックスの描写は、一部分では嫌悪され、一部分では熱烈に愛好されている。そして、嫌悪される描写を好むのが「児童性愛者」であり、愛好される描写を好むのが、肩書きのないヘテロマジョリティではないのか。もちろん、両者はきっぱりと分かれるようなものではないだろう。だが、私は、子どもとのセックスの描写を、「一部の児童性愛者」<だけ>の問題ではなく、名乗ることもないヘテロマジョリティの問題でもあるというふうに、投げ返していきたいと思っている。*2

追記

中森明夫が、週刊朝日2009年8月6日号で「村上春樹の『1Q84』は児童ポルノだ!?」という書評を書いているようですね。web上に転載しているのを目にしました。「この小説をめぐり各所で批評家らが様々な謎解きを披露しているが、謎解きも何もない。著者のメッセージは明白だ。少女とセックスするのは素晴らしい! これに尽きる。」という記述があるとの話です。(実際の記事は確認していません)