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キリンが逆立ちしたピアス このページをアンテナに追加 RSSフィード

2009-11-21

[][][]保育の現場の状況をどう考えるのか

 前回の記事*1で、週刊ダイヤモンドで鈴木亘さんがコメントしている件を取り上げた。鈴木さん自らが、ブログで雑誌記事の補足を書いているので、紹介する。

週刊ダイヤモンドの保育記事を考える(上) 」

http://blogs.yahoo.co.jp/kqsmr859/30365150.html

週刊ダイヤモンドの保育記事を考える(下) 」

http://blogs.yahoo.co.jp/kqsmr859/30365160.html

 鈴木さんは、「限られた保育のための予算を、いかに分配するのか」という問いをたてる。現行制度では、認可保育所にあまりにも多くの予算がつぎ込まれているため、無認可保育所が干上がってしまう状態にあると、鈴木さんは言う。そこで、認可保育所に割いている予算を減らし、無認可保育所へまわすのだ。認可保育所の言い分は、「そうすれば無認可保育所は増えるかもしれないが、保育の質が低下してしまう」というものである。だが、鈴木さんは、「認可保育所はこれまで利権を独り占めしていたため、過剰な賃金を得ていた。その既得権益を守ろうとしているだけだ」という。

 鈴木さんは、付け加えて三つの論点をフォローしている。

(1)認可保育所には、公立保育所と私立保育所がある。私立保育所の場合は、年功序列に伴う賃金支払いが不可能になるため、保育士は二十代前半で退職のプレッシャーをかけられる。そのことにより、公立保育所のような高賃金化が起きず、経営状態は健全に保たれている。

(2)地方の保育所の都市の保育所では、状況が異なる。東京都23区を筆頭に、都市部の認可保育所に対する補助金が異常に高い。地方では、補助金に頼らず苦しい中で経営している保育所が多い。

(3)正規雇用非正規雇用の間の格差が大きい。とりわけ、公立保育所非正規雇用者については、低賃金が問題となる。また、賃金制度が変更され、若年層の保育士賃金は抑えられ、適正である。


 まず、鈴木さんの指摘する(1)の点について述べる。日本における女性の働き方の特徴は、M字型曲線と呼ばれている。二十代後半から女性は退職し始め、三十代前半で大きく落ち込む。そして、四十代からパートタイム労働など非正規雇用者として復職し、また女性労働者数は増えるのだ。だから、女性が若年層で退職することは、保育の現場の特質ではない。鈴木さんが紹介している内閣府調査でも、保育士総数のうち、男性は1・5パーセントである。保育士は圧倒的に女性が多い。私立保育所における女性の若年者の退職は、補助金の問題よりも、M字型曲線の影響のほうが大きいのではないか。また、公立保育所で若年者の退職が少ないのは、産休・育休、時短労働制度などの福利厚生が充実しているという理由が考えられないか。要するに、この問題は、補助金の増減ではなく、女性労働者への保障として、認可・無認可にかかわらず一元的に考えるべきだということだ。

 次に(2)について述べる。この問題は、地方と都市部の行政方針ではなく、経済格差として考えるべきではないか。地方は、保育に補助金を出さないのではない。どの部門にも十分に出すお金がなく、保育の補助金も同じく予算不足の影響を被っているにすぎない。仮に、東京都23区が余るほどの予算を持っているというのならば、無認可保育所ではなく、地方の保育の補助金にまわすべきではないのか。これは、地方分権が保育と言う部門に関して、うまくまわっていない、という問題ではないのか。

 最後に(3)について述べる。鈴木さんは、非正規雇用や若年の保育士賃金は、適正もしくは不当に低いと考えている。では、適正な賃金とはどうやって算出すべきなのだろうか。たとえば、鈴木さんは「東京都各区の0歳児1人当たりにかかっている保育運営費平均が月50万円程度である」と言う。「高すぎる例」として出されている。しかし、0歳児の子どもを育てるコストとしては、高いのだろうか、安いのだろうか。過去、女性たちは無賃金でこの育児労働を担ってきた。だが、生まれて1年にも満たない子どもたちをケアする労働強度は、低くないだろう。

 鈴木さんの大前提にあるのは「限られた予算」である。しかし、なぜ「限る」のかが、私にはわからない。たとえば、鈴木さんは以下のように言う。

認可保育所の利権保持は、苦しい財政状況の中では、待機児問題の解決を、これまで同様、延々と放置・先送りさせることになる。これは、彼等に悪意があるかないかという問題ではない。例えば、限られた予算の中で運営されている生活保護制度では、母子加算の復活や医療扶助費への寛大すぎる支出をすると、予算不足の中、「水際作戦」と呼ばれる厳しい審査が起きて、本来、生活保護を受けるべきワーキングプアホームレス生活保護を受けられなくなるという事態となっている。母子加算の復活や医療扶助の潤沢な支出は、決して当人達に悪意あることではないが、結果として、かわいそうな人をさらにかわいそうな状況に追い込むのである。保育制度では、「質を保て」と署名活動にいそしむ認可保育所の親たちに決して悪意があるわけではないが、質に伴う莫大な補助金認可保育所の利権を守ることにより、結果として、かわいそうな待機児童の母親達に犠牲を迫ることになっているのである。

http://blogs.yahoo.co.jp/kqsmr859/30365150.html

鈴木さんはこのような記述を露悪的に書いているのだろうか。福祉制度は「かわいそうな人」を救うためにあるのではない。必要なお金がない人に、行政が分配するだけの話だ。予算が足りないのは、予算の限り方が間違っているからだ。人が人を育てるコストを節約すること自体、本来は不可能である。その不可能を現場に押し付け、「この予算でやってくれ」と迫るから、歪みが起きる。そもそも「限られた予算」という概念そのものが、こうした各保育所の格差を生んでいる。しかし、やはり実際上は、予算を限るしかない。発想を逆にすべきだと思う。「限られた予算をいかに分配するか」ではない。「分配に必要な予算をいかに限るのか」である。先にニーズがあり、それを満たすために、必要なコストを算出するのである。

 先に、貧困に陥る母子家庭や、医療のサービスが受けられない生活保護者がいる。そこで、必要なコストが算出される。足りないのであれば、用意すべき予算を増やすしかない。その負担を誰がどのように負うのかについて、考える。私たち一人一人が迫られべき問題である。なぜなら、彼らをかわいそうな目にあわせているのは、不十分な社会保障しか用意しなかった私たちだからである。

 同じく、保育についても考えるべきだろう。これまで、認可保育所にしか補助金がおりてこなかった。さらには、女性若年労働者の退職、地方都市の格差、非正規雇用者の貧困の問題もある。保育の現場にはお金が足りないのだ。もし、新たに予算を投入しなければ、「保育の質」は低下する。もしかすると、「かわいそうな待機児童の母親達」は救われるかもしれない。だが、今度犠牲になるのは、子どもたち自身である。これからの子どもたちが育つための環境を犠牲にし、私たちは何にコストをかけようとしているのか。ここで節約されたお金を、何に使うつもりなのか。よく考えたほうがいい問題だと思う。

2009-11-17

[][][]保育園ガッポガッポ説

 週刊ダイヤモンドの、保育園の経営を取り上げた記事がブックマークを集めている。

新規参入は断固阻止!!保育園業界に巣くう利権の闇」

http://diamond.jp/series/closeup/09_11_21_001/

利権を持った認可保育園がガッポガッポ儲け、職員も800万円以上の年収を得ている、という批判です。あれ?これ、どっかで聞いたような……と思って記事を読むと、また鈴木先生のご意見でした。

 保育園の問題に詳しい、鈴木亘・学習院大学教授は、「東京23区保育士の平均年収は800万円を超え、園長の給与は約1200万円。園長は都庁の局長レベルだ」と明かす。他の地域でも、地域の公務員に準じているという。

http://diamond.jp/series/closeup/09_11_21_001/?page=3

鈴木先生は、去年の5月に日経新聞に同様の記事を書いています。そのときに批判した、私のブログ記事があるので紹介しておきます。

「市場原理はいいことづくめ?」

http://d.hatena.ne.jp/font-da/20080501/1209657480

さらに、「保育士さんが年収800万以上というのはおかしくないか?」という疑問から書いた記事です。

「『平均年収800万円が高い』という主張の根拠が主観では、単なるルサンチマンです」

http://d.hatena.ne.jp/font-da/20080502/1209720248

2009-04-19

[][]まずは大人の性教育

 id:macskaさん経由で、以下の質問を目にした。

異性愛者へ12の質問」

1.あなたの異性愛の原因はなんだと思いますか?

2.自分が異性愛なのだと初めて判断したのはいつですか?

 どのようにですか?

3.異性愛は、あなたの発達の一段階ではないですか?

4.異性愛なのは、同性を恐れているからではないですか?

5.一度も同性とセックスをしたことがないなら、なぜ、異性とのセックスの方がよいと決められるのですか?あなたは単に、よい同性愛の経験がないだけなのではないですか?

6.誰かに異性愛者であることを告白したことがありますか?

 その時の相手の反応はどうでしたか?

7.異性愛は、他人にかかわらない限り、不愉快なものではありません。それなのに、なぜ多くの異性愛者は、他人をも異性愛に引き込もうと誘惑しようとするのでしょうか?

8.子供に対する性的犯罪者の多くが異性愛者です。あなたは自分の子供を異性愛者(特に教師)と接触させることを安全だと思いますか?

9.異性愛者はなぜあんなにあからさまで、いつでも彼らの性的志向を見せびらかすのでしょうか?なぜ彼らは普通に生活することができず、公衆の面前でキスしたり、結婚指輪をはめるなどして、異性愛者であることを見せびらかすのでしょうか?

10.男と女というのは肉体的にも精神的にも明らかに異なっているのに、あなたはそのような相手と本当に満足いく関係が結べますか?

11.異性愛の婚姻は、完全な社会のサポートが受けられるにもかかわらず、今日では、一年間に結婚する夫婦の半分がやがて離婚するといわれています。なぜ異性愛の関係というのは、こんなにうまくいかないのでしょうか。

12.このように、異性愛が直面している問題を考えるにつき、あなたは自分の子供に異性愛になってほしいと思いますか?セラピーで彼らを変えるべきだとは思いませんか?

「「異性愛者」へ12の質問」『押して、押して、押し倒されろ!』「「異性愛者へ12の質問」を転載してみる。」『腐男子じゃないけど、ゲイじゃない』

この質問について、macskaさんが以下の注意をしている。

女性学メーリングリストの参加者のあいだでは、調査票をテキストとして学生に読ませ、議論させることについてはまったく異論がなかったけれども、授業の一部として実際に学生に調査票への回答をさせることについては批判が多かった。セクシュアリティのような学生たち自身にとって個人的なことに、講師が当たり前のように踏み込んで回答を求めること自体に問題があるし、そもそも教室の中でこのような調査票を配るということは、学生は全員例外なく異性愛者であり、同性愛者という「他者について」学ぼうとしている、という間違った前提がなければありえない。異性愛者の学生だけでなく、同性愛者の学生にとってもとても居づらい状況になる。

やっぱり、異性愛の権力性を指摘するのは大切だけれど、教室内における講師と学生の権力関係にも気を配らなくちゃいけない。その点、質問票をブログに掲載して「回答してください」と呼びかけている nodada さんは、読者に対して権力を持っているわけじゃないから全然問題ない。だけど、それを見たどこかの教育関係者が nodada さんのマネしたら困るから、この点はちゃんと言っておこうと思った。また、異性愛中心主義・強制異性愛主義についての教育をしようとするなら、教室の中にも、さまざまなワークショップやグループの中にも、同性愛者(やその他のクィア)がいるということも、ちゃんと考えておかなくちゃいけない。

「「異性愛者への12の質問」についての女性学MLでの議論」『macska dot org』

これって難しい問題だなあ、と思った。

 実は、私は「ひどいジェンフリの授業」*1に出たことがある。大学の社会学の授業である。ジェンフリチェック(男らしさや、女らしさに「囚われている」度合いを測るもの)をやらされ、学生は教室で端からその点数を発表させられたのだ。講師は、フェミニズムに批判的な男性教授である。私もその授業に出ていて、本気で気分が悪くなった。でも、私は、そこでNOと言えなかった。もちろん、心証を悪くするのが怖かったからである。*2典型的にダメな性教育であった。

 こういう質問形式のワークショップというのは、性教育にはいくつもある。性暴力に対する思い込みを暴露するものもある。しかし、性というのは本当に扱いの難しい領域だ。上の「異性愛者への12の質問」はジェンフリチェックよりさらに扱いが難しい。使いようによっては、暴力的な事態を引き起こしてしまうだろう。そして、困った事態を引き起こすという人は、たいてい質問が生まれた社会的な背景や歴史を踏まえず、質問票だけを切り取って使う。自分が質問票に受けた衝撃を、学生にも押し付けようとする。性教育で、「ほ〜ら、みんな偏見に満ちていただろう?私が目を覚まさせてあげたんだよ」と得意げな顔をする講師ほど、厄介なものはない。*3

 私自身はこういうチェックってわりと好きだ。一人で問い直しすぎて、てんぱったりもする。けれど、他人と一緒に作業するときには、かなり覚悟がいる。セクシャルオリエンテーションについて語るときには、どうしても傷つきやすくなるし、正直に答えるのに勇気がいったりもする。誠実にやろうと思えば思うほど、答えるのは難しくなるし、精神的にもプレッシャーがかかる。*4誰と、どういう雰囲気の時に話すか、によって答えも変わるだろう。結局、誰かと性について話をするときには、「場づくり」が重要になってくる。そして、言いたくないときには、NOと言える場でないといけない。

 一方で、以前、知的障害児向けの性教育の教材について、騒動が起きていた。「過激な性教育」というセンセーショナルな報道の問題は、すでに指摘され事態は沈静化している。しかし、2009年4月19日の時点で、「過激な性教育」というワードでGoogle検索すると次のブログの記事が示される。

 小泉総理も苦言を呈したという、最近の小学生の性教育についてのサイト。性教育に関する新聞記事や、雑誌記事、学校での教材などが集められています。また、画像も秘宝館のコーナーにあります。


おなかのしたにペニス(ワギナ)だよ♪


 という「からだのうた」はちょっと笑えます。

 私個人としては、小学校時代は、具体的なことは何一つ教わらなかったと記憶してます。

 教育全般にいえることですが、「これが正解!」というのが無い分、難しい問題ですな。個人的には、だれが教えなくても中学生くらいになれば勝手に学習していくのだから、小学生のうちからあまり具体的に教えなくてもいいのでは?という気はします。

[追記]

上記サイトには、養護学校での性教育の問題が多く含まれているということにはっきりと気付いていませんでした。というわけで、「個人的には、だれが教えなくても中学生くらいになれば勝手に学習していくのだから、小学生のうちからあまり具体的に教えなくてもいいのでは?という気はします。」という部分は訂正。しっかりと読まずにコメントしてしまいました…

「過激な性教育」

この件では、ひたすら「知的障害児の教育では仕方ない」という言説が繰り返された。しかし、健常児ならなぜ必要ないと言い切れるのだろうか?「健常児に性教育は必要ない」ということは、すでに「健常者である私たち」は十分に性に関する知識を持っているということだ。しかし、現実には「勝手に学習」された知識によって、性に関する差別や暴力は起き続けている。むしろ、こうやって知的障害児に向けて作られた教材は、そうでない子どもたちにも使ったほうがいいんじゃないか。いつまでも、女性が自分の性器を見ることに恐怖があったり、「アソコ」と呼んでいたりする状況でいいのか?*5「からだうた」で「ワギナだよ」と歌えたほうがいいんじゃないのか?

 どう考えたって、性教育は必要である。全然足りてない。もっと性に対して語る言葉があるはずだし、自由に考えることができるはずだ。

 学校での性教育の中でこそ、暴力的な事態は起きやすいし、扱いが難しい。一方で、性教育はもっと必要だ。だとすれば、結局、子どもを教育するような、学校を出た大人の性教育がまず必要になるんじゃないか。とりわけ、教職につく人たち(大学教授も含む)に対する、研修って必要ではないか。画一的な性教育というのも聞こえが悪いが、オリジナリティ<だけ>があふれる性教育もやっぱりまずいように思う。

*1:そして、過激でもなんでもなかった。むしろ古臭い。

*2:でも、たぶん顔に出てたからバレバレ。

*3自戒をこめて!

*4:たとえば、私の場合は、この質問の回答をweb上で発表したりとかはできないです。

*5:別に「アソコ」と呼びたいなら呼べばいいけど、「おまんこ」でも「ワギナ」でもいいし、好きな名前でもいいんだけど、とりあえず代名詞でない呼び方もできることを知る(やってみる)のは大事。

2008-05-23

[][]倫理の教え方

 id:toledさん経由で、トリアージをめぐって議論が起きている。

 id:fuku33さんは、経営学の授業*1で、トリアージについてこのように述べた。

 また、別の回に、資源の有限性がその合目的的な最適配分を促し、戦略性やリーダーシップや組織内の規範意識も意思決定も価値判断もそこから始まる、ということをわかりやすく説明したくって、四川の震災のニュースを挙げてトリアージの概念を説明した。絶対的に医療資源が不足しているところでは、「もう助かりそうにない患者」と「患者自身が処置したら大丈夫な患者」はカテゴライズして分けて、その間の「治療しなければ助からないが治療すれば助かるかも」というところに有限の医療資源を配分する、というシステムがあるんだよ、ということを説明したら、やっぱり女子学生のかなりの部分から「かわいそうだ」という反応があった。

 これ、「トリアージの判断をしなければいけないお医者さんたちもつらいだろうな」というのではないんですよ。そうでありつつ、でもひとりでも多くの人を助けようとしたら、そこで考えなければいけないんだろうな、それを「戦略性」とでもいうのでしょうか?と聞いてきた男子学生には、僕は巧くコンセプトが伝わった、その通り!と褒めたい感じですが、「可哀想じゃないですか致命傷の人を見捨てるなんて」。でもそういう非常事態では、特に医療資源は有限だからこそ、適切に配分しなければならないという考えなんだよ、とくどく説明した。

fuku33「ケーキを売ればいいのに」『福耳コラム』

*2

 一読すると、fuku33さんがトリアージ肯定論を述べているようにみえる。が、ブックマークコメントへの応答として書かれた追記を読むとそうでもないらしい。

(引用者注:トリアージの重要性を理解した上で)もちろん、「じゃあどうすればいいんでしょうね?」という「次の問い」に自分から進んでいく学生もかなりいます。そういう人は、自分で「戦略」というコンセプトをももやもやと意識するようになるようです。でもそういう学生さんばかりでもないのですね。少数ですが、「かわいそう」にとどまって事たれりとする学生さんがいる。教える側としては、みんなもっと早く「じゃあどうしよう?」からやっと始まるスタンスについて考えよう、と煽りたいところです。前途多難ですが。

さらに、こういう応答が続く。

学生の多くは「かわいそう、でも、それではなぜトリアージというものがあるのか?」という次の問いに、ちょっと時間はかかりましたが達したことを学生さんたちの名誉のために付け加えます。それだけに、「かわいそう」で足踏みしてしまう学生さんにちょっと歯がゆい思いがするのです。まさかカマトトぶっているだけとも思いませんし、いろいろ投げかけては見ているのですが。

つまり、fuku33さんは、トリアージの残酷さを踏まえたうえで、トリアージせざるをえない極限状況について、学生に考えさせたかったということだろう。こういうことを考える是非については、以前、議論したことがある。*3なんにせよ、この手の議論は、「だからしょうがないよね」という話には落ち着かせないことが重要である。そして、「『最悪や』と思いながら生きていく<私>とは何か」という問いが、私の倫理に向かう動機である。もし、fuku33さんが、このような動機を学生たちに持たせようとしているのならば、共感するだろう。

 しかし、どうもこの記事には違和感がある。そもそも、なんで女子学生たちは、「トリアージはかわいそう」という発想から抜け出せないんだろうか?それって、授業の仕方が悪いのではないか、と疑ってしまう。なぜならば、トリアージが、それを遂行する人間に与える精神的負荷については、多くのネガティブな報告があがっているからだ。特に、1995年の阪神・淡路大震災において、消防隊員がトリアージを行った後、PTSD様の症状を出している例が報告されている。これは、災害のサバイバーが、生き残ってしまったこと自体に罪悪感を抱くサバイバーギルトに似ている。消防隊員は、助けられなかった被災者たちを、自分が殺したように感じたり、自分は何もできなかったと感じ無力感にさいなまされる。にも関わらず、彼らはトリアージの必要性を認める。このような例を出してなお、「トリアージはかわいそう」という感想が出るのだろうか?

 で、まあ、出てもいいと思うのだ。そこまで聞いても、「トリアージがかわいそう」という学生は、かなり信念がある。ましてや、「『そんな重傷者をもう助けないなんてレッテルを貼るなんて、人権侵害じゃないですか?』と書いてきたお嬢さん」*4などは、fuku33さんに喧嘩を売っているとしか思えない。そう、喧嘩を売っているのだ。fuku33さんに、これを書いた人は抵抗している。そもそも、人権という概念は論理の産物である。これを書いた人は、書いた人の論理で怒っているのだ。

 こういう状況に対して、私なら教育者として情熱を煽られるだろう。ちょっと言ったくらいで、「あーそうなんですか。先生は正しいですね」なんていう学生は、「ちょっと迎合的なんじゃない?」と思ってしまう。感情的には、自分に「わかります」って言ってくれる学生をひいきしたくなるのは理解できる。しかし、論理的に考えれば、自分の考えを否定しにかかる<他者>として現れた学生のほうが、教育者にとっては重要な存在ではないだろうか。

 その上で言うが、教育者が、自分の授業で発言した学生に対し、くさすのってあまり良い構図に見えない。fuku33さんと学生の間には、はっきりとした権力関係がある。もしかしたら、fuku33さんに歯向かうことで、学生の側は単位がもらえなかったり、これから先、教員に良いイメージを持ってもらえなかったりするリスクを負っている。そのリスクを負っての発言に対し、揶揄的に扱うのはすごくイヤな感じだ。*5

追記

今になって気づきましたが、「サバイバーギルト」を「サバイバーギルド」と書き損じていました。すいません。しかし、職能集団を組むサバイバーたちって……笑えない感じです。本文では修正しました。

*1:たぶん、ここは重要

*2:とりあえず、この人の「男=論理的」「女=感情的」という、個人的経験論に基づく感情的な思い込みは、置いておくとする

*3:こういう感じ→http://d.hatena.ne.jp/gordias/20070519/1179542871http://d.hatena.ne.jp/gordias/20070520

*4:ちなみに、あたしは、こういうこと書くタイプね。あたしって、ケガレを知らないお嬢さんだから。おほほ。

*5:これまた、反面教師にさせてもらおう。

2008-05-01

[][]市場原理はいいことづくめ?

 今朝の日経新聞に「待機児童対策、市場原理で」という記事が出ていた。書いているのは、鈴木亘。鈴木さんは、次のように現状を捉えている。

 少子化による税収減少を補うため、女性の労働参加を高める必要がある。そのため、保育所の待機児童の解消の政策が求められている。政府が立ち上げた「新待機児童ゼロ作戦」は金銭面から頓挫している。鈴木さんは、その予算を削減する提案をしている。

 ↑この時点でいくつか突っ込みたくなるワードが頻出しているが、すごいのは次の分析である。

現在の認可保育所、特に公立保育所は、延長保育・休日保育実施率の低さやゼロ歳児定員の少なさからわかるように、利用者への質向上を図る動機がほとんど存在しない。

 これは行政の割り当てにより、努力しなくても利用者が集まり、しかも費用が自動的に行政から支払われるという無競争状態にあることが原因だ。

これは、わざと嫌がらせで書いているのだろうか?それとも鈴木さんは、本気で書いているのだろうか?新しい試みができないのは、人手不足だからだと思うが。ていうか、そういうサービスを実現できるような予算配分(特に人件費)になってるの??さらに衝撃↓

また、平均年収八百万以上の公立保育所保育士賃金に代表されるように、レント(超過利潤)として非常な高コスト構造を産んでいる。例えば、認可保育所の運営費(一人当たり)は、同等の質の基準にある東京都の認可外保育所(認証保育所)の一・六倍も高い。これを直接契約にすれば、競争を通じて質向上と運営費用効率化の両者が達成されることになる。

そ、それは比較対象に出す認可外保育所(認証保育所)の職員の給料が安すぎるのですよ!最近もID:discourさんが「保育士に離職者が多いのはどうしてか」という記事を書いている。労働条件悪化させてどうするよ?若手が根付かず人材育成のコストばかりが無駄に浪費され、人手不足はさらに深刻になりサービスの質も悪化。鈴木さんと私の予測は正反対です。

 そして、鈴木さんの改革案は、認可保育所への補助と、認可外保育所への補助を一元化するものだ。現在の制度では、高額所得者も、保護者が昼間労働していれば認可保育所に入ることができる。そのせいで、補助金が、本来、補助の必要がない人たちに流れている。そこで、補助を保育所に出すのではなく、保護者に直接需給することする。これで、一兆4000億円の予算削減ができるという。

 だが、これまで格安な認可保育所だから利用できていた低額所得者が、保育所から排除されることになる。その救済策として、一時的に、現在、認可保育所を利用していて、低額所得者である層に、別口で補助を出す。その試算が7800億円であるから、これを削減した予算から捻出する。1兆4000億円の削減に、7800億円の支出増を合算しても、まだ6200億円の予算削減が残ったままである。さらに、民間参入が活発になり、補助額は各世帯ごとに応じるので増えないまま、自由競争により保育所の採算性は増していく。さらに、この浮いた6200億円の財源を用いて、低額所得者や障害児に再分配を行い、弱者により配慮した政策が可能になるという。

 ここまで読んできて、クラクラした。なんて能天気な。自由競争になれば、保育所自身は弱者に配慮はしない。より高額で充実したサービスを提供する保育所と、より低額でサービスの不十分な保育所に二元化していくだろう。っつーか、これって格差社会の原則やん?貧乏人は、それに見合ったサービスしか得られないってさ。

 教育という問題が難しいのは、「サービスが不十分」である教育機関が淘汰されるのではなく、「サービスが不十分」である教育機関でも、お金がなければ利用せざるを得ないことである。そして、そのしわ寄せは、子どもに来てしまう、ということだ。教育の自由化が難しいのは、「大人は、全ての子どもに未来を託す」という理念と相反するからである。まあ、理念は捨ててるから、こういうこと思いつくんやろけどさ。

 でも、最後の締めを読んで理解できた。

「市場原理の導入は弱者排除である」という批判は全く事実無根であり、いいことずくめの市場原理導入による改革を直ちに実行するべきである。

「いいことずくめ」の政策なんぞ、どこにも存在しない。何かをとれば、何かを失うものである。その失う部分に気づかなければバカだし、隠せば卑怯である。「これさえ実行すれば幸せになりますよ」なんて、信仰告白みたいなもんだ。保育所の現状はもちろん、中盤の論理展開もどうでもよく、鈴木さんにとって、最初っから、結論は決まっていたのである。