西炯子「娚の一生」

娚の一生 1 (フラワーコミックスアルファ)

娚の一生 1 (フラワーコミックスアルファ)

 昨年3月に単行本三巻が刊行されて、完結した人気少女マンガ作品。30代半ばのつぐみは、発電所の技術者としてキャリアを積んでいる。一方で、今まで付き合う男は彼女持ちや妻帯者ばかりで、恋愛がうまくいかない。現実逃避で、九州の休暇をとり祖母の家で暮らしていた。そして祖母が急逝し、50代の大学教授海江田に出会う。彼はかつてつぐみの祖母に思いを寄せていたのだ。つぐみは納得いかないまま、海江田と同居することになり、だんだん二人の距離は近づいていき……二人は当然恋に落ちるわけで、お互いに背負う過去を分かち合いながら結ばれるまでを描いている。
 西さんの作品に対するコメントがweb上で読める。面白かった。

西炯子娚の一生」(コミックナタリー)
http://natalie.mu/comic/pp/nishikeiko

特に、設定を構想中、海江田の恋愛相手を決めるときに「父娘関係」にならないように、つぐみの年齢を30代半ばにしたというエピソードは面白いと思った。このマンガにはもう一人の海江田に思いを寄せる若い女性が登場するのだが、西さんは海江田に「彼女はファザコンで、甘えられる相手なら誰でもいいんだ」というように距離をおいた台詞を言わせている。つぐみの、海江田への感情を「父親転移」(父に向けたかった愛情を代わりに恋人に向ける)として描きたかったわけではない、ということだろう。
 しかしながら、私はやはりつぐみと海江田の関係に父娘的なところをみてしまう。人生の経験を積み、つぐみの年齢より不安定で幼い精神面に振り回されることもなく、揺らがぬ愛情を注ぐ存在としての海江田は、見守り役でもあり、父親的にもみえる。同時に、西さんは海江田を「男」としての部分を強調する。海江田は性的であり、他の男とつぐみを取り合い、情熱的に口説く。また、つぐみも海江田に一方的に依存するのではなく、彼の抱えてきたつらさを共に背負おうとするし、取り乱すさまも受け入れようとしているようにみえる。特に、二人がイレギュラーなかたちで子どもの世話をするエピソードで、つぐみが海江田に対して「苦しみをケアしてくれる存在」ではなく「苦しみを分け合う存在」としてみている部分が、象徴的だった。恋愛の絆ではなく、共に生活していくパートナーとして、惹かれあう部分をうまく描いていると思う。
 西さんはBLも描いているのだが、インタビューではこういう風に語っている。

BLって、私の場合は「本当に私が恋愛をどう思っているか」というのを描いている気がしますね。男女の恋愛を描くときは、地位や経済、年齢、子孫を残すことなどの社会的なファクターが多いと思うんです。そういう問題がたくさんあるから、物語は複雑に重層的になっていく。ところがBLの場合は社会的なことが何もない。家庭を築かないといけないわけでもないし、子孫を残さないといけないわけでもないし。そう考えると、一切余計なファクターが付いてこない純粋な恋愛が描けるわけですね。だからBLを描くと、自分が恋愛をどう捉えてるかっていうのがおのずと表れてくる。

──男女で純粋な恋愛そのものを描くことは難しいんでしょうか。

最初はやっぱりすごく難しかったです。BLを描くのをやめなきゃと思ったのは、男女の恋愛について描けなくなってしまうと思ったからです。BLは余計なことがないから楽しいんですけど、それに慣れてしまうと女性誌で描いていけなくなる、という危機感を持ったんですね。避けてちゃいけないと思いました。今はある程度、自分も個人的に体験を積んだ後なので、そういう社会的なファクターが絡まってくる面白さもわかってきて、男女の恋愛を描くのも楽しめるようになりましたよ。
http://natalie.mu/comic/pp/nishikeiko/page/4

もちろん、男性同士の恋愛であっても社会的な要素は出てくるのだが、BLの商業誌で求められるのは別の側面――つまり恋愛ファンタジーである――だということとして私はこの部分を読んだ。西さんの「BLは純粋な恋愛を描く」という認識は面白いと思った。
 というのは、私は「フケ専」として、このマンガを読むのをとっても楽しみにしていたのだ。そして、ついに読もうとうきうきして開くと、全然萌えなかった。なぜなら、このマンガは萌えではなく「家庭を築かないといけないわけでもないし、子孫を残さないといけない」という規範の中で起きる恋愛だったからである。つぐみが抱えるトラウマは、「結婚」に関するものであり、海江田はそうしたつぐみの不安に寄り添いながらも、求婚を続ける。二人にとって、過去に拘泥せずに結婚することが、新しい人生の一歩なのである。私にとっては、そうした規範に従って人生を進めることも、十分恋愛ファンタジーに思えるのだが、西さんにとってはより現実味がある世界ということだろう。
 私は小津安二郎の映画のようなマンガだと思った。「秋刀魚の味」のような世界である。あれは、濃厚な「父娘関係」ではあるのだが、近親姦ではなくあくまでも親子の愛情として描かれる。だが、規範の中で安定していくモノガミー関係を「成熟」とみなすような価値観が似ている。私も特にアナーキーな関係を求めているわけではないのだが、どうしてもこうした価値観を「別世界のこと」としてみてしまう。念押ししておくが、こうした関係性がよくないといっているわけではない。だがそこまで「結婚」が希望や重石になる心情をよく理解できないということである。私にとって「結婚」はできの悪い社会制度の一つなのである。その利用方法や、利用に伴う不具合については思うことはたくさんあるのだが……
 海江田はつぐみに、「ひとりでなんでもできるというのが傲慢だ」といい、つぐみも「誰かと生きていくこと」に希望を見出す。それが社会の網の目の中で理解されていくのはもっともだと思うが、別に結婚だけが誰かとつながる方法ではないだろう。海江田は、つぐみを救済するのだが、それは彼女の孤独に彼だけが気づき、彼だけが癒そうとするからである。しかし、自分の孤独を埋めてくれるのが、自分を愛する男だけだという発想が――理解はできるしそのアイデアに私も欲情しなくもないが――なんだか息苦しい。
 私は、一人のパートナーと「愛」と「セックス」と「同居」の三つ揃えにして付き合うのはやっぱり難しいと思っている。「誰を愛するのか」「誰とセックスするのか」「誰と同居するのか」という問いの答えに、同じ人が並ぶのが世間で言うところの「結婚」の条件なんだろう。だけど、ばらばらであっても、人と深くつながることはできるし、孤独に陥るとは限らない。友人であったり、所属するグループ*1であったり、自分が一人でこもれる空間・時間であったり、そういうものが満たしてくれることはたくさんあるように思う。
 そういうふうに言うと、年上の人たちから「あなたは若いからそう思うのよ」といわれることがある。そうかもしれないし、違うかもしれない。でもどっちでもいいのである。事実、私はその人より若く、こう感じていて、それを変更するつもりもない。私はその人たちが生きてきた、今よりずっと厳しい家族規範の社会がよかったとは思わないし、これからもそうなればいいとは思わない。年下の人が、私と同じように感じたほうがいいと思わない。
 ただ、マンガなので、ファンタジーとして楽しむぶんには良いのではないだろうか。というわけで、フケ専枯れ専の人よりも、小津の映画好きの人にオススメです。
 同じくフケ専少女マンガはこちら。

Love,Hate,Love. (Feelコミックス)

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積極―愛のうた― (クイーンズコミックス)

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三本とも、男性は大学教授。浮世離れして、ちょっと生活に余裕があって、インテリで、暇そうなイメージなんですね。でも、学内政治とか、学閥とか、ぎらぎらした部分を見ると、ちょっと違うなあと。会議と雑務におわれ、飲み会で憂さ晴らすのがリアル大学教授の日常ではないかと思います。まあ、これもファンタジーということで。

*1:社会運動のグループ含む