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キリンが逆立ちしたピアス このページをアンテナに追加 RSSフィード

2010-02-04

[][]赦しと和解とは違う、という注釈

 mojimojiさんが次の記事で私の、「原田正治「赦せないからこそ、会いに行く」(『くらしと教育をつなぐ We』)」*1という記事を参照している。

「『和解』の手前で、その2」

http://www.mojimoji.org/blog/0230

この記事では、「和解」と「赦し」が明確に区別されていない。この点に引っかかったので注釈的に書いておく。(全体の論がなにかあるわけではない)

 先に述べておくが、私は「赦し」がよいことだとも考えていいないし、推進すべきだとも考えていない。また、原田さんの「赦し」の考えに賛同しているわけでもない。逆に、「被害者が傷つくから」という理由で「赦しについて語るな」という立場も支持しない。人間は、赦すことがある。その事実があるだけで、赦しについて思考する意義が、十分にあると考えている。

 さて、私が「赦し」について考えるときに依拠するのは、デリダの赦し論である。デリダは「和解」と「赦し」をそれが基づく原理において区別する。単純化して整理すれば、「和解」は「交換の原理」に基づき、「赦し」は「贈与の原理」に基づく。「和解」は、加害者が謝罪や告白、悔い改めの態度をあらわすことと引き換えに、被害者がそれを受け入れることで行われる。だが、デリダのいう「赦し」においては、被害者は何も得るものはないにも関わらず、赦すのである。そして、加害を繰り返し続ける加害者こそを赦せ、というのである。

 繰り返すが、私はこのデリダのいう「赦し」が優れているとか、推進すべきであるとかを考えているのではない。デリダの思考をたどる中で、「本源的な赦し」がそう定義されていくことに、納得している、ということである。また、そのようなデリダのいう赦しとは、「不可能な赦し」であるとも考えている。

 このデリダの赦し論に依拠した上で、私は「和解」と「赦し」とを区別して考えるべきだとしている。和解が行われても、赦しが到来しない場合もあるだろうし、赦しが到来しても和解が行われないこともあるだろう。両者は密接に関係しているが、同一ではない。両者を混同して、和解交渉のテーブルに着くことと、赦す・赦さないの問題を、いっしょくたに考えることは避けたほうがよい。「交渉可能なもの」と「交渉不可能なもの」とは別なのだ。この違いは、「政治的に解決可能なもの」と「政治的に解決不可能なもの」との違いでもある。

 また、デリダが注意を呼びかけるのは、赦しは個人間でしか行われないということだ。この点においては、朴裕河の「和解のために」で述べられているデリダ解釈に対して、疑義を申し立てることが必要かもしれない。*2どちらにしろ、政治的問題に「赦し」の概念を持ち込む際には、それを個人間に還元してしか語れないことを念頭に置くべきである。

 さらにmojimojiさんは次のように語る。

確実に言えることは、被害者の思いは加害が行われる前の状態にに戻すことだということと、それだけは絶対に叶わないということだけだ。

http://www.mojimoji.org/blog/0230

私は、被害者を「被害を受けた人」以外の表現で、その心理を一面化して語ることを拒む。これでは「加害が行われる前」すらも想像できない被害者を、そのカテゴリーから追い出すことになる。また、第三者が「加害が行われる前」を勝手に推測して、「その状態に戻りたいはずだ」と述べることも、また被害者の言葉を奪うこととなる。確実に言えることなどはない。だが、mojimojiさんの記述に対して賛同する被害者が多いであろうことは、同意する。

 それから、「被害者遺族」と「被害者」とをmojimojiさんは同一として語る。しかし、心理的レベルにおいて、被害者遺族と被害者との間に差異があることは、精神医学の調査でデータが出ている*3。最も大きいな問題として、死者は証言できないという問題がある。殺された被害者は、その真実を語ることができない。また、当然のごとく、当人間の赦しも起きない。この語れない存在が付きまとうという問題があるかぎり、被害者遺族と被害者とは別様の心理状態を呈するだろう。

ジャック・デリダ―1930ー2004 (別冊環 13)

ジャック・デリダ―1930ー2004 (別冊環 13)

和解のために 教科書、慰安婦、靖国、独島

和解のために 教科書、慰安婦、靖国、独島

追記

 私はmojimojiさんのいう「加害が行われる前の状態に戻す」を、加害の時間的先後関係において考えていた。(たぶん、mojimojiさんもそうだろう)

 しかし、仮定法として「加害が起きなかったらあるような状態を望む」という意味なら、もう少し考えるべきことが出てくるように思う。いま、手元にないが、どこかで斉藤環が「PTSDとは、『この災厄が身に降りかからなかったとしたら』という仮定法的発想を失った状態だと書いていたように思う。「今ここに生きている私」は、偶然に災厄が降りかかったために今の状態に置かれているにすぎず、「ほかのありようの私」もあったいうふうに考えるのが、いわゆる「正常な」考え方である。要するに「こんなはずではなかった」と運命を恨むことである。ところが、「こうでしかありえなかった」と災厄を<過剰に>引き受けてしまうことがある。それが、精神分析的な意味でのPTSDだということになろうか。

 今の私の文脈上では、この上の、「PTSD」と「正常な」という区分は、恣意的に線引きすることで話を整理しただけであり、病理的な判断としては使っていない。すなわち、精神分析におけるPTSD的であるような現実認識を、異常なものとして治療対象とするのではなく、包括するものとして「赦し」について考える端緒にしなければならない。あるいは、この現実認識こそが、なにか「赦し」のキーになってくるかもしれない。

 私の直観としては「加害が行われる前の状態に戻す」ことを、加害者に表明できる被害者は、すでに対話可能な状態にあるように思う。すなわち、何を欲するのか知っている/欲することができる被害者だということだ。

 たぶんこの本かこの本。

関係の化学としての文学

関係の化学としての文学

文学の断層 セカイ・震災・キャラクター

文学の断層 セカイ・震災・キャラクター

*1http://d.hatena.ne.jp/font-da/20100128/1264680155

*2朴裕河もまた、デリダの赦し論に依拠している

*3諸澤英道被害者感情を好転させる要因・悪化させる要因」(『現代のエスプリ』1995年7月号、66〜76ページ)もしくはhttp://d.hatena.ne.jp/font-da/20080512/1210556138

2009-05-14

[][]腐女子になったんですが、それが何か?

 id:usukeimadaさんの以下の記事にブックマークコメントしたら、詳しい解説を求められた。*1

女は腐女子に生まれるのではない。腐女子になるのだ。

 アイデンティティ政治についての批判で、よくある論点なので、一応解説しておく。以下の二点が肝要な点だ。

(1)カテゴリーを使用したアイデンティティの語りは、常に誤謬を含む

(2)政治的要請に応じ、カテゴリーを使用したアイデンティティ政治がなされる

このアイデンティティ政治の問題について、清水晶子のバトラーを論じている部分を引用しよう。

 バトラーにとってアイデンティティカテゴリーが厄介な問題になるのは、何よりまず、我々がそのようなカテゴリーの記号を使わずには生き延びられないからである。アイデンティティ政治の批判的考察として知られる'Imitation and Gender Insubordination'は、その点を明確に示した論考である。アイデンティティカテゴリーは管理と統制とに利用されやすく、したがってアイデンティティを否認することはホモフォビックな取り締まりの作用への抵抗になりうる、とバトラーは話を始める。さらに、「わたしはこのようなものである」と主張することは「わたし」の一時的な要約を意味するにもかかわらず、そのように「わたし」を決定するわたしは、決定された「わたし」からは排除されており、「わたしはこのようなものである」という主張はその排除そのものを隠蔽することで成立している。だからたとえば「わたし=レズビアン」として「アウトである」ような「わたし」の「ゲイネス」は、常に隠蔽によって構造づけられ、完全にあらわになることはない。アイデンティティカテゴリーをた受かって「わたしは……である」という時、我々は常に必ず、カテゴリーのあやまちをおかすことになるのだ。アイデンティティの政治へのあきらかな批判としてこのような考察を足早におさらした後、バトラーはしかし、「私は[カテゴリーを示す]言葉の使用を妨げようとしているのではない」と述べる。カテゴリーが不可避的に誤るものであえるとしても、なおもそのカテゴリーを使用する「緊急の政治的必要が存在していると主張することは可能だろう」。かくしてバトラーにとっては、政治的手段として使用された記号を取り締まりの力を持つ命令へと変化させないことが重要な課題になる。アイデンティティカテゴリー記号を使う現在の政治的必用があり、だからわれわれは記号を使用するのだが、「どうすれば。、その未来の意味作用を予め排除しない形で、記号を使用できるのだろうか」。チャンの「キリン」の場合同様に、ここで問題になるのは、現在のみならず将来の可能性を承認すること、それが何であるのかいまだわからない何かを、にもかかわらず、あらかじめ封殺しないことである。そして、現在と将来の可能性にかけてあこの身振りは、バトラーにとってもまた、二重のものになる。「どうすれば、記号を使用しつつ、それと同時にその記号の一時的偶発性を認めることができるのだろうか」。

(清水晶子「キリンのサバイバルのために」、173ページ)

現代思想2006年10月臨時増刊号 総特集=ジュディス・バトラー 触発する思想

現代思想2006年10月臨時増刊号 総特集=ジュディス・バトラー 触発する思想

 たとえば私(font-da)は、かつて、やおいを愛好する女子であった。もしかすると私は"腐女子"と名指されるかもしれない。私は、"腐女子"のカテゴリーに含まれる。しかし、私が愛好していたころ"腐女子"という言葉はなく、私にもそのアイデンティティはなかった。そして、"腐女子"という言葉ができたころ、すでに私は男性間セックスを愛好する女子ではなくなっていた。だから、私は「私は腐女子である」とカムアウトしたことはない。私は自らを「ヤオイ少女」と呼ぶ。だが、私は「私は腐女子ではない」とは思わないし、"腐女子"と呼ぶ人がいても拒否しない。また、私は、政治的に「私は腐女子である」とカムアウトしないことを選んだが、私とは別の選択を抑制しない。さらに、「私は腐女子である」と語りだすと同時に、これまで抑圧されてきた女性のセクシュアリティが語られやすくなるのならば、その成果を肯定的にとる。

 ここ数年、やおいBL腐女子などをタイトルにつけた論文や書籍の刊行が相次いだ。とりわけ、女性学の分野では、流行のテーマであった。もちろん、それがアカデミズム内における消費であったかもしれない。だが、これらのカテゴリーを使うことで、女性のセクシュアリティ研究が拓かれ、より豊かな言説の創造に向かうのであれば、よかったのだと思う。*2

 私は「腐女子に生まれず、腐女子になった」のだけれど、それがどーした?アイデンティティの呪縛が重く、背負ったものをあるポジショナリティに縛り付ける。*3だが、それに賭けるのは、現在の状況を変えるためである。

 というようなことを書いたのだけれど、id:usukeimadaさんは、こんなことを書いている。

自称と他称の問題は、もっと厳密に考えておくべきでした。腐女子の方々の中でも、自称することにそこまで重きを置く方々がいるのは、僕の考えには入っていませんでした。

http://d.hatena.ne.jp/usukeimada/20090507/1241628903

なんか、もう苦笑だよね。かっこいいクィアなおねいさんたち*4論文をいっぱい読むといいよ。

*1:usukeimadaさんは、コメントの意味を完全に誤解している。「ごっちゃになっている」と私が指摘したのは、”言説”ではなく、usukeimadaさんの頭の中だ。

*2:だからこそ、流行で終わってはいけないんだけど!

*3:以前、もう少しまじめに書いた記事:http://d.hatena.ne.jp/font-da/20080519/1211193844

*4:溝口彰子さんの論文とかめっちゃかっこいいで。私はクィアっつーか、リブなので「かっこわるいことを書く」のを信条としてるけど、読むのは好きだ。

2009-04-27

[][]新しい哲学のために

 昨日、応用哲学会(http://wwwsoc.nii.ac.jp/jacap/index.html)に行ってきた。参加したのはワークショップ「生命の哲学の可能性」(品川哲彦、森岡正博)とシンポジウム「これが応用哲学だ!」(伊勢田哲治、茂木健一郎、森岡正博、戸田山和久)である。森岡さんの話が聞きたいと思っていたし、有名人の茂木さんの話をミーハー心で聞きたいとも思っていたし、真面目に「応用哲学という分野について知りたい」と思っていたので行ってきた。内容は、後日、youtubeにアップロードされるらしいので、詳しくは書かない。

 雰囲気は、スーツの人も少なく、自由な発言が促される雰囲気だった。社会的な現実問題に直面し、そこから思考を始めようとする哲学を目指す人が多いようだ。社会学と哲学の間で揺れる(私のような)若者が集う場所になるのかなあ、などと思っていた。特に、シンポジウムの伊勢田さんや森岡さんの実体験を交えた話はとても勉強になった。

 実践の場に出てみると、最初に問われることは「おまえの学問は、どう役に立つのか?」ということである。結論からいえば、哲学が現場で役に立つはずがない。あえて役に立つことがあるとすれば、現場に出ている人が、実践を終えて家に帰って本を広げて思索にふけるときだろう。参与観察であろうと、アクションリサーチであろうと、実践スキルの低い研究者はたいてい現場のお荷物で肩身が狭い。そこで挫けずに「いやいや、こういう風に哲学は利用できますよ」とアピールするのは(現場の片隅に置いてもらうためにも)大切なことである。

 また、研究した結果、たどりつく真実は必ずしも当事者にポジティブなものではない。発表すれば、「しんどい人が、よりしんどくなる」というような研究結果もある。そこで真実を曲げるわけにもいかず、発表するのかしないのか、という葛藤が生まれる。また、「おまえが当事者をしんどくさせている」と迫られるときのきつさもある。

 こうした研究者の直面する問題は、人類学や社会学では議論されてきた。しかし、哲学分野の人の多くは、まだまだ現場に出ることが少ない。そのため、指導者や先輩からアドバイスをもらう機会も少なくなってしまう。また横のつながりも広げにくい。その意味で、応用哲学会が旗印となって、新しい哲学をやりたい人たちの出会いの場になるかもしれない、と期待する。

 けれど、なかなか難しいな、とも思う。ジェンダー比率は、ぱっと見ただけで圧倒的に男性が高い。そして、シンポジウムで、またもや私ははらわたが煮えくりかえる思いをすることになった。

 シンポジウムで、茂木さんは、カネボウと協力して、化粧をする女性の脳を調べたという。その結果を「オンナは化粧をしているとき、自分の顔を他人の顔として見ているってことですよ」という風に冗談めかして言い、会場はドッとウケた。そして、そのあとの討議の中で、自分のクオリアの研究は本質的な問題を追及しているが本が売れない、しかし化粧の研究のように非本質的な問題を扱えば本が売れると述べた。

 まず、フェミニズムは、女性が化粧をすることで、自分の顔を物のように扱い、他者の視線で構築していくことは何度も指摘しきた。男に愛されるために化粧をし、自らの固有性の象徴であるはずの顔を、他者(男)に売り渡してしまう。だからこそ、化粧が女性を抑圧していると告発してきたのだ。もちろん、この指摘には多くの反論が(女性の側からも)寄せられてきた。私自身、化粧をするときに、単純に男性に自分の顔を売り渡したとは思えない。ただ、化粧がジェンダーについて考える上で、重要なテーマになることは間違いないと思う。これまで多くの議論が重ねられてきた問題である。さらに、多くの聴衆の前で女性を「オンナ」と呼ぶことや、女性の顔の問題すなわちジェンダーに関わる問題を非本質的だとすることにも、フェミニズムから多くの批判があった。

 茂木さんは、シンポジウムで、繰り返し「大衆はリテラシーがない」と述べた。また、先行研究を踏まえる重要性も指摘している。だが、彼の頭の中にあるリテラシーとは、フッサールやハイデガーのような「テツガク」のリテラシーであり、先行研究とはアカデミズムに権威づけられたテツガクショのだけを指すのだろう。フェミニズムについてのリテラシーもなければ、先行研究への敬意もない。

 もちろん、茂木さん自身の問題もあるのだろう。だが、私がよりきつかったのは、「この会場は茂木さんのミソジニーを許容する場である」と認識してしまったことだ。哲学の分野では、女性の研究者は本当に少ない。また、フェミニズムは第三波どころか第二波も到達しておらず、「クィアってなんですか?」みたいな状況だ。当然、セクハラ発言が横行する。アカデミズムでセクハラのない分野がない、という気もするが、やはり物理的に女性の比率があがれば、雰囲気は変わってくる。そして哲学が「男が本質的な問題に取り組む学問」というファンタジーにとどまる限り、女性研究者の数は増えないだろう。

 私は二つのことを考えた。

 一つは、やはり応用哲学会のような場が開かれたことを私はうれしいと思う。20年前に、孤独に荒野を拓いてきた伊勢田さんや森岡さんのような人たちから、こうして話を聞けるチャンスがもらえるのは、昔に比べれば格段に恵まれたことだろう。また、発表の機会も与えられるし、これまで踏みつぶされてきた先人の轍を踏まずに、研究者としてやっていく可能性も出てくるかもしれない。だから感謝するし、これからも積極的にこうした場に参加したいと思う。そしてこういう風に会を運営してくださる先生方に敬意を持ちたいと思う。

 もう一つは、だからと言って、ここで新しい哲学が始まるという期待はしないでおこうということだ。私たちは横に横につながっていくしかない。こうしたジェンダーに対するセンシティビティの低い哲学の分野に対し、憤りを持つ若い研究者はジェンダーを問わず少なくない。だから、私たちは縦の関係から与えられるものをありがたくいただきながら、肩書のない名刺を持って、志を同じくする研究者とつながっていこう。新しいものは、何もないところからしか生まれない。新しい哲学を語る場がない、ということこそが、希望なのだ。

 茂木さんは、繰り返し「僕はもう日本のアカデミズムに絶望しているんですよ」と言う。だが、こうした言葉には耳を貸さず、もうそろそろ希望の話をしようと思う。

(略)女はいつも、己れの可能性を求めて求められずに帰ってくる男を、待っているだけの役割をふりあてられる。そもそも男の可能性は女の可能性と共にあるのであって、男が<男らしさ>でいくらがんばったって、女を取り残して旅立つ限りにおいては、絶望と挫折は男の必然なのだ。それをもって男の苦渋と称されても、ちゃんちゃらおかしいあたしたちがいるだけだ。闇にいる女は、イヤでも男がよく視える。男の空転ざまがよく視える。そしてともすれば、その男の空転ざまを抱きかかえたがるという誤りを犯す。良妻賢母とは、夫に対しても母親、子に対しても母親の、二通りの、母親ぶりを装う者の総称に他ならない。男の、子宮回帰願望は、女の寛容さの中でそのイメージの切れっぱしを現実化してこれたという訳だが。

 しかし、「痛み」を「痛い」と感じる者が、その痛みを忘れて寛容になろうとすれば、どうしたって自虐的にならざるをえない訳で、男が己れにだけやさしい女を求めれば求める程、女は自虐的に、つまり加虐的にも、なるべくしてなっていくのだ。よく言われる女の残酷さとは、男の子宮回帰願望に応えようとしてれを偽った女の、その無理がうみだす結果に他ならない。光の中に輝く<男らしさ>幻想の、そのウソッパチを闇の側から視てしまった者が、しかし、あくまで己れを女らしさの幻想のウソッパチにだまし切ろうとすれば、その無理は女の中に自虐性をうみだしそしてそこから毒を喰らわば皿までの女の暗い情念がうみだされていくのだ。

 男の背に向ける、自分のまなざしの中に、その女の暗い情念を視た時、あたしは<母親らしくない母親>として切り裂かれ、とり乱しの中に生きてきた女を己れを通じて知ったのであった。男の面子ばかり気にかける夫と、そうである以上、その男の母親になりえても、女としては出会えない己れに、あたしの母のいらだちがあったのだ。

 一人海へ己れを求めていかねばならない<男らしさ>の定めも、そしてこの男を待ち続けねばならない<女らしさ>の定めも、共に生ま身の男と女を抑圧し、切り裂いていくもの以外ではない。

(略)

冬の木立を見つめつつ、これだけは――、これだけは――と想いをこらした、そのあたしの想いとは、汚辱の中にこそ生命の可能性が輝くのだ、という想いであった。その生命の可能性とは、出会いへの希求に他ならない。女の生命の可能性は、男並みに海に己れを求めていくあり方にあるのではなく、己れの中に海を胎み、そこに己れを求めいく中にこそある。男の海が社会であれば、生きようとする女の海は己れ自身だ。海を社会に求めて、そこにおいて己れをば求めようとしても、その社会を支配する者の姿を映してしまうだけの話だ。誰も、どこにも、完全に自立した主体などありえようハズもなく、それぞれが奴隷の歴史性、媚の歴史性をひきずって歩み行くしかない以上、海に社会を求めて、<男らしさ>で船出しようとすれば、赤い夕日に権力者の影を映してしまうのは必然なのだ。己れの中に海を胎むとは、媚の歴史性を体内に血肉化されてしまった、その奴隷の「痛み」を「痛い」と感じる中から、奴隷でも、奴隷頭でもない己れを求め、出会いを求めていくことに他ならない。被抑圧者の、その生命の可能性は、被抑圧者同士が出会いを求めていく中にこそある。つまり被抑圧者同士を敵対させることによって成り立つ社会を、打倒する可能性がそこにあるということだ。

 海へ帰りたいと想う。どんなに餌が豊富に与えられようとも、海に生まれた魚は、海に帰りたい心を抑え切れるものではない。今度こそ本当の海、己れの海へ帰りたいと想う。海へ帰りたい想いは、出会いたい想い。女と、男と、沖縄人と、被爆者と、在日朝鮮人と、娼婦と、被差別部落民と……、そして世界と出会いたい。出会いたい想いの中で、あたしの海が満ちてくる。一人一人の海満つる時を信じる中に、あたしの生命が、未来がある。

(124〜127ページ)

 今でも時々、ひどく自分がクズで、無価値な女だという思いに落ち込むことがある。しょっ中ある。そういう時、あたしは自分の原風景と出会っていく。「これだけは――」の想いに祈りを凝らしてみるのだ。手を伸ばして、伸ばして、掴むのは、闇でもともと、なにか掴めりゃなお結構。あたしの原風景に、吹く風は、春の息吹のいくらかを今、伝えつつあるようだ。

(139ページ)

[rakuten:book:11316313:detail]

(引用ページは文庫版のもの)

追記

動画がアップロードされたようだ。

http://www.youtube.com/watch?v=WWc56WxbWjQ

2009-04-02

[][]生死を考える際、個別/普遍の連関をどう思考するか

 下の記事id:mojimojiさんからお返事をいただいた。

mojimoji個別的/具体的な思考が抽象的思考を支える

以下の部分を取り上げる。

 もう一つ言っておきますと、ここでの「抽象的な」あるいは「普遍的な」意味での「殺すな」は、どのようにして出てきたのか。個別的な状況に対して「殺すな」を言おうとする衝動に駆られるからこそ、それを可能にする普遍的な概念を探すわけで、そうして辿り着くのが「普遍的な「殺すな」」ということだと思います。ですから、僕にとっては、まず最初にあるのは、どうしたって個別的な状況の問題です。

 実は、mojimojiさんとは、一年半くらい前から「承認」について議論をしている。*1いまだ決着はついてない*2のだが、面白いことにこの議論の私とmojimojiさんの立ち位置と、今回の議論の立ち位置が逆転している。「承認の議論」については、私は具体的な承認抜きには、抽象的な承認は構想できないとしている。mojimojiさんは、具体的な承認抜きに、抽象的な承認を創造することはできないのか、と問いを立てている。

 上の承認の議論で扱っているのは「生」の問題である。私たちは、いかに「生きていける」と思えるのかという、「生の希望」への問いだ。逆に、今回の議論で扱っているのは「死」の問題だ。

 mojimojiさんは次のように言う。

 「人」という概念だってそうです。具体的なAさん、Bさん、Cさんたちがいて、それらの誰をも「殺すな」と思うから、AさんもBさんもCさんも含むような概念が作られて、「人」と名付けられる。元々、そんな風にしてできているものだと思います。存在は言語より先にある、世界3より先に世界1がある、ということです。

mojimojiさんは、「殺すな」と思うものたちの集合を「人」と名付けることにより、「人」という概念が作られるという。私の念頭にあるのは、「殺すな」と思えないものたちの存在である。すなわち「人とは思えない」ものたちである。

 たとえば、ナチスの残虐行為に対して「人とは思えない」と言い方がなされる。また、アガンべンは、ナチスに捉えられ虐待される中で、<回教徒>と呼ばれていた人たちもまた、「ひとではないものたち」である、と収容所内の人びとに認識されていたことを明らかにしている。また、まったく別の文脈だが森岡正博は「脳死の人」の中で、脳死状態に陥った人や母体外に出た胎児を「ひとでなし」とやや挑発的に書いている。

脳死の人―生命学の視点から

脳死の人―生命学の視点から

これらは、「ひと/ひとでないもの」の線引きをどこにするのか、という問いを突きつける。私たちは、あるものたちに対して「ひとでないもの」と認識するが、それは本質的なものではなく、構築的な文化の産物である。「人」という概念は、あやふやで曖昧で、線引きし直すことのできるものだ。

 当然、人は「誰をも「殺すな」と思う」、という定義もありえない。あるイスラエル人は、パレスチナ人に対して「殺すな」とは思わないかもしれない。なぜなら、そのイスラエル人は、パレスチナ人を「ひとでないもの」と認識しているからだ。そのとき、そのイスラエル人はパレスチナ人を「ひとでないものだから殺してよい」と言い、そんなことができるイスラエル人に第三者は、「おまえこそがひとではない」と言えるかもしれない。

 そもそも、なぜ私たちは「殺すな」と思うのだろうか。私にはこれも問いである。私たちは、人を殺すことができる。その可能性を持って生まれてくる。なのに、なぜその可能性を自ら封じようとするのか。かつて「なぜ人を殺してはならないのか?」という問いが流行ったことがある。では、「なぜ私は人を殺さないのか?」根源的な理由はないだろう。なぜか、「殺すな」という命令が生きている。

 逆に、なぜ私たちは「殺せ」と思うのだろうか。これもよく考えてみるとわからない。例えば、復讐の問題がある。自分の子ども殺された人が、「犯人を殺したい」「死刑にして殺してくれ」ということがある。それに対して「殺しても何にもならない」という人がいる。これは、合理的に考えれば正しい。犯人を殺しても自分の子どもは帰ってこない。また、犯人が、自分の子どもを殺されたときと同じくらい痛みを感じる、というのは犯人の感受性を信頼しすぎていないだろうか。しかし、このようなことを言うのはナンセンスであろう。これらのロジックが、復讐を望む人の切実さを減じることはない。

 なんにせよ、私たちにとって「殺せ/殺すな」という問題は重要であるだろう。それは、私の直観では「死の恐怖」に関連している。私たちが「殺せ/殺すな」と言ったとき、そこに託されているのは、生物としての活動を停止させることではなく、「死の恐怖を味わうこと」ではないか。つまり、私たちが人間の本質として先じて持つのは「死の恐怖」であり、それを共有できるものに対して初めて「殺せ/殺すな」と思うのでないか。そうであれば、私たちがなぜか、魚を殺すことよりも犬を殺すことに対して、大きな忌避感を持つのか、というような問題にもつなげて考えていけるのではないか。*3

 なんにせよ、「生の希望」について議論したときと、「死の恐怖」について議論したときで、私とmojimojiさんの立場が入れ替わるのが興味深い。二つの問いは「生死の問題」として括られるが、「個別/普遍」の連関の問題について、決定的な違いを持つのかもしれない。面白かった。

 ほかにも、mojimojiさんに聞いてみたいことはいろいろある。たとえば、補足(1)の同胞について。上に挙げたような、「ひとでない」と思うようなものと連帯はできないのだろうか。もしくは、アニマルライツの問題はどうなるのだろう?(2)にも関連していて、動物は不正な扱いに対して「不正義である」という異議申し立てができない。つまりmojimojiさんにとっての正義は「批判可能なものたちの正義」であり、声をあげられないものたちが疎外される正義ではないのか。要するに、ハーバーマスが陥った「議論不可能性」の問題にどう対処するのか、など。

 と、このようにいろいろ書いたけれど、mojimojiさんの主張の大枠は理解できたように思うので、私の方はいったん筆を置こうと思います。上の疑問も今後の課題、ということで。レスポンスありがとうございました。

*1:発端のエントリはこちら→http://d.hatena.ne.jp/mojimoji/20071119/p1 続きは、http://d.hatena.ne.jp/mojimoji/20071128/p1http://d.hatena.ne.jp/gordias/20071201など

*2:てういか、たぶん、永遠につかない

*3:これ、全然自分で何言ってるのかわかんないんだけど「存在が消えたあと、その存在の味わった死の恐怖は残るのか?」っていうことが知りたい。いや、結論だけ言えば、恐怖の痕跡は残るが、恐怖それ自体は残らないんだよね。だから、復讐って、彼が死の恐怖を味わう場に立ち会い、自分の中にその痕跡を残すことを求めるって感じになるのかなあ。

2009-03-31

[][]「殺すな!」の空虚さについて

 パレスチナの問題について、id:mojimojiさんとid:hokusyuさんが議論している。

hokusyu「「決断」の暴力に抗する」

mojimoji「「決断」の暴力に抗するからこそ、こう述べている」

そこで、hokusyuさんが普遍的理念の空虚さについて次のように指摘している。

あるいは、小田実の「殺すな!」はなぜ普遍的な理念たりえたかというと、そのスローガンは彼のベトナム戦争反対運動に対する徹底的なコミットと日本国憲法のラディカルな読解による「政治的」産物に他ならないからであって、たとえば、文脈背景は分からないがとにかく殺し合いをやめよというような*2空虚な「殺すな!」ではない。ぼくには、mojimojiさんが行っている「シオニストと交渉せよ」という主張は、この空虚な「殺すな!」に接続しかねない危うさを持っていると思います。

http://d.hatena.ne.jp/hokusyu/20090309/p1

 ご存じの方も多いだろううが、1967年にべ平連がワシントンポストに広告を出した。「殺すな」とは、そこに書かれていたメッセージである。

f:id:font-da:20090401014128g:image

この文字を書いたのは、岡本太郎だ。hokusyuさんは「小田実の「殺すな!」」と上記に書き、そのメッセージは「「政治的」産物に他ならない」としている。しかし、グループで出されたメッセージであるため、発案者ははっきりとはわからない。web上には「この短くて強いインパクトを持つメッセージは「おそらく鶴見俊輔だったように思う(吉川勇一氏)」とのこと」との記述も見られる。*1また、岡本太郎のパートナーであった岡本敏子は、このメッセージについて、以下のように回想している。

岡本太郎における戦争と平和

――戦争自体について、岡本太郎さんは直接にはどういう姿勢だったのでしょう。

岡本敏子 それはもう、はっきりしてましたよ、「殺すな」ですから。でも、政治的立場からというのではなくて、人間として怒っていたのですね。例えば、『眼 美しく怒れ』という本(チクマ秀版社、98年刊)では、六五年八月の佐藤栄作首相の沖縄訪問について、佐藤氏が県民のデモに囲まれて米軍基地に逃げ込んだことをとても強く批判しています。「たかが一夜の安眠ぐらい、どうでもいいではないか。本当の人間的な肉体と精神のぶつかりあいを、さけてしまうのが官僚政治のきたなさなのだ。……その程度の勇気と情熱さえもたない者に、一国のリーダーの資格はない」って書いてます。しかも「翌日、ワトソン高等弁務官に『……おかげで静かな環境で安眠(沖縄全島が安眠できなかったこの夜に!)の時間を与えられたことを感謝している。この旨を米本国政府に伝えて下さい』とのべた、なんて、まことに珍無類。悲しいことがらだが、抱腹絶倒してしまうのだ」と怒ってます。

http://www1.jca.apc.org/iken30/News2/N86/OkamotoToshiko.htm

「殺すな!」とは、単なる政治的主張ではない。視覚に訴えるその文字は、芸術作品である。確かに、べ平連の中心的人物である小田実は、hokusyuさんのように「「政治的」産物」として「殺すな!」と訴えていたかもしれない。しかし、実際に人々の耳目を集めた広告は、その政治的主張の内容ではなく、ただただ「殺すな!」とだけを訴えてくる。それが伝えたのは、普遍的理念であり、空虚な「殺すな!」であった。にも関わらず、「殺すな!」は人々に強烈な印象を残し、いまだに語り継がれる。

 椹木野衣はイラク派兵後、この「殺すな!」を引用し反戦運動を開始した。椹木さんは次のように述べている。

(前略)普通に考えれば、「殺せ」の反対は「生きよ」です。しかし、対極主義的にいえば、「殺せ」の反対は「殺す・な」であって、それは絶対に「生きよ」には結びつきません。なぜなら、「生きよ」は、「殺せ」と「殺すな」とのあいだの絶対的な矛盾を解消し、調和させた時にあらわれる、偽の弁証法がもたらす概念だからです。

(略)

「殺せ」がまがまがしいように、「殺す・な」もまた、まがまがしい。それがなかったら、「殺し」を止めようとする行為は、ただのきれいごとになってしまう。「うまくて、きれいで、ここちよい」ものになってしまう。しかし、「今日の反戦運動」は、そこに「殺し」がつきまとうかぎり、「うまくあってはらならない」し、「きれいであってはならない」し、「ここちよくあってはならない」と思うのです。少し前からわたしたちの元に何通となく舞い込みはじめたチェーン・メールによる反戦署名が、どこまでも「殺し」のまがまがしさと関わらない、その「ここちよさ」において、どこか空虚であるようには。

10・わたしたちは「殺す」ということなく「殺す・な」と口に出すことはできません。それは、「バグダッドから遠くはなれた」ここに、彼方で行なわれれかもしれない「殺し」を生々しく再現し、直後にそれを、たった一語の「な」によってきっぱりと否定するということです。「殺すな」と一言いうたびに、わたしたちは、殺しと隣り合わせの「否」をギリギリ体験します。「殺すな」は、この対極主義的な矛盾のせめぎ合いを圧縮したことばなのです。

http://www.geocities.co.jp/Athlete-Sparta/8012/korosuna_today.html

この柏木さんの呼びかけに対し、300人以上が集まりデモが行われた。このことについて、先に引用した岡本敏子は次のように述べている。

岡本 (略)あの意見広告の字はよかったですね。それが、今、まだ生きてるというか、イラク戦争の中で生き返っているんです。小田マサノリさんや椹木野衣さんたちの「殺すな・デモ」もそれですね。ホームページに載せただけで、三百何十人も集まった。

――その人たちは、とても若い世代で、岡本太郎の時代をまったく知らない人たちですよね。それが隔世遺伝のように、なんで岡本太郎の「殺すな」と結びつくんでしょう。

岡本 もちろん、知らないんです。ベ平連のことや意見広告の文字だなんてことも知らなかったんです。でも「殺すな」っていう字をみたとたん、ピンと自分でストレートに感じるんですね。それが今、岡本太郎ブームなんて言われてる現象の正体なんです。彼らは、自分でそれを発見し、しかもそれが自分に対して言われているメッセージだと受け止めているんです。

http://www1.jca.apc.org/iken30/News2/N86/OkamotoToshiko.htm

このようなことがあった。

 その上で、私は自分の話をしたい。私は、以前の記事の脚注で、パレスチナの武装勢力について「殺すな」と小さく書いたことがある。*2私の書いた「殺すな」とは、まさに空虚な「殺すな」である。政治的文脈によらず、どのような理由においても「殺すな」という意味での「殺すな」であった。それは普遍的理念としての「殺すな」であり、「赦し」へと続く道しるべとしての一言である。

 パレスチナの人びとが、武装勢力に搾取されている側面があり、それでも武装勢力を支持せざるを得ない政治的状況を想像することはできるかもしれない。しかし、同時にニューヨークの人びとが、崩れ去ったWTCビルを見て呆然とする政治的状況を想像することもできる。両者があまりにも異なる政治的文脈の中にあることは知っている。しかし、私はこうして両者を並べて書く。私の中で両者は惨事――多くの人が殺され、残された人たちが「殺せ」と口に出す場――として想像される。これは、私の想像力の限界であり、普遍化の習性の産物である。それらが想像である限り、私は個別の状況を普遍化し、固有性を捨象する。政治的状況を把握するために想像力を働かせている限り、厳密な意味では、固有性などもちえないのだ。

 もし、あるパレスチナ人が、私に向って「お前を殺す」と言ったとき、私の空虚な「殺すな!」という理念は力を失うだろう。私はきっと言葉も出ない。固有の文脈で、固有の存在であるその人と私の間では、理念は無力である。理念は想像の世界だけで力を持つのだ。

 でも、いま、私の目の前にパレスチナ人はいない。私は想像することしかできない。想像の世界では、やはり私は空虚な理念を掲げる。現実を踏まえた上で”あえて”空虚な理念を掲げるのではない。想像することしかできないから、空虚な理念を掲げるのだ。

 mojimojiさんは次のように書く。

僕はこう述べてきました。ハマスのロケットが問題であるとして、イスラエルにも、イスラエルに加担している私たちにも、ハマスのロケットを非難する資格はない、と。ハマスに「殺すな」とは言っていません*1。むしろ、私たちは殺されても文句をいえませんよ、と言い続けてきました。また、「文脈背景は分からないがとにかく殺し合いをやめよというような空虚な「殺すな!」」というようなことを、僕は一度でも言ったでしょうか。一度もありません。それどころか、そのような発言を名指しで批判してもきたはずです。それは、圧倒的な非対称性があるからです。

(http://d.hatena.ne.jp/mojimoji/20090310/p1#seemore)

mojimojiさんは、ハマスに「殺すな!」とは言わないという。そして「私たちは殺されても文句をいえません」と書く。しかし、その「私たち」とはいったい誰のことか?今、ハマスに殺されんとする人びとは、mojimojiさんなのか?私なのか?違う。私とmojimojiさんは、自分の頭の上にミサイルが落ちてこないと知っている。殺されるのだという恐怖*3にあるイスラエル人と自分を結びつけて「私たち」とmojimojiさんに言わせてしまうのは何か?それはまさに、想像の世界の限界の忘却ではないか。 

 私はハマスに「殺さないでくれ」とは言わない。なぜならば、彼らの標的が私をも含んでいることは、単なる政治的状況からの想像力による自己批判的レトリックにすぎないからだ。その誠実さを決して失ってはならない。私たちは常に自らの加害者性を想像しなければならない。しかし、それは想像の世界のことであることを忘れてはならない。現実の私は、彼らから身を隠していているから、彼らから憎まれてすらいない。実際に「殺す」と言われるまで、「殺さないでくれ」とは言えず、そして「殺すな」という空虚な理念を掲げるしかない。

 私たちは、情報を集め、学び、政治的状況を想像することはできる。だが、それはあくまでも想像の世界にすぎない。私は、「想像に閉じこもらず、パレスチナに行け」と言いたいわけではない。イスラエルの問題は日本の問題であり、イスラエルの暴力は日本の暴力である。だが、イスラエルはイスラエルであり、日本は日本である。ハマスから名指しで「殺す」と言われるまでは、イスラエルと立場は違う。徹底的な断絶がそこにはある。私は、私に対して「お前を殺す」と言う人以外には、「殺すな!」と言う。そうでない「殺す」は私の想像の世界で起きていることだ。実際に殺されるという、現実に敗けるその寸前まで、私は理念を掲げる。

*1:文献等の参照先は明示されていないが、次のURLに書いてある。http://www.kanshin.com/keyword/274184

*2http://d.hatena.ne.jp/font-da/20090217/1234862574#20090217f2

*3:それが、不安神経症的(にみえるの)であれ、恐怖であるには違いない