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2018-11-04

[]性暴力・DV被害の実態調査の記事の追記

 先日、公開した性暴力・DV被害の実態調査について書いた記事が、予想以上にアクセスを集めてしまいました。該当記事は以下です。

日本社会における「女性に対する暴力」は少ないのか?」

http://d.hatena.ne.jp/font-da/20181028/1540696942

 私の記事はこの統計調査は国際比較をするにはまだデータが不十分であり、確定的なことは言えないため、調査者の結論のうちの「女性に対する暴力被害は、EUと比較すると、少ない。暴力の形態に限らず,EUのほぼ半分である」の部分には同意しないと書いています。

 これが、以下のブログ記事で紹介されてネットで話題になりました。こちらの記事内では私の論が批判されています。両者を読み比べてどちらの論が妥当であるのかの判断は、読んだ方にお任せしようと思います。特に私から言うことはありません。

「日本では女性への暴力は少ないと言う調査結果に困惑するフェミニスト

http://www.anlyznews.com/2018/10/blog-post_29.html

 それはともかく、京都女子大学教授の江口聡氏のブログ記事でも、同じ調査が紹介されました。

EUの女性に対する暴力の調査はすすんでるなー」

https://yonosuke.net/eguchi/archives/9705

 こちらの記事では統計調査の詳細が丁寧に紹介されています。私自身、セミナーでこの話も聞いたのですが、取り急いで自分の論だけを書いたので飛ばしてしまいました。こうして補足記事が出るのはとてもありがたいです。

 さて、EUの調査についてですが、江口さんは「すすんでる」と書いていますが、私はそうは思っていません。私はこの調査は、一面では役に立ちますが、別の一面では誤解や偏見を強化します。なぜなら、統計調査は常に目的を持って設計されるからです。以下の点には留意が必要です。

(1)「女性に対する暴力(Violence against Women)」という語が使われていること

 先の記事にも書きましたが、この調査では「女性に対する暴力」として、調査対象者を女性に限定しています。しかしながら、性暴力やDV などの被害を受けるのは女性だけではありません。性自認が女性でない人たちもいます。また、「女性に対する暴力」という言葉で想定されやすい加害者は「男性」であることが多いため、「同性間の暴力」や「女性の加害者」の問題を見落とす危険があります。

 この調査は2012年にEUで始まっていますが、その時点で上のような指摘はすでにされていました。英語圏では「女性に対する暴力(Violence against Women)」という言葉は、「ジェンダー化された暴力(Gendered Violence)」に置き換えられることが増えています。この語は、ジェンダー構造を背景として起きている暴力一般を指し、男性が被害者であっても、こうした暴力を訴える困難の背景にはジェンダー構造があるというような含意を持ちます。しかし、このEUの調査はいまだに「女性に対する暴力」という語を用いています。

 その点から、私は次のことを類推します。すなわち、この調査はフェミニストが中心となり、「女性」に焦点を当てているということです。さらにこの調査はEU内の国の被害実態の比較をしています。そのことにより、EU内では発展途上国のほうがDVや性暴力に苦しむ女性が多く、「支援・教育が必要である」という結論が導き出されます。この調査をもとに、おそらく女性に対する「支援・教育」のための予算が増えます。(それを担うのはおそらくフェミニストでしょう)これについて、私は裏付けを持っていません。しかし、ざっとこう推測してフェミニズムバイアスのかかった調査だとみなしています*1

 私は性暴力やDVの問題については、こうしたフェミニスト・アプローチによる「支援・教育」には懐疑的です。こうした暴力は常に社会構造の中で起きます。貧困民族差別と切り離して考えることはできません。先進国発展途上国の、EU内の経済格差はいまだに大きく残っているわけですが、その影響は性暴力やDVの問題に及んでいます。また、性暴力やDVは、それぞれの地域の社会や文化と絡み合って起きています。一概に発展途上国は性暴力やDVが多いという視線を、先進国側が向けること自体が、暴力的に働くことがあります。

 当然ながら、「女性に対する暴力」の調査を行い、女性に対する「支援・教育」に対する予算を増やしていくことは、必要があるから行われており、私も異論はありません。そのためにはエビデンスが必要です。EUはそのための資金を提供しているので、とても良いことです。しかしながら、国家間の格差の解消や、文化の多様性の尊重の問題については後退せざるを得ません。何度も書きますが、私は統計調査は必要だと考えています。他方、こうした調査を「進んでいる」とは表現しません。

(2)統計調査では母数が重要であること

 (1)のような留意点はあるものの、EUが「進んでいる」とすれば、このような大規模調査を行うことができることでしょう。EUの調査は、EU加盟国の全土で行われています。こうした調査が行えるというのは、それだけ統計調査の重要性と、DVや性暴力についての深刻さが認知されているということです。このことについて、EUが「進んでいる」ということについては同意します。

 EUに対して、日本で行われた今回の調査は、関西地域にとどまり、調査サンプルの母数は2448人です。有効回答率が30.3パーセントであり、有効回答票は741件です。非常に限定された調査であり、日本のごく一部の地域でしか実施されていません。その理由は予算の不足であるため、私は今回の調査の限界であったと認識しています。しかしながら、どうしても関西地域のみの母数741件の調査と、EU全土で行われた調査を比較するのは難しいものがあります。

 たとえば、この調査でもっとも顕著な結果であるのは、「パートナーから受けた最も深刻な暴力を通報した女性は0%(53人中0人)である」という点でしょう。EU全体の調査では14パーセントが通報しているのに比べると、衝撃的な値だと言って良いと思います。日本ではパートナーの暴力が起きた場合、「誰も警察に通報していない」ということです。これは日本の「女性に対する暴力」の被害者が通報できないという困難を示しています。しかしながら、その回答数は「53人」です。統計調査は数が多ければ良いというわけではないですが、100に満たない回答数というのは、かなり厳しいものがあります。

 2017年度の内閣府調査*2によれば、日本で配偶者からの暴力*3を「警察に連絡・相談した」という女性の被害者は2.8パーセントいます。もちろん高い数値ではありませんし、EUの調査と(本来は直接的には比較できませんが)比べても大変低い値です。しかしながら、ゼロではありません。内閣府調査は全国で行われ、母数は5000人で、有効回答率は67.5パーセントであり、回答者は3376人(うち女性1807人)です。「配偶者からの暴力の相談先」を聞かれて回答したのは、650人(うち女性427人)です。調査方法は違うことを差し引いても、母数を増やせばさすがに通報率0パーセントということはなくなります。

 どちらの調査でも、日本では「パートナーから受けた暴力」を警察に通報する女性はきわめて少ないという傾向は見て取れます。他方、今回の津島さんたちの調査が小規模なものにとどまり、有効回答数が十分ではないことも言えます。そもそもEU内の国家比較のためのデータを、EU全体との比較にできるのかどうかも疑問です*4。これらを踏まえると、あえて私がEUの調査が進んでいる点というと、統計調査に予算をしっかりつけるところです。

(3)調査方法は一長一短であること

 先ほど紹介した江口さんの記事では、内閣府調査は質問紙形式であり、質問項目も不備があると指摘されています。私はそれも同意するところで、こうした繊細な暴力の調査は訓練を受けた調査員が丁寧に聞き取りをしたほうが良いでしょう。その点で、津島さんたちの調査は非常に優れたものです。

 しかしながら、こうした丁寧な調査はお金もかかりますし、調査者も多大な労力を費やすことになります。そのため、調査地域も限定されますし、継続調査が難しいという問題が出てきます。性暴力やDV統計調査は、実数の多寡を推測すること以上に、経年変化を見ることに大きな意義があります。経年的に見ても、同程度の回答数が続けばある程度の確度のある調査だとみなせるでしょう。回答数に変化があればその理由の分析が必要になります。

 私も内閣府調査には改善の余地はあると思います*5が、「日本全国の調査であり、回答数がある程度は確保されているところ」「経年変化を見ることができるところ」は非常に大事です。それに、男性の被害の調査も始まっており、これ以降も改善が望めます。

 調査は常に人的資源とお金の問題がつきまとうので、完璧なものを目指すことは意味がないとは思います。他方、単純に「こちらが進んでいる」「こちらは遅れている」と言えるほど、単純でもありません。私自身は、現段階では、内閣府調査も、回答数が十分にあるという点では有用だと考えています。(もちろん、津島さんたちの調査にもっとお金がついて、大規模に行われればそれが一番良いと思いますが、現実的判断としては難しいでしょう)

(4)調査結果の解釈には恣意性が常につきまとうこと

 最後に、今回の統計調査について「被害女性の回答の割合が高い国は、被害実数が多いのではなく、支援・教育が行き届いているために、調査でも被害について話しやすいのだろう」という解釈について、賛否が分かれたようです。私は前の記事で詳しく述べましたが、この解釈を支持しています。津島さんもセミナーで、EU内の国家比較の場合には、この解釈に同意していました。だからこそ、私は「なぜ、日本だけにこの解釈を適用しないのか」という疑問を持ちました。その点で言えば、私も津島さんも「被害女性の回答の割合が高い国は、被害実数が多いのではなく、支援・教育が行き届いているために、調査でも被害について話しやすいのだろう」という解釈は、EU内の国家比較については共有しているわけです。

 江口さんは、この解釈自体に不同意なようです。EU内の比較において、イギリスフランスドイツなどの先進国のほうが、ブルガリアポーランドなどの発展途上国とみなされる国よりも、DVや性暴力の被害の割合は高く出ています。そのことから考えて、前者の方が性暴力やDVの実数が多く、支援や教育の対策も不十分であると考えているのでしょうか。もちろん、そう解釈することも可能だと思います。そうなると、私はもちろん、津島さんとも解釈を違えることになります。

 江口さんは、これだけ細かい質問項目で、丁寧に聞き取りをすれば、被害者自身が暴力に気づかないことはないと考えているようです。しかしながら、私は十分にあり得ると思います。実際に、当事者に関わっていると、本人が自分の身に起きていることを、すっぽりと忘れていることはよくあります。またいくら丁寧に質問されても「否認」することがあるのも推測できます。たとえば、セラピーでは、暴力の記憶が5年、10年かけて浮かび上がってくることがあります。なぜなら、自分の身に受けた暴力を言葉にするというのは、それだけエネルギーが必要で大変なことだからです。質問者が、共感的な調査者であっても変わりません。

 では、どうすればこのような調査の回答を促すことができるのでしょうか。それは、いくら調査設計で、面接の仕方を工夫していても限界があります。日常の中で、身近な人からの暴力に敏感になり、そのことが話せるような土壌を作っている必要があります。これは気の長い話で、一朝一夕でできることではありません。それでも調査方法を洗練させるだけではどうにもいかない部分があります*6。裏返して言えば、その丁寧な土壌づくりの成否が、逆転した結果を生むと考えるので、「被害女性の回答の割合が高い国は、被害実数が多いのではなく、支援・教育が行き届いているために、調査でも被害について話しやすいのだろう」という解釈に至ります。そのプロセスに実証データはありませんから、恣意的なものとなります。その点では、私も津島さんも、調査結果の恣意的な解釈を採用しているということです。

 以上の点は、非常に瑣末で、津島さんたちが行った統計調査の意義に比べれば小さな指摘にすぎません。私自身、統計調査については非常に素晴らしいと思っています。ただし、雑なことを言わずに、丁寧にものごとを言っていくことも大切だと思っています。批判的視座を持ちつつ、今後の調査に期待したいです。

*1:念のために書いておきますが、私はフェミニストではありますが、性暴力やDVについては微妙な立場です。王道をいくフェミニストではないので、フェミニスト中心の支援や教育には不満を持っています。(海外の研究会では私はフェミニストを名乗ることはありません。なぜなら、英語圏の主流のフェミニストの主張にはほぼ沿わないからです。王道のフェミニズムでは、私のやっている性暴力事例における修復的司法禁忌です)それから、ここでは調査にバイアスがかかっていると書いていますが、行政組織の統計調査はなんらかの政策立案を前提に行われることが多く、それ自体は不正でもなんでもありません。戦略の一つです。

*2http://www.gender.go.jp/policy/no_violence/e-vaw/chousa/pdf/h29danjokan-4.pdf

*3:この調査の最大の問題点は、親密な関係における暴力を、配偶者間に絞っているところです。

*4:私はこの統計調査であれば単純に、EUの国家比較の中に「関西地域」がどを埋め込むほうが適切だと思います。その「関西地域」のデータは、EU内の発展途上国と近接することがより鮮明にわかるでしょう

*5そもそも「暴力」についての調査だと明示しているのは、大きな問題でしょう。加えて私も江口さんと同様に「なにを暴力だと思いますか」という設問は、被害者のバイアスを強める可能性があり問題だと思います。

*6:私のこのような提言は、これまでネットでは冷笑的に扱われてきました。ところが、当事者に話すと「それだ」と同意されることがよくあります。もちろん、すべての当事者がこうした気の長い話を支持するわけではないとは、思います。それでも「被害者のために」という名目で調査方法が洗練されていくのは、変な話だと思いつも感じています。

2018-10-28

[]日本社会における「女性に対する暴力」は少ないのか?

追記:

以下のサイトで最初は「ジェンダー社会学者」という肩書きになっていたのですが、「フェミニスト」にご変更いただきました。

日本では女性への暴力は少ないと言う調査結果に困惑するフェミニスト

http://www.anlyznews.com/2018/10/blog-post_29.html


 昨日、龍谷大学で行われた犯罪学のセミナーに参加してきた*1。テーマは日本社会における「女性に対する暴力」で、2016年に行われた統計調査をもとに分析がなされるということで、大変楽しみにしていた。報告者は、調査を実施した一人である津島昌寛氏で、直接、その報告を聴くことができた。概要については、以下のサイトからワードファイルでダウンロードできる。

龍谷大学社会学部 津島昌寛教授と法学部 浜井浩一教授が女性に対する暴力被害の実態として「女性の日常生活の安全に関する調査」(2016)の調査結果を発表

https://www.ryukoku.ac.jp/nc/news/entry-860.html

 これは、EUが実施している「女性に対する暴力*2」の日本版調査である。同様の調査を日本で行うことで、「女性に対する暴力」の国際比較研究ができることになった。非常に重要な調査である。EU版の調査結果は以下のサイトで閲覧できる。

Violence against women survey

http://fra.europa.eu/en/publications-and-resources/data-and-maps/survey-data-explorer-violence-against-women-survey?mdq1=theme&mdq2=3506

 このセミナーで、私は一点だけ疑問を持ったので、そのことをメモがわりに書いておきたい。津島さんの分析では、日本社会において「女性に対する暴力被害は、EUと比較すると、少ない」と結論づけている。その点については、調査概要のワードファイルにも以下のように記されている。

女性に対する暴力被害は、EUと比較すると、少ない。暴力の形態に限らず,EUのほぼ半分である。

https://www.ryukoku.ac.jp/nc/archives/001/201708/記者発表の概要.docx

 確かにデータ自体では、日本社会で暮らす女性が性暴力やDVを受けていると回答する割合が低い。しかし、性暴力やDVの問題で、重要なのは「暗数」である。

 たとえば、EUの調査のデータを見ると、「女性に対する暴力」の割合は、北欧フランスドイツなどのいわゆる「先進国」では高く出て、東欧などの「発展途上国」とみなされる国は低く出る。では、前者は「女性に対する暴力」が蔓延している社会なのだろうか。こういうデータについては、通説として、女性の人権が守られ、十分に性暴力やDV知識が広まっている国では、被害者が「自分は暴力を受けている」と認知するのがたやすくなる。他方、性差別が強く性教育が行き届いていない国では、被害者が自分が暴力を受けていてば、それに気づかず、「暴力であること」自体を認知できない。つまり、「自分は不当に扱われている」ということを自覚しにくいのである。そのため、「女性に対する暴力」の割合が高い国は、「女性に対する暴力」についての情報発信や支援制度の樹立が進んでいると解釈されるのである。

 これについては、津島さんはEUのデータについては、私と解釈を同じくしていた。そうであるならば、「女性に対する暴力」の割合が低く出る日本もまた、暴力の実数が少ないのではなく、「女性に対する暴力」についての対策が遅れている国ということになるはずだと、私は考える。そして、その認識については、多くのDVや性暴力の被害者支援に関わる人たちは肯首するだろう。

 何をもって「進んでいる」「遅れている」というのかは難しく、DVや性暴力は文化や社会構造の影響が大きいため一概に「こういう対策を取るべき」だとは言えないが、北欧フランスドイツなどの「女性に対する暴力」の割合が高い国に比べて、日本の対策が十分だという人はほとんどいないだろう。日本にはレイプクライシスセンターも少なく、被害者の支援をする専門家の数も足りず、刑務所の加害者治療のプログラムは始まったばかりであり、DVについては加害者を拘束するための実効的な法制度が乏しい。私は「女性に対する暴力」については「日本は発展途上国である」と認識されたとしても、異論はない。

 私のその指摘に対して、津島さんは、日本の調査では女性が「自分の被害」だけではなく「身近な人の被害」についても「聞いたことがある」と答える割合が低いことから、日本社会においては「女性に対する暴力被害は、EUと比較すると、少ない」ことが裏付けられると説明する。調査概要のワードファイルには以下のように記されている。

4人に1人の女性が、親戚・友人など自分の周りで、DVの被害にあった女性を知っている。23%の女性が、親戚・友人など自分の周りで、DVの被害にあった女性を知っている(図17)。先の自分自身の暴力被害の申告(被害)率にくわえて、EUと比較すると少ないことから、日本における女性に対する暴力の被害がEUよりも少ないことが読み取れよう。

https://www.ryukoku.ac.jp/nc/archives/001/201708/記者発表の概要.docx

 その理由として、津島さんは、暴力を受けている女性は、自分自身の被害については話すことが難しくても、他人の被害であれば話せるはずであることを挙げていた。だから、日本で暮らす女性が、自分の被害だけではなく、他人の被害についても身近に聞いた経験の割合が低いことは、「女性に対する暴力被害は、EUと比較すると、少ない」ことを裏付けるとするのである。

 しかしながら、以下の三点によって私はその解釈は採用できないと考える。

 まず一点目は、論理的な理由である。「自分の被害経験を話す女性が少ない」ということは、「周りの女性が他人の被害経験を耳にする機会が減る」ということである。性暴力やDVの特徴は、多くが密室で行われ、証人がほとんどいないことである。(このことが裁判での立証を難しくしている)そのため、被害を受けた女性本人が話さなければ、周りはその人に何がおきたのかを知らない。だから、論理的に考えると、「自分の被害経験を話さない」社会であることは「他人の被害経験を聞く機会が少ない」社会であることである。ここから、このデータからは「女性に対する暴力被害は、EUと比較すると、少ない」のではなく、「女性に対する暴力被害への対策がEUに比べて日本は不十分である」という結論が導かれることになる。

 次に二点目は、実態的理由である。「暴力を受けている女性は、自分自身の被害については話すことが難しくても、他人の被害であれば話せるはずである」ことを裏付けるデータは全くないことである。そもそも性暴力やDV知識が十分にない人は、自分であっても他人であっても、おきている事態が暴力であることに気づかないだろう。苛烈な環境で生まれ育った女性が、自らの周囲は暴力に満ちていたが、それが当たり前すぎて暴力であると気づいていなかったと語ることは、支援現場ではよくある。そういう状況にある女性は、身近な女性が暴力について語っていても、それが暴力だとは気づかない。その結果として、今回の調査でも「身近な女性が暴力に受けているところを見聞きしたことはない」と(他の人が見ると見聞きしていると認識するにもかかわらず)答えている可能性がある

 さらに、暴力には「否認」の問題がある。自分の身に起きたことを暴力であると認識することで、被害者は精神的に厳しい状況に追い込まれることがある。そのため、被害者は意識的または無意識的に「これは暴力ではない」と思い込む。その結果、自分に起きた暴力も、他人に起きた暴力も、暴力と認識されない。今回の調査でも、そういう状況にある女性は「身近な女性が暴力に受けているところを見聞きしたことはない」と回答している可能性がある。(付け加えると、この「否認」は暴力を受けている人が用いるサバイバルスキルの一つであり、否定されるようなものではない)

 最後に三点目に、統計的な理由である。もし、身近な女性対する暴力を、女性が耳にする機会が少ないというデータが、「女性に対する暴力」の実数が少ないことを裏付けられるならば、それは国際比較調査によって実証されなければならない。つまり、「女性に対する暴力」への対策が十分だとみなされる北欧フランスドイツなどでは、「本人の被害経験」の割合は高いが、「身近な女性の被害経験を聞く機会」の割合は低くなければならない。それに加えて、発展途上国とされる国では、「本人の被害経験」の割合は高いが、「身近な女性の被害経験を聞く機会」の割合は高くなければならない。この比例・反比例の関係が成り立っているときに、日本だけが「本人の被害経験」と「身近な女性の被害経験を聞く機会」の割合が低いとすれば、その特異性の理由がさらに分析されなければならない。ここについては、FRAが公開しているEU版の調査結果では詳細がわからないので私は比較できなかった。

 以上の三点により、私は、「女性に対する暴力被害は、EUと比較すると、少ない」という津島さんの分析には賛同しない。

 しかしながら、これだけ踏み込んだ性暴力・DV統計調査が行われたことは非常に重要であるし、ぜひこの問題に関わる人の間では共有していきたいと思う。

*1セミナーはこちら→ http://www.ryukoku.ac.jp/nc/news/entry-2316.html

*2:この「女性に対する暴力(violence against women)という単語は、非常に問題があると思う。これは、女性以外の被害者や、同性間暴力の被害者を不可視化するからである。近年では英語圏では議論になっているはずだが、いまだにEUでこの調査が行われているのは驚いた

2017-12-20

[][]性暴力被害者の告発をどう受け止めるのか?

 この記事は三部構成になっています。関心に即してお読みください。

(1)はあちゅうさんの性暴力の告発

(2)はあちゅうさんに対する批判

(3)告発した被害者と支援者はどのような状況に置かれるか

(1) はあちゅうさんの性暴力の告発

 いま、インターネット上で性暴力の告発が次々と行われている。きっかけは英語圏で始まった「#metoo」というタグである。過去に性暴力被害を受けていた人たちが、自分の経験を語り出した。日本でもTwitterを中心にして、性暴力の告発が続いている。

 その中で、作家のはあちゅう(伊藤春香)さんが、電通に勤務しているときに上司から苛烈なセクハラ・パワハラをされていたことを告発した。加害者は、はあちゅうさんを深夜に自宅に呼び出して「指導」の名目で繰り返し罵倒し、人格否定を行なった。また、はあちゅうさんの女性の友人を紹介させて性行為を行い、その友人を貶める発言をはあちゅうさんに聞かせた。この件については、友人を紹介したはあちゅうさんの責任を問う声もある。だが、加害者は「被害者が最も傷つく方法」を嗅ぎつけ、それを繰り返すものだ。はあちゅうさんにとって、「自分の友人を性的に傷つける」行為が、はあちゅうさん自身を深く傷つける方法であるとわかっているから、加害者はそうさせたのだろう。(はあちゅうさんはこの件について友人に報告し、謝罪している*1)告発は以下で詳細な記事となっている。(詳しい被害経験も書いてあるため、閲覧には注意が必要です)

はあちゅうが著名クリエイターのセクハラとパワハラを証言 岸氏「謝罪します」

https://www.buzzfeed.com/jp/takumiharimaya/hachu-metoo?utm_term=.awPmYPQGQ#.wklKj6dgd

 はあちゅうさんはこの告発に際して「良き被害者」の像を拒むことを明言している。告発後の個人ブログで、はあちゅうさんは以下のように述べている。

被害者であるなら品行方正を貫き、常に被害者としてだけ生きろ、

という認識のある方がいるとしたら残念に思います。

こういった証言をしたからといって、

今後、公の場で被害者としてしか

振舞えないのもおかしな話です。

私自身もセクハラ被害を訴える活動には協力したいと

思っていますが、それを仕事としたいわけではありません。

今後の活動の方向性についても質問を受けましたが

これまで通りに日常を発信していきます。

セクハラ被害を告発するかどうか迷っている人が一番恐れるのは

平穏な日常が奪われてしまうことのように思います。

私は自分に起きたことを語りましたが、

人生を奪われたわけではありません。

逆に言うと、被害者として振舞うことを

世の中に強要されるのなら、

人生を奪われたと感じるかもしれません。

普段通り元気に活動している姿を見せることが

私の今後の役割だと思っています。

今後ともよろしくお願いします。

はあちゅう「BuzzFeedの記事について」

https://lineblog.me/ha_chu/archives/67293039.html

 以上のように、はあちゅうさんは、性暴力の告発後に「被害者としてだけ生きることを望まない」ことを強調している。これは、とても大事な点だ。

 性暴力の告発は「被害を語ること」だけでは終わらない。告発後に、当事者は周囲からの「被害者への視線」を浴び続ける。ときには、当事者のあらゆる発言が、性暴力と結び付けられる。たとえばそれは、「あの人は被害者だからあんなことを言うんだ」「あの人は傷ついているからそんなことを言うんだ」という邪推の言葉として現れるし、「あの人は被害者のくせに」「あの人だって加害者になってるじゃないか」という言葉に現れる。実際には、当事者にとって、性暴力は人生の一部ではあるが全てではない。当事者のすべての振る舞いや価値観が性暴力によって形作られたわけでもない。ところが、周囲の視線や言葉によって、当事者は「性暴力の経験」に縛り付けられることがある。これは性暴力を告発する際に、当事者に圧しかかる重荷である。

 はあちゅうさんはその重荷について、はっきりと「NO」の言葉を発している。この言葉を、私たち第三者は重く受け止めるべきだろう。そして、私はこの言葉は、次に告発する当事者へのメッセージにもなっていると思う。被害を告発した後も、いつも通り、明るく楽しく性的なジョークを飛ばし、微笑んでいる写真を出して、ポジティブシンキングな文章を書く作家として発信すること。至らない部分があることを隠さず、時にははしゃいで、羽目をはずすこと。ネットで炎上してしまうこと。いいことも悪いことも含めて、はあちゅうさんは「被害者」でありながら、「いつもの私」として生きていくのだろう。被害を経験したあと、当事者はどんなふうに生きることもできる。何かを諦める必要はない。そのことを、はあちゅうさんは身をもって実現することは、きっと同じ被害を受けた人たちへの希望になるだろう。

 誰もが性暴力の被害を受けることがある。特別な存在だから被害を受けるわけではない。被害を受けたから特別な存在になるわけでもない。性暴力のトラウマがある人も、性的なジョークを楽しむことがある。私は性暴力被害者の支援に関わっていて、どぎついジョークを言う当事者になんども出会った。自分の経験をジョークにする被害者もいる。性的に傷ついているからと言って、いつもみんなが泣いているわけではない。自分の苦しい経験を笑い飛ばすことで前を向こうとする当事者もいれば、単純にジョークが好きな当事者もいる。もちろん、ジョークを言う余裕もなく、笑えなくてじっと耐えている当事者もいる。その違いはトラウマの深さではない。いろんな人が被害にあうので、反応も人それぞれだというだけのことだ。そんなことはあまり知られていない。なぜなら、メディアに出てくる被害者は、いつも泣いていて痛ましい姿だけだからだ。もしくは毅然として告発する姿だけだから。その被害者の姿は「同情」や「賞賛」によって消費される。私はその「良き被害者」の像に抵抗することを支持する。

(2)はあちゅうさんへの批判

 告発に対してははあちゅうさんを支持する声が高まったが、一筋縄ではいかなかった。一つ目の理由は、はあちゅうさんがネット上ではよく知られた作家であり、もともと彼女に批判的な人が多かったことである。その人たちは「はあちゅうは嫌いだが、今回は支持する」という言及を、はあちゅうさんの告発に対して行なっている。二つ目の理由は、はあちゅうさんが、告発直後に「童貞」をネタにした性的なジョークを繰り返し発言したためだ。これは、童貞である男性へのセクハラであるという批判が起きた。

 はあちゅうさんは、後者の批判に対しては謝罪を出している。

はあちゅう「過去の「童貞」に関する発言についてのお詫び」

https://note.mu/ha_chu/n/n9f000c7bb226

 性的なジョークが難しいのは、それが期せずして相手を傷つけてしまうことがあることだ。そのとき「悪気はなかった」という言葉は免罪にならない。これは性暴力の被害者であってもなくても、同じことだろう。そのため、はあちゅうさんが謝罪したことは私も支持する。自分が「童貞である」ことに深い傷つきを抱えた人がいることは、私も知っている。だから、性的ジョークとして童貞をネタにしたことに反発する人が出るのもわかる。

 ただし、その性的ジョークへの批判が、「はあちゅうさんの性暴力の告発」をなかったことにする方向に進まないよう、気をつけなければならない。先に述べたように、性暴力の告発の重荷は、告発の後にのしかかってくる。その状況で、何をどう批判するのかという判断が、周囲の第三者には問われる。この点については、以下のブログ記事で丁寧に論じられている。

「セクハラの構造問題が議論されるべきなのに、被害者同士の殴り合いで発散していく地獄」

https://note.mu/fladdict/n/n666b0d9aaa4f

 上で書かれているように、童貞であることに深く傷ついてきた人たちが、はあちゅうさんに反発して怒りをぶつけたことに対しては、第三者は言えることはないだろ。その人にとって、大事な問題を第三者が「黙っていろ」と言うことはできない。しかし、この童貞の問題について「当事者以外もはあちゅうさんへ怒りをぶつけている部分があるのではないか」というのが上の記事の要点である。

 このことについては、これまでの性暴力の告発において、「当事者の一緒に怒ることが良いことだ」とされてきたことの功罪思う。私は一貫して第三者が怒りをぶつけることに反対している。はあちゅうさんの被害に対して、加害者に怒りを向ける必要もないと思うし、童貞のジョークに対して、はあちゅうさんに怒りを向ける必要もないと思う。重要なのは第三者の怒りではなく、「セクハラの構造」を明かしていくことである。

 その上で、ヨッピーさんの記事にも言及したい。ヨッピーさんは、インターネット上で活躍しているライターである。そして、Twitter上で、ヨッピーさんがはあちゅうさんの告発を後押しし、現在も連絡をとっていることを自ら明かしている。そして、以下のように書いた。

「〇〇は嫌いだけど、とかイチイチ言わなくていい。」

http://yoppymodel.hatenablog.com/entry/2017/12/19/124547

 この記事でヨッピーさんは、かなり激しい言葉で「今回の件みたいに、業務上の権力者が目下のものに対して日常的かつ執拗に行った逃れづらいハラスメントと、ネット上の発言によって不特定多数を傷つけることが同質のものではないことなんてみんな最初からわかっている癖に、「これもセクハラだ!同じだ!」って結局一緒くたにして叩いてる人いっぱいいるじゃないですか」と書いている。これは、「はあちゅうさんが受けた性暴力の被害」と「はあちゅうさんの童貞のジョーク」を等価だとみなして、相殺することへの批判である。

 ヨッピーさんは、はあちゅうさんから童貞のジョークに対する謝罪が出た後も、あくまでも「僕の1個人の意見です」と断った上で、以下のように書いている。

「あいつも同じ穴のムジナ」みたいな事言う人は本当にそれを今回の件と同質に並べて良い事柄だと思ってるんですかね。もちろん童貞を茶化すような発言で本当に傷ついてる人が居ることは理解するしそういう風潮が是正されるべきものであることは間違いないわけですが、それでも大多数の人が「嫌いだ」って言いたいがためにその件を持ち出してるように見えるんです。本当にそうじゃないって言いきれますか?

 このヨッピーさんの疑念について、インターネット上の多くの人は同意しないが、私は同意している。それは、単純に私がヨッピーさんを、単なる第三者ではなく、より被害者に近い「支援者」だとみなしているからだ。その立場の発言であれば、理解できる。

 ヨッピーさんはこれまで支援者と名乗ったことはないし、そのようなカテゴリにこちらが当てはめることは暴力的なことであり、本人には不本意かもしれない。けれど、もしかするとヨッピーさんの発言を、性暴力の「支援者」としての枠組みで捉えた時、見え方ががらりと変わるかもしれない。そのため、以下では一般論としての性暴力の「被害者」と「支援者」の話を書きたいと思う。

 あくまでも以下は一般論であり、これまで言及してきたはあちゅうさんの性暴力の告発とは、異なる面もあるだろう。私はかれらのことを、以下の論によって解釈するつもりもないし、説明するつもりもない。当人の言ったことや書いたものが全てである。他方、そうした発言や記事を受け止めるために、聞く側が共有した方が良い知識もあるように思う。それを念頭に置いて、読み進めて欲しい。

(3)告発した被害者と支援者はどのような状況に置かれるか

 それでは、性暴力の被害者と支援者がどのような状況に置かれるのかについて、宮地尚子「環状島=トラウマの地政学」を参照して考えてみたい。

環状島=トラウマの地政学

環状島=トラウマの地政学

 宮地さんは、性暴力に限らず、当事者と支援者が置かれた状況について、「環状島」の地形にたとえて説明している。環状島とはこんな島のことだ。(図は【宮地, p.7.】)

 環状島はドーナツ上になっている島のことである。島の中心部に内海を持ち、そこからすり鉢上に斜面になっており、山に囲まれている。その山の尾根を越えると、今度は外海に向けて斜面が続いている。宮地はこの環状島の図を用いて、当事者と支援者の置かれた位置を次のように示す。(図は【宮地, p.10】)

 これは環状島の断面図である。中心の内海の最も深部は「ゼロ地点」だとされている。ここは、言うなれば爆心地である。厳しい衝撃で粉々に吹き飛ばされ、死の証拠すら残らなかった当事者のいる場所である。そして、この内海には亡くなった当事者たちが沈んでいる。当事者は、その内海から這い上がり、島の外に出て行こうと向かうのが、内斜面だ。この斜面を登って当事者は外の世界に出ようとしている。尾根を越えた向こうの斜面にいるのが支援者だ。支援者は外側からこの斜面を登って、尾根の内側にいる当事者を助けようとする。外斜面をおりてしまった場所に広がる外海が非当事者の世界である。

 こうした環状島のモデルを使ってイメージすると、被害者が性暴力を告発するというのは、島の内海から内斜面を登り、尾根から外海に向かって発信することである。また、支援者は外斜面を登り、尾根までたどり着いて被害者を助けることになる。そして、宮地さんは、この尾根にいる当事者と支援者は、内海への〈重力〉に引きずられ、尾根を吹きすさぶ〈風〉に晒されるという。

 宮地さんのいう重力とは、主にトラウマの症状を指している。厳しい経験を語ろうとすればするほど、当時の痛みや苦しみが想起され、内海へ引っ張られる。被害者は必死の思いで内斜面を登ってきたのだが、重力はその被害者を内海へ引き摺り下ろそうとする。その中で、被害者は重力に耐え、踏ん張って尾根にとどまらなければ、性暴力を告発できないのである。

 同時に支援者も尾根にたどり着くと、そのまま内海まで引き摺り込んでくる重力に襲われる。性暴力の被害の詳細を聞き、深く受け止めて共感的になることで、支援者自身がトラウマを負うことがある(これは代理受傷と呼ばれている)。そのまま重力に負けてしまえば、内斜面をずるずると滑り落ちて、支援者も内海に飲み込まれてしまう。だから、尾根で告発する被害者を助ける支援者もまた、危険な状態に陥りやすい。

 次に宮地さんは〈風〉について以下のように説明している。

(前略)〈風〉とは、トラウマを受けた人と周囲の間でまきおこる対人関係の混乱や葛藤などの力動のことである。環状島の上空にはいつも強い〈風〉が吹き荒れている。内向きの〈風〉と外向きの〈風〉が吹き乱れ合い、〈内斜面〉も〈外斜面〉も同じ場所に留まりつづけるのはたやすくない。【宮地, p.28】

 登山の経験者であれば、尾根に吹きすさぶ風の激しさはよく知っていることだろう。内向きの風に晒される被害者は、尾根から吹き飛ばされて内斜面から転がり落ちそうになる。この風は、あるときは内海に近いほかの被害者の呻き声であったりする。「助けて」という声を振り切って、被害者は自分だけが尾根を越えようとする。そのことに対する罪悪感が被害者を襲ってくる。あるときは、内斜面の上から内海にいるほかの被害者に対して優越感をえるかもしれない。逆に、自分より尾根に近づいているほかの被害者に羨望の眼差しを向けるかもしれない。もしくは、同じ尾根に立っているのに、ほかの被害者の方が支援が集まり、注目を得ていることに失望するかもしれない。こうした風に耐えながら、被害者は必死に尾根に立ち、自らの性暴力の経験を語る。いつ転がり落ちてもおかしくない場所に立っているのである。

 他方、外斜面にいる支援者は、被害者を助けようと尾根近くまで必死に手を伸ばす。しかし、被害者の側はこれまで繰り返し、裏切られてきた思いがあるため、簡単にその手を取らない。支援者は、危険を冒して尾根の内側まで来ることを被害者から請われ、「どうせここまでは来られないだろう」となじられたりする。被害者は、確実に支援者が信頼できるかどうかを確認するために、尾根で支援者を試すこともある。この風が吹き荒れる尾根の上で、支援者もまた転がり落ちないように踏ん張っている。そのことにより、支援者は疲弊し、下山したくなっていく。また、よりどちらがより内斜面に近づけるのかという、支援者同士の競争もある。さらには外海の非当事者からも風が吹いていくる。「被害者を利用している」「支援者こそが状況を悪化させている」などの批判が、支援者に浴びせられる。ここで繰り返されるのは「偽善者非難」である。こうして支援者もまた、いつ転がり落ちてもおかしくない場所で、被害者の告発を支えることになるのである。

 私が性暴力の告発に際して念頭にあるのは、こうした被害者と支援者の状況である。だから、私は性暴力被害者に向かって、「告発した方が良い」ということはない。尾根では、重力と風に耐えることに疲れてしまった被害者を何人も見た。そのときに、被害者を置いて、自分だけ外斜面を降りていった支援者も見た。その被害者と支援者の間に何があったのかほとんどわからない。私も尾根にいるときは自分が立ち続けるだけで精一杯だった。私が被害者を置いて外斜面を降りていく後ろ姿を見た人もいるかもしれない。

 私は「尾根に立て」とは言えない。自分が尾根に向かったことがあるとしても、やはり言えない。尾根での経験こそが、深いトラウマになることもある。そして、残念なことに「尾根に向かったこと」の責任は、被害者と支援者にあるとされる。自己責任の登山なのだ。「十分な準備をしていたのか」「装備が甘かったのではないか」「天候を読み間違えたんじゃないか」「あの人は無事に登頂できたじゃないか」と外海からいろんな声が聞こえてくる。その状況を見て、尾根に登ろうとする人は足がすくむ。そのことを誰が責められるだろうか。誰も尾根に向かわなくなったとして、それは被害者と支援者が悪いのだろうか。

 それなのに、なぜ尾根に向かう被害者がいるのか。私はそれは、「あの尾根を越えてみせる」ことで、新しい世界を切り拓く力が被害者にはあるからだと思っている。尾根を越えようとする被害者は、内海や内斜面にいる被害者に背を向けなければならない。でも、ほかの被害者たちは、尾根に向かう被害者を見ている。あの向こうの世界に到達できるかどうかを、かたずをのんで見守っている。もしかすると、尾根を越えることによって、次の被害者も尾根を越えようとするかもしれない。また、尾根を越えられなかった被害者を見て、そのあとを引き継いで尾根を越えようとする被害者もいるかもしれない。尾根から内斜面を滑り落ちる被害者を受け止めようとする被害者もいるかもしれない。

 同時に、尾根に向かう支援者の後ろ姿を外海から見ている非当事者もいるだろう。支援者は非当事者の住む世界から遠く離れて尾根に向かう。そして、被害者の手を取ってこちら側の世界に迎え入れようとしている。その後ろ姿をかたずをのんで見守っている非当事者がいる。その非当事者も、また尾根に向かうのかもしれない。または、尾根から戻ってきた支援者や被害者を受け入れようとする非当事者もいるかもしれない。

 こうした尾根に立つ、被害者や支援者を見ている人たちがいることは、わかりやすい「社会を変える」ような行動にはならないかもしれない。なぜなら、黙って見ている人たちは、なかなか可視化されないからだ。それでも、こういう人たちの心を動かすことが、性暴力の告発の意義だと私は思っている。政策や法律を変えたり、裁判に勝ったり、わかりやすい変化を起こすことだけが告発の意義ではない。静かに人の心に、性暴力の問題を考える出発点を与えるような、告発の意義もある。

 以上のように、メタファーを多用して、一般論としての性暴力の被害者と支援者の置かれる状況について書いてきた。これはあくまでもモデルであって、具体的な被害者や支援者の関係に当てはめるようなものではない。その人の経験を、第三者が説明したり解釈したりすることは私の本意ではない。ただ、告発をした被害者、そして支援者が過酷な状況に置かれることはもう少し知られてもいいと思う。告発するというのは、簡単ではないし、二次加害の有無だけではなく、何重にも折り重なった複雑な問題なのである。

2017-06-10

[][][]警察官が被害者に「処女ですか?」と聞く必要はない

 インターネット上で、警察官が性暴力被害者に「処女ですか?」と聞くのは、「処女の被害であれば強姦致傷になるからだ」という流言が飛び交っている。警察のセクシュアルハラスメント行為を正当化する言説であるので、訂正を求めたい。

 以下で(1)「強姦」と「強姦致傷」(2)処女膜損傷が「強姦致傷」と認められた判例(3)「強姦致傷」には診断書が必要(4)レイプシールド法の必要性について順番に書いていく。タイトル部の答えだけを読みたい場合は(3)から読んでほしい。

 なお、私は法律の専門家ではない。本来は専門家による解説が適切であるが、取り急ぎ書いておく。

(1)「強姦」と「強姦致傷」

 刑法では、「強姦」と「強姦致傷」は以下のように定められている。

177条(強姦)

暴行又は脅迫を用いて十三歳以上の女子を姦淫した者は、強姦の罪とし、三年以上の有期懲役に処する。十三歳未満の女子を姦淫した者も、同様とする。

181条(強制わいせつ等致死傷)

第百七十七条若しくは第百七十八条第二項の罪又はこれらの未遂罪を犯し、よって女子を死傷させた者は、無期又は五年以上の懲役に処する。

 上でわかるように、「強姦」とは「女性対するレイプ」のことであり、「強姦致傷」とは「女性に対するレイプの際に、怪我をさせたり、死なせたりすること」である。なぜ女性に限っているかというと、日本の刑法では強姦は性器主義をとり、「男性の陰茎を女性の膣に挿入する」ことだからだ。男性に対するレイプは、強姦と認められていない。6月2日から始まった刑法改正の審議*1では、この強姦の定義を変更し、男性に対するレイプを認めることが含められている。

 「強姦」と「強姦致傷」の違いは、親告罪であるかないかである。強姦の場合は親告罪であるため、被害者が望まない限りは、検察官は起訴しない。それに対して、強姦致傷の場合は、検察官だけの判断で起訴が行われる。そのため、強姦の場合は被害者が起訴する/しないを判断しなければならないという重圧があり、「自己責任」状態になってしまっているので、こちらも現在の刑法改正の審議で「非親告罪化」が検討されている。ただし、性暴力の場合、裁判をするとなれば被害者の負担は大きくなる。そのため、検察官が一方的に起訴をすることが被害者にとって有益であるのかは定かではない*2

 さらに、「強姦」の刑期は「最低三年の有期懲役」である。他方、「強姦致傷」の刑期は「無期又は五年以上の懲役」である。懲役とは刑務所に入ることである。「強姦致傷」のほうが、刑期は長くなるが、それよりも重要なのは「裁判裁判の対象になること」である。裁判裁判の対象は、「無期又は死刑に相当する重犯罪」であるため、「強姦致傷」も含まれる。そのため、(ある程度の遮蔽はあるものの)一般の市民の前で、性暴力被害者は証言せざるをえなくなる。そのため、「強姦」ではなく、「強姦致傷」で起訴することは、被害者の精神的負担を大きくする可能性がある。このことについては、以下の記事が詳しい。

「強姦致傷罪での起訴は裁判裁判以降、激減した」

https://www.buzzfeed.com/jp/kazukiwatanabe/prosecutor-did-not-indict-takahata?utm_term=.qbe0LrKK2V#.rpX6KkDDP3

 以上のように、より刑期の長い「強姦致傷」での起訴が、「強姦」での起訴よりも被害者に有益だという確証はない。また、法の運用上は、検察官の操作的な線引きになっている。

(2)処女膜損傷が「強姦致傷」と認められた判例

 それでは、処女膜の損傷を理由として「強姦致傷」が認められた判例を見ていこう。これは私がインターネットで調べて見つけただけなので、実際の運用上で、どの程度、この判例が使われているのかはわからないが、参照する。

事件番号  昭和34(あ)1274

事件名  強姦致傷

裁判年月日  昭和34年10月28日

法廷名  最高裁判所第二小法廷

裁判種別  決定

結果  棄却

判例集等巻・号・頁  刑集 第13巻11号3051頁

原審裁判所名  東京高等裁判

原審事件番号  

原審裁判年月日  昭和34年5月30日

判示事項  強姦して処女膜裂傷を生ぜしめた場合と刑法第一八一条の罪の成立。

裁判要旨  処女を強姦して処女膜裂傷(処女膜の左後方に粘膜下出血を伴う〇・五糎の裂創)を生ぜしめたときは、刑法第一八一条の強姦致傷罪が成立する。

参照法条  刑法181条

http://www.courts.go.jp/app/hanrei_jp/detail2?id=55811

 ここで注目してほしいのは、1959年の判例だということである。今から50年近く前に下された判断であり、当時の性意識が反映されている。

 私はこれまで、数冊の性暴力に関する法律家のガイドブックを読んできたが、今までこの判例の検討は見たことがない。現代の性暴力の裁判に取り組む上で、重要な判例と言えるかどうか不明である。少なくとも支援者の議論では「処女膜損傷」の有無に重点は置かれていない。あえて現代的な観点で、この判例についてコメントするならば、「処女性を重んじる」という性差別的な偏見の強い判例であると言える。

(3)「強姦致傷」には診断書が必要

 実際に「処女膜損傷」を理由にした「強姦致傷」で訴えるならば、医師による診断が必要になる。その際には、加害者の暴力が処女膜を損傷したという因果関係を明らかにしなければならない。つまり、被害者の証言だけで、「処女の被害者であるから、強姦ではなく強姦致傷である」と認められるわけではないのである。したがって、警察官が性暴力被害者に「処女ですか?」と尋ねる不可避の理由はない。

 そもそも、性暴力の場合に、性器が傷つくことは、処女であってもなくても有り得ることである。だから、警察官は一律に「もし、痛みや出血があれば医師の診断を受けることができますが」と申し出ればいいのである。処女膜であれ、そのほかの性器の部分であれ、損傷があれば「強姦致傷」になるのである。(ただし、外陰部の損傷の診断は、非常に難しいこともこれまでの法医学の研究からはわかっているようだ*3。)

 また、仮に、性体験の有無を聞く必要が証拠の採取や捜査上、警察官や医師に生じた場合は、慎重な姿勢が必要であることも指摘されている。

(前略)見ず知らずの医療者や警察官などが、たとえ、診察上、あるいは、捜査上、それぞれに必要であったとしても、これまでの性体験の有無や直近の同意のある性交について、なんの前置きもなく、あまりにも唐突に聞いてしまうことがあるかもしれない。これは、被害に遭ったという者にかなりの心理的負担を強いると考えられ、場合によっては、相当程度傷つけることにもなりかねない。したがって、まず、なぜそのような質問をするのか、きちんと説明をすることが重要である。例えば、「外陰部に傷が見つかったり体液が検出されたり感染症の結果が陽性だったりした場合に、いつ、誰からの物かを考えないといけないので、今からお尋ねすることについて教えてください」などと伝えると、被害者も多少の心の準備ができると考えられる。

高瀬泉「法医学者からみた性暴力対応の現状」(『性暴力と刑事司法』、p.133)

 以上のような配慮があれば、性体験について聞かれた被害者の印象はまったく違うものになるだろう。できる限り、このような質問は避けるべきであるだろうが、もし、することになれば、質問者の心構えが必要になる。この質問の仕方が、被害者に「処女ですか?」と聞くのとはまったく違うということは一目瞭然である。(残念ながら、警察官だけではなく、医師もこうした配慮のある質問をできる人は少ないと考えられる。性暴力被害者を取り巻く厳しい環境は、司法の問題が大きいはもちろんだが、医療の問題も大きい)

(4)レイプシールド法の必要性

 ここまで見てきた通り、性暴力被害者に、性体験の有無を聞くことはできる限り避けるべきである。しかし、現状の刑事司法制度では、裁判においても被害者は事件以外の性体験について質問されることがある。そこで、米国にはレイプシールド法が制定され、被害者に過去の性体験について質問することが禁止された。以下のように解説されている。

この制度は、主尋問および反対尋問において、被害者が被告人やその他の者との関係で有した過去の性的行動に関する証拠について、その許容性を制限するものである。多くの州は、被告人との間の過去の性遍歴を証拠として利用することを制限し、その結果、それは非公開または裁判官室での審理でなければ認められないとし、また、同意の証明などの一定の目的のためにのみ許容されるとされた。各州はまた、被告人以外の第三者との間の過去の性遍歴を証拠として利用することを厳しく制限しようとした。その結果、それは非公開での審理でなければ認められないとし、また、同意の証明などの特定の場合にのみ許容されるとされた。特定の場合とは、性液の同一性、隠れた動機、過去の不実の告発の証明といった目的である場合が含まれる。いくつかの州は、同意や信用性を証明するために、性遍歴を証拠として利用することを禁止した。

斎藤豊治「アメリカにおける性刑法の改革」(『性暴力と刑事司法」、pp.171-172)

 以上のように、レイプシールド法の制定によって、性暴力被害者に過去の性体験を聞くことは厳しく制限されることになった。日本でも、導入を求める声がある。警察官だけでなく、医者、弁護士、裁判官、検察官に対しても、性暴力被害者に過去の性体験を聞くことに対する批判が、国際的にも高まっているということである。

*1:付け加えておくと、この刑法改正案はこれまで専門家会議を重ね、慎重に進めらてきており、今国会で重点的に審議されるはずであったが、共謀罪のために後回しにされた。

*2:私は非親告罪化には慎重な姿勢をとっている。性暴力被害者の支援活動に関わっていて、切実なのは被害者の「孤立」と「困窮」である。もちろん裁判を望む被害者もいるが、一部の性暴力問題に取り組む弁護士の「全ての被害者は裁判したいと思っている」というのは、経験的に嘘だと知っている。「それどころではない」「そんなことしたくない」と思っている被害者もたくさんいる。

*3:高瀬、pp.135-137.

2017-05-26

[][]「成人向け同人小説」を研究対象にする場合の問題について【追記あり】

 id:lisagasuさんからブクマコメ*1でコールをいただいていたので、「成人向け同人小説」を研究対象にする場合の問題について、簡単に私の意見を述べる。これは、人工知能学会に掲載された論文において、「成人向け同人小説」を作者に無断で分析対象にし、その固定URLを伏字なしに掲載した件について言及している。(この論文は立命館大学の管理するウェブサイトに公開され、誰もが簡単にアクセスにできる状態にしてあった。立命館大学側が事態に気づき、非公開に切り替えた。)

 私がこの件が問題であると考えるのは以下の4点である。

(1)研究テーマが表現の「有害性」についてものであったこと

(2)研究対象が「成人向け同人小説」であったこと

(3)研究の方法・内容に不備があったこと

(4)論文を非公開にする判断を下したのは「学会」ではなく「大学」であったこと(追記:こちらは事実誤認であることがわかっため、撤回)

(1)研究テーマが表現の「有害性」についてものであったこと

 まず大きな問題としては 研究テーマが表現の「有害性」であったことにある。どのような表現が「有害」であるのかないのかについては、議論が継続中であり、非常に扱いの難しい領域だと言える(追記3参照)。しかしながら、この論文の研究者は(おそらく法や条例の規制を念頭に置くことで)「有害であること」の基準についての自己定義を明確にしていなかった。そのため、ある作品を「有害だと評価すること」の妥当性と政治性についての検討が足りていなかった可能性がある。この件については論文が非公開になった以上、詳しく論じることはできないが、研究者が十分に配慮すべき点ではあると思う。

(2)研究対象が「成人向け同人小説」であったこと

 次の問題は、この研究が分析対象に選んだのが「成人向け同人小説」であったことである。同人小説は、商業小説とは異なり、個人が趣味の範囲内で執筆を行なっている。その頒布規模に関わらず、あくまでも個人の独立した創作活動であることが重要である。仮に、商業小説であれば、出版社などの関係者が、作品の執筆者とともに作品制作に関わることになる。同人小説の作者は、商業小説の作者よりも「弱い立場」にあると考えることができるだろう。こうした同人小説を、商業小説ではなく選んだという点については、恣意性があったと言える。その対象の選定の妥当性には疑問がある。

 また、同人小説の多くは二次創作であり、いわゆる「女性向け(男性同士の性愛描写を含む)作品」は、原作者またはその原作のファンに損害・不利益を与えないように配慮しながら、執筆活動を行なっている。できる限り、同好の者以外の目には触れないように努めるという文化がある。今回の論文で取り上げられた、小説の投稿サイトでも、作品ごとに細かくタグ付けがされている。これは作者は同好者だけが読むことができるように念入りに配慮をすることになっているということである。その配慮の是非や妥当性はここでは問わないが、いわゆる市場で流通する表現物とは異なるルールで創作活動が行われることは、この件では重要な点である。

 この論文では、研究者は「成人向け同人小説」の作者が行なっている創作活動の実態に、どれだけ関心を持ち、情報収集を行なった上で、研究を行ったのかについては疑問がある。「人」を対象にした研究(追記2参照)は、常に「そこで暮らしている人々」の生活を破壊する恐れがある。そのため、研究者は調査倫理として、研究する相手についての入念な調査と準備をしなければならない。これは、この論文が研究倫理の上で問われる点であると思われる。

(3)研究の方法・内容に不備があったこと

 論文が非公開になっているため、詳しくは検討できない。また、私は人工知能についての研究の手法についての知識はないため、妥当性はわからない。しかしながら、web上では、「サンプルが10件であったこと」「サンプルの選定基準が明らかでないこと」などについて批判がある。この問題については、論文報告を認めた人工知能学会によって、妥当性が検討されるべきだろう。

(4)論文を非公開にする判断を下したのは「学会」ではなく「大学」であったこと(この点については事実誤認であったことがわかったので、取り下げ。関係者へ陳謝の上、撤回いたします。経緯について追記1と4と5を参照。)

====撤回====

 最後に、他の3点とは異なる問題がある。それは、論文を非公開にする判断を「学会」に先じて「大学」が行ったことである。いうまでもなく、これは大学による研究者に対する「表現の自由」の抑制にあたる。ここまで書いてきた3点の問題があるため、私はこの論文は十分に非公開の判断を下す理由があると考えるが、その判断を下すのは誰であるのかは、十分に注意をしなければならない。

 研究者当人が、自己判断によって論文の非公開を希望する場合は大きな問題はないだろう。(その研究者の意思が、政治状況や権力関係によるものであることもあるが、その点はここでは問わない)次に、学会側が学術的な不備があることを認めて、非公開の措置をとることもあり得るだろう。学会は、学会員の研究の質の保障をする役割も担っているからだ。だが、大学側が非公開にする場合は、その判断の妥当性がどこから来るのかを明確にしなければならない。たとえば、研究倫理違反であるならば、研究倫理を管轄する大学の機関が判断を下すことになる。しかしながら、現時点ではそのような機関による判断であることは発表されていない。大学が妥当な理由なく、研究者の論文の公開を差し止めることについては、「表現の自由」の観点から問題があるだろう。

 このことを問題視するのは、今回とは逆の理由によって大学による論文の非公開の措置があり得るからだ。すなわち、「成人向け同人小説」を肯定的に書く論文が、それらの表現を認めない者から差し止めの請求があった時、大学の独断で非公開になる可能性があるということだ。この件では、大学側の「迅速な対応」は「実質的」には肯定的に評価されるだろうが、「表現の自由」を守る点からは慎重に見るべきである。

==========

 以上の4点が私の今回、問題だと思う点である。

追記1

 (4)について、この論文は学会判断で非公開になったという情報が寄せられている。私がツイッターの流れを見ている限り、論文に気づいた有志が立命館大学の事務局に電話をし、立命館大学側が「問題が重大である」と認識して非公開にしたという話になっていたように思ったが、リアルタイムでのやりとりだったため、真偽は不明である。そのため、この非公開のプロセスが正式に明らかにされた場合、(4)は私の事実誤認として取り下げる。

 なお、立命館大学は2009年に学生の「性に関する展示」を当事者に無断で撤去したことがある。そのことも念頭に置いて(4)については書いた。

「トランスジェンダーとからだ」

http://d.hatena.ne.jp/font-da/20090126/1232970994

追記2

 この件が、「人」を対象にする研究かどうかの判断基準であるが、研究者の所属する立命館大学では「人を対象とする研究倫理」を以下のように定めている。

※「人を対象とする研究」とは、臨床・臨地人文社会科学の調査および実験をいい、個人または集団を対象に、その行動、心身もしくは環境等に関する情報を収集し、またはデータ等を採取する作業を含みます。

「人を対象とする研究倫理」

http://www.ritsumei.ac.jp/research/approach/ethics/mankind/

 こ論文の場合は、研究対象は「人」ではなく「作品」だとする見方もあるが、研究倫理では「概念上の問題」ではなく「実質上の問題」が問われる。すなわち、研究を遂行していく上で、周囲の人間に与える影響が問われるのである。

 さらに、この中に以下のようなチェックシートがある。

「【様式1】立命館大学における人を対象とする研究倫理審査」に関するチェックシート」

http://www.ritsumei.ac.jp/file.jsp?id=230390&f=.doc

 チェックシートの項目には以下がある。

<危険性>

(省略)

2. 研究対象者に対し、何らかの不快感や困惑、または精神・心理的な負荷や危害を及ぼす可能性があるものですか?

(省略)

4. 研究対象となる個人や集団が差別を受けたり、その経済状況や、雇用・職業上の関係、あるいは私的な関係に損害を与えたりするおそれのある情報の収集など、研究対象者に潜在的に不利益となるようなものですか?

 上のチェックシートでは「研究対象者」となっているが、この件では実質的に研究対象の作品の作者が不安感や困惑、または損害があったと申し立てている。この場合、やはり研究遂行の上では倫理的な問題があったと言えるだろう。

 ただし、上の記事本文を見てもわかるように、その場合に「データの使用許諾を取るべき」だとは私は考えていない。研究倫理への配慮は常にケースバイケースであり、決められた形式に沿うものではないからだ。逆に言えば使用許諾を取ったとしても、倫理的な問題が生じることはある。だからこそ、研究者個人の「配慮」の具体的な方法が妥当であるかどうかは、研究機関の倫理審査が判断するのである*2

追記3

 「成人向け表記」と「有害図書」の違いについて書いておく。「成人向け表記」(18禁表記)とは、表現者側の自主規制である。表現者がその表現を「誰に向けて書いたものか」を示すものである。これは表現者側の任意の指定であり、自由に行われる。他方、「有害図書」とは地方自治体等が指定する表現規制である。これは、ある図書を、何らかの価値判断によって公的に「有害」であると認定することである。両者は「自発的なもの」と「公権力によるもの」という大きな違いがある。

 さらに、「有害性」について、「どのような図書が青少年に有害であるか」についての有効な実証研究はない。なぜなら、研究調査において、青少年に実際に有害と思われる図書を閲覧させ、その影響を計測することは、研究倫理に違反するからだ。よって、図書の「有害性」の認定はなんらかの科学的な根拠に基づくものではない。そのため、「有害図書」の指定は、公的権力がある価値観によって「有害であるかどうか」を判断することになり、政治的判断として行われることになる。よって研究者は、その「有害性」の政治的判断について、精査し妥当であるかどうかは、独自に検証することが必要だと考えられる。

追記4

 ブコメで、この論文は人工知能学会の判断で非公開の措置が取られているとの情報をいただいた。

pixivのR-18小説を「有害な文」 学会が論文取り下げ 「検討するため」

http://www.itmedia.co.jp/news/articles/1705/25/news137.html

 しかしながら、追記1でも述べたように、この判断は大学側が学会側に先んじていたように推測できる、リアルタイムの流れがあったため、非公開のプロセスについては公式の発表が欲しい。ここはとても大事な点だと思っているので。

追記5

 ブコメで、この論文の非公開は大学に先んじて学会判断であったことが以下の記事に掲載されていることがわかったため、(4)はこれを覆す情報が出ない限り、撤回いたします。事実誤認についてお詫び申し上げます。

人工知能学会はBuzzFeed Newsの取材に対し、「本学会ならびに本全国大会の幹部で、本件について検討するため、いったん非公開とさせていただきました」と回答。非公開の判断に至った理由なども追加で問い合わせている。

立命館大学は「現在、事実関係を確認中」。大学としてコメントなどを発表する予定はあるか? という質問には「それも含め、対応は事実関係把握後に検討する」とした。

論文PDFの削除については、学会や論文著者から大学側に事前に連絡はなかったという。

「【追記あり】「モラルを疑う」pixiv上のR-18小説を“晒し上げ” 立命館大学の論文が炎上 今後の対応は」

https://www.buzzfeed.com/jp/harunayamazaki/jsai2017-r18?utm_term=.ex5WnjggQY#.vtxnDjAAR0

*1http://b.hatena.ne.jp/entry/s/www.buzzfeed.com/jp/harunayamazaki/jsai2017-r18

*2:私は今の大学の研究倫理の審査については不満があり、十分に機能しているとは思っていないが、本来的には必要であるし、ないよりはマシという点で現時点でも審査での厳正な判断は重要だとは思う。